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誇りの裏付けとなる数々の技法
小太刀術に遣われる黒檀の在銘木刀。重さ:350g、全長:54cm。(クリックで拡大)
 
スヌケの小木刀。重さ:310g、全長:54cm(1尺8寸)。
 
白樫の小木刀。重さ:280g、全長:54cm(1尺8寸)
 

■ 小太刀術 ■
(こたちじゅつ)

太刀の「陰之構え」に対する小太刀術での間合取り。太刀の長さが小なりと雖(いえど)も、その尖先(きっさき)は相手の咽喉許(のどもと)から離れない。剣が短い故に、遠間からの足捌(あしさば)きや躰捌(たいさば)きは、よく飛び込めないと、その効力を発揮しないものであるが、幾ら間合が遠いからといって、出足の悪い状態では、敵の「制空圏」の中に飛び込んで行くことは出来ない。
 そこで、距離的にも、場所的にも、時間的にも、「一足一刀の間合」を以て、心の余裕から敵に迫る術を、「近間」に切り替えて、踏襲(とうしゅう)するのである。

●武器の長短で優劣を計れず

 試合競技剣道やスポーツチャンバラ、あるいは逮捕術を除き、実戦で優劣を発揮するのは、必ずしも武器の長さの優劣のみとは限らない。真の優劣を決するのは、まず、術者の日頃の研究熱心が優劣を極めているようだ。
 研究的な態度は、「武の道」を邁進(まいしん)する者にとって、非常に大切な事柄である。つまり、「本当の強さ」とは、研究心に回帰されるのである。流統や流脈、正統性や人脈が、どうのこうのではない。どの流統に属し、誰に学んだかは、あまり問題ではないのである。その学んだ後の、自分の努力と研究により、「何を会得したか」ということが問題になるのである。
 そして、「道を求める態度」が強ければ強いほど、術者の妙は益々冴(さ)え渡るのである。

 では、研究心とは何処から発生するものか。
 それは「道を求めて止まない心」であろう。求道(ぐどう)精神である。この求道精神が、人間に創意と工夫を齎(もたら)す。道を求めて研究熱心を旺盛にさせれば、「もうこれでいい」というところは、絶対にないはずである。自分の及び至らぬ箇所が、多々思い当たってくるはずである。この至らない箇所を、一つ一つ、日々の精進で克服していくことである。

 故事や諌言(かくげん)によれば、「人の一生は修行の連続である」というが、修行が一生を賭(か)けて、やり尽くし、極めんとするものであるならば、その拠(よ)り所は、何も一生に限ったことでなく、生命の限り、それを求め続けなければならないものであろう。つまり、人の修行とは、「永遠のもの」と言うことになる。一つの段階に辿り着いて、それで完成したと思い上がらない謙虚な心は必要である。

 そして、人の修行について、古人は先哲の哲人としての、血の滲(にじ)むような研究に励み、あるいは稽古に明け暮れて、創意工夫を極めつくし、荊棘(けいきょく)を拓(ひら)いて、後世の私たちに「道」を示している。そこに修練の本当の意味がある。

 時代が下れば、その「道」も、風雪や年代に加えて風化し、これらとともに、雑草に覆(おお)われて、道として定かでないところもあろう。しかし、後世の私たちが、雑草の下を注意深く観察し、あるいは真摯(しんし)にその道を踏み進めば、雑草に下には、必ず、かつての「先人の力強い足跡」を見出すことが出来るはずである。

 さて、先哲・哲人の言に遵(したが)えば、そもそも剣術と言うものは、理論でなく、日々の実践的な態度に準(じゅん)じ、そこから生まれる創意工夫に懸(か)かっていることが分かる。更には、その中から生まれた「理(ことわり)と、「行」の一致が、「武の道」の価値を高めていることが分かる。

 古人の先哲たちは言う。
 「武の極意は、単に力に非(あら)ず。また武器の長短の優劣に非ず」と。
 その極意は、単に道具の優劣や武器としての優劣の性能に関わらず、その拠るべき所は、「心胆錬磨である」と。
 この心胆錬磨こそ、小太刀術の修行にとっては、必要不可欠な条件となる。ここの「術の集積」がある。

 また「術の集積」は、単に武儀的な儀法のみならず、その正邪を弁(わきま)えて、「武の呼吸」を以て、大儀の兵法に応用し、あるいはこれを以て、真理の追究に充(あ)てれば、その極地は「菩提(ぼだい)」に至るとされている。
 「武の道」を探求することは、則(すなわ)ち、道の究極の目的である、「悟り」に至るものである。天地の理を探り、それを知ることにより、宇宙の真理に通達することである。

 小太刀術で言う、「一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す」とは、まさに「万道一如」であり、総ての道は一体であるともいえる。つまり、この道においては、「行はれざるは道にあらざるなり」ということである。
 したがって道を踏み行うことは、理屈よりも実践が大事と言うことで、故にこれを「修行」というのである。格より入って、格より出(い)ずる修行において、形から入って心に至り、遂(つい)に形を離れる心の表現は、つまり、それ自身が、元々は一体のものであり、また心は形を顕(あら)すものであるともいえるのである。

 得物の長短は、また形の長短でもあるが、同時にそれは「心の長短」であると言うことにもなる。しかし、心に長短の優劣はない。優劣のないものに、こことは形を加えないから、肉の眼で見る獲物の長短は、また無いことになる。長短に振り廻され、それにこだわり、捉われるのは、つまり心の形で長短を推(お)し量り、それに誑(たぶら)かされていると言うことになる。
 そしてこの幻想から目覚めれば、武器の長短は問題ではないと言うことが分かろう。

小太刀/正眼
小太刀/陽の送り八相

●長短の理

 剣の長さには、「長い」あるいは「短い」がある。
 間合において、長物は間合が遠くても有利であるとか、逆に脇差や鎧通(よろいとお)し、あるいは匕首(あいくち)などは、長物と対峙(たいじ)した場合、間合が狭まらないと使い物にならず、間合が遠い場合は不利であるという、一般的な解釈があるようだ。

 これは近代剣道が、竹刀の定寸(じょうすん)を「3尺8寸」【註】115cmで、大学生は118cm、高校生は115cm、中学生は112cm以内と決めている)とし、競技を行う上で、この長さによる試合展開をしているからである。
 しかし、近代における日本剣道が興る以前は、定まった長さというものは存在しなかった。これは明治中期の大日本武徳会発足とともに定寸が定められ、個人の体躯(たいく)の大小により、昨今では「3尺9寸」のものが一般的には普及して居るようである。

 塚原卜伝(つかはら‐ぼくでん)の故事を辿れば、次のように論じている。
 「業を鍛えるには長いのが適し、気を練るには短いものが適する」と。
 この故事によれば、全長が3尺8寸というのは、真剣の太刀に比べて長く、この長さはわざわざ捌きにくいものを捌くと言う鍛錬方法が含まれているようである。長い得物を自在に捌き、自由に使いこなすと言うのが定寸の長さの理といえる。

 ところが、「長さ」ゆえに、「伸び」という点を顧みたとき、長物は些(いささ)かこの点において、不自由な場合があるようだ。
 そこで無刀流では、小太刀などを用い、長物に対峙する。無刀流の祖・山岡鉄舟(やまおか‐てっしゅう)は「余の天性、智巧の力に乏しく、術より入ること難(かた)ければ、胆気を先にせんと欲す。是(これ)常に短ものを用ふる所以(ゆえん)なり」と論じている。

 山岡鉄舟の言わんとするところは、妙の域に達すれば、鉄扇であっても、その場に置いてある煙管(きせる)であっても構わないと言うことだ。
 つまり、「躰(からだ)」が、即「剣」であると言っているのである。これにより、躰そのものが剣を持たない剣であり、所謂「無刀」と言うことになる。無刀であれば、身に寸鉄を帯びずとも差し支えないと言うことになる。あるいは小太刀や鎧通しを用いて、これに伸縮を加え、自分の身体の伎倆(ぎりょう)を以て敵と対峙することが出来るといっている。

 

●「道」に対する真摯な心

 「道」に対する心構えは、何よりも「真摯な態度」が必要である。慎みある心、まじめな心、畏敬の念を感ずる心が必要であり、その象徴として、どこの道場にも天照皇大神(てんしょうこうだいじん)を中心に、左右に香取明神(経津主命/ふつやし‐の‐みこと、鹿島明神(武甕槌命/たけかめづち‐の‐みことを配し、以上の武神に対し、祭祀(さいし)をするのを当然の行いとしている。

 稽古の前にも神前に対して拝礼し、あるいは道場の出入りに際しても敬礼するのは、祭祀に対する畏敬を感じる素直な心の顕(あらわ)れであり、神の御前(みまえ)の厳粛(げんしゅく)な心の表れを顕している。
 つまり、神に愧(は)じない公明正大な精神を養う為である。あるいは公明正大をもって、神人合一(じんしんごういつ)に至る修行を重ねる、わが身を省みることである。

 「道」に対する心構えは、まず、神仏を尊ぶことであり、これに対して畏敬の念を抱くことである。更には、神仏はご利益を願って神頼みする媒体ではなく、ただただ畏(おそ)れ入ることである。神仏は勝敗に勝ちを求める為のご利益祭神ではない。厳粛な心の現われを、わが身に照らし合わせ、真剣に礼譲(れいじょう)を感得する存在なのである。

 要するに「道」を学ぶには、何よりも武士道を尊び、その念をもって、「念慮(ねんりょ)」を抱くことが大切なのである。この念慮を抱くことにより、敬虔(けいけん)な心が表れ、その心が真摯(しんし)な態度と言うことになる。

 その鉄則の厳守として、概ね次の心掛けが必要であろう。

道場の出入りについては、平身低頭ならびに敬礼が必要である。
品格を保つ為に服装を糺(ただ)し、見苦しからぬ起居(たちい)振る舞いをすべきである。
畏敬ならびに敬虔な念を保ち、姿勢と端正を保つべきである。
静粛(せいしゅく)かつ謹直し、高談戯笑は慎むべきである。
常に清掃し、清浄を保つべきである。
短気我儘を戒め、平常心を持ち続けるべきである。
酒気を帯びての稽古は勿論のこと、喫煙などをして稽古に臨むべきでない。
他を中傷したり、相互の技術を誹謗すべきでない。
言葉少なめに、言い過ぎず言い足りず、常に簡潔を旨とし、また師の短所をあげつらって陰で批判すべきでない。師の批判は、そのまま、「道」の否定に繋(つな)がり、如(し)いては自己の否定に繋(つな)がると心得るべし。

 武人の心構えは、威厳の備わった人間像を養うことである。この為には、ばたつかない静粛(せいしゅく)と、慎みのある謹直さが求められるものである。こうした真摯で、一途(いちず)な気持ちが、修行者を上達させていく原動力となるのである。
 小太刀術の稽古もこうした精神性の中にあり、そこに存在するものは、慎み深さから生ずる開悟の念である。

 

●修行とは、外にあるものを追いかけるのではなく、内なる探求が修行の目的

 多くの武道愛好者は、修行の目的を外に向けて、それを学び取ろうとする。そして、外に極意などの奥儀が存在していると思い込んでいる。その為に、ひらすら「外のもの」を追いかける。

 しかし、こうした、外に向けての追求は、「主観」と「客観」を分離させているのに過ぎない。これらを分離させれば、双方は二つに分かれてしまう。

 武術修行に限らず、「道」を探求していく行為は、「主観」と「客観」を一致させることから始まる。この一致なしに、既に主観ならびに客観は、二つに分けたからといって、あるいは客観的に見たからといって、それが客観を顕しているという事にはならない。これでは客観的に見ているといっても、客観的なものの見方でなく、あるいは逆に、主観的な見方で物を見ても、それは主観になりえない。

 それはもともと、主観と客観が同一の性質のもので、そこからは分離できない性質のものである。
 それを一つの円運動に例えるならば、円運動には、中心に吸引する力と、中心から遠ざかる遠心の力が働いている。双方は、物理的には相反する力であり、作用における反作用的なものであり、両者は互いに矛盾する力で拮抗(きっこう)を保っている。この「拮抗の保存」こそ、矛盾なるもので、現世は、至る所に「矛盾が働いている」という現実がある。
 そして、この矛盾こそ、主観と客観が一致している最たる現象の一つである。

 矛盾の根源は、内なる自我(じが)から噴出(ふんしゅつ)している。則(すなわ)ち、「自我」とは矛盾の塊(かたまり)なのである。矛盾の塊であるから、人間の行動にも矛盾が顕(あらわ)れ、それが時として、顕在化する。

 例えばこの顕在化を、「間合」について論じてみると、敵の一足一刀の間合が、一足踏み込めば、わが方に当たるのであるが、こちらが一足後退すれば、この敵の打ち込みは、わが方には届かない。一口に「一足一刀の間合」というが、この中には、その技術が矛盾するように、作用と反作用の関係で成り立っているのである。

 また、敵が振り被って打ち込んできたとき、こちらが退いたのでは、これを避けることは出来ない。これも「一足一刀の間合」の矛盾を生み出す源泉であろう。では、この源泉は何処から派生するのか。
 それは、主観と客観が分離して、分裂状態にあるから、同一性を見出すことが出来ないのである。

「一得一刀の間合」による、杖術と小太刀術の攻防の応酬。

 同一性を見出す条件は、こうした場合、「一足一刀の間合」で、後ろに下がるのではなく、左右何(いず)れかに転身するということで回避されるのである。あるいは反対に飛び込んで打って出ることにより、回避されるのである。ここに「主観と客観が一致した交点」を見出すことが出来、この交点こそ、まさに矛盾の最たるものとなる。つまり、両者や等しく拮抗を保ち、これが相矛盾した時に、何らかの、常識を超越した真理が横たわっていることが分かる。

 間合は、「駆け引き」を含んだものも、そのうちに入るから、その交点の一致においては、単に、「一足一刀の間合」で打って出たものを、安易に、「後ろに下がる」という表現で顕すのでなく、そこには「前後左右の変化」によって繋(つな)がっていることが分かる。これは、常に有利な場所、有利な時間に持ち込んでいく方が、勝っていることは明確であろう。

 自分の主観により、自分だけが適当な距離を保ち、有利な位置を占めているといっても、それを客観的に見詰め直せば、敵も常に活動するものであるから、主観だけではどうにもならず、また、それを客観的に見下しても、どうにもならないことである。ここには、主観と客観の双方が、同時に存在していなければ、則(すなわ)ち、敵に負けることになるのである。

 主観と客観の同居は、そもそも自分自身の裡側(うちがわ)にあり、それは常に変化を起しているということである。わが方も、敵の駆け引きに順応して変化を続けなければならない。変化とは、矛盾が派生することにより、その矛盾を少しでも解消しようとして、働く心であり、矛盾を放置すれば負けるが、矛盾解消のために少しでも努力すれば、矛盾は消滅に向かって動き出す。
 しかし、一旦解消したかに思えた矛盾も、そのまま放置すれば次の矛盾が生まれるのであって、変化するという現実に対し、敵の間合を知り、更には自分の間合を知り、いつも有利な地歩を占め、「彼を知り、吾(われ)を知る」ということが肝要なのである。


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