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●平和主義と徘徊する戦争感情論 日本人は戦後、平和主義の集団催眠もあって、戦争を放棄したと自負している。 日本の太平洋戦争敗北は、日本人に大きな爪痕(つめあと)を残した。多大な人命が失われた。心身ともに致命的な痛手を残した。これにより、日本人は徹底的に、身も心も叩きのめされた。 こうした日本人の思想改造は、現行の日本国憲法が示す通り、「戦争放棄」の元凶に始まり、一方、平和主義に、頑迷(がんめい)に固執する事だった。平和主義は戦後日本人に広く流布され、骨の髄まで浸透し、以来この幻想に惑わされる事になる。 日本人は、先の大戦の敗戦後、平和主義の幻想に酔わされ、欧米によって仕掛けられた集団催眠に操作され、「平和教育」の名の下(もと)に、何処までも日本人は操作され続けている。 『孟子・告子下』(【註】孟子の倫理説は性善説に根拠を置き、仁義礼智の徳を発揮するにありとしたのに対し、告子は人間の性(さが)は善とも悪ともいえないと主張し、孟子と人性(じんせい)について論争した。しかし、両人の戦争論は一致していた)には、「敵国もなく、外国と事を構えることもなければ、国民一般に警戒心が薄れ、油断を生じて、国が遂に滅亡する」とある。 日本人の戦後の「戦争観」は徹底否定され、ひたすら武器を遠ざける事であった。ひたすら武器を遠ざければ、戦争はなくなり、人々の間での争いはなくなるものと信じられてきた。しかし、その結果はどうだっただろうか。 もし現代人は、古代人以上の進化したと思うのなら、何故、昨今のように不穏な現象が起こり、毎日のように血腥(ちなまぐさ)い事件が起るのだろうか。現代の人類の進化こそ、まさに思い上がった幻想であろう。 個人間の争いが絶えないのに、世界から戦争が消えてなくなることはあり得ない。戦争は、現代人の心の間隙(かんげき)を窺(うかが)って存在しているのである。しかし一方で、根強い平和主義のイデオロギーが支配している現実がある。 犯罪者のいない世の中というのは、確かに人類の理想であろう。しかし、警察がなくなれば犯罪もなくなるという考えは、極めて短見であろう。絶対にそんなことはあり得ない。世界の人口は、益々殖え続けているのである。人口が殖えると言う事は、それだけ世の中が複雑になり、人間関係も縺(もつ)れ合いが起こるということを暗示しているのである。一旦縺れた糸を元に戻すことは、容易でなかろう。 また、世界から軍隊をなくせば、それで平和が訪れるというのも、まさに幻想である。 こうした考え方が、外国に付け込まれる現状を招き、日本の国内に、北朝鮮から容易に侵入される実情をつくり、日本人拉致事件まで発生したではなかったか。つまり、平和主義の根元には、見方を変えれば「人命軽視」が横たわっているではなかったか。 また、国内では、「戦争の放棄」イコール「武器の放棄」という考え方が、左派陣営の日教組などから起り、武器を教えない現実は、その後、残酷な殺人事件へとエスカレートしていったではないか。 武器の放棄は、実は「無防備」の何ものでもなく、この無防備が、種々の凶悪事件を誘発させるのである。 一人暮らしの老人は、犯罪者の心理からすれば、容易に襲えるターゲットであろう。老後に蓄えた、そこそこの小金もあり、肉体的にも衰弱化した、老人を襲う方が手間も懸(かか)らず容易である。ここに弱い者を襲う「間引きの原理」が、弱者に向けて働いているのだ。昨今の凶悪事件は、これを象徴しているではないか。 これは大災害と遭遇した時の事を考えれば、容易に想像がつくであろう。 自然界を見回してみても、肉食獣的が草食獣を襲う時、一番、躰(からだ)の元気な者を狙うより、歳をとり、弱りかけた者が狙われ、生贄(いけにえ)になっていく。あるいは生後間もない、心身ともに未熟な子供が狙われるだろう。更には、注意力の足りない、性格的にも無防備なものが狙われる。適者生存の為の、一種の「間引き現象」が起こっている。 だが人間の場合は、世の中の原理に、弱肉強食の論理が働いているからと言って、無差別に弱者が殺されていいという考え方は許されないだろう。 また、「間引きの原理」が先行すれば、世の中を混沌(こんとん)とさせるばかりでなく、不穏な現実をつくり上げる要因ともなり、秩序は破壊され、人間が生きながらにして地獄の苦しみを味わう事になる。至る所で人命軽視の発想が罷(まか)り通り、人は、まるで家畜のように殺されていく。 平成19年2月に起った、東京での80歳代の母親と、60歳代の息子が無慙(むざん)に刺し殺され、キャッシュカードなどが奪われた事件は、犯人側の大学生の青年の残酷な手口もさることながら、殺された母子も、寝込み襲われたとは言え、無防備の儘(まま)、防禦創(ぼうぎょそう)を殆ど残さないまま刺し殺されていると言う事件だった。これは防禦の何んたるかも知らず、余りにも無抵抗状態で殺された悲惨な出来事ではなかったか。 この事件に見る特徴は、まず昭和ヒトケタと思われる母親と、終戦直後生まれの息子が殺されたということだ。昭和ヒトケタといえば、先の大戦当時、小学生で、国民学校時代を経験した母親と、その母親から育てられ、躾(しつけ)され教育された母子という構図となる。 憲法第九条は言うまでもなく、戦争放棄が掲げられている。この戦争放棄というのは、「戦力を持たず、交戦権も認めない。その上で武器の行使も認めないとする」ものである。 しかし、こうした現実を歴史から学ぶと、「丸腰の民衆」が、侵略軍に対抗したり凶行犯人と対決することは、最も悲惨な惨状を招く。歴史に、こうした状況下を探せば、朝鮮の3.1独立運動(万歳事件ともいい、京城(現在のソウル)で起った朝鮮民族の反日運動)を挙げる事が出来る。この時、行われたのは、虐殺、拷問、処刑であった。この事件がどんなに悲惨な結末を迎えたか、進歩的な歴史家ならよく知っていよう。 つまり、昭和ヒトケタと、その子供として生まれた戦後の平和主義の中で育った年代の人々の平和感覚は、侵略者の言いなりになれという感覚なのである。憲法第九条を頑迷に守り続け、抵抗もせず、賊の言いなりになれということなのだ。これは結果的に、国民の生きる権利を否定し、自由を阻止するというものに他ならなかった。 普通、犯罪に巻き込まれ、生死を争う傷害事件に遭遇すれば、生存本能として働きが起り、武術や格闘技の経験がない人でも、自らを護ろうとして、刃物で切りつけられても、刺されても、これに抗(あらが)って抵抗した跡の、「防禦創」が必ず残る。 多くの日本人は、平和な時には、武器の消費は殆ど無いだろと言う、素人考えで、「今と言う現実」を安易に見逃して生活している。ところが、この考えは大間違いである。 戦車や航空機や艦船などの燃料や、その防備ならびに銃弾・砲弾やミサイルなどは、総(すべ)て消耗品であり、また、兵士の命も一種の消耗品と看做(みな)されている。これらを大量に消費させながら、軍隊はその目的を達成していくが、その背景には、国家の政治目的が控えている事は疑う余地もない。また、自国の国益を図る思想も折り込まれていよう。 軍事アピールこそ、国家間で行う牽制の意味を持つが、この根底に流れるものは「百年兵を練る」という思想である。 事実、「外患罪」なるものがある。 いま日本人に欠如している考え方は、孟子の指摘通り、「百年兵を練る」欠如ではあるまいか。余りにも無防備な態(さま)が、兇行(きょうこう)に及ぶ犯人側をつけあがらせているのではあるまいか。この現実下に、凶悪事件が派生している事も、また事実であろう。 そして、武器の研究と、その防禦についての訓練を怠って来た事は、襲われた側にも非があるのではあるまいか。 私たち日本人は、先の大戦の敗戦の結果、あまりにも戦争を毛嫌いするあまり、武器を遠くに退けてきた。そうする事が平和と直結されると信じて来た。しかし、日本人が武器を退け、遠避けたとしても、世界の武器や犯行の手口は、日進月歩の歩みで、確実に進歩している事を考えなければならない。 実際に、凶悪事件に遭遇した場合、従来の護身術では全く歯が立たないという事である。凶器を持った人間と、素手で立ち向かい、無傷で危険を回避するなどは、極めて困難であると言えるからだ。 一般に有事といえば、国家的な規模を想像し、戦争や事変など、非常の事態が起ること考えているようだが、実はこの有事は、少数の犯罪者が家庭内に入り込んで来る有事もあるのだ。 また、「オレオレ詐欺」は言うに及ばず、NTTを語る電話勧誘(NTTの販売代理店や悪質な電話業者がNTTと称し、高額なビジネスフォンなどを売り付けて来る押売行為ならびに契約詐欺)や、主婦相手の化粧品のアポイントの押売の類(たぐい)もそうであろう。あるいはインターネット上の勧誘や、メールでの援助交際などである。ネットオークションにも、犯罪者の戦利品が広く売られているのは周知の通りである。 現代こそ、金・物・色にほだされる時代であるから、欲が犯罪に絡み、当然こうした事件の絡んだものも浮上して来る。弱者の隙(すき)を窺(うかが)う手法が大流行している時代といえる。 人間の世は時代が下がるごとに、拡散・膨張を続ける「欲の世の中」になるから、世の中は高速化する現象に併せて、犯罪度合いも多発するようになり、加速化現象を起しているのである。
●殺された側にも責任があるとする「自己責任」 わが西郷派大東流では、孟子の「敵国外患(がいかん)無き者は国恒(つね)に亡ぶ」という一節に、強く注目したい。 賊に襲われ、無抵抗で、丸裸で、何もかも奪われた上に、凌辱(りょうじょく)されて、殺されるのであれば、何の為にこの世に生まれて来たのか、それすらも無意味になってしまう。必ずしも、人は殺される為に生まれて来ているのではない筈だ。殺されることを経験する為に、生まれてきているのではない筈だ。これに如何なる因縁が絡んでいようとも……。 武器が進歩すると言う事は、それだけ、それを熟(こな)す格闘術操法も進歩し、その背景には、軍隊が、いつ有事が起るか分からないという論理に基づいて訓練しているように、殺しのテクニックも、日々新たなものが考え出され、犯罪性も巧妙になり、進歩し続けていると言う事なのである。 軍需産業の使用期間の保証は、5〜10年であると言う。10年に一回は、少なくとも消費させる必要があると言う。その証拠に約5〜10年周期で、世界の何処かで戦争が起っている事は周知の通りである。
以上を見れば、武器に賞味期限があり、その賞味期限に合わせたかのように、世界の何処かで戦争が起っている。これは今日の日本でも例外ではないだろう。 日本国内に起る昨今の凶悪事件は、殆ど十年前、二十年前には考えられないような凶悪犯罪ばかりである。人命軽視も甚だしい。また、防衛的な思想が欠如しているから、戦うにも、戦う術(すべ)を知らず、無慙(むざん)にも殺されてしまうようである。襲う方も虫螻(むしけら)同様に人間を見下し、人命軽視で襲ってきて、殺される方も、普段から人命軽視の考えに汚染されていて、恐怖だけが先行して、殺されていくという、殺される「自分の非」を何も反省しないまま殺されるのが実情のようだ。 人命軽視は、一方だけにあるのではなく、双方の思考に同居していたのである。したがって、今風の言葉で評するならば、殺された側にも自己責任は免れないだろう。努々(ゆめゆめ)自分と犯罪は無関係などと思わない事だ。 また一方で、暴力団新法施行によって、世の中は平定され、組織的な過激犯罪は成りを潜(ひそ)めたように映る。しかし、これは暴力団の活動が企業化した為であり、組織同士の抗争が沈静化に向かったのではない。水面下には激しい抗争があり、それに加えて、他国の暴力組織や犯罪組織が日本の国内に潜入しているのである。一般素人の眼には、こうした恐るべき現実が眼に映らないだけである。これも戦後の、平和教育の元凶が裏目に出ている現象であると云えよう。 日本と言う国を考えた場合、不穏を顕(あら)わす凶事は、いつも外からやって来る。ソ連崩壊により、かつてこの国で製造されていた軍用トカレフは、中国製のコピーも伴って、日本に大量に流入してきた。そして、その後も蔓延(まんえん)の一途にある。この銃は、中高生の少年までが所持していると言う。 日本は歴史の、どの時代を検(み)ても、外圧に屈しなければならなかった。ペリーの黒船砲艦外交以来、日本は外圧に屈する歴史を辿(たど)った。明治維新を経て、日清・日露の戦争を経験し、日本の大陸進出は、ABCD包囲網の圧力を受けて、太平洋戦争へと突入していった。太平洋戦争敗戦後は、マッカーサー占領下において、戦後改革が押し進められ、そこでも外圧の影響を受けた。 この歴史を辿ると、日本は常に外圧を受けた歴史であり、いつの時代も外圧が存在した事が分かる。それは人間の世界が「生きている」からであり、変化が起こることが、現象人間界では当然の成り行きであろうと思われる。そしてこうした現実を見ると、日本が外圧に対し、これを巧妙に躱(かわ)し、抗しうる適応力を持っているか否かで、その後の運命が決まるように思われる。 しかし、日本人は情緒に流れ易い人種であり、心情論に囚(とら)われ易い国民気質をもっている。圧力に抵抗しきれなければ、外圧の思惑を易々と許してしまうだろう。だからこそ、常に命に関わる最悪の状態を想定して、考えておくべきであろう。 それには論理的、心理的、物理的、伎倆(ぎりょう)的、心的準備が必要であり、最悪のコースを辿ったとしても、これに抵抗し得る術が必要な事は言うまでもない。 では、心構えとしての自らの在(あ)り方は、どうした態度が必要か。 日本人は戦後教育の中で、半世紀を越える長きに亘(わた)り、平和教育と称して「憲法第九条の戦争放棄」という非常識を、徹底培養されてきた。また、日米安保条約下で、甘えに乗じてきた。 こういう「憲法を守れ」というのであるから、実際には敵国の軍隊の侵略があって銃を向けられたら、「即座に、抵抗せず、敵の奴隷になれ」ということだ。 この「放棄」は、賊から「金を出せ」と脅されれば、素直に金を出すことであり、「命をよこせ」と言われたら素直に命を与えることなのだ。
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