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誇りの裏付けとなる数々の技法
静寂の中に静かな佇まいがあり、そこは湖面のように澄み渡っている。

西郷派大東流の呼吸法概論
(さいごうはだいとうりゅうのこきゅうほうがいろん)

●ガンより怕い酸毒思考

 現代医学は所詮(しょせん)、肉の眼でしか捉えることの出来ない、次元の低い三次元医学なのである。だからといって、宗教などに縋(すが)れということではない。今日の宗教も、新興宗教を含めて、総(すべ)ては「ご利益を期待する宗教」であり、ご利益だけを他力本願的に期待しても、治る病気も治らなくなるだろう。

 一方で、「わが教団に入信したから、ガンが治った」と宣伝する新興宗教がるが、これは明らかにマヤカシだろう。肉やタバコやアルコールの酒池肉林に溺れる新興宗教に、ガンを治せる霊的な力があるはずがない。眉唾であり、詭弁である。そんな実力を持っていて、霊能力を持った教祖に、筆者は生まれてこの方、一度も会ったことがない。単に弱者を教義上の理論武装で負かし、食い物にする、不逞(ふてい)の輩(やから)に過ぎない。特に、新興宗教の特徴は、やたらに自称「能書き」が多いことだ。
 この能書きに騙されて、不可解な民間療法に奔(はし)ったり、ご利益期待の新興宗教の趨(はし)るガン患者も多いと思われる。

 ガン患者の多くは悲愴感に苛(さいな)まされる人が多く、学者や権威筋が右といえば右を向き、左といえば左を向く。また右は左かばかりでなく、何事も苦労せずに単純に割り切りたがる思考に陥り、安直な挙動に出やすくなる。権威筋が言っているのだからという思考をするようになる。ここまでくれば、新興宗教の教祖の言や、街の職業祈祷師(きとうし)の言葉すら信用してしまうだろう。

 最近は筆者の周りにも、ガン患者や高血圧症患者が多くなった。
 例えば、ガン病棟などに知人を見舞いに行くと、驚いたことに、ガン患者にも滋養を付けなければならないという理由で、肉や鶏卵類の病院食が出されていることである。これでは治癒するはずの初期のガンでも、悪化するのは必定である。
 そして、皮肉なことに、こうした、今はガンで入院している人も、筆者が末期ガンを告知されたときには、まだ、全くガンの影すらなく、これまで筆者以上にピンピンしていた人達である。むしろ、ガンである筆者を気の毒に思う人たちであった。それは、「もうじき死ぬ」という、死に逝く者への哀悼の念であったのかも知れない。しかし、これは筆者に当てはまらず、現実は逆転した。

 ガン発症の序列から言えば、みな筆者の後輩ということになる。ところが、その後輩たちが、筆者以上に弱って、ガン病棟で悲愴感を漂わせていた。ここに「進行ガン」の恐ろしさを見るのである。この元凶はどこにあったのかと思う。ガンになっても、直ぐに死なない人と、ガン発症を告知されただけで、その数ヵ月後に死んでいく人が居る。

 筆者は、つい最近、自身はガンと共棲(きょうせい)しながらも、ある子宮ガンで入院している40代前半の知人の女性を見舞いに行ったことがあった。その女性は、見舞いに行った筆者を見て、「あなたは随分と元気ですね」と言われたのが、これが真っ先に貌(かお)を合わせた時に出た、開口一番の言葉であった。何か不思議な言葉を聴いたような感じだった。

 この女性は筆者が、以前からガン患者であることを知っていたのである。吐いた言葉の裏に、一種の皮肉が篭(こも)っていたようにも思える。
 つまり、先にガンになった人間が、実はピンピンしていて、後からガンになった者が弱り果てているという実情である。皮肉の何ものでもないだろう。

 その女性は、豪勢な個室を陣取り、子宮ガン(子宮頸ガン)患者特有の、生殖器の肉が腐れたような悪臭を部屋中に撒(ま)き散らしながら、そうした状況下で、牛乳やヨーグルト、脂物や魚肉などの食品に生野菜のついたものを食事として、いやいやながら摂っていた。この女性の思考の中には、「腹一杯、食べるまで頑張って食べなければ、病気は治らない」という酸毒思考があるのだろう。
  おそらく食欲も失(う)せて、何も咽喉(のど)に通らず、生命(いのち)の輝きを失っているのであろう。

 それでも、こうした動蛋白食品の摂取に、何の疑いも持っていないのである。医師や栄養士が「食べれ」といえば、それに口をつけるのである。栄養をつけ、滋養になる物を摂れば。それで病気が治ると思っている。どこまでも「プラスの栄養学」が頭から抜けないのである。

 これを見たとき、筆者は滋養と称する「入れる栄養学」でなく、「出す栄養学」を、この女性が日頃から実践していれば、医者の口車に乗って、むざむざと命を落とすこともなかったろうにと、気の毒な思いをして帰宅したことを覚えている。

 そしてその女性の、まだ40代前半というこの年齢で、もう直、死んでいかなければならない運命の背負わされていることを、何とも気の毒に思った次第である。
 おそらく、この女性も私と同じように、摘出切除手術や抗ガン剤などを投与せず、医者のこうした奨(すす)めも拒否して、「ガンと共棲(きょうせい)する道」を選択したならば、少なくとも後5年か、10年は生命を全う出来たのではないかと思う次第である。ある意味で、早まった観がある。

 同一女性でも、病魔に取り憑(つ)かれれば、一変する。今は、かつての美貌は何処かに吹き飛んでしまい、痩せこけて、摂食壁の拒食症患者のようになり、見るも無慙(むざん)な醜態と悪臭を漂わせていた。言葉も出ないほど、何とも哀れだった。この女性は、医者の口車に乗ったばっかりに、5年生存率を待たずに死のうとしている。
 この女性が、墓穴を掘ってしまった元凶は、食肉や牛乳などの動蛋白の摂取過剰で、頭の中が「酸毒思考」に汚染されていたことである。

 では何故、安易に権威筋の言うことを、意図も簡単に信じてしまうのだろうか。
 それは専門家から、医学的無知を指摘されることにあるようだ。昨今の科学は、自分がその専門知識を持たない場合、これに反論できない専門家の傲慢(ごうまん)が許されている。「お前は素人だから、学術的な反論や疑問は挟んではならない」という傲慢である。

 たいてい、医者の言に押し切られる場合、この専門知識を眼の前にちらつかされて、一般大衆・素人は反論できずに、早々と尻尾を巻いてしまうのである。医学的専門知識を持たない為に、一言も反論が出来ず、「長いものには巻かれろ」という日本人特有の思考がある為、遂に最後は、専門家の言に屈して、「お上」を盲信をするのである。素人は、盲信的に専門家を信じる道しか残されていないのである。
 その上、相手が自分より学閥の高い医学部出身者の場合、これに太刀打ちできる頭脳は持たないのが、大方の庶民の実情である。要するにその側面に、学閥(がくばつ)や出身学部に屈するという実情が、一般大衆素人を惨めにしているのである。権威に頭が上がらないのは、日本人特有の習性である。

 また、この酸毒思想に毒されている場合、医者の言は「絶対的なもの」になり、遂に論破負けして、切除手術を承諾したり、抗ガン剤投与を安易に認めてしまうのである。
 しかし、大衆の無知とは、こうしたものかも知れない。また、こうした側面に「医は算術から巨大な暴利を生む」という側面が転がっているといえる。医者全体の中で、凡(おおよ)そ、90%以上は仁術家でなく、算術家であろう。残りの10%が辛うじて、「医は仁術の心意気」を持っているに過ぎない。

 筆者も職業柄、学術関係者と些(いささ)か交流があり、知人に医師が多いが、中には算術で儲けた金で、タイやその近辺諸国の東南アジアに、女を買いにいく人格を疑うような悪徳医者もいることは事実である。ネット上にも、優良病院として紹介され掲載されている病院にも、このタイプの人格を疑うような医師はけっこう居る。こうした医師の親切を装った助言を信じるのは、まさに毒蜘蛛(どくぐも)の毒牙に懸(か)かるようなものだといえる。頭脳で勝ち取る、「医師国家試験取得者」という肩書きは、素人が考える以上に強大なものなのである。医者の、医学的知識のない者に対しての傲慢(ごうまん)な発言権も、この取得から起る。

 そして、もう一人、「乳ガン」で死に掛かっている60代後半の女性を知っている。この女性も、医者の口車に乗って、乳房を切り取られた気の毒な女性である。片胸だけではなく、今では両胸の乳房まで切り取られた上に、薬が合わなくなったということで、もっと強力な薬剤の投与を受けている人である。

 かつて、この女性から、胸部に皮膚病らしい疾患が出たのでということで、相談されたことがあった。筆者はすかざず、乳ガンも知れないと思い、「秘伝の里芋湿布(さといもしっぷ)【註】大東流ドットネット・《大東流霊的食養道篇》「薬になる植物図鑑」参照)を奨(すす)めたことがあり、その湿布の作り方も詳細に教えたことがあった。また、それと倶(とも)に、ガンを克服する呼吸法や、玄米穀物菜食の「正食」などを教えたことがあった。こうした病気になると、肉、乳製品、鶏卵、白米、精白小麦、パンやケーキや饅頭の白砂糖食品、天ぷらなどの脂物などの「雑食」は禁物なのだ。徹底した、「正食」に切り替えなければならない。

 しかしこの女性は、里芋湿布という民間療法など、頭から信用せず、「そんなものでは……」と鼻で笑い、呼吸法などで病気は治るわけはないと馬鹿にした風だった。
 結局、自分の懸(か)かりつけの病院に行き、主治医から乳ガンと診断され、乳房の摘出切除手術を受けたのである。最初は片胸だけだったが、ついにもう一方も切り落とさねばならず、それでも好転せず、これまでの薬が効かなくなったということで、もう一ランク強い薬の投与を受けて、今は周期的に激しい副作用に襲われながら、死を待つだけの余生を末期ガン病棟で送っている。この女性も、また5年生存率を満たさずに死のうとしている人である。
 筆者は、ガン患者の生と死の明暗を分けているのは、「酸毒思考」に襲われるか否かに懸かっていると思うのである。

 恐らくこの女性の命も、そんなに長くはあるまい。もう、里芋湿布などでは後戻りできないくらい悪化し、治らないところまで来てしまっているのである。残念というか、愚かしい「酸毒思考」に凝り固まっているというか、そこから抜け出せない人間の頑迷(がんめい)さがある。筆者はその女性を見舞いに行って、何とも言えない、後味の悪さを覚えて帰宅したことを覚えている。ある意味で、現代人の多くは、皆こうした愚を冒(おか)して、死んでいくのではないかと思えてくるのである。

 現代人の多くは「病院で生まれて、病院で死んでいく」という言葉を、地で行くような運命を辿っているようだ。しかし、かつての古代人たちは、月の力に支配されて生まれ、死んでいったという。また本来、月は潮汐(ちょうせき)を通して、人間の生死に関わっている可能性が強い。
 つまり、自然死とは、月の潮汐の関係に由来するのである。

 ところが、人間が潮が引く時に、人が死ぬという古来からの言い伝えは、現代では殆ど死語になっている。多くの人は、病院で生まれて病院で死んでいくのである。もう、古(いにしえ)の人々が月の潮汐に合わせて、「死を全うする」という姿は殆ど見られなくなった。
 現代人にとって、潮が引く時に死んでいくという自然死は、今日では殆ど有り得ない。みな病院で、少なからず、苦しみながら死んでいくのである。特にガン患者の多くは、こうした副作用の激痛で死んでいくようだ。

 本来の寿命を全う出来ず、潮汐の満ち引きとは関係なしに、病院で生まれ、そして病院で死んでいくのである。こういう意味からすれば、現代人という人種は、古代人に比べて、かなり退化した人種であるのかも知れない。退化した現状の中で、生と死を見詰めて生きる「非存在物」かも知れない。

 筆者は自らも死の淵(ふち)に立たされて、内外に、多くの人の死を見てきたが、その死んでいく多くの人は、その殆どが、死から逃れようと必死にもがいた人達であった。しかし、その中でただ一人、筆者の知る末期ガン患者で、死を恐れず、堂々と、正面から死に向き合い、死ぬ三日前まで武術修行に明け暮れ、死をものともしない凄い「サムライ」が居た。

 わが流の岡本邦介皆伝師範は、平成18年10月22日、77歳で肺ガンの為、この世を去ったが、この人も末期ガンとして、余命3ヵ月と告知された人であった。筆者が28歳の頃に、52歳で、八光流柔術皆伝師範(一時は著名な大東流合気武術の佐川幸義先生の門人でもあった)として、わが流に入門した人であった。それ爾来(じらい)、約25年間、若輩の筆者を師匠と仰ぎ、日々精進した人であった。

 筆者がこの人をガンと知ったのは、平成16年の10月下旬のことで、この時、JRA美捕トレセン(茨城県稲敷市)で行われた茨城地区の講習会に出向いたときであった。筆者が九州から出向くということで、氏は心待ちにして、トレセン内の道場に姿を現したのであるが、いかんせん、末期の症状が克明に現れて、椅子に掛けていても、座れずに転げ落ちるほど、酷い状態だった。心身ともにガンに冒され、まさに「虫の息」という状態であった。

 しかし、筆者は、「私も、平成13年に肝臓の末期ガンと告知され、本来ならば病院の末期ガン病棟に入院して居て、点滴を打たれ、絶対安静にして、こうした講習会に出かけることなどは持っての他ですが、こうして姿を現している。あなたも、病院任せ、医者任せではなく、私のように命を燃やして動いてみてはどうですか。何も、末期ガン患者と雖(いえど)も、死を待つだけの病人であってはならないはずです。私のように、玄米穀物・菜食をして、“正食”【註】正食というのは、菜食主義のことを言うのではない。玄米雑穀ご飯を主食に、副食は旬の野菜と海藻類、掌サイズの骨ごと食べられる小魚や貝類、鶉(うずら)の卵などの「腹六分」の粗食少食をいう)を心掛け、陰気な病室から飛び出したらどうですか」と励ましたら、早速次の日から、主治医が止めるのも聞かず、病院を勝手に退院し、まず第一に取り掛かったのは、筆者がアドバイスした玄米雑穀の自然食療法だった。

 主治医からは、「いまさら自然食【註】主治医が玄米雑穀ご飯などの正食を、「自然食」と表現しているのは、穀物雑穀を主食とする「正食」と、白米を少量にした主食と、何でも30品目の副食を摂る「雑食」との区別もつかず、食事療法に対してその程度の認識しか持たなかった為だろう)などしても、あなたのガンは治りませんよ」と、嫌味なことをいわれたそうだが、これに一切耳を貸さず、茨城道場の稽古日には、欠かさず姿を現し、子供の部や社会人の部に混じって稽古をし、また自宅でも、木刀の素振りをするなどして、一人稽古を繰り返していたようで、ご家族の方に当時の様子を窺(うかが)うと、死ぬ三日前まで、非常に元気に稽古をしていたという。

 もし、氏が主治医の言に随(したが)って、ガン病棟で点滴を打たれるような入院生活をしていたら、とても平成18年の10月までの命はなかったであろう。この意味で、氏は「よく生きた」といえる。生命を、最後まで全うしたといえるのである。
 そして、平成18年10月22日の講習会当日の、午後7時頃に息を引き取ったそうだ。それを知ったのは、講習会より一日過ぎた、10月23日の、東京五反田のホテルに泊まっているときであった。氏は、私が講習会に姿を現したのを確認して、何故か、それに合わせるように息を引き取ったように思えるのである。

 ちなみに「里芋湿布」だが、これは皮膚ガンや乳ガンには効果覿面(てきめん)で、筆者は「家伝の宝刀的な秘伝」として、先代の師匠から習った民間療法である。また、この方法を指導して、皮膚ガンや乳ガンはおろか、激しい腰痛や椎間板ヘルニア(ぎっくり腰)も、一切手術せずに、治ったという実績を持っている。

 現代人の頭の中には、「病気は治すもの」と考えている人が多いようであるが、病気は治すものではなく、病人自身が、自分に与えられた本来の寿命を取り戻し、生命(いのち)を全うさせるものであると思っている。つまり、本来の生命を、自分自身が取り戻すことなのである。自分で生命を取り戻すことが、難病からは解放される唯一の道なのである。

 その意味で、筆者は「果たしてガンは、人間の命を奪うのか?」という疑いを常に抱いている。また、もし命が奪われる要因があるとするならば、それは病気治しの治療ではないかと思っている。おそらく、ガンであろうが、摘出切除手術であろうが、抗ガン剤であろうが、本来は人の命は奪えないはずである。
 つまり、人の死は、如何なる原因であれ、総(すべ)ては「生命の変化したもの」である。

 ある知人の医師から聞いた話であるが、早期発見・早期治療のガン撲滅スローガンに随(したが)って、あるガン発症患者がガン化した細胞の切除手術を受けることになったそうである。しかし、この患者は、ガンそのものを切除したにもかかわらず、死亡してしまった。そして、その後、解剖してガンの行方を探したそうであるが、何処にもガンらしきものは発見されなかったという。
 果たして、早期発見・早期治療のガン撲滅スローガンに随(したが)って切除手術を受けた患者は、ガンで死んだのではなく、寿命で死んだのではないかと筆者には思われるのである。

 もともと「早期発見・早期治療」 とか、「ガン撲滅運動」とかは、ガン患者を食い物にする「ガン屋」のスローガンにしか過ぎない。その意味で、現代医学者の凡(おおよ)そ90%、現代栄養学者のほぼ100%は、ガン屋と結託した共謀者といえるだろう。医療機器メーカーやガン検診を行うレントゲン技師、抗ガン剤を製造する薬品メーカーなどを、総称して「ガン屋」という。ガン患者を食い物にして、何兆円もの金儲けをする連中だ。「医を算術」と考える連中だ。

 「ガン」と告知されて、それで動顛(どうてん)し、ガン屋の食い物にされたくなければ、ガン屋やその共謀者達の口車には乗るべきでないだろう。
 一般に、ガン患者といえば、痩せこけて、ガンの痛みに耐えかね、悲愴感を漂わせた姿を想像するかも知れないが、こうした検(み)方は正しくない。また、一版の社会通念として、「ガンは恐ろしい病気」とか「死に繋がる病気」という検方も正しくない。まず、ガンは死病ではない。それにもかかわらず、ガン死亡率が高いのは、ガンに対する従来からの考え方の誤りと、間違った現代栄養学の栄養観や、それに伴う生活観に誤りがあり、これらが、ガン死亡率を高騰させている。

 ガン屋の、「肉の眼に見えないものは信じない」という、前近代的な唯物論的思考に、軽はずみに同調してはならないことだ。もともと自然科学に、唯物論弁証法が持ち込まれていること自体が、不自然であるからだ。

 さて、どのような病因、どのような因縁に関わらず、生命が活性化している間は、その生命は喩(たと)えガンに冒されていようと、生命は輝く続けるものであると思っている。その輝きが失われた時に、人は寿命で死ぬのである。則(すなわ)ち、生命の輝きを失い、生命が衰えれば、死が訪れるのである。これが現象人間界のシステムであり、掟(おきて)なのである。

 その意味で、生命というものは、僅か10歳足らずで生命の輝きを失う人も居れば、100歳を超え、なおも矍鑠(かくしゃく)とし、生命が輝いている人も居るのである。
 つまり、人の生命には長短や大小はないのである。また、今日の日本で言う平均寿命など、個人においては何の意味も持たないのである。

 人は、自分に背負わされた自分の寿命を誰も変えることは出来ないし、また、医者の力量や薬の効用として、自分の生命と引き換えにすることも出来ないのである。病気は医者や薬が治すのではなく、生命の輝きを信じられるものだけが、如何なる境遇においても、それを克服し、ついには生命の輝きを取り戻し、寿命を全うできるのである。

 

●呼吸法と倶に「人生の息吹」を芽吹かせる

 人間は生命(いのち)と倶(とも)に歩く生き物である。それ故に、もともと「非存在」であるはずの人間が、「存在」として、この世に生命を全(まっと)うすることができるのである。
 したがって、「人間は病気では死なない」のである。

 生命と倶に生きていく。生命と倶に歩いていく。そして生命は、寿命の限り輝いているという決断が心の中に生じたとき、そこには人間が「天に生かされる因縁」が生じる。
 天によって生かされるのであるから、人間は生きているのであって、自分の意思で、自分の力で、生きているのではない。生かされる因縁があるから、それが天の命(めい)となって、生きているまでのことであり、これを見失ったり、思い上がったりすると、人間の生命は忽(たちま)ちに天から殺されることになる。

 生命の輝きは、「自らに与えられた生命と倶(とも)に歩き、それを全うする」と決断したとき、その決断が心の深層心理に生命の息吹(いぶき)が刻み込まれ、その焦点が合ったとき、自らの生命の尊さや、輝いている素晴らしさが、心底から活力を与えるものなのである。
 したがって、人間は脆(もろ)いようで脆くなく、医者が見離した病人でも、死ぬようで中々死なない生き物である。それは医者が決定するのでなく、自分自身が決定する行為であるかだらだ。

 病気と悪戦苦闘するときは、思い切り悪戦苦闘して、とことんのた打ち回って苦しめばよいのである。これから楽になろうとして、安易に薬などで誤魔化(ごまか)してはならないのである。激痛が疾(はし)るときは、その激痛の任せるままに、のた打ち回って思い切り苦しめばよいのであって、何も、この苦しみから逃げ回る必要はない。あるがままに、本当の人間の姿を表現すればよいのである。

 病気になったら、病気の真っ只中にあって、病気と闘えばよいのである。これがあるがままの人間の表現だ。
 ガン発症が告知されたら、酸毒思考に陥って切除したり、薬で叩いたりせず、これを素直に受け容れて、のた打ち回り、七転八倒すれば済む事である。何事も真剣に闘うことが肝心で、逃げてはならないのである。

 したがって、激痛の真っ只中にあるときは、その真っ只中で激痛を感得することこそ、生きている証拠であり、激痛が感じなくなれば、それはもはや生きているとは謂(い)わないのである。苦しみにあるときは、あらぬ限りの全力を張り上げて、喚(わめ)き、叫べばよいことで、これからひたすら逃げ回ることは無用である。それに捉(とら)われて、悩む必要はないのである。悩みが失せれば、やがて迷いの幻覚も解かれよう。

 筆者はいつも、激痛の真っ只中にあって、激痛と倶(とも)に生きてきたのである。こうすれば、まさに生も死も存在しなくなり、今まで目の前を覆(おお)っていた暗雲のような迷いは解かれるのだ。

 苦しみという迷いから逃げ回り、迷いっぱなしでは、死生観を解決することはできない。生に、逃げ回ることばかり、また生の孔(あな)に隠れることばかりを考え、死を、ひらすら恐れれば、死生観など解決できるわけがなく、その迷いは、再び六道(りくそう)を輪廻(りんね)して、次の「迷いの世界」の中で苦しむことになる。これこそ、「終わりなき苦界の世界」を再現する元凶ではないか。

 人間は自然の中で生かされているのである。無意識のうちに生が全うされ、人が呼吸をし、心臓が鼓動を打っていることは、紛(まぎ)れもなく、自然から活かされた人間の姿であるから、この自然な態(さま)が、生かされる因縁を保っているのである。気付かない中(うち)にも、生かされて生きている現実があり、生かされているという自己を見るとき、人は自然に感謝したくなる気持ちが湧(わ)き、この感謝が人間の生命を支えているのではないかと思っている。
 人間は、自分の力で生き、決して強いなどと思い上がってはならない。生かされているという現実を知ったとき、何一つ、傲慢(ごうまん)な気持ちは起らないはずである。

 大自然の、人間に対する恩恵に気付いたとき、人は素直にこの事に感謝し、生かされている喜びを歓喜(かんき)しなければならない。自然な働きに気付き、生かされている自己の目覚めたとき、これまでに苦労しながら学んだ呼吸法は真に生かされ、活力を帯び、そこには「生命の息吹」が芽生えてくるのである。これを、実は「悟り」というのである。

 武術家と雖(いえど)も、人間の片割れであり、大自然の中の生き物である。決して、自分が弱肉強食の勝者などと思い上がってはならない。この自惚(うのぼ)れが生じたとき、人はたちどころに大自然から殺されよう。

 日々精進する生き物が人間であるとすれば、日々悟りに近付いて、頭は出来るだけ低くし、謙虚になって、「頭(こうべ)を垂れる稲穂」でならなければならないと思う。

 最近では、よく末期ガン患者(特に有名作家や人気者のジャーナリストが多い)がテレビなどに出て、「ガンと闘う」と称して、世間の賞賛を浴びているが、あれは筆者から見て、愚かしい行為であると思っている。何も、ガンと闘い、格闘する必要はないのである。ガンと共棲(きょうせい)し、倶(とも)に寿命を全うすればよいことであり、ガン細胞と雖(いえど)も、もとは自分の正常細胞だったはずである。その正常細胞が、一時期“ぐれ”て家出した放蕩息子(ほうとう‐むすこ)のように、ガン細胞に変質しただけのことである。

 細胞学の「可逆性」からいうと、ガン細胞への変質中、人を苦しめ悪業(あくぎょう)に趨(はし)ったが、やがて時を経て、自分の非に気付き、自分の親許(おやもと)に帰ってくるというようなものであり、何も放蕩息子だからという理由で、殺す必要はないのである。
 ガン撲滅運動の、ガン退治こそ、わが放蕩息子を殺すようなものではないか。愚かしい行為である。

 放蕩息子でも、正しい方向に教化すれば、必ず、もとの正常状態に戻っていくはずである。そして、ガン患者自身が、一旦は狂るってしまった放蕩息子が長旅の果てに、世間を見聞しながら勉強して、やがて我が家に帰ってくる、それくらいの「おおらかさ」「寛大さ」は持ってもらいたいものである。

 昨今は、「勇気を与える番組」として、著名な作家や有名人などの末期ガン患者が、テレビのドキュメント番組などに出演して、これを見た視聴者らは「勇気を与えてもらった」とわけの分からないことを云っているが、果たして彼等のテレビ出演は、本当に視聴者に勇気を与えたのだろうか。

 こうした患者がテレビに出て、勇気を与えてもらっているのはガン産業の裏で、“もみ手”をしている製薬産業と医療機器メーカー、それにガン手術を執刀する外科医だけであろう。こうした著名人をテレビ出演させ、ドキュメント番組を作れば、視聴者も、「ガンは病院で治して貰う」という頭になり、それこそ思う壺で、彼等こそが、「これからも製薬会社や医療機器メーカーや病院は大いに儲かるぞ」と、勇気を与えてもらっているのである。この背景に、年間利益5兆円とも、10兆円ともいわれるガン産業の実態がある。昨今は、この業界が儲け過ぎている為に、正確な数字がつかめないというのが、税務当局の嘆きである。しかし、暴利を貪(むさぼ)るように儲かっているのは事実のようだ。

 そして、著名な作家から学者などの有名人が、「ガンと闘う」と題して、こうした「やらせ番組」に手薬煉(てぐすね)を引いているのは、明らかに製薬産業、レントゲンやレントゲン技師、CTスキャンを製造している医療機器メーカー、日本医師会や外科医連合などであり、もし、一切の医療を拒み、ガンと共棲して現代医学の最先端医療を拒み、6年以上も生きているという筆者のような人間ならば、絶対にテレビ出演は拒否されるであろうし、もし出演するともなれば、ある筋から即座に猛烈な圧力が掛かろう。

 かつて筆者の知人の医師が、「レントゲン被爆は小さなガン細胞でも、被爆することによって増殖する」という論を掲げ、昼間の番組に一週間出演する予定になっていたが、僅か一日で引き(ず)摺り下ろされてしまったことがあった。残りの6日間を無断キャンセルされた事件があったが、これは背後にいる巨大組織の医療関係者の圧力が掛かったからである。この番組が大々的に日本中に放映されれば、職場の集団検診などが上げられ、医療に従事する人達の職が失われるからだ。
 こうした良心的な医師の行動や発言は、実に貴重なものであるが、日本では真っ先のこうした「良心」が攻撃を受け、悪者として叩かれるのである。

 日本は被爆国でありながら、医師が気軽に使用する放射線には、意外と寛大である。多くの国民は、この事に何も抗議をしないし、文句を言わない。黙って忍従するだけである。そして、放射線科の良心的な医師の言によれば、「長年、ガン患者に放射線を当て続けてきたが、それによって助かった患者は一人も居なかった」と告白していることにも、是非注目して頂きたい次第である。

 日本のお家芸的政治主張は、「非核三原則」である。誰もが、これを口にする。核兵器を装備したり、原子力発電所を新たに設立したり、原子力船建造などには、極めて敏感な反応を示す日本国民が、医療界においての放射線使用に関しては、実に寛大である。
 したがって、この無批判状況下で、放射線照射は無差別使用が暗黙の了解のうちに決行されている。これは一般大衆が、放射線照射に対して、医学的な危険意識がない為である。核兵器が困るが、病気を治す放射線は許されるとしている為である。

 一方、アメリカなどの医学雑誌には、ガンを自然食療法で治した医師の研究発表が積極的に掲載されているが、日本ではこうしたニュースは、殆ど報道されない。ある権威筋の圧力によって、総て、もみ消され、日本では大したニュースとはならないのである。

カバナVie2は健康食品として、ガンに特効効果があるという、カバノアナタケ(学名Fuscoporia obliqua)が主成分である。この食品の中には腸内環境を整え血流障害を取り除き、抗酸化物質を除去する白樺のエキスから抽出した、活性酸素を無毒化する酵素SOD(スーパーオキシド・ディスムターゼ)様活性物質であるβ-Dグルカン、フラクトオリコ糖、ビタミンHといわれるビオチン、ビタミンB5といわれるパントテン酸、ビタミンCなどが含まれている。 ワタナベ・オイスターは活性型の牡蠣(かき)エキスで、肝臓ガンなどに特効効果を持つという。アメリカなどでは代替医療として、牡蠣エキスはガン患者に治療として使われているが、日本では健康食品による代替医療の考え方は普及していないので、単に健康食品のレベルに留まっている。
  しかし、牡蠣エキスに含む活性酸素の無毒化能力は大きなものがあり、肝臓機能を高める働きがあるようだ。

 こうした現実も、日本の学術的自由性はアメリカなどに比べて、かなり遅れているといえよう。これらの世界を駆け巡るビックニュースも、権威筋の圧力によって押さえ込まれるからであり、日本人に知らされる医療関係のニュースは、権威筋のよって、予(あらかじ)め検閲され、加工されたものばかりがニュースとして流されている。
 つまり、ガン撲滅の特効薬が出来たとか、副作用は少なく、この抗ガン剤は優秀であるとする、一部のアメリカの権威筋の治療法ばかりが紹介されている。

 さてガン細胞は、繰り返すが、世の中にはよくある、一種の非行少年であり、また放蕩息子(ほうとう‐むすこ)のようなものだ。ガン細胞も、元はといえば、生命の神秘からなる生命体の一種であり、神秘の基本単位であって、その構造は、正常細胞と何ら変わるところはない。

 世の中に、これまでお行儀がよく、勉強もよく出来た少年が、あるときを切っ掛けとして、ぐれて、非行化することがある。この非行少年こそ、ガン細胞に見立てることは出来まいか。したがって、非行少年は正しく教導し、善導すれば済むことである。つまり、正常細胞への移行が自然治癒の形であり、またガン細胞を正常細胞に教化し、善導することがガン治癒の道と、筆者自身は信じている。

 しかし、三次元のレベルの低い現代医学は、「ガン細胞に限り、自然治癒力は働かない」と断言している。これは裏を返せば、「現代医学のレベルでは、ガンは治せない」ということである。あるいは、現代医学では、どんなに逆立ちしても、ガンは治せないということだろう。
 つまり、現代医学は、如何なる三次元医療の最先端技術をもってしても、ガンは治せないのだ。また、一切の最先端治療は、それが三次元技術である以上、無駄であり、どのような治療を施しても、長くて5年生存率まで生きれば、「御の字」だろう。

 その一方で、「ガン撲滅運動」は、「非行少年抹殺」と酷似する。これは一旦非行に奔(はし)った少年は、一生「非行少年のレッテル」が貼られ、その汚名は生涯消えず、結局、「こんな謂(い)うことを聞かない悪ガキは殺してしまえ」というのと同じ考え方が、現代医学の中では罷(まか)り通っていることだ。
 果たして、非行少年に挽回するチャンスは、永久に失われるものなのだろうか。あるいは、人間側が、これを決定していいものなのだろうか。

 筆者は6年以上も末期ガン患者をやっている人間であるけれど、決してそうは思わない。一旦はガン化した非行少年でも、挽回のチャンスは与えるべきで、正常細胞に戻る権利もあるし、生命の神秘は、彼等にも生きるチャンスを与えているからである。彼等を熱心に、善導すればいいことである。細胞学でいう、ガンの可逆性が残されているのである。
 その努力を怠って、ただ素行が悪いからといって、殺してしまうのは如何なものか。

 

●「なま悟り」の呼吸法の実践者達

 更に、笑止千万(しょうし‐せんばん)に思うことは、一旦は悟りきったようなことを言う、信者に「悟りの有り難さ」を論破する禅僧らが、体調の異変を訴えて、病院で診断を受けたところ、担当医から、ガンだと告知された途端に、へなへなとなって、これまでの悟りも旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻る、大僧正(だいそうじょう)といわれた人が居る。これまでの自称「悟り」は、一体何だったのかと思う。おそらく、高僧の悟りは、「なま悟り」だったのであろう。

 筆者も、こうした禅の著名な僧侶を、何人か知っている。その知人の中には、ヨーロッパの禅の世界の有名人僧侶になった人も居る。こうした人達は、生前は「老師」と持て囃(はや)された人物であった。
 ところが、医者からガンを告知された途端に気力は失(う)せ、生命の輝きを失って、無慙(むざん)に、ガンに取り殺されて、死んでいった人達である。こうした人達が、禅の言葉を借りて、虎の威を借る狐だったことは明白であろう。タレント坊主どもは、口先三寸で、禅を説いていたのである。

 つまり、生命の神秘は、「生命(いのち)に輝きを失った時機(とき)」に、生きる因縁が絶たれるのである。こうした愚に陥る人は、一旦生命がなくなり、現象人間界で、姿形を失ったとき、その後に、「永遠」の死が訪れるであろう。
 永遠の死は、「再びの生命」を再生させないのである。彼等は、仏道の世界で六道輪廻を説き、地獄界のことを説いた人達であったが、自らが永遠の死の六道(りくどう)を輪廻(りんね)し、地獄に落ちた人達ではなかったか。

 頭でやる形式的な呼吸法では何もならない。呼吸法自体が体感として顕れ、その行為と行動が、呼吸法自体の「智」に結びついていなければならない。

 さて、筆者はガン発症は、本来「死病に結びつかないもの」と考えているが、世間一般では「ガン」イコール「死」という単純イメージが出来上がっているようだ。その為に、ガンからひたすら逃げようとして、格闘する人が居るが、この格闘こそ、虚しい徒労努力というべきであろう。

 何故なら、ガン患者の死亡原因の40〜50%は、ガンによるものでなく、抗ガン剤の副作用によるものであるからだ。その上、明記したいことは、抗ガン剤治療は、総てのガンに有効ではないということである。
 抗ガン剤は、無限に細胞分裂を繰り返すガン細胞を撃退するものであるが、この撃退時に正常細胞まで傷つけてしまう性質を持っている。この実情から見れば、現代の三次元医学は、限界があるように思うのである。

 また、ガンを死病と思い込む背景には、次のような三つの問題が横たわっている。

病院と医師の不信感
ガン発症は本来、精神的感情的なストレスから起った発症の背景があるが、これは生活習慣と密接な関係を持ち、これが抵抗力を弱め、自然治癒力を弱めている実情がある。その上、従来の切除手術や抗ガン剤で叩くといった治療法が、一時的な病状を抑えるだけであり、根本的な病因は全く解決できないことである。また、近年は「ガンストレス」で死ぬ人も増え始めた。
患者の諦め感
その結果、ガンは一層慢性化するばかりで、殆ど治らない。その上、医学的な専門知識のない一般人は、ガンについて専門的な知識を持たない為に、医師から奨められる治療が適切であるかどうか、判断できず、不確実要素の多いガン治療に手を出してしまうようだ。
 そのままにしておけば、2年や3年も生きられる命でも、数週間で急死する場合がある。このことはガン摘出手術に失敗して死ぬ、有名タレントの手術失敗でお馴染みだろう。
患者の経済的負担
ガンが慢性化すれば、ガン患者の経済的負担は益々大きくなり、医療費の支払いに限界が生じる。そして、摘出手術をしたり、抗ガン剤投与をした場合と、こうした医療機関の医療に頼らず、自然食療法を実践した場合、その生存率は、圧倒的に後者の方が大きいこと。
 しかし、一方で、早期発見早期治療の考えが、頭の中に残留する為、多くは後者を仕方なく選択してしまうこと。
 これが、「早期発見・早期失敗」である。

 多くの日本人の頭の中に残留している「酸毒思考」は、自然食療法に対して、一般国民は「ガンが消えたり、治ったという宣伝は、全く嘘なのか。もしそうならば、ガン発症という診断は誤診であって、本当はその人はガンでなかったのであろう」というガンに対する感想を持ち、一方、医師側にすれば、「われわれのように日夜ガン撲滅の為に闘っている専門家が、医学的な専門知識や技術のない人間が実践している民間療法が、ガンを治せるわけがない。また臨床データや薬理効果の科学的な効果のない自然食療法では、ガンは絶対に治せない」という傲慢(ごうまん)がある。
 両者とも偏った考えであろう。

 日本の現代医学は、西洋医学がベースになっている。西洋医学の特徴は、これまでの東洋医学と異なり、病気の原因を外側から取り除き、摘出や切除を以て治療するという考えである。その為に、日本のガン治療では、外科療法を最も優先させているのである。
 ところが、この外科療法は、ガン化した細胞の臓器を取り出し、その部位を取り除く際に、空気に触れる為、臓器が酸化する懼(おそ)れがあり、また酸化した臓器を元の位置に収めて縫合(ほうごう)する為、完全滅菌だけでは止められないのは明白であろう。

 摘出切除手術をした患者の、5年生存率が極めて低いのは、摘出する際の酸化が絡んでいると思われる。これは丁度、例えば、リンゴなどの果物を輪切りにして放置すれば、5分も経たないうちに、茶色に変色し、この変色がつまり酸化であり、摘出した内臓も、この間に酸化するものと思われる。

 現代医学の外科的治療は、患者自身の自然治癒力を高めていくという医学思想に基づいていない為、病気の箇所を切り取ったり、抗ガン剤を投与したり、放射線を照射するという治療法が日本では主流である。しかし、その反面、こうした治療法では、必ず副作用を齎(もたら)し、ガンの摘出手術は成功して切除は出来たが、却(かえ)って体調不調を訴え、これにより死亡する場合が多いのである。
 また、多くのガン患者は抗ガン剤の副作用に苦しみ、死んでいくというのが実情である。同じ死ぬのを待つにしても、自然食療法と比べれば、摘出手術や抗ガン剤投与は、効果薄という実情があるようだ。だから、多くの日本人は、「ガン」イコール「死」という単純方程式を頭の中に、潜在的に作り上げてしまったのである。

 この潜在的恐怖は、何も一般国民の中に広がっているのではなく、呼吸法を実践している僧侶や宗教関係者の蔓延(まんえん)し、肚(はら)の出来たはずの、こうした修行者も、自分が「ガン」と聞けば、驚愕(きょうがく)の余り、これまでの生命の輝きを失い、へなへな状態になるのである。これこそ、「なま悟り」の最たるものではなかったか。

 筆者はガン患者として、ガンと闘うべきか、闘わないべきか、そんなことは無駄と思っている。闘うべきとか、闘いべきでないというより、既にも述べたように、ガン細胞は正常細胞が病変・変質したものであるから、いわば素行の悪い放蕩息子のようなものであり、こうした出来の悪い息子も、わが肉体の一部であるから、倶(とも)に共棲し、仲良く付き合っていくことが大事だと思っている。その「仲良く付き合う中で、教化し、善導するのが大事ではないか」と思う。その気持ちに至れば、決してガンは怕(こわ)いものではなくなろう。

 また、ガンだと告知されたら、患者自身が納得できる「その後の生き方」を模索することが大事で、医者任せ、薬任せでは、ガンを人間の自然現象として受け容れることは出来なくなるだろう。人間としての尊厳を大事にするのならば、過酷な治療で苦しみ、想像を絶する副作用の激痛は、出来るだけ用いるべきでないだろう。

 納得できる生き方や、死に方は、本人の意識任せるべきで、此処に医療機関や医者が口出しする資格はないと思う。むしろ、自分で自分の始末はどうするか、こうしたことは患者自身の尊厳を大事にしていくことが、本来のガン治療の姿であるべきと思う。

 そしてガン治療に対し、民間療法では、古来より「自然治癒力の強化」ということに焦点を当ててきた。つまり、食べ物により体力を養うのでなく、「体質をよくする」ことを重点に置いてきたのである。
 自然治癒力とは「生命力」と同義語であり、生命の固有的な複雑なメカニズムを持つ作用に眼を向けてきたわけである。その一方で、西洋医学のように理路整然とした科学的弁証法がなく、三次元科学では余りにも複雑な上に、解明が困難であり、その為に、従来の西洋医学や現代医学は、この複雑なメカニズムの存在を軽視し、無視してきたわけである。
 また、このことが、今日の慢性的な疾患から起る現代病や成人病を、一層治り難くさせているのである。

 この「治り難い」というのが、また現代人の一つの恐怖になっていることも事実である。この恐怖は、ひとかどの修行者や呼吸法実践者も懼(おそ)れされる猛威らしい。その猛威が、悟りを開いたような貌(かお)をして、取り澄ましている高僧すら懼れさせるのである。悟りすましたはずの高僧が、俄(にわか)に取り乱すのは、この為である。

 

●死とは、呼吸法でいう「吐気」の吐き終わりである。

 人間にとって、「死ぬ」ということは、生まれること、成長すること、成人に至って働くことなどと倶(とも)に、生きる為の仕事の一つである。然(しか)も、「死ぬ」ことは、非常に重要なことであり、死はどんな人間にも、公平かつ平等に、必ず一回は巡ってくる定めである。
 これを理解せずに逃げ回っていては、死が非常に怕(こわ)いものに思えてくる。万人が死を怕いものに思い、これから逃げ回ろうとするのは、生きながらえて、「死後の世界」を否定する暴挙に他ならない。

 人間は、「死ねば終わりよ」と考えている人は、こうした意味で、死が、このうえもなく怕(こわ)いものに観(かん)じるのである。しかしまた、死を恐れずに、死に急ぐ考え方も危険であろう。
 特に末期ガン患者で、副作用の激しい軋轢(あつれき)に耐えられず、七転八倒するよりは、早く死にたいと願う安楽死を求める人が居る。これこそ、安易な生き方といえよう。

 また、副作用の苦しみから逃れようとして、家族の一人が暴力団から覚醒剤を買い、これを末期患者に与えて、楽にさせようとするのであるが、今度は覚醒剤の幻覚症状に襲われて、副作用以上に激痛を強いられる患者も居る。副作用で苦しむのも愚かだが、覚醒剤の幻覚症状に苦しむのも愚かだ。だから、安楽死がいいというわけではない。

 則(すなわ)ち、死に急げば、一人の人間が、人生を生きてきた本当の意味が分かるのである。自分の人生の意味がはっきり知覚できるのは、死の「5分前」かも知れないし、臨終のまさに「その瞬間」かも知れない。それまで、人間は死に急いではならないと思う。それ故に、人為的な安楽死は、自分の人生を理解するチャンスが失われ、死していく自分の意味が全く分からなくなってしまうのである。

 禅などを通じて、練り上げた高僧の悟りが、単に「まな悟り」に戻ってしまう背景には、死を逃げ回ったり、死に急ぐという愚行に陥(おちい)るからである。これでは人生の本当の意味は分からず、人間が生れ落ちて、吐気(とき)を吐いておぎゃーと泣き、その後、何故吸気をして、「後天の気」を吸い込むか、意味不明になろう。これこそ「呼吸法の否定」ではないか。

 万物の死を思えば、例えば、生命を失った落ち葉が、枝から離れて落ち葉となり、地に積もっていく現象は、再びその樹木の下で、養分になろうとするからである。これは一枚の落ち葉の死が、現実に養分になることにより、樹木の生を助け、生きることと同義になるからである。
 自分の死によって、生きる者を「助けたい」という喜びと、「助けた」という自負は、人為的な死でなく、自然に死んでいく、生命の死の、愛らしくも、善意に充(み)ちた偉大な行為の一つであろう。そこにこそ、本当の「死」の意味があるのではないか。

 筆者は、職業柄、数学や哲学の他、世界の戦史などを研究調査している学徒の一人であるが、最近研究している調査対象に、太平洋戦争当時、日本兵がこの大戦において、捕虜(ほりょ)を虐待(ぎゃくたい)したとする、かつての連合軍側の資料の調査に基づき、B・C級戦犯容疑を掛けられて、銃殺されていった旧日本陸軍の下級将校や下士官・兵らの、自らの虐待行為を問われて、死んでいった底辺の将兵らの研究をしている。

 連合軍側が虐待したと糾弾(きゅうだん)する、こうした将兵の中には、食糧事情が困窮して、英米の捕虜たちにヤマノイモ(自然薯)を食べさせて、捕虜を虐待した廉(かど)で、銃殺刑になった下級将校も含まれている。
 捕虜収容所を管理するこの将校は、食糧不足から、山岳地帯に部下と倶に分け入り、山岳地帯に生息するヤマノイモを掘って、それを英米軍の捕虜に食べさせたのであるが、戦後これが植物の根を食べさせたとして捕虜虐待行為となった。そして、これが咎(とが)められて、連合軍の軍事法廷で、捕虜虐待罪で、銃殺刑が申し渡された下級将校が居た。

 この下級将校にしてみれば、自分が何故捕虜虐待の罪に問われ、なにゆえ死刑にならなければならないか、大いに苦悶(くもん)したはずであろう。

 日本で、ヤマノイモいえば、自然薯(じねんじょ)のことで、珍味に属する、非常に貴重な栄養価の高い食物であり、最近では畑に養殖したものが、「やまいも」という名前でスーパーや食品店などで販売されているが、この食物は栄養価が高く、一方で強精剤としての効果を持つ食品である。況(ま)して天然のヤマノイモとなれば、更に貴重品で、これを掘り出すだけでも大変に苦労する食物である。それをこの下級将校は、日本兵と同等に、分け隔てなく食糧を分配して、食糧として食したのである。その意味で、この銃殺刑判決は、この将校にとって、大変な不服であったに違いない。

 学徒兵として、大学在学中に臨時徴兵され、下級将校としてシンガポールにやってきたのである。そして彼の任務は、捕虜収容所の仕事であった。毎日食糧不足に汲々(きゅうきゅう)とし、捕虜達に何を食べさせたらいいか、頭を悩ましていたことだろう。そこで彼が思いついたのが、山地の山岳地帯に生息する天然のヤマノイモ採取だった。

 しかし、その栄養価が高く、日本では珍味であるはずの天然のヤマノイモが、連合軍側の軍首脳には理解されなかったのである。当時、捕虜収容所の監督をする、一青年下級将校は、自分が何ゆえ裁きを受けなければならないか、身に覚えのない容疑で、死刑が言い渡されたか、激しい悶絶(もんぜつ)を覚えたに違いない。自分には理解できない、不法な死刑判決と思ったはずであろう。

 彼は戦後の連合軍の刑務所で、毎日頭を抱え込み、悩み抜いた挙句に、辿り着いた結論が、「戦争によって起った、各国の人々の怨念と憎悪を鎮(しず)める為には、自分が彼等の前で銃殺されてみるしかない」 と考えるようになったのである。
 戦争に絡む、人々の怨念(おんねん)と憎悪を鎮める為には、自分がその人身御供(ひとみごくう)として、わが身を捧げ、死んで見せるしかないと思ったのである。しかし、それは余りにも凡庸(ぼんよう)な、悲しい手段であったともいえる。

 「戦争とは、欺瞞(ぎまん)である」と、さらりの云い退(の)けたは、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーであった。まさに戦争とは、彼が言うように欺瞞に満ちたものである。

 その理由は、何処の国の軍隊でも、自国民の被害は過大に表現し、アウシュビッツの600万人、南京大虐殺の30万人と、敵国の軍隊の悪逆非道は、声を大にして大々的に宣伝し、一方で、自国軍の略奪や婦女暴行などの行為は、大目に見るというのが万国共通した傾向であるが、どこの国の軍隊も、また今日の近代戦においても、戦争犯罪と無縁であった軍隊は、これまでに全く例がない。大なり小なりの犯罪性は、何処の戦局にも起り得るのである。

 極限状態に至れば、人間は暴徒や暴徒化する。 これは戦争だけではなく、地震やサイクロンの被災地でも、ニュースなどでお馴染みであろう。その上、戦勝国ともなれば、敗戦国の国民に対して、虐殺、レイプ、略奪、暴行は当然のこととして、こうした軍規に違反した兵士も大目に見られる。

 また、戦勝国は敗戦国に対して、戦争に対する損害賠償や、軍事法廷などを通じて、捕虜を虐殺したと称する戦争犯罪者を探し出し、これに厳罰を与えるのは東京裁判などでお馴染みであろう。
 そして、戦争はしているときよりも、終わったときの方が地獄であるというのは、歴史を見れば一目瞭然である。
 戦争による殺戮を後片付けするには、殆ど無実の、かなりの数の無辜(むこ)の敗戦国側の生命を必要とするのである。その典型的なものが、連合軍の開廷した東京裁判ではなかったか。

 この時も、戦勝国は敗戦国に対して、憎悪を露(あらわ)にしたことであろう。何故ならば、戦勝国は聖戦と戦ったのであり、敗戦国こそ、憎き悪の塊(かたまり)であったと宣伝されるからだ。
 この戦勝国の敗戦国に対する怒りを鎮(しず)める為には、報復によって戦勝国の犠牲者を弔(とむら)うしかないという考えに落ち着く。敗戦国の戦争指導者や戦犯容疑者の血を要求するのである。それが「報復裁判」である。

戦勝国の報復の刃(やいば)に斃(たお)れたた、敗戦国・日本のBC級戦犯として処刑された下級将校や下士官・兵達。果たして彼等は、捕虜虐待の罪で、死に値する咎(とが)を起こしたのだろうか。

 中には、食糧がなくて、ヤマノイモを食事として出した律儀な学徒動員の下級将校も居たのである。
 写真は、住民虐殺の罪で、銃殺になったラングーン法廷での、銃殺刑第一号の日本軍の元下級将校たち。銃殺になった彼等は、イギリス軍の謀略基地と目されていたカランゴン村を焼討ち殲滅(せんめつ)したという罪だった。(写真は昭和史21、「廃墟と欠乏」毎日新聞社篇より

 この報復の刃に、多くのBC級戦犯たちは、次々に処刑されていった。戦争の殺戮を片付ける為の無辜(むこ)の犠牲者であったといってよい。つまり戦争から起った憎悪は、無実の人間の死を要求するからである。
 ちなみにBC級戦犯とは、東京裁判(極東国際軍事裁判の通称)で裁かれたA級戦犯に対し、B級戦犯は戦争法規違反の現地責任者、C級戦犯は直接下手人(げしゅにん)のことで、この中には、上官の命令で軍規に随(したが)った下士官や兵も居た。

 日本が敗戦したと同時に、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、中国、フィリピンの七ヵ国は、合計50箇所で、戦犯容疑者を裁く軍事法廷を開いた。また被告とされた元日本軍将兵や日本軍軍属の半民間人を5700人裁き、死刑971人、終身刑479人、有期刑2953人で、この中には捕虜にヤマノイモを食べさせたなど食糧事情からこれを行い、全くの無実の罪で処世された下級の将兵も多く含まれていた。彼等もまた、悲惨な戦争の犠牲者たちだった。

 多くの戦犯容疑の犠牲者は、自分に下った死刑判決を理不尽(りふじん)と思うが、その一方で無辜(むこ)の死を要求する戦争処理には、また報復の怒りを鎮める為に、「自分の死が必要ではないか」と思うようになる。
 戦勝国側の報復を望んだ軍事法廷側の検事達は、無実に近いBC級戦犯を処刑することにより、戦争とは何か、戦争に負けるとは何か、また、戦争の本質を、軍事裁判を通じて知ることになるのである。

 無実の罪で、例えば、捕虜に仕方なく食糧事情の関係でヤマノイモを食べさせた日本軍下級将校は、自分が現地責任者として、捕虜に出来るだけひもじい思いをさせずに、何とか食糧を確保しなければならないと、奮闘努力したのである。ヤマノイモを食べさせることなどは、まさか捕虜虐待になるとは、露(つゆ)ほども思わなかったであろう。
 しかし戦争という、人間が招いた欺瞞(ぎまん)を考えると、戦争という流れの中で、学徒兵として戦地に赴く、人間の愚かさに、自分が組み込まれていたということに気付くのである。また、それが怨念の一面を表現する為に、自分が犠牲になることは必要ではないかと考えるのである。

 これは吉田松陰の処刑の姿と酷似するではないか。
 松陰は、いよいよ首を斬られる刹那(せつな)、「吾が輩、皆に先駆けて死んで見せたら観望して起るものあらん」と悲痛の声を上げて刑場に向かう。松陰は、まさに処刑されて「見事に死んでみせる」ということで、高杉晋作らの門下生に最後の垂訓をしたのであった。松陰は垂訓をすることで、生涯教師を全うしたといえよう。
 そして、松陰の死は、その後、晋作のみならず、門下生の総(すべ)てが、松陰の死によって奮い立ち、覚悟も新たに、激動の時代に向き直る切っ掛けを作ったのである。

 江戸幕府の崩壊は、松陰を殉教者にしたことで、幕府自らが墓穴を掘ったというべきだろう。
 古今東西を問わず、封建制や専制君主制が崩壊の末路を極めるとき、歴史のどの場面にも見られる現象である。

 思えば、捕虜にヤマノイモを食べさせて捕虜虐待の罪で、銃殺された下級将校も、ある意味で、自分が死んで見せることで、後世の研究学徒に改めて、戦争史を研究する切っ掛けを与えるメッセージを放って、死んでいったのかも知れない。それは、吉田松陰と同じく、無実の罪であっても、自らが見事に死んで見せる以外なかったのであろう。
 そして近年、かつての東京裁判を根底から洗い直し、日米の歴史学者が別の歴史の切り口から、この裁判を真摯(しんし)に研究し始めたことは、実に喜ばしい限りである。

 人間は誰でも、死を目前にしつつも、少しでも有益で、有意義な過ごし方をしようとするのは、まさに人間の人情であるといえよう。しかし、有益や有意義と反目して、また無意味な死も必要ではないだろうかと思うのである。

 如何なる人も、その人が死ぬ場合、一見無意味に思える死であっても、残された人々に、ささやかな善意を残し、希望や助言を与え、更には人間としての教訓を与え、死んでいくのである。

 こうした意味から考えれば、果たして末期ガン患者として、死を目前に控え、近いうちに死んでいく人も、残された人に対して、ささやかなメッセージを送り、それは善意であったり、希望であったり、助言であったり、教訓といったものを残しつつ、死んでいくことが認められるのである。したがって、死に対して、禅の高僧のように、無理に悟りすますこともないし、ありのままに「自分の死」と対面し、それをわが葛藤(かっとう)に表現して見せればよいのである。
 痛ければ痛いように、苦しければ苦しいように……。 悟りすます必要は、何もないのである。

 人の呼吸による生と死も、このようなものであり、死だからといって、その先に永遠の死があるわけはなく、再生し、生まれることへの「死」ではないのか。


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