トップページ >> 技法体系 >> 西郷派の小太刀術(一) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●武器の長短で優劣を計れず 試合競技剣道やスポーツチャンバラ、あるいは逮捕術を除き、実戦で優劣を発揮するのは、必ずしも武器の長さの優劣のみとは限らない。真の優劣を決するのは、まず、術者の日頃の研究熱心が優劣を極めているようだ。 では、研究心とは何処から発生するものか。 故事や諌言(かくげん)によれば、「人の一生は修行の連続である」というが、修行が一生を賭(か)けて、やり尽くし、極めんとするものであるならば、その拠(よ)り所は、何も一生に限ったことでなく、生命の限り、それを求め続けなければならないものであろう。つまり、人の修行とは、「永遠のもの」と言うことになる。一つの段階に辿り着いて、それで完成したと思い上がらない謙虚な心は必要である。 そして、人の修行について、古人は先哲の哲人としての、血の滲(にじ)むような研究に励み、あるいは稽古に明け暮れて、創意工夫を極めつくし、荊棘(けいきょく)を拓(ひら)いて、後世の私たちに「道」を示している。そこに修練の本当の意味がある。 時代が下れば、その「道」も、風雪や年代に加えて風化し、これらとともに、雑草に覆(おお)われて、道として定かでないところもあろう。しかし、後世の私たちが、雑草の下を注意深く観察し、あるいは真摯(しんし)にその道を踏み進めば、雑草に下には、必ず、かつての「先人の力強い足跡」を見出すことが出来るはずである。 さて、先哲・哲人の言に遵(したが)えば、そもそも剣術と言うものは、理論でなく、日々の実践的な態度に準(じゅん)じ、そこから生まれる創意工夫に懸(か)かっていることが分かる。更には、その中から生まれた「理(ことわり)」と、「行」の一致が、「武の道」の価値を高めていることが分かる。 古人の先哲たちは言う。 また「術の集積」は、単に武儀的な儀法のみならず、その正邪を弁(わきま)えて、「武の呼吸」を以て、大儀の兵法に応用し、あるいはこれを以て、真理の追究に充(あ)てれば、その極地は「菩提(ぼだい)」に至るとされている。 小太刀術で言う、「一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す」とは、まさに「万道一如」であり、総ての道は一体であるともいえる。つまり、この道においては、「行はれざるは道にあらざるなり」ということである。 得物の長短は、また形の長短でもあるが、同時にそれは「心の長短」であると言うことにもなる。しかし、心に長短の優劣はない。優劣のないものに、こことは形を加えないから、肉の眼で見る獲物の長短は、また無いことになる。長短に振り廻され、それにこだわり、捉われるのは、つまり心の形で長短を推(お)し量り、それに誑(たぶら)かされていると言うことになる。
●長短の理 剣の長さには、「長い」あるいは「短い」がある。 これは近代剣道が、竹刀の定寸(じょうすん)を「3尺8寸」(【註】115cmで、大学生は118cm、高校生は115cm、中学生は112cm以内と決めている)とし、競技を行う上で、この長さによる試合展開をしているからである。 塚原卜伝(つかはら‐ぼくでん)の故事を辿れば、次のように論じている。 ところが、「長さ」ゆえに、「伸び」という点を顧みたとき、長物は些(いささ)かこの点において、不自由な場合があるようだ。 山岡鉄舟の言わんとするところは、妙の域に達すれば、鉄扇であっても、その場に置いてある煙管(きせる)であっても構わないと言うことだ。
●「道」に対する真摯な心「道」に対する心構えは、何よりも「真摯な態度」が必要である。慎みある心、まじめな心、畏敬の念を感ずる心が必要であり、その象徴として、どこの道場にも天照皇大神(てんしょうこうだいじん)を中心に、左右に香取明神(経津主命/ふつやし‐の‐みこと)、鹿島明神(武甕槌命/たけかめづち‐の‐みこと)を配し、以上の武神に対し、祭祀(さいし)をするのを当然の行いとしている。 稽古の前にも神前に対して拝礼し、あるいは道場の出入りに際しても敬礼するのは、祭祀に対する畏敬を感じる素直な心の顕(あらわ)れであり、神の御前(みまえ)の厳粛(げんしゅく)な心の表れを顕している。 「道」に対する心構えは、まず、神仏を尊ぶことであり、これに対して畏敬の念を抱くことである。更には、神仏はご利益を願って神頼みする媒体ではなく、ただただ畏(おそ)れ入ることである。神仏は勝敗に勝ちを求める為のご利益祭神ではない。厳粛な心の現われを、わが身に照らし合わせ、真剣に礼譲(れいじょう)を感得する存在なのである。 要するに「道」を学ぶには、何よりも武士道を尊び、その念をもって、「念慮(ねんりょ)」を抱くことが大切なのである。この念慮を抱くことにより、敬虔(けいけん)な心が表れ、その心が真摯(しんし)な態度と言うことになる。 その鉄則の厳守として、概ね次の心掛けが必要であろう。
武人の心構えは、威厳の備わった人間像を養うことである。この為には、ばたつかない静粛(せいしゅく)と、慎みのある謹直さが求められるものである。こうした真摯で、一途(いちず)な気持ちが、修行者を上達させていく原動力となるのである。
●修行とは、外にあるものを追いかけるのではなく、内なる探求が修行の目的多くの武道愛好者は、修行の目的を外に向けて、それを学び取ろうとする。そして、外に極意などの奥儀が存在していると思い込んでいる。その為に、ひらすら「外のもの」を追いかける。 しかし、こうした、外に向けての追求は、「主観」と「客観」を分離させているのに過ぎない。これらを分離させれば、双方は二つに分かれてしまう。 武術修行に限らず、「道」を探求していく行為は、「主観」と「客観」を一致させることから始まる。この一致なしに、既に主観ならびに客観は、二つに分けたからといって、あるいは客観的に見たからといって、それが客観を顕しているという事にはならない。これでは客観的に見ているといっても、客観的なものの見方でなく、あるいは逆に、主観的な見方で物を見ても、それは主観になりえない。 それはもともと、主観と客観が同一の性質のもので、そこからは分離できない性質のものである。 矛盾の根源は、内なる自我(じが)から噴出(ふんしゅつ)している。則(すなわ)ち、「自我」とは矛盾の塊(かたまり)なのである。矛盾の塊であるから、人間の行動にも矛盾が顕(あらわ)れ、それが時として、顕在化する。 例えばこの顕在化を、「間合」について論じてみると、敵の一足一刀の間合が、一足踏み込めば、わが方に当たるのであるが、こちらが一足後退すれば、この敵の打ち込みは、わが方には届かない。一口に「一足一刀の間合」というが、この中には、その技術が矛盾するように、作用と反作用の関係で成り立っているのである。 また、敵が振り被って打ち込んできたとき、こちらが退いたのでは、これを避けることは出来ない。これも「一足一刀の間合」の矛盾を生み出す源泉であろう。では、この源泉は何処から派生するのか。
同一性を見出す条件は、こうした場合、「一足一刀の間合」で、後ろに下がるのではなく、左右何(いず)れかに転身するということで回避されるのである。あるいは反対に飛び込んで打って出ることにより、回避されるのである。ここに「主観と客観が一致した交点」を見出すことが出来、この交点こそ、まさに矛盾の最たるものとなる。つまり、両者や等しく拮抗を保ち、これが相矛盾した時に、何らかの、常識を超越した真理が横たわっていることが分かる。 間合は、「駆け引き」を含んだものも、そのうちに入るから、その交点の一致においては、単に、「一足一刀の間合」で打って出たものを、安易に、「後ろに下がる」という表現で顕すのでなく、そこには「前後左右の変化」によって繋(つな)がっていることが分かる。これは、常に有利な場所、有利な時間に持ち込んでいく方が、勝っていることは明確であろう。 自分の主観により、自分だけが適当な距離を保ち、有利な位置を占めているといっても、それを客観的に見詰め直せば、敵も常に活動するものであるから、主観だけではどうにもならず、また、それを客観的に見下しても、どうにもならないことである。ここには、主観と客観の双方が、同時に存在していなければ、則(すなわ)ち、敵に負けることになるのである。 主観と客観の同居は、そもそも自分自身の裡側(うちがわ)にあり、それは常に変化を起しているということである。わが方も、敵の駆け引きに順応して変化を続けなければならない。変化とは、矛盾が派生することにより、その矛盾を少しでも解消しようとして、働く心であり、矛盾を放置すれば負けるが、矛盾解消のために少しでも努力すれば、矛盾は消滅に向かって動き出す。
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