■ 丹田の鍛錬法 ■
(たんでんのたんれんほう)
●神むすびに結びつく丹田の鍛錬
人間の「肚(はら)」は、鍛錬において一番大事な場所である。肚を鍛錬せずに、型を反復してみたところで、それは「魂の入らない仏像」のようなものである。入魂されなかった神仏の像は、人々の礼拝の対象にはなりえない。単なる、像か物体に過ぎない。
そこで「入魂」のために、丹田を鍛錬する必要がある。
丹田の鍛錬法で最も有効なのは「木刀」の素振りである。その木刀も、出来るだけ重い方がいい。しかし、ただ重いだけで、筋力を使っての素振りでは意味がない。
筋力を使っての素振りは、腕を「ヘラブナ形」に出来ずに、肩ばかりに筋肉が着き、肩を骨と皮だけにすることができない。
また、肩をよく動かすという動作も不向きになり、重い木刀がよいが、それにも限度があり、適当と思われるのは“3.5から4キログラム”程度がよいだろう。
では、この重さの木刀をどうするのか?……。
わが流では、これを無心になって、ひたすら「素振れ」と教える。呼吸法と共に、ただ振ることだけを教える。単に、考えず「振れば」いいのだ。ひたすら振り続ける。諦めずに振り続ける。ただ、それだけだ。それ以外に何もない。
振る時に「覚悟」として、どういう心構えが必要か。
それは、神に通じる「神むすび」が必要であるのだから、神と結ぶように、神さまにお願いして、自分の振り方を点検してもらう必要がある。
つまりだ。
「これで宜(よろ)しゅう御座いますか?」と、神に尋ねることだ。
繰り返し、重い木刀を、何十回、何百回、何千回と振って、「これで宜しゅう御座いますか?」と、尋ねることだ。
神さまが、お許しになれば、それで終わりであろうし、お許しが出なければ、何百回、何千回、何万回、何十万回と、振ればいいのである。そして、許しが出るまで振る。
こうした稽古をしたことがない人は、あるいは筋トレなどの稽古以外をしたことのない人は、「重い木刀を、何千回、何万回、何十万回と素振れば、肉体が壊れてしまうではないか」という人がいるかも知れないが、実は、人間の肉体は、そんなにヤワじゃないのである。
人間の肉体は、日々鍛錬すれば、何万回、何十万回と、素振るっても、簡単に壊れるように出来ていないのだ。結構、ハードなトレーニングに耐えられるのだ。
さて、神と結ぶことを「神むすび」といいう。
これは神道から出た言葉である。合気道をやった人なら、この言葉は聴いたかとがあろう。また、「舟漕ぎ運動」というのも、神道から出た言葉である。日本には古くからある言葉である。アメリカ建国が為される以前の、更に以前に、存在した言葉である。
神むすび……。
それは紛(まぎ)れもなく、神と結ぶ言葉だった。我と、神が一体となり、その一体下に、「われ」という存在があった。これが神人合一だ。
しかし、昨今はアメリカナイズされたものばかりが、大流行である。横文字文化、真っ盛りである。欧米のものはいいと思い、日本的なもの、東洋文化は格が低いと思う傾向がある。
ところがそうでない。
日本的なもの、東洋的なものにも、捨て難い、優れたものは幾らでもある。
その一つが、「丹田を鍛え上げる鍛錬法」である。スポーツトレーニングとは、全く違う胆力の養成である。
では、なぜ丹田を鍛えるのか?……
「神むすび」をする為である。
素振りをするということは「切り結ぶ」ということである。「切り結び」の“切り” は、また「斬り」でもある。斬る為に振るのだ。だから、切り結びは「斬り結び」なのだ。
でな、なぜ斬り結ばなければならないのか。
それは“斬る”という動作そのものが、左右の手を力強く「結ばなければならない」からである。武術修行者は、「一刀流の剣」の場合、二本ある両手両腕を、たかが一本の剣のために、左右で握ることになり、二本の両手を一本に注ぎ込んでしまった。
本来人間は、霊長類の人間と雖(いえど)も、「四ツ足動物」であった。
ところが、道具を使うようになって、四ツ足が、「三ツ足」になってしまった。特に、両手両腕を一つにして、元々二つあるものを、一つにしてしまったのである。ここに現代人の、「三ツ足」が始まる。四ツ足から「一本」が抜けて、三ツ足になり、それだけ不自由になった。
人間が、二本の足で歩行しているということを信じる人は、余程おめでたい人である。人間は、最初から二足歩行はしていない。常に、四本の足で歩行しているのだ。このことは急な坂道や、
山岳道を歩いてみれば分かることである。後足の二本をスムーズに前に送り出すためには、両手両腕の力が必要である。山を登るときも、降りるときも、人間は四ツ足動物の動作をする。
これは走ってみても分かることである。
両手両腕がなかったら、果たして快適に走れるだろうか。振動せずに、バランスよく走れるだろうか。
だから、人間の基本形は「四ツ足」なのだ。木刀を素振りする意味は、人間が四ツ足であることを感得することだ。二本の両足で大地の上に立ち、それぞれ両手に木刀を握ることだ。そうする事により、基本形の四ツ足が出来る。
そして稽古は、「一刀素振り」からはじめ、次に「二刀素振り」を行い、一番最後に再び「一刀素振り」に戻る。
最初の一刀素振りのとき、例えば、左右の両手両腕では500グラムの木刀を振っていたとしよう。その木刀の重さを徐々に増やしていって、やがて1000グラムになる。1000グラムになった時点で、両方の手で初期の倍の重さを振ることになる。
そして次の段階で、1000グラムを左右それぞれに持ち、これを「二刀素振り」に変える。二刀素振りが出来たなら、次に2000グラムを「一刀素振り」に再び戻す。重さは初期の四倍になっている。
こうしたサイクルの中で、徐々に重くしていくのである。この木刀素振りが、合気揚げをするにも、技を掛けるにも、あるいは二人捕り以上の多数を相手にするにも、必要不可欠な基礎稽古となるのである。
多数捕りは、二刀剣以上の技術であるから、木刀素振りは重要な基礎となる。これを遣らずに、単に型を繰り返しても、それでは現実味がなく、実戦には役に立たないものになってしまう。しかし、基礎を重ねるということは、大変なことである。地道な、目立たない稽古は必要となる。
稽古目的だけでも、“派手なもの”と“地味なもの”の差が出てしまう。比較すれば、以下のようになるだろうか。
そして、多くの現代人が目を向けるのは、果たしてどちらだろうか。
|
“合気・やわら系”を呼称 |
徒手空拳の“打撃・力系”を呼称 |
武
術
名
・
武
道
名 |
清和源氏を標榜する大東流合気武道・合気柔術全般、合気空手、植芝系合気道、村上源氏あるいは武田大東流系合気道、愛好会的大東流、古流柔術各派・鎧着用の格闘組打、捕手・十手術、古流剣術、小太刀術、居合術、手裏剣術、弓術、槍術、棒(杖)術、火縄銃、古式泳法など。 |
実戦空手と称するものやフルコン空手、寸止空手道全般、日本式少林寺拳法、中国拳法全般、日本拳法、打撃系忍術、打撃系スポーツ柔術およびにブラジリアン柔術、警察官逮捕術、競技システム合気道、キック打撃系格闘技、相撲、柔道、ボクシング、プロレス、アマレスなど。 |
試
合
の
有
無
・
形
式 |
試合無しの演武会形式が主体。品評会形式。マイナーな武道雑誌で、マニア相手に掲載される。
(強さや勝負の行方がはっきりしない。素人には禅問答で、皆目不明確である)
|
試合有り。素手または防具をつけての勝敗の遣り取り。テレビで放映され、新聞や雑誌などにも掲載される。
(強さならびに勝負の決着が明確である。素人にも勝ち負けが分かり易い)
|
地道な鍛錬を要す。反復形式で、容易に強弱が計れない。そのために強弱が付け難く、長年の愛好者が口で暗示をかける武技である。
(殆ど話題にならない。遣っている本人自身、自分のそのレベルの度合いが把握できない。黙々と地道に……という点に現代の違和感がある)
|
派手で華やか。競技スポーツ形式。腕力主義、実力主義、体力主義の「闘技」である。
(大いに話題になり、ニュース性がある。一度勝利を収めれば、「時の人」となり、一世を風靡(ふうび)する。例えば、ブルースリーのように、ジャッキー・チェンのように) |
修
得
ス
ピ
|
ド |
・ある程度になるまで長時間を必要とする。
・型の反復が中心である為、筋トレ以外の呼吸法や丹田の養成法が必要。永久に完成しない場合もある。
ただし、型を中心にして行われる武技は呼吸法無し。また、指導者に不完全で中途半端な者が多く、目的に地には容易に辿り着けない。
・怠けると、記憶的に忘れる。また、躰動法(たいどう‐ほう)が難しい。
(速習の護身術か、健康法として) |
・短時間で、週に一回程度でも効果が表れる。誰が教えても、だいたい同じ。
ただし、突く・蹴る・打つ・投げる・斃す・抑え込むの適性に合わない者は、晩年障害が出ることがある。
例えば、正拳や指先で突くことは「目」の異常に顕れ、蹴りは股関節亜脱臼をして、前立腺などの障害が出る。
・晩年に事故者が多いことは顕著である。
(素手での実戦や喧嘩を想定したもので、対象者は若者に集中する)
|
体
力
の
限
界 |
長い時間を必要とするが、高齢者でも健康を損なわない程度に、日々精進が可能。
ただし、高齢者は長時間稽古は不可で、日々欠かさない地道な鍛錬が必要。仕事や所用で長時間稽古を休むと逆戻りする。一部の武技は、有機呼吸(有酸素運動)をする。 |
力む為、呼吸の吐納は正しくない。40歳の初老を超え、体力が衰え始めると、これまでの筋力とスピードに頼っていた威力も徐々に失われる。
また、過激な肉体酷使は、老齢期の病気や怪我の温床となる。ハードトレーニングは無機呼吸になり易いため心臓に負担を掛け、健康を損ない易い。 |
年
齢
範
囲 |
老若男女を問わず、全般を通して行える。
年をとっても健康法として長く遣れる。護身術としては、「交通安全」のお守り並み。心臓に負担を掛けず、これは呼吸法の成果。 |
男女を問わぬが、試合に出る対象は若者が中心。
心臓に負担を掛け、力み、心筋梗塞になり易く、呼吸法が正しくない為、老齢者は難解であり、以降の寿命を縮める。 |
修
得
方
法 |
合気系を名乗る団体では、西郷派の武道書やビデオなどで、簡単に型だけ真似できる。また“研究”して、新たな技を創作することも出来る。
特に、「大東流○○会」が多いのはこのためである。
しかし、肝心な要点箇所は、教えてもらわなければ絶対に解らない。才能や素質がなくても、素人に安堵感を与える。自称武術研究家とか、オタク的要素も、此処から生まれる。論評者が多い。
稽古日は、毎日ではなく、特に決まっていない。
理屈主義で、稽古より、観戦あるいは評論主義が中心。愛好的、趣味的。
|
直接実施の指導を受け、スポーツ理論に即した筋力ならびにスピードの「配分理論」を教わらなければならない。
体力至上主義で、才能と素質がものをいう。
まったくの実力主義の世界であり、自称とか、オタクの入り込める余地はない。肉体を張って、毎日汗を流し、シビアーに練習している。
綿密なトレーニング・スケジュール。全般的に見て、多くは肉体を酷使し、驚異的な稽古に明け暮れる。特に、大相撲やプロレスはその極み。
体力主義で、練習方法に得意な伝統有り。体を張った生活的。
|
組
織 |
個人が主宰する小さな組織で幾つも分かれ、会派が違えば他派を誹謗中傷する。実践者も追っ掛けも、極めて“2ちゃんねる”的。 |
連盟やリーグ、プロダクションや部屋組織があり、確固たる一貫した流れの大組織を持つ。 |
物事は、何でも自分の思うように、都合のいいように出来ていない。何れの“系”も、一長一短がある。
速習・短期で、直ぐに効果の上がるものか、長い目で見て、じっくりと時間を掛け、そこから人生を学ぶかは、その人自身のこれまでの人間形成による。
青春を謳歌するという目的で、「短期速習のもの」に手を出し、一世の風靡(ふうび)に酔い痴(し)れることもいいであろう。また、長期の完成を願って、長い時間、根気よく、粘りに粘り抜いて、その成就に向かうこともいいであろう。
前者は直ぐに効果が顕れ、後者は、何年、何十年という単位でやっても、その効力を表すことはないかもしれない。後者の場合、多くが、それに痺れを切らせて、道場から去る者が少なくない。
この世は「プラス・マイナス=ゼロ」である。
どう、もがいても、この図式は崩れず、《人生の貸借対照表》は辻褄(つじつま)が合っている。
太く短く、老いて病床につく、若い時だけ華やかな人生もいいだろう。
また、細く短く、老齢になっても何とか生き残り、健康状態がゆっくりと悪化する、そうした人生を選択するのもいいだろう。
しかし、両者の相互間で存在するものは、「生命の大事」である。
●生命の大事
人は“三焦(さんしょう)の火”を燃やして生きている。
三焦とは、上焦(じょうしょう/横隔膜より上で泥丸(でいがん)まで)・中焦(ちゅうしょう/横隔膜から下で脾の神闕(しんけつ)まで)・下焦(かしょう/臍から下で会陰(えいん)まで)の三つのことだ。
人間の誕生は、焦(しょう)の火を焦(こ)がすことから始まる。オギャーと生まれ出て、呼吸をし、臍の緒を切って成長していく。そして下焦で大小便をするプロセスが完了することを人間の誕生という。
これと、全く逆のプロセスで行われるのが「死」である。
自然死の場合、まず下焦の会陰が閉じられる。生命力は中焦の神闕を経由して、上昇の泥丸にあるブラフマの蓋(ふた)を開けようとする。穏やかな死を迎えた場合、此処が開く。その蓋が開いて、これまで意識を為していた生命体は外へ出るのである。
人間の誕生は、生命力の生命の火が焦げることから始まる。そして、死は逆で、焦の火が消えることをいう。
本来、精液より生じた水の生命力は、焦が尽きるとき、「末期(まつご)の水」を必要とするのである。臨終間際にある人が、水を欲しがるのはそのためである。
中有(ちゅうう)の世界でいうならば、人間は、中有→水(精液)→焦→末期の水→中有というサイクルにより、次なる新生を繰り返すのである。
人間の生命力の火は三つの焦にある。上焦をまた、「上丹田」といい、中焦を「中丹田」、下焦を「下丹田」というのである。この三つの丹田が、代表されて下腹の下丹田に集中しているのである。ここを鍛える必要がるのである。
胆力は、此処を鍛えることにより生まれるのである。つまり、胆力は度胸などとも置き換えられるから、此処を鍛えれば「肚が据わる」のである。
古人はこのようにして胆力を鍛えていったのであるから、丹田を鍛えるということは、武術や武儀の実践者にとって重要な事柄なのである
●丹田を鍛える事で見えてくるもの
人間の構造は生物学上でいうと、「水冷式哺乳動物」である。
しかし、ただそれだけの構造でない。霊長類であるだけに、霊的な一面も所有している。霊的な意識体なのである。認識し、思考する心の働きを持っている。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動をする。その背景には感情や意志による働きがある。
人間は肉体だけの生き物ではないから、肉体における脳の働きで精神を司っているとは考え難い。唯物論に従えば、脳は肉体に一部であり、その働きによって精神活動を行うとしているが、もしこの考えに従うならば、気の形態である《精(肉体)》《気(心情)》《神(霊魂)》の三者は成り立たなくなる。気と神(しん)が抜け落ちることになる。
また、「霊」は元来、超時空の存在であるが、本質は意志である。この「意志」は肉体を持たないということにある。肉体を持たないのだから、意志自体で物理的な作用は引き起こせない。何一つ、現世の現象界で物理現象を起こせないのである。
そこで、霊は生きた人間に働きかけて、その人の肉体に何らかの訴えを起こしたり、その肉体を通じて霊現象を起こそうとする。
この霊現象は、「霊的」という作用であり、丹田を鍛えると、その“霊的”というものが感得できるようになる。
素振りの基礎を固め、3〜4キログラム程度の木刀を自在に振りこなすことが出来るに至る過程の中で、《精(肉体)》と《神(霊魂)》の結びつきが感得できるのである。本来は重量があって重いものでも、両者が気によって結びつけば、そこに「自在性」が生まれるのである。
最初、木刀素振りは神のお伺いを立てながら、「これで宜しゅう御座いますか?」と十回、二十回……五十回……百回……五百回と振っていく中で、勿論疲れも出てくるのだが、疲れと共に“妙な霊的な力”も出てくる。これは一種のランニング・ハイのようなものだ。
ハイ状態になって、重いものが軽くなる錯覚が発生するのである。これは「丹田」が出来ている証拠であり、この状態を作り上げると、今まで見えなかったものが鮮明に、生き生きと見えるようになってくる。
それはあたかも、人間が生まれ変わり、新生したときのように、である。
ここに「神むすび」の重要性がある。
この新生を得らない限り、如何なる高級儀法も「型の踊り」であり、こんなものを百も二百も覚えても、魂のない仏像に等しいのだ。
霊的に、物理現象以外に、「神と結ぶこと」が必要なのである。つまり、丹田の養成は、肚を造り、胆力を旺盛にして、神と結ぶことだったのである。
ちなみに総本部尚道館の稽古では、胆力養成のために次のような素振りメニューを挙げて、これを男女とも熟(こな)すのである。
種類数 |
素振り種類名 |
女子・初心者回数
(白樫木刀700g) |
中級者以上回数
(素振り八角1,200g) |
1 |
正面素振り |
100回 |
100回 |
2 |
半座半立ち |
100回 |
100回 |
3 |
蹲踞 |
100回 |
100回 |
4 |
四股立ち |
100回 |
100回 |
5 |
片足・左足 |
100回 |
100回 |
6 |
片足・右足 |
100回 |
100回 |
7 |
前後素振り |
100回 |
100回 |
8 |
屈伸素振り |
50回 |
50回 |
9 |
達磨素振り |
50回 |
50回 |
10 |
前後早駆け跳躍素振り |
50回 |
50回 |
11 |
四方素振り・左一刀 |
100回 |
100回 |
12 |
四方素振り・右一刀 |
100回 |
100回 |
13 |
坐法四方素振り・左一刀 |
100回 |
100回 |
14 |
坐法四方素振り・右一刀 |
100回 |
100回 |
合計回数 |
全素振り時間:約40分 |
全 1,250回 |
全 1,250回 |
素振り回数は合計で、全行程1,250回である。これを約40分くらい掛けて行うのである。
素振りは、筋力を養成する為に行うのでないから、振れば振るほど、肩から無駄な筋肉が除去され、「胆力養成」に必要な筋肉だけが残り、昔の剣豪などに見られる「なで肩」の、肩は「骨と皮だけ」となる。
この「なで肩」の骨と皮だけの肩の構造が、偉大な力を発揮するのである。なで肩で、肩の部分が骨と皮だけになるという肩構造は、この構造に至って、肩がよく回り、よく動くからだ。滑らかに動き、更には瞬発力に強い肩となるのである。
そして胆力が養われると共に、揚げる力である「揚力」も増し、心身ともに健康になる。重いものを持ち上げ、それを使いこなす力が旺盛になるのである。
特に素振りをすると、まず“肩凝り”のある人は肩凝りが治る。
これは肩甲骨の弛(ゆる)みが、矯正されたからである。肩の凝る人は、肩甲骨が弛み、左右が歪(いびつ)に狂っているのである。ところが素振りをすると、これらが矯正され、肩甲骨に締りが生まれ、歪みが矯正される。
また、肩の凝る人は、肩凝りだけでなく、腰痛も患(わずら)っているので、腰骨も外れた状態になっていて、仙腸関節が弛み、狂っているのである。
腰骨が緩み、外れ、狂っている人は、腰痛だけでなく、脊柱(せきちゅう)も狂っていて、姿勢が悪く、猫背の人が多い。猫背の人は胃も悪く、特に胃下垂状態であり、胃が腰骨の付近まで下がっていて、吐く息も臭い。つまり、これは胃ガン予備軍でもある。
また、このような人は「痩せの大食い」などと揶揄(やゆ)されて、食べても食べても肥らない躰と一般には重宝がられているが、実はそうではない。もう既に、胃を殺(や)られているのである。
大食いで痩せている人は、まず胃下垂を疑うべきだろう。
また、手足が細く、痩せている人は、腸内に回虫などがいることを疑うべきだろう。こうした人は、食べても食べても肥らないのだ。
したがって、「痩せていること」だけが、決して健康には繋がらないのである。むしろ病気を抱えていることの方が多いのである。
こうして、胃の悪さは、背骨の狂いと同時に、肩凝りを発生され、肩甲骨を畸形(きけい)に歪(ひず)ませるのである。これが肩凝りの病因であり、この因子を持っている人は、今度は頭蓋骨までもを狂わせてしまうのである。
頭蓋骨は、複数の縫合(ほうごう)により繋ぎ止められている。
ところが肩甲骨が狂っている人は、頭蓋骨の縫合までもを、弛めて狂わせており、これが「頭痛」という現象を招くのである。偏頭痛や後頭痛、また頭重などの不定愁訴に含まれる症状は、実は頭蓋骨の縫合が弛み、狂っている場合にも起こるのである。
当然の如く、頭蓋骨の球面体同士を繋ぎ止めている縫合に弛みが出て、そこが歪に畸形化されていれば、頭脳明晰(めいせき)という状態にはならず、思考力自体も低下するのである。
要するに「頭の悪い状態」が起こるわけだ。
こうなると記憶力は減退し、物覚えが悪くなって、同じミスばかりを何度も繰り返し、気力も根気も薄れ、事なかれ主義に流されてしまうのである。安易なものを選択する短絡思考になりやすい。そして精神力も士気も低下するのである。その上、闘志すら失われるのである。
これでは強い精神力は維持できまい。
したがって、「素振りの大事」は理解できるはずである。
「素振りをすれば肩凝りが治る」
これは武田時宗先生の言葉である。
時宗先生は、昭和五十五年頃から、わが方に度々来館されたが、来館の度に「素振りをすれば肩凝りが治る」と仰(おっしゃ)られていた。そしてこの諌言は、その通りだった。
更に、素振りをすることで、同時に「胆力」もつくのである。千回以上の単位で素振りをする「素振る力」は、同時に胆力である「度胸」も、身に付けさせてくれるのである。安易なことで動じない度胸がつく。軽薄なことで誘導されない「不動心」が備わるのである。
この不動心こそ、往年の武術家や武道家が求めた精神的な課題ではなかったのだろうか。
不動心が身に付けば、“思い込み”や“固定観念”に振り回されなくて済む、確固たる思考が身に付くから、少々のことでは動じないのである。
現代社会は情報過多の時代であるから、安易で軽率な情報が飛び交い、ニセ情報や思い込みによる先入観で誘導された思考が、現代人を惑わしている。
こうした妄想や困惑に迷わされない為にも、確固とした精神力を確保し、ひたすら「神むすび」を念じ、地道に素振りを重ねていく必要があろう。
武術や武道の「武の精神」は、こうした地道な、日々の精進の中に隠されていたのである。
|