トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流の呼吸法概論(一) >> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●西郷派武術は体力で闘うのではなく、体質で戦う武術である 大方、武術・武道および格闘技というものは、「体力で闘う」というふうに相場が決まっているようである。 生き残りを賭(か)けたサバイバル戦において、体力や体格が勝る者が、必ずしも勝つとは限らない。試合場での制限時間内の、ルールに則(のっと)って闘う競技武道や格闘技ならば、その多くは体力や体格の優れた者が相手を制し、勝ちを納めるかも知れないが、三次元立体を戦闘ステージとするサバイバル戦においては、必ずしもし、試合場でのルールがそのまま大自然には通用しない。 山あり谷ありの山岳陸路戦、あるいは海上戦並びに海中戦、更には河川や湖沼での水上戦、水中戦では、此処での戦いが三次元立体となっている為に、平面盤上の試合場との戦い方とは異なり、天地の地形を読み、季節や気候の風(ふう)を読む智慧(ちえ)の深さが課せられる。 そもそも「武術」というものは、生き残りを賭(か)けて、自らの躰(かだら)を遣(つか)い、その全エネルギーを修行に投じたものであった。つまり、非日常の中の「長寿」である。疵(きず)を負っても生き残る術(すべ)であり智慧である。長く生き残ることこそ、その主目的としてきたのである。 今日では直接、真剣などを抜きあって、あるいはその他の武器を以て、命を賭(と)して死闘を演じることはなくなったが、それでも“試合”という形で、依然、強弱論が根付いている。強弱を論じ、勝ち負けをつける為に争うのだ。欲の頂点に登ろうとする者は、争って優劣を決しないと気がすまないのだ。 古人の、試合のみ、勝負のみにこだわらなかった古(いにしえ)の武術家は、みな長寿を全うした人達であった。修行者として、その本道を外さず、優れた生命力の強さを持っていた。その修行者の生命力の強さの鍵は、一体何だったのか、これを検証してみる必要がある。また、一体何によってその生命力を培ったのか、それを再現してみる必要があろう。 そしてそこには、今日の現代人が見落としている、「知られざる何か」がきっとあるはずである。 しかし、幾ら体力を養成しても、スピードやパワーを養っていても、体質が悪ければ、万一病気にも罹り、あるいは怪我や故障しても、中々体力一辺倒主義だけでは解決できないであろう。病気や怪我は、体力だけでは克服できないのである。つまり、根本問題は、「体質の善し悪し」に委(ゆだ)ねられるのである。 現代という時代を取り巻く、現代人の生活環境を考えてみれば、この生活空間は、昔に比べて悪化の一途を辿っていることが分かる。 そして、多くの現代日本人は、戦後の復興というスローガンを掲げた社会現実の中で、物質的には豊かで、便利で、快適な生活空間を手に入れたが、それに伴って、失ったものも決して少なくない。更に、戦後の食生活の変わりようは、食傷を招き、一億国民を「総薬漬け」にしてしまった観(かん)が否めない。 現代は「飽食の時代」といわれている。再び不況が襲ってくる現状にあっても、国民は比較的裕福である。食物は日本中いたるところに溢(あふ)れ返っている。そして国民の多くは、飽食に舌鼓(した‐つづみ)を打ちつつも、一方で、生命(いのち)と引き換えに、「食傷」という半病人の体躯(たいく)を自らで招いてしまった。 その上、戦後日本人の食生活を一変してしまった現実の裏には、欧米食を模倣する食生活が、また、実は豊かさでの象徴でもあったからだ。
考えてみると日本人は、昭和という時代の戦前・戦中・戦後を通じて、時代の変化と倶(とも)に、食体系を徐々に狂わされた時代を経験してきた。特に、戦中と終戦直後は食べ物に乏しく、誰もが飢えていた時代であった。その為、当時の日本人の食生活は、「腹一体食べることが、まず第一の欲望」だった。つまり、沢山食べることこそ、贅沢(ぜいたく)の象徴だったのである。 そして次の時代は、戦後の高度経済成長と倶に、「美味しいものを、どれだけ多く食べれるか」が、昭和30年代後半からの課題となり、人々は競って、美味しい物の食事処に殺到した。これこそが、この時代の贅沢となり、誰もが美味なる物へと飛びついた。 ところが、こうした物も、充分に食べられる時代になった今、これまでの二つの課題は、ほぼ達成され、次に、食道楽と食通(グルメ)を気取り、大金を叩(はた)いて、珍味を口にするということが庶民の間で大流行し、珍味に舌鼓を打つということが、この時代のステータス・シンボルになった。金さえ出せば、口に入らないものはないという時代になったのである。その為に、多くの国民は、拝金主義、金銭至上主義の、この坩堝(るつぼ)の中で奔走(ほんそう)するという社会構造の縮図が生まれた。 そして、こうした思考と並行するように、種々の難病奇病化した現代病や成人病が生まれた。その最たるものが、ガン発症であり、これを誘引する糖尿病、高血圧症、動脈硬化症などがあり、免疫力を低下させたままの肉体が、自然治癒が殆ど働かない病魔に取り憑(つ)かれるようになった。つまり、病気は細分化され、合併症を齎(もたら)すということがこの時代の病気の特徴であり、これらの難病奇病化した病気は、いまや病院では治らない時代に入ったのである。 こうした元凶を作ったのは、間違いだらけの現代栄養学であった。この学問の論旨によれば、「入れ込むばかりの栄養学」が、健康の秘訣と定義されている。 街には精神異常者や性格粗暴者が溢れ、犯罪予備軍として悪事発端の皮切りを虎視眈々(こし‐たんたん)として窺(うかが)っている。 また一方で、ビタミンやカルシウムの欠乏が齎(もたら)す現代病や成人病。こうした病気は、今日では病院では治らない時代に入っている。その上に、例えば白砂糖などを無批判のままに食べさせるファミレスや回転寿司の外食産業は花盛りであり、どの店もファミリー客で繁盛している。 特に白砂糖の弊害(へいがい)は大きいようだ。白砂糖は、焼肉タレれなどに使われ、また合成着色料や化学調味料と併せて、調理用のレシピに使われる食品で、酒やタバコと同じように常習性があるといわれ、白砂糖の味に慣(な)れると、常に欲しくなる中毒症状を起こす食品であるともいわれている。 また、未来を担うべき昨今の子供達が、まさに食品産業の人体実験の真っ只中にあって、アトピー性皮膚炎や小児喘息、小児糖尿病、肥満に冒(おか)され、更にはアレルギー体質、精神障害、骨折や種々の怪我などで悪影響に見舞われている。そして特記すべき事は、良妻はともかくとして、子供を正しく教育し、監督・管理する「賢母」といわれる母親が、非常に少なくなってきていることだ。 日本人の食体系を無視した現代栄養学の誤り。科学万能主義の迷信。そして、それと引き換えに、自らの命と魂を売り渡す拝金主義信奉者。 そして、総(すべ)てが間違っている、「何でも食べよう」をスローガンとする総花主義の現代栄養学への、限りなき妄心的信仰。 一方、医療の面においても、多くに国民は、医療側の目論(もくろ)む終末治療の罠(わな)に絡め捕られ、最低でも450万円以上から1500万円という巨額の医療費を取られつつも、完治せず、「5年生存率」の名において、ガン告知患者の多くは、5年生存率を待たずに、五年以内に死に絶えている。 今こそ、食養法に生命の新生を託し、現代の物質的信仰から離れてみる必要があるのではないか。 こうした環境下にあって、情緒を正しく安定させ、明るく朗(ほが)らかな性格を持続させ、修行の行に呈することに崇高(すうこう)なる境地を求め、更に気力を充実させ、愉快に毎日を愉(たの)しく暮らす前向きな姿勢である。こうした中に身を置いてこそ、西郷派の呼吸法は、心身に浸透し、自然との一体感を感得できるのである。
●朝食抜きの「一日2食の食餌法」の習慣が呼吸法準備を完了する 空気中には例えば、宇宙線、太陽光線、放射線などで絶えずイオンが作り出されている。そのうち、プラスの電位を持ったプラス・イオンは、人体において新陳代謝に悪影響を及ぼし、人体機能全体を衰退させてしまう。 これは血液の浄化作用だけに止まらず、細胞の役割を活性化する働きがある。この活性化により、免疫力が高まり、自律神経機能を調整し、躰(かだら)の健康を末永く維持するのである。 マイナス・イオンを浴びると、爽快な気分になる。これは細胞の働きに活性化が起ったわけである。則(すなわ)ち、呼吸法とは、こうした細胞を活性化する為に行う行法であり、これを行えば、益々血液が浄化されていくのである。 但し、食生活において「正食」が行われているというのが条件となる。 消化液は消化酵素の作用により、食物を出来るだけ吸収し易い形に変える働きがある。また、食物を包み込んで、ビロードのように柔らかい胃や腸の粘膜が、直接触れずに酸毒化させないようにする働きもあるのである。 したがって、食事回数を多くするのは決してよいことではなく、朝食抜きの昼と夜の一日2食の少食に徹すべきである。現代栄養学が言う、「朝食をしっかり摂る」の食理論は誤りであり、むしろ朝食は、液状の玄米ジュースか野菜ジュース(野生に自生する物で、蓬(よもぎ)、アロエ、またはドクダミ茶、朝鮮人参茶など)に止め、まず午前中は腸内環境を整え、昼と夕に穀物菜食の粗食・少食を心掛けるべきである。一日1400Kcal
の仙人食で充分に働けるのである。
疲れが出る。人間関係がうまくいかない。些かノイローゼ気味でストレスが溜まるなどは、過食により内臓が疲れているからであり、その原因は「食傷」である。要するに食べ過ぎであることだ。現代栄養学が定める一日のカロリー摂取量に併せていたら、どうしても食べ過ぎになる。 したがって、現代の飽食の時代、一日3食は愚か、一日5食が定着化する今日、深夜などに食事をするのは愚かしいことであり、夜遅い飲食は、食べ物が直接胃腸の粘膜を刺激し、これにアルコールとタバコが絡んだ場合、最悪の状態になり、これを生活習慣として繰り返すと、一ヵ月も経たないうちに胃潰瘍となり、それが進めば炎症化して、胃ガンを発症してしまうのである。 最早(もはや)こうなれば、呼吸法も健康法も、一切通用しない躰(からだ)になってしまう。正しい呼吸法を身に付けようと思えば、午後7時以降の夕食は、絶対に慎まなければならない。午後7時迄に夕食は終了すべきである。 勤務時間の都合で、食事をした後に直ぐ寝なければならないような仕事をしている人は、朝食に玄米ジュースか野菜ジュースで、出来るだけ腰骨関節を外さないように心掛け、昼食に食事内容の重点を置くべきであろう。また、夕食は午後5時から7時の間に、ごく軽い食事で、「腹六分」を実行すべきである。そして、それ以降は一切如何なる食事も口にしないことである。こうした心掛けにより、呼吸法を行う為の準備を完了させておかなければならない。
また、如何なる修行も、朝の「精気」の充(み)ちた時間に行うのが適当であり、昼過ぎての修行はよくない。 一般のトレーニングジムや武道愛好者の練習場(【註】今日では「道場」という意味は失われている。したがって、武道と雖(いえど)もスポーツジムの意味合いが強い)は、夕刻から午後10時までの時間帯に集中しているようであるが、これは現代の多忙に併せた時間帯に練習するようになっているようだ。ところが、これらはプログラムの実行で、実質上は、故障を起こしたり、怪我を起こしたりする時間帯である。したがって、労多く、実が少ない徒労努力に終わる時間帯でもある。上達しても、故障を抱えた上達である。 また、稽古を夜間に集中させるトレーニングは、その終了後、ビールを呷(あお)ったり、肉食などと倶に酒食に趨(はし)る愚行が行われ、結局内臓に負担を掛け、特に腰骨の、仙腸関節(せんちょう‐かんせつ)を弛(ゆる)める病因を作ってしまうのである。多くの腰痛の病因は、此処にある。 人間の腰骨の開閉は、食事を摂った時に腰骨関節は開き、それでゆったりとした寛(くつろ)ぎが訪れ、それが眠気を誘い睡眠に入るのである。腰骨が開き、それが翌日の早朝に絞まる為には、夕食後から「約12時間懸かる」のである。例えば、夕食を午後7時に終えれば、腰骨が絞まるまでの時間は「12時間」であり、その時間は翌朝の午前7時ということになる。したがって、夕食を午後9時から12時の間にした場合、当然、この時間帯では朝起きても腰骨は弛み放しで、この弛んだ時間帯に朝食などをすれば、腰痛を起こす確率が高くなる。 腰痛を起こす人の多くは、夜遅い夕食をするからであり、また、それに絡み、夜の巷(ちまた)の居酒屋などで酒食をすればそこで当然、腰骨関節は開き放しの状態になり、腰骨が絞まる時間が失われ、この状態に少しの身体的な衝撃が掛かっただけでも、ぎっくり腰などの腰痛を起こしてしまうのである。また、こうした腰骨関節の弛みが、種々の怪我や事故を生み出すようだ。 統計的に見ると、故障したり怪我をする時間帯は、こうした夕刻の時間帯であり、稽古事は出来れば、早朝か、午前中までに終了しておきたいものである。その方が、健康には非常によいのである。 何故ならば、この時間帯は「腰骨の関節が絞まっている時間帯」であるからだ。また、朝の空気中には精気が充ちており、気が充実しているからである。したがって、呼吸法を会得するには、早寝の習慣を身に付ける必要がある。午後9時以降は、多くの現代人がテレビを見る時間帯と勘違いしているようであるが、こうした深夜の時間帯にテレビを見ることも、実はよくないのである。 だいたい睡眠より優先させなければならないテレビ番組が、果たして存在するのだろうか。こうした熟睡しなければならない睡眠時間を潰してテレビにかじりつくなどは、実に愚かしい行為である。もし、どうしても見逃せない番組があるのなら、文明の利器であるビデオ録画して、閑(ひま)な時間に見るようにすればよい。 呼吸法を正しく会得するには、まず食事を見直すことであり、「正食」に徹すべきである。次に早寝早起きの習慣をつけ、午後7時以降の食事を摂らないことである。また、修行は午前4時から7時の間が最適であり、この時間以外に無理が行法を遣(や)らないことである。 ちなみに、朝という時間帯は、食事をする時間帯ではなく、排便をする時間帯である。排便時に食事をするというのは、医学上から見ても間違いであり、現代医学や現代栄養学が、「朝食はしっかり摂る」と宣伝しているようであるが、この時間帯は、朝食はしっかり摂ってはならないのである。この時間に、食事を摂れば、腰骨は更に弱くなり、腰関節が外れた状態が長引くからである。 人体生理機能は、「同化作用」と「異化作用」である。同化作用は生体物質を合成し、エネルギーを蓄積するのに対し、異化作用は生体物質を分解し、エネルギーを消費していく働きを持つ。そして、この二つの作用は、夜と昼できり変わるのである。夕暮れから朝方に懸けての夜間においては、同化作用が優勢になり、夜が明けて朝がくるとこの間の日中は、断然異化作用が優勢になる。 則(すなわ)ち、食事をすることにより、リラックスという寛ぎが訪れ、それは眠りに就く睡眠を誘うのである。そして翌日目が覚めたら、排泄して身軽になり、今日一日のエネルギーは昨日の昼食と夕食で蓄積されているので朝食は食べなくても、順当な一日分のエネルギーは既に昨日に用意されているのである。 少食こそ、優れた健康法であり、呼吸法は健康体でなければ宿ることのない、極めて難解な行法なのである。その難解な行法に挑戦する第一歩は、一日2食の「空腹トレーニング」が、その成就の鍵を握るのである。 今日は、金さえ出せば、手に入らないものはないという時代である。愛情すらも、金で変える時代である。金で、人身売買も盛んな今日において、奴隷市オークションで、人間すら変える時代なのである。少年少女を無傷で生け捕る為に、芸能プロダクションの名を語って、オーディションの名目で奴隷に仕立て上げる人身売買組織もある。現に、「マルタ」にされたり、「ダルマ」にされて闇市で、人間が奉仕させられる時代である。金さえ出せば、何でも買えるというのが、この文明社会といわれる時代で起っているのである。 それはあたかも、目の前に多くの美食を並べられて、これに何の疑いも抱かず、舌鼓を打って、口の中に放り込む現代人の食道楽に酷似する一面が、何事にも疑いを抱かない従順な人間を作り上げているからである。現代人こそ、「忍従」という言葉で飼いならされた、歴史上類を見ない人種であろう。 少し考えれば分かることであるが、この時代は飽食の時代と言われるだけあって、「美味しいものをどれだけ食べられるか」が人生の贅沢競争になっているようだ。しかし、美味しいものをどれだけ食べられるかということと同様に、一方で「食べない贅沢」というものがあるのではないか。こうした、飽食の時代であるからこそ、「食べない贅沢」というものがあってもいいと思う。 現代が食べ過ぎの時代といわれている。過食が当たり前で、「入れ込む栄養学」ばかりが問題にされている。此処に、何か、人間の眼には見えない恐ろしさが隠されているのではないか。 ちなみに、「修行者向きの粗食」とは、肉や食肉加工食品、牛乳、乳製品、油脂類、白砂糖や化学調味料、食品添加物などを使わない食餌法であり、動蛋白を摂らない食事を言う。食傷から慢性病を招きやすくなった今こそ、現代人は粗食に帰るべきなのである。
●呼吸法を行う条件呼吸法は軽快な体躯(たいく)を必要とする。その体躯は、病気に冒(おか)されていない、心臓が規則正しく作動している健康な体躯のことである。心臓の鼓動と、呼吸法の呼吸数は、同義の意味を持つ。したがって、呼吸法を行うには、まず血管がしなやかで、そこに流れる血は、高血圧や動脈硬化など起りようのない、サラサラの血液でなければならない。最低、これだけの条件が揃(そろ)わない限り、呼吸法の実践は無理だろう。 さて、呼吸の吐納(とのう)を行う「術」であるが、これを行う条件下は、平安を保てる静寂の中にて行うのが最もよい環境である。また、時間帯としては早朝がよく、午前4時頃から7時頃が最もよい時間である。 朝は、「気」が精気に充ちており、太陽が昇り始める時間帯から、昇り始めた直後の時間は最も精気が満ち溢れ、この時間帯に行う呼吸法は、行った後に爽やかな感覚を得るのである。また、自律神経を大いに調整するのに役立つ時間帯であり、自然の緩和作用が働き、安定した心が得られるのである。 その為、刺激などが慢性化した神経症の人、緊張の連続でイライラを感じノイローゼにある人、不眠や胃痛に悩まされている人、疲労感や脱力感に襲われている人、胃潰瘍や十二支潰瘍などの炎症を内臓に抱えている人、高血圧症や動脈硬化症を患っている人、心臓病で苦しんでいる人などは、自律神経が調節できて、これが正常に戻っていくのである。
自律神経を調整するには、別段手術などの必要はないし、薬などの投薬をする必要もない。況(ま)して高血圧症の人などは、血圧降下剤も一切遣わず、呼吸法を毎日実践することで、自然に血圧が下がるのである。 呼吸法の準備動作として、呼吸暗示の法に入る。これは仰向けになり、眼を半眼にして、手足を伸びやかに伸ばし、リラックス状態に身を呈し、如何なる違和感も持たないようにする。
さて、以上のようにして呼吸法が出来る体制が整った後、基本的な「静坐法」を実践する。静坐法の基本は、坐することである。心を平静に保ち、坐ることである。 静坐法を行う際は、まず、呼吸法でいう呼気である「吐気」から始まる。この吐気から始まる静坐法は、吐気自体に大きな意味を含んでいる。また、「邪気を吐く」ということが、呼吸法の主目的であるので、邪気は徹底的に吐き出さなければならない。 かつて米国コーネル大学(エルマー・ゲイツ教授の研究チーム)ではユニークな実験が為(な)された。それは怒っている人の吐息を、ガラス管に吹き込ませて、冷却したところ、「茶褐色の水滴」が得られたとしている。この水滴を集めて、モルモットに注射したところ、直ぐにモルモットは死んだという。 これは「怒りは毒を造る」ということを証明した動物実験であった。つまり、心が掻き乱され、静寂が失われると、人間は有毒物質を造り出すということである。更に、怒りが有毒物質を造り出すばかりでなく、これが肝臓に至って「肝臓毒」となり、その吐息が周囲の空気に汚染を与え、そこに居る人に悪影響を与えるということである。 したがって、呼吸法は古来より、「吐気から始まる」とされ、最初の一呼吸を「納気(吸気)から始めてはならない」としているのである。
●瞑想と呼吸法 多忙の追われる現代人は、出来るだけ普段からストレスを溜めないような「体質」を養成しておくべきである。その為に「無我の境地」が必要なのであるが、この「無我」ということが非常に難解な課題である。 さて、「無我」を求めて瞑想し、精神統一の呼吸をやってみれば、過ぎに分かることだが、「無」という、得体の知れない次元を追い求めれば、これは更に分からなくなる。また、仏道などでは、本当の自己に出合うことを「自己の発現」などという言葉で表現しているが、果たして「無」になれば、本当の自己に出合うことが出来、「自分」というものが本当に見えてくるのか、この辺も大きな疑問である。 瞑想並びに、呼吸法の実践者は、これを求めて「深層成る自己」を求めて、更に掘り下げ、本当の自己に出合おうとするのであるが、果たして、これだけで自己に出合えるのかどうか、これもまた疑問である。ただ、修行という形を呈して、「行」に打ち込めば、何かしら、「自己の出合えるのではないか」という、予感のような直感は起るであろう。 しかし、正直に言って、呼吸法や瞑想法を実践した人ならば、分かることであるが、「無になろう」として我武者羅(がむしゃら)に「無」の一字を描いて、無の境地を求めても、無には絶対に至らないということである。 つまり、「無になろう」とすれば、「本当の自己になりきれない自分がそこにいる」ということである。これこそ、第一関門の、「自己になりきれない自分」という、一種の「悟り」である。では、「自己になりきれない自分とは、一体何ものか」ということになる。そして、この「自己になりきれない自分」こそ、自分を悟る、必要十分条件になるのである。つまり、「悟り」とは、「自己になりきれない自分」という自分を知ることから始まるのである。 「無」になろうとすれば、するほど、正常な場合は、「邪念が出てくる」というのが正しい反応であって、これを飛ばして、「無になり得た」というのは異常なのである。やればやるほど「邪念」や「妄念」は湧いてくるものであり、これが打ち消されることは決してない。もし、こうした「妄念の類(たぐい)」が打ち払えたとするのは、その修行自体が誤りである。したがって、やればやるほど、「邪」は絶え間なく続出するものである。 精神統一とは、それをやればやるほど遠ざかるものであり、無限に「統一からは離れれいくもの」である。これを無理して、「統一がなった」などとすると、これはマヤカシであり、愚かしい「なま悟り」というものである。 その有様を、まず自分の充(あ)てて、「自分自身が辟易(へきえき)する」というのが、瞑想の初めであり、此処にこそ瞑想の意味があり、これを通り越して瞑想はないし、呼吸法も存在しないのである。まず、「自分の辟易する」ということが大事であり、ここからが、「自己との出合い」となる。そして、「自己との出合い」の、まず最初は、「自分の中には、見たくないものが沢山存在している」ということに気付くことである。これを知ることにより、自分の人生は、そうした「見たくないものの些事(さじ)の積み重ね」ということに気付くのである。これが呼吸法実践の第一歩である。 この「些事の積み重ね」ということが理解できれば、人生とはそうしたものであるという風に考えることが出来、人間とは、「欠陥だらけの、矛盾に充(み)ちた生き物」であるということに気付くのである。その欠陥だらけで、矛盾に充ち、これこそが自己の個性であり、その個性が人生に何らかの影響を与え、更には、「我」となり、「我」は頑迷であり、頑固の実体であるというふうに気付くのである。これを気付かずして、到底「悟りの道」には踏み出せない。 つまり、瞑想初心者は、このように心中穏やかでない、限りないゴミが心の中に鬱積(うっせき)し、これに振り回されて世の中を生きているということである。 邪念という心が見たくなかったものは、実は自分が心の中に描いた「自分自身の影法師」である。この「影法師」が、心を汚染させ、遂には病気を招くのである。この幻影は、ゴミのように沈殿し、自己の心からは簡単に遠ざからないのである。そして、その沈殿は、本当の自分を覆(おお)い隠し、外からは八方美人を装って、他人の眼を欺(あざむ)き、為政者ぶる行為に奔(はし)らせるのである。 人は他人のよく思われようとして、あるいは為政者ぶって、自己の評判を気にする生き物である。しかし、実体はゴミに覆い隠された自己であり、その自己とは、「高が知れたもの」である。この「高が知れたもの」に気付くか、否かで、その人の人間の価値が決定されるといっても過言ではない。したがって、瞑想をし、呼吸法を実践すれば、最初に浮上するものは、払っても払いきれない心のゴミであり、このゴミが次々に浮上するというのが、正常な、正しい心の感覚を見失わない正直人間の実体である。
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