インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 技法体系 >> 女子護身術 >>
 
素手で敵を制することを目的とした剣の裏技
武技は、心で理解するものである。頭の中だけでの「暗記」では、イザというとき、役に立たない。
 心の理解を土台にして、「心法」を学び、心を度する修行の中で、それに重ねていくのが武術の「術」である。
 この「術」を学んだとき、その人の修行は実を結ぶ。
 
小手返し/四方投げ

■ 女子護身術
(じょしごしんじゅつ)

●護身術とは何か

 強盗、誘拐、リンチ、ストーカー、無差別殺人……。
 かつて平和大国とまで謳(うた)われたこの日本において、現在では、毎日のように凄惨で、陰険なニュースが世間を賑(にぎあ)わせています。また、これなのニュースに、「もしかしたら」という不穏な心が何処かで燻り始めているかも知れません。
 それだけ日本は、かつての安全と秩序を失いつつあるのです。

 残忍で、兇暴、無慈悲で残虐。こうした事件の多くは、人間性の欠片(かけら)も見当たりません。一体これらの事件は、なぜ起るのでしょうか。
 その中でも、単に恋愛感情や劣情のもつれ、金銭トラブルや信仰・宗教の違い、家柄や貧富の格差など、人間関係の不和が導き出した犯罪ではなく、計画性のない衝動的な犯罪が目立っているということは、是非とも認識しておく必要があります。現代社会では、人間が「理由もなく殺される社会」の側面が、現実に存在しているのです。

 なぜならこれは、「自分の行動に関係なく、誰にでも危険に巻き込まれる可能性がある」ことを意味するからです。
 例えあなたが、優れた人格の持ち主で 知性に溢れ、教養もあり、誰にでも優しい、真心を修得した、人から恨みを買うことなど有り得ない善良な人だったとしても、危険に巻き込まれないという保証はどこにも無いのです。

 自明ではありますが、そのような犯罪に巻き込まれやすいのは、他ならぬ「女性」です。引ったくり、誘拐、レイプなどの性的暴行などを目的とする犯人は、まず例外なく女性を狙います。
 金品を失うだけならまだしも、場合によっては、命を奪われることにもなりかねません。
 昨今のレイプ犯罪の多くは、「顔を見られた」という理由だけで、犯行者は意図も簡単に人を殺してしまいます。

 そんな大袈裟な、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、それならば、痴漢ストーカーならばどうでしょうか?
 今や、その手の犯罪は日常茶飯事です。
 強引に手を握られ、後方から組み付かれ、車の中に引きずり込まれそうになった時の対処法を知っておくことは、果たして無駄なことでしょうか?

 本来、女性は男性よりも力が弱く、受動的な生理機能を有しているため、格闘行為には不向きです。
 例え女性に何らかの武道経験があったとしても、本気を出した男の腕力の前では無力に等しく、適切な対処法を知らなければ、されるがまま恐怖に喘(あえ)ぎ続けることになります。
 欲望を制御しきれず獣と化した男の力は想像以上に甚大で、凶悪なのです。

 「切り札」としての護身術を知ることは、自信を得ることにも繋(つな)がります。自信は行動を呼び起こし、危機を乗り越える為の原動力となります。
 何も知らなければ、恐怖で体が硬直し、助けを呼ぼうにも声が出ないというのが現実です。また、日本は一応、法治国家を標榜(ひょうぼう)していますが、今日の警察機構があまり頼りにならないのは周知の通りです。警察署内にも、市民からの相談窓口は増えていますが、ストーカーなどを解決したという話は、そう多くありません。やはり、弱い女性がカモにされ、泣き寝入りしているというのが実情です。

 西郷派大東流は、そのことを踏まえた上で、「女子護身術」というものを、単純な「型通り」の技法としてではなく、心理的要素を含めた広義的な術として捉えています。

 そして、間違わないで欲しいのですが、兇悪犯人に対し、西郷派の技を学び、この技で凶悪犯人を撃退する技術を身に付けるということではありません。「生兵法(なまびょうほう)は怪我の元」です。このことを絶対に忘れえてはなりません。

 合気道の技や、空手の技で、兇悪犯人を撃退することは出来ません。これは、かつて銀行強盗の立て籠(こ)もり事件をやらかした兇悪犯人が、銀行員の女性達を次々に強姦して廻ったことが明白となっています。この強姦された女性の中には、合気道の有段者が居りましたが、ライフル銃を向けられ、やはり強姦されて、筆舌に尽くしがたい凌辱を受け、危うく命を落とすところまで追い詰められました。

 また、空手の有段者の女子高生が、強盗に遭い、空手の技で対抗しましたが、逆に反撃を喰らい、その上、強姦され、無慙(むざん)な屈辱を受けました。この事からも分かるように、喩(たと)え武道の心得があったも、女の力では、兇悪な粗暴者には全く歯が立たないというのが実情です。これは西郷派大東流や、他の大東流ならびに合気道とて、例外ではありません。護身術レベルでは、刃物を巧妙に使う兇悪犯には全く歯が立たないのです。

 

●武術と護身術を混同してはならない

 凶悪犯の兇暴な暴力を、素手で戦うなど、逆に「狂気の沙汰」といえましょう。こうした場合、自分の覚えた技で対抗しようなどと思わず、こうした危険に遭遇しないように普段からの心構えが大事になります。

 昨今の凶悪犯人の多くは、自己流で練習を重ね、「刃物を非常に使い慣れている」ということです。これは素手で闘う競技武道は非常に不得手(ふえて)です。ゆめゆめ、合気道をしているから、空手をしているから、柔道をしているから、剣道をしているからなどと、緊急事態に対する危機を安易に考えないことです。そうしたものは、実戦では全く役に立ちません。

 また、警察署などで教える「護身術」などと称した、女性を対象にした護身術も、実際の場合は殆ど役に立ちません。絶対に過大評価しないことです。
 こうした「護身術」と称したものが、辛うじて役に立つのは、襲う側が犯罪者の凶暴性を持たず、気弱な男に対してのみ、あるいは有効かも知れませんが、犯罪経験のある常習者は、普通、女性の力と知恵では、全く功を奏しません。撃退して、イザというときの回避の方法として、こうした「護身術」と称するものを、絶対に使わないことです。

 護身術とは、そもそも武術の数ある儀法のうちから、「とっさの場合に逃れる方法だけを選び出した即席の俄(にわか)技法」であり、修得までに長い年月を必要としないものです。あくまで暴漢に襲われた時機に、一時的な「護り」を目的とするものであり、警察のパトカーか助けが来るまでといった程度のものであるということを忘れないで下さい。

 護身術の一手や二手、覚えたからといって、先ほど述べた心構えを忘れて、好んで危険に身を曝すのは、堅く慎むべきことです。危険なところに近付かないということが第一であり、万一の場合、逃げられるチャンスがあれば、護身術などで応戦せずに、まず逃げるということです。これが第二の心得であり、しかし、それでも逃げ場がなく、暴漢に襲われたのであれば、覚悟を決め、敢然と立ち向かわなければなりません。弱気に陥ることは禁物です。最悪の場合の覚悟だけはしなければならず、毅然とした心構えが必要となります。後がないときは、毅然とした心構えが、ただ一つの頼りです。

 しかし、未熟のままでは「生兵法は、却(かえ)って、大怪我の元」なのです。「大怪我の元」ならば、まだいい方ですが、昨今は命をとられる場合が多いようです。したがって、むしろ、こうした場面に遭遇しない、もっと根本的な「あなた自身の普段の行い」から、改め直さなければなりません。 つまり、「心に隙(すき)を作らない」ということです。

 「心に隙を作らない」という、人間に備わった心的危機意識は、本質的に法律や行動規範とは別次元のものです。それだけに、本人の自前の見識と感覚に委(ゆだ)ねる部分が多くあります。

 犯罪者が、悪巧(わるだく)みによってアクションを起す場合は、一旦行動に移ると、有無を言わせない頭ごなしの暴力ですから、むしろ単独犯であるより、二人や三人と、複数で行動を起し、また、車が使われるというのが、昨今の凶悪犯罪の特徴です。

 こうした犯罪の場に巻き込まれる確率は誰でもあり、決して無縁であるとはいえません。しかし、やはり遭遇する人と、そうでない人がいます。これは何故でしょうか。

 これはやはり普段からの心構えと、心に隙を作らない心的危機意識が、両者を大きく隔てているように思えます。それだけに、その人の人間的な主体性と見識が要求され、また、自主性が要求されます。したがって、こうした場合の自主独立の気概の乏しい人にとっては、イザというときに為(な)す術(すべ)を知らず、遂に無慙(むざん)に犯罪に巻き込まれ、その餌食(えじき)になってしまうのです。

 こうした心的実践は、個人的な人間として、修養し、修練して、常に心を練り上げ、隙を作らない見識と認識が必要なのです。したがって、こうした見識や認識に対する善後策として、「わたしは空手をしているから……、合気道をしているから……、柔道をしているから……、剣道をしているから」などの武技的な優位性をひけらかすことなく、もっと謙虚に、慎重に、「わが身を護る」という根本を、真摯に考え直さなければならないのです。

 西郷派は、技術的な武器で格闘するより、心のあり方の「心法」として、こうした窮地から逃れる「根本的な方法」を伝授しているのです。
 西郷派の教えんとする「心法」は、武技としての兵士養成法ではなく、「心法」についての運用法です。

 人間は誰一人例外なく、社会的な生き物です。どういう形にせよ、人は絶えず他人と接触しています。その他人との接点において、意識すると否とにかかわらず、必然的に付き纏(まと)うのが、則ち、「心構え」という心の持ち方です。
 わが西郷派は、これを「礼」と称しています。極言するならば、人を活かすか殺すかは、「礼」によって決定されるといっても過言ではありません。その人に、どれだけ心に余裕があるかないかで、その緊急時の状況判断も異なりますし、また、その時の態度が問われるものです。

 したがって、「礼」の根本にあるものは、「互いの犯されず、犯さない為のもの」であり、本来武術というものは、有事にあって「自己を全うする為のもの」だったのです。これに男女の区別はありません。
 その根底には、的確な状況判断と、危険に対する感覚が働いています。したがって、万一の場合、犯罪者を敵とした場合、この敵に対し、敵の打ち気を誘発させたり、あるいは消したり、または外したり、いなしたりは、必然的には、必ずしも暴力に対し暴力で応えるということではないのです。

 言葉や態度でも、この表現方法は変わりません。則(すなわ)ち心的作用であり、ここに「心法」を用いる意義があります。

 わが流では、古来より、「武の達人は、同時にまた、礼の体得者である」と謂(い)われてきたのです。つまり、わが流で謂う、「礼」とは、普段からの「用心」であり、この「用心」を身に付けているか、否かで、「その人の生死(しょうじ)が決定される」と説いてきたのです。

 以上をお読みになって、こんな回りくどい言い方では、よく解らないと思う人は、もう、最初から無慙(むざん)な犯罪に巻き込まれる要素を、ご自身に持っているのです。ゆめゆめ、自分は犯罪とは無関係であると思わないことです。この事は、昨今の多くの凶悪犯罪が、女性を巻き込んでの無慙な殺人事件からも分かるように、直ぐ、あなたの側面に迫っているのです。それがあなたの「肉の眼」には見えないだけなのです。

 犯罪に遭遇するか、あるいは人の生死にかかわり、そこで殺されて、無慙な屍体(したい)となって帰宅するか、あるいは九死に一生を得て、奇蹟の生還を遂(と)げるか、それは、あなたの心と密接な関係を持っているのです。
 この事からもお分かりだと思いますが、武術とは、武技を練るのではなく、心を練る事だということです。心の未熟な人は、則(すなわ)ち、犯罪者の餌食(えじき)になってしまうのです。

 志(こころざし)を立て、何某(なにがし)かの武術を学ぼうとする場合、単に「外側」ばかりの虚飾に騙されてはなりません。「裡側」を見極め、ここに書かれている「心法面」の理(ことわり)を見抜かねば借りません。

 

●アメリカナイズからの解放

 昨今の日本人は、アメリカナイズされたものばかりに飛びつき、欧米文明を日本の伝統的な智慧(ちえ)より優れていると、安易に思ってしまいようですが、これこそ科学万能主義の危険たるところで、こうした科学を至上主義的に看做してしまう考え方には、幾つかの落とし穴があります。
 スポーツは欧米から持ち込まれたものであるから、「科学するスポーツ論理」は成り立つと思いますが、もともと日本で発祥した武術に対し、これに科学という「分析の眼」を持ち込み、それで解決を図るというのはいかがなものでしょうか。

 これこそ、危険この上もないもので、結論から言うと、西欧の理論は、スポーツにしても格闘技にしても、「体力第一主義」を挙げている為、この論理で練習と積み上げた場合、体力のない、ひ弱な女性は、筋肉隆々の男性と対峙し、闘った場合、最初から負けています。全く勝負になりません。

 しかし、古来からの日本武術陣の智慧は、ひ弱な人でも、「術」を磨くことにより、「小が大を制する」ことはあり得るとしているのです。
 但し、これには条件付です。
 それは「心法」を会得した上での事だとしているのです。つまり、「心法」という心を度する術理の上に、「術を積み上げていく」という考え方です。此処で再び、人間は「心」に回帰します。「心」に帰着するのです。「心」が備わっていなければ、幾ら武技を積み上げても、それはイザという場合に役に立たないとしているのです。

 「心のコントロール」を学んだ上で、その後に蓄積した「術」のみが、功を奏するとしているのです。
 西郷派では、「心法」に重きを置き、これを学ぶことを最優先にして、わが心を制御することを教えます。その制御法を把握した上で、入門して最初に学ぶ「手解き」を覚え、次のステップへと、心の度合いに応じて、「必勝術」「負けない境地の術」を学んでいくわけです。

女子の必須教科の小太刀術
小太刀術に順応した警棒術

 ちなみに、わが流の説く「必勝術」ならびに「負けない境地の術」とは、女子においては、特別に「小太刀術」とそれに加味する「警棒術」を指導し、男女共通の切り札として、「腕節棍(わんせつこん)を指導しています。女子においては、小太刀術、警棒術、腕節棍は必須教科であり、万一の場合、凶悪犯罪者にも対抗できる強力な味方になります。

 窮地に追い込まれ、イザという時に本当に頼りになるのは、法律でもなく警察力でもありません。自分自身が積み上げた、心の度し方と、日々積み重ねた修練の賜物が、功を奏します。安易に他力本願で、他人に依頼する気持ちを取り払い、自分で道を切り開く「術」を知っておかなければなりません。

 女子において、小太刀術と警棒術と腕節棍を必須教科にしている理由は、柔術を学びながら以上の3つを学べば、人間の動きというものがより一層理解でき、また、「刃物」に対する行動線の見極めや、その他の武器の防禦法(ぼうぎょほう)にも大きな研究材料となり、その為に、わが流の女子は、武器に対しても、素手で対抗するのでなく、万一の場合、ひ弱な女性が兇悪犯罪者と闘わねばならなくなった場合、命を落とさず、生還する方法を教えているのです。

 また、小太刀術から構築した、西郷派独特の警棒術は、警棒自体が折り畳みである為、携帯しても邪魔にはならず、万一、不慮の事件に巻き込まれた場合、絶大か効果を発揮します。
 ゆめゆめ、「わたしは空手をしているから……とか、合気道をしているから……云々」を自負し、あるいはそれを理由に、万一の場合、決して兇悪犯罪者と素手で闘わないことです。

 本来は、こうした犯罪者と遭遇しないようにするのが正しい心掛けであり、普段から隙のないような生活態度を厳守したいものです。そして、武術の修行を通じて、それがあなたの心の拠(よ)り所となるような、崇高(すうこう)な境地まで練り上げれば、人生はもっともっと豊かになるはずです。


戻る << 女子護身術 >> 次へ
 
絡め
 
一本捕り
Technique
   
    
トップ リンク お問い合わせ