トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流合気槍術(一) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この「受け留め」が出来る剣士は、その次の剣儀として、槍を太刀に絡ませて巻き上げようとするものである。 更に剣術者の心理を次なる形で読み解いていくと、剣術者は次なる変化として、槍術者の「天地の構え」に対し、剣を八相に構えたり、送り八相、あるいは影に構えることが多くなる。この場合、剣術者は槍の穂先を右前半身で見ており、一方槍術者は左前半身であり、「払落し」が可能でありながら、同時に槍には、退きの早さがある為、踏み込みの手前でどうしても躊躇(ちゅうちょ)する心理が働く。
槍の利点は、敵より遠く居ながら、遠間を有利に生かして敵を攻撃することである。したがって、攻撃に早い遅いは生じない。 槍は、右利き、左利きの得意手があるので、先手の「管」を左にするか右にするかは、個人差によるが、「管」の方を半捻りし、次に後手(突き出す手)を更に半捻りするのである。捻ることにより、威力が増すだけではなく、螺旋上の動きをするから、敵を突き刺す命中率を高めるのである。 合気槍術における極意は、わが流では「相抜け」に重きを置いている。敵は早く仕掛けてきながら、それを充分に観察し、敵の足運びやリズムを即座に読んで、これに対し腰溜めし、管を捻り、更に突き手を半捻りして突き出すのである。
槍は「中墨(ちゅうぼく)」をとりながら繰り出すべし、とある。つまり、中心の一点に心を定め、この箇所のみを相手にするのである。中墨をとる為には、管に当たる手で、敵の槍や刀を二重三重に叩いて叩き落し、あるいは巻き込んで跳ね飛ばすのである。 武器には、それぞれに長所を持っている。武器に長所がある以上、それを活かして遣(つか)うことが肝心である。 脇差を用いての小太刀術では、狭い場所や敵の躰と接近した場合に役立つ武器であり、一方、刀の種類でも、太刀は、どんな場合にも、だいたい使用できる特徴を持っている。その為に剣術を支持した武士は多く、これが武門では広く一般的であった。武門で刀が神聖化され、刀が単に物質的な刃物でないことは明白であった。 槍術を考えた場合も、刀術の延長上にあるものと考えられる。その典型的なものが、薙刀術である。薙刀は太刀よりも長く、便利であり、これに似たものが長巻や斬馬刀である。 しかし、槍にしろ薙刀にしろ、狭い部屋では利が少なくなる。そこで槍術の新たな発想として考えられたのが、手槍や籠槍である。柄が短く、それでいて槍の特長を活かせるのである。どの武器を用いるにしろ、野外戦場ばかりを想定するのでなく、狭い室内での格闘戦の技術も身に付けておかねばならない。また、武芸に用いる武器は、これでなければ駄目だとか、これだけ身に付けておけば大丈夫というものはない。武器は偏愛しないことである。また、選(よ)り好みも無用である。 現代は、終戦直後の平和主義や、かつての武術をスポーツ武道に置き換えた種目別競技が大衆の眼を撹乱している。これらの内容を考えると、種目別に競うものが存在し、その中で闘技を争うものになっている。 しかし、民主教育も、平和教育も、日本人を軟弱にし、ひたすら死から逃げ回る日本人像を出現させてしまった。かつて米国政府の元大統領補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーが、日本人と日本の文化を題して、その著書『ひよわな花・日本』は、死を逃げ回る日本人の無態(ぶざま)な姿を徹底的にこき下ろし、揶揄(やゆ)したものであった。死に力がなく、命を賭けない民族は、民主主義の本場である欧米人からも馬鹿にされるのである。 現代、日本の代表的な武道は、その多くが日本伝統の形式を表面上はとりながらも、その内実はアメリカナイズされたものばかりである。柔道をはじめ、剣道、空手、合気道、なぎなた、拳法、少林寺拳法など、その多くは「日本伝」としながらも、背景のスタイルはアメリカナイズされたものばかりである。そして、アメリカナイズされたものは、多くの愛好者を経て、「スポーツ」として発展してきたのである。 さて、槍術においても戦前までは武の道の嗜(たしな)みとして、心ある武芸者により広く行われていた。ところが、日本が太平洋戦争に敗北し、軍国主義高揚に武芸や武術が使われたことを理由に、連合軍およびG・H・Q(連合軍総司令部)の達しにより、武術・武道の全面禁止の措置がとられ、これを機に壊滅的な打撃を受けた。 その後、これまでの武芸や武術は、「スポーツ武道」として復活するが、それは奇(く)しくも、種目別に整理された、精神の伴わない、「楽しむスポーツ」であった。勝つことだけが主体となり、その種目別競技において勝者になり、その種目で頂点に立てば、誰でも英雄視される現実が出現した。民主主義は、古来より崇(あが)められた神に変わり、人間がその頂点に立って崇められる社会システムである。スポーツタレントが英雄視されるのも、この為である。 しかし、それはスポーツ武道という闘技の中で、「これに限る」という武道愛好者の「偏愛」を作り出しただけだった。選(よ)り好みをし、強弱論や優越論を優先させて、それに偏(かたよ)る現実を作り出しただけだった。礼儀正しさや作法に適う起居振る舞いより、ただ強ければいいという、それだけで武道愛好者や格闘技愛好者の人気を攫(さら)ったのである。 これは古来より厳粛視されてきた、「武器の長所を活かして遣え」という理(ことわり)を度外視するものであった。そしてこうした理が軽視されるようになると、「武芸者たるもの」あるいは「武術家たるもの」の心構えまでもが軽視され、精神の伴わない、試合に勝つだけの「欲望の世界」に引き摺(ず)り込んでしまったのである。そこで、叩けよい、打てばよい、投げればよい、突けばよい、蹴ればよいというような、試合偏重へと偏(かたよ)っていくのである。しかし、その偏重には、精神が殆ど伴わず、肉体欲ばかりが旺盛になっていくのである。 更に精神の欠如から、物質的なものに趨(はし)り、精神に付随する「礼儀」や「作法」の面を完全に欠落させてしまったのである。 例えば、座敷に坐っているときでも、上を見、左右を見て、上から突然何かが落ちてこないかと警戒し、戸や障子や襖(ふすま)の付近に坐る場合は、それが倒れてきたり、そこから槍や刀が突き出てこないかと警戒する。また、壁の向こうから足音がすれば、敵の潜入や、壁越しに槍や矢や銃弾が突き抜けてこないかなどを念頭に置き、いつでも応戦できる体勢を作ることが、「武門の心構え」と教えたものである。 如何なる場所に居ても、あるいは歩行途中、走行途中であっても油断なく、機に備え、この心構えを失わなければ、不慮の際に咄嗟(とっさ)の行動として、身を護れると戒めたものである。 さて、合気槍術では油断のない心構えを教えると倶(とも)に、「油断あれば素人にも敗れる」という言を教訓として遺(のこ)している。
幾ら「なになに名人」でも、油断あれば簡単に素人には敗北するものである。それは、思いもしない「虚」を疲れるからだ。更に忘れてはならないのは、「素人は手が早い」ということだ。
●目利き 槍を検(み)には、目利きにならなければならない。目利きこそ槍術を、上手く致す秘訣なのである。また、目利きが上手いということは、人それぞれの長所や短所を発見することが上手いということにもなる。つまり、「優れた観察眼を持っている」ということになる。 得物もこれと同じである。得物を検(み)る眼、つまり活かすことが長けた人間は、兵法者の眼を持ち、目利きであるといってよかろう。これは人に対する目利きばかりでなく、得物においても同じである。短刀、脇差、中太刀、大太刀、薙刀、長巻、槍などに対する武器に至っても、目利きで、通じていなければならない。 大分の兵法では、人に対する能力を判定する目利きが大事であるが、一分の兵法で、その闘技において、相手の強弱、理(ことわり)の熟知度、速遅の能力、年齢や性別などを目利きし、持っている武器の得失を目利きする必要があろう。 戦いは、何も板張りの上とか、畳の上とか、リンクの中とは限らない。戦場が平面で平坦であることは稀(まれ)である。したがって、二次元平面や平坦しか知らない者は、その勝手違いから不覚を取ることがあるのである。勝手違いを悟らなければならないのである。
●半身転身之足わが流では、「半身転身之足」ということを、よく言う。つまり、人間は半身に構えてしまうと、片方の足だけしか動かさない行動をとってしまうのである。足には、陰陽の運びがある。左右の両足が動いてこそ、人は歩行が可能になる。しかし、半身に構えてそればかりに意識がいくと、足運びは陰陽が自在に繰り出せなくなり、片足止まりの、片足しか動かせない状態になってしまう。 つまり、片足だけしか動かさないのは、もう一方の足が動いていないということである。それでは躰が、偏頗(へんぱ)になり、得物を持つ腕も動きが偏ってしまうのである。得物を持つ腕や手は、足が自在に動いてこそ、戦えるのであって、足が止まれば、得物は動かせなくなる。 足遣いには、「足の陰陽」というものがあって、これは交互に繰り出したり、あるいは退いたりするものである。敵に向かって進むときも、退くときも、左右に移動するときも、あるいは方向を変え、躰を回転させる転身のときも、躰を躱(かわ)すときも、右左、右左と前後左右自在に動くのがよい。これは自分の躰を崩さない為である。特に槍を握っている場合は、得物が長い為に、足運びが片足しか動かないようでは、直ぐにバランスを崩してしまう。 片足だけで敵の間合に強く踏み入れると、躰が伸びてしまう。この伸びは、同時に隙を作ることになる。また、片足だけで退こうとすれば、体勢が狂う。体勢が狂えば、そこを狙われて斬り込まれるのである。 片足だけを動かさずに、足は、陰陽の理を知り、交互に動かすことは、則(すなわ)ち、遺憾なく全身の能力を発揮することである。 自在な足運びを、「大用」という。大用とは、則ち、全身の能力をフルに発揮させて、槍術者であるならば、槍ともどもに一つの「球(たま)」になることを指すのである。そして、これらの動きを球として活用し、可能にする為には、平素の精進を怠らず、心身の鍛錬とともに日夜の努力が必要である。 わが身を「変応自在なる球」に出来ないようでは、多くの才能を持った天才でも、その全能力が発揮できない為に、鈍才にしてやられかねないのである。小手先の技では、侮(あなど)りとなってしまうのである。相手が無名だからといって、侮ってはなるまい。 敵に対峙したならば、一気に円の中心を突いて、その中心を貫かなければならない。中心を一気に突き刺すのは、足の自在による。円の中心を見抜いていて、迷ってはならない。迷いは、身構えるから起るのである。 構えて、敵との間合を計ったり、退(ひ)こうか、進もうか、繰り出そうかと迷ってはならない。進退窮まるからである。 また、わが流の槍術では、敵を右とに討ち取っても、槍を引き揚げることはしないのである。敵を制したからといって、その引き揚げた途端に、最後の渾身(こんしん)の力で逆襲されることもある。安易な引き揚げは隙(すき)を作るからだ。敵の様子も見ずに勝ち名乗りを上げることなど、以ての外である。 しかし、一分の演武形式の古武道には、こうした愚をやらかしている愛好者が少なくないようだ。 実際に巻き藁(わら)をついて、その威力を確認する実戦槍術と、単に舞台の上で演技をして、その演技内容が美しいかどうか評価する演武形式の武術とでは、土台その根底にある戦闘思想が違っているのである。 巻き藁をつく、実戦槍術では、その進退にしても、演武形式の武道と比べると、両膝を折り、四股立ちの股割の進退は、見ていてそんなにカッコいいものではない。一方膝を殆ど伸ばしきったまま、進退する演武形式の武道は、演技である為、それだけで観客受けするであろう。
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||