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以上のように分類した、大まかに五種類の杖に分けられるが、西郷派の棒術はこの何(いず)れにも属さない。母体は剣の技術を根底においたものだが、剣の技術のみをもって、これを杖術としている神道夢想流などとはその戦闘思想が根底から違っている。 それは「多数之位」を戦闘思想の根底においているからであり、一対一の個人的闘技ばかりでなく、目標は多数之位にあり、腕の長さ(【註】わが流で用いる二本の棒の長さの腕節棍全長は、上腕骨と橈骨あるいは尺骨までの長さとほぼ一致する)から始まる「腕節棍(わんせつこん)」に、その出発点を求め、ここから杖術→棒術→槍術に至り、多数と対峙(たいじ)する「多数之位」に至る為のものである。そして、その奥儀は「乱射刀の儀法」である。 「乱射刀の儀法」は、多数を想定した、「途切れない動き」にある。また途切れない動きを支える為の、「流れ」にある。この動きと流れの中に、わが流の杖術は、その戦闘思想が横たわっているのである。
●杖の極意は一気に連打することにある 杖は、一旦敵に打ち込んだら、躊躇(ちゅうちょ)なく、何処にでも一気に連打しなければならない。処構わず、辺り構わずである。一切の躊躇(ちゅうちょ)は許されない。「間」を空けてはならないのだ。 連打し、乱打するのは、非常事態であり、大戦当時の言葉で言えば、「皇国の興廃(こうはい)」が懸(か)かる時機(とき)に、何ゆえ、形式通りに、手順通りに、約束通りに、型通りに、遣らなければならないのか。 平時と戦時は違う。また、日常と非日常は違う。平時の通りに、非日常の振りまいをしていては、イザというときに役に立たない。一旦、平時が戦時に変われば、一気に何処でも構わず、打ち捲(ま)くる事が肝心である。こんな時機(とき)に遠慮などする必要はない。これこそ、物凄い杖遣いであり、この打ち込みが優れていれば、敵は、これを打ち止めようと、張り退(の)けようとする。 その瞬間を捉え、躊躇(ちゅうちょ)せずに、一気に連打し、乱打するのである。頭でも、肩でも、腹でも、腰でも、睾丸でも、脚でも、膝でも、処構わずに、徹底的に打ちのめすのである。敵に対して、行き着く閑もなく打ち据えるのである。これに手加減すれば、敵は苦し紛(まぎ)れに反撃し、逆にこちらが惨敗するのである。 この連打、乱打は、機先を逸(いつ)してはならない。確実に打ちまくり、勝ちまくることだ。 杖術闘技の、格闘において、折角杖の一打が、瞬時の、刹那(せつな)の、油断の為に無駄な懼(おそ)れを背負わなければならなくなる。 一瞬の油断で台無しになる。一瞬の勝利で慢心が起る。愚かしいことだ。 一打を打ったならば、それが敵に頭上に命中しても、安易に狂喜してはならない。一打で、敵を打ち据えることが出来ようが、出来まいが、更に、二度三度、あるいは四度五度と、繰り返し打ち込むことが肝心である。敵の顔も挙げさせぬくらいに、徹底的に打ち込むことだ。 打ち込むことに、上手も下手もなく、正も偽もない。ただ徹底的に打ち据える。ただそれだけのことである。打ち据えれば済むことである。人間の行動に、正も偽もない。叩けば済むことである。杖とはそうしたものであり、仮に杖術の心得がなくても、杖で頭部を打破すれば、強烈な一打で、まるで西瓜(すいか)を粉砕するように叩き割ることが出来よう。つまり、杖の一打は、躊躇(ちゅうちょ)することなく、連打し、乱打の限りを見せて、敵の頭部を叩き割ることである。 こうすれば、敵の顔を上げさせるまでもなく、一打で頭部を叩き割ることが出来る。この覚悟こそ決まっていれば、恐らく最初の第一打で完全に勝負が決するだろう。 また面打ちだけではなく、胴や左右の脇腹打ちも肋骨が完全に砕けるくらいに叩き込むことが肝心である。更に、小手打ちにしても、脛(すね)打ちにしても、あるいは膝の半月盤(はんげつばん)割にしても、完全に砕き割るという覚悟が必要で、処構わず叩き込むことである。
また、こうした「小さな打力」を用いての術の中には、敵の顔面に向けての「目の玉突き」や「人中線上にある、人中に向けて此処を至近距離から叩き砕くこと」も、即決の勝負として覚悟して突き、叩き割ることが出来れば有効であり、更には、下段からの跳ね上げで、「顎(あご)を叩き割ること」も有効であろう。あるいが睾丸を徹底的に打ち砕く、突き潰すといった覚悟で充(あ)たれば、敵に惨敗の辛酸を味合わせることが出来る。総て、心の覚悟による。 そして、「覚悟」として忘れてはならないことは、試合のルールで戦わないということである。ルール違反も、卑怯(ひきょう)も、何も存在しないのである。ただ在(あ)るのは、勝って生き残る側の人間と、負けて無慙に残骸を曝(さら)す屍体(したい)だけなのである。人生の半ばにおいて、屍体になりたくなければ、躊躇せず、立ち上がり態(ざま)に徹底的に打ち据える覚悟を決めることである。 昨今は、「セフティ・スポーツ」や「ルールの上に成り立った競技武道や格闘技」が流行している為に、「危険」という理由で、こうした荒稽古的な「覚悟」は稀薄になったが、その心構えとして、立ち上がるや否や、躊躇せず、肘や腰、肩や頭部を強打して、睾丸と突き砕き、怯(ひる)むことなく勝ちを得るという覚悟だけは持ちたいものである。 今日の社会的法規や人道的ルールからすれば、ルール違反で、如何にも卑怯な遣り方に映るが、生きるか死ぬかの真剣勝負であれば、卑怯だといっている間に殺されてしまおう。現世は、何事も「死人には口なし」であるから、殺された後に一切の苦情も文句も言えない。何が何でも生き残り、殺されないようにする為には、「覚悟が大事」なのである。 実際に、先の大戦の経験者達の老練な人達の話を聞くと、「一気に敵を連打する覚悟と、銃剣の武器使いは、実戦においては確かに有効である」ということだった。現在も、八十や九十の兵役に携わり、満洲(まんしゅう)や中国北支で戦い、あるいは南方方面の激戦地で戦い、「九死に一生を得て生き残った人達」の体験談を聞けば、「連打」や「乱打」は、極めて有効であるということが分かる。 つまり、要は「覚悟」であり、もし、日本刀で斬りかかって来る強盗に対しても、「覚悟」さえしっかりしていれば、日本刀に対しても、杖で対抗して、決して負けるものではない。 日本には古来より、「窮鼠、猫を咬(か)む」という俚諺(りげん)がある。 宮本武蔵も、『五輪書』の中で、「太刀の道一つをもって、いづれなりとも打所、是縁の打也」といっているではないか。
●杖術は小手先の技術でない 杖術をよく遣うには、「小手先に頼らぬ」ことである。小手先に頼り、「覚悟」を忘れれば、その「小手先技術」は敗北を招く元凶となる。 しかし、このことを自覚している人は以外にも少ない。その為に、口先では「命賭け」という。口先で「命賭け」と喚(わめ)く者ほど、その多くが「小手先の技」に頼っている。 これらは総て、武術を小手先の技術と解釈し、生きるか死ぬかの道理を、小手先の「先」に勝利がぶら下がっていると感得する愚行である。また、これに準ずる考え方に、打ち込みの強・弱や速・遅と捉(とら)え、これに固執し、振り回されている人が少なくないが、勝負はこの程度の次元が決するものでないということを理解できない為である。 勝つか負けるかは、「時機の運」というけれど、実際には勝つ場合も道理があり、負ける場合も、道理を知らなかったという道理がある。これらの明暗を分けるのは、「覚悟」と「命賭け」という信念が稀薄になるか、否かに懸(か)かっているのである。こうして考えてくると、小手先の技術は、非日常ではあまり役に立たないことが分かるであろう。 そして、今日の日本人が完全に忘れているのは、非日常という無差別攻撃と、精神的肉体的優劣を競う試合での勝負を同じように考えていることである。殺すの、殺されるのというと、「同じ殺し」であるから、同じものと考えるようであるが、この両者は明らかに異なっている。 前者は、非日常という非常事態から起るもので、後者は遺恨や怨敵(おんてき)の念から起るものでない。無差別攻撃などともなると、当然そこには遺恨や怨敵という怨念(おんねん)の世界が浮上してくる。しかし、後者は最初から、遺恨や怨敵は存在せず、試合に勝っても、止めを刺さないというのが「武人の礼儀」であった。 しかし、昨今の弱肉強食論は、両者を混同させて、強いの、弱いのと、勝負にこだわり、ここから何某(なにがし)かの遺恨や怨敵が派生するような形で強弱論の試合が繰り広げられている。その為に、強弱論は「小手先の技術」に固執しやすい。小手先の技に溺(おぼ)れるから、強弱論が飛び出してくる。 こうした、強弱にこだわると、どうしても小手先に技術に執着するのは、今日の現代人が肥大化した組織の中で、氾濫(はんらん)する情報に喘(あえ)ぎ、人間性が埋没し、個人間や人間関係が著しく矮小化(わいしょうか)されている為である。 したがって、「太刀合いに勝って止めを刺さず」と、遺恨や怨敵を憤懣(ふんまん)させて無差別攻撃に殺戮(さつりく)を繰り返す輩(やから)と区別がつかないのである。両者は全く異なってものであるが、現代人の人間的なレベルの矮小化は、かくも両者を混同させ、武技の真髄(しんずい)を「小手先の技術」と解してしまう現実を作り出してしまったのである。
●秘術としての「動き」強弱論は超越されなければならない。強いか弱いかは、稽古の量だけが決定するものではない。これを裏付けつした、心の裡(うち)の「覚悟」というものが決定する。覚悟があるから、また稽古に熱が入る。しかし、勝ちを求めての稽古は、覚悟を軟弱にする。覚悟を決すれば、勝ちなど求めず、むしろ「負けない境地」を求めるだろう。勝つことばかりを考えるのが、強さの秘訣でない。 堅苦しく、武張っていては流れを失い、遂には動きを失う。猛々(たけだけ)しくては、それが「こけおどし」であると、心の裡を見抜かれるだろう。作られたボディ・アクションは、看(み)る者が見れば、それは直ぐに心の病気だと分かる。そんなものは、戦場の最前線で、猛々しさなど通用しないことは、かつて戦場に赴いた老齢の方ならば、ご存知であろう。 あるいは戦場の経験のない人でも、敵前の最前線基地にあって、砲弾が飛び交う中、その前を、猛々しく肩で風斬るような人間がいたら、どうなるか想像して貰いたい。この人間は、味方に尊敬を与えるだろうか。こうした場合にすることは、武張ることではなく、敵の動きを観察し、その真意を洞察して分析することではないか。これが正しく分析できれば、決して猛々しい態度は取れなくなる。動きが止まり、流れが止まるからだ。 「動き」があれば、流れは滞らない。動きと流れを留めてはならないのが、「人間の運行」であり、またこの運行は、「流れ」と「動き」の中から齎(もたら)される。このことを知れば、武張った型に固執しない筈である。 ちなみに、「西郷派の杖」には、棒術に進む関門として、杖の「飛竜の型」がある。「飛竜」は、型ということになっているが、実際は「動き」であり、単に武道の「型に記された諸動作を順番に従って、順に行っていく」ことでない。あくまでも杖の動きによる、「実践での起居振る舞い」である。 飛竜の「動き」は、敵の動きを封じ、敵を心から打ち崩す、「敵の心を絶やす」ことを目的にしているのだ。 それは、もし、この型を戦場の何処の、激戦地で検(み)たとしても、その感想の中で、心のそこから恐怖を感じ、「実に手強い」などという感想は起るまい。所詮(しょせん)、型とはその程度のものである。 ところが、西郷派はそのように型を教えない。「型」は型でなく、「動き」であると教える。何故ならば、西郷派の極意は、素手のみに頼らず、命を賭(と)して闘う場合は、形(な)振り構うな。徹底的に敵を恐れさせ、「敵の底を抜け」と教える。 では、「敵の底を抜け」とは、何か。 最初は簡単に勝負がつくと思っていたのに、闘う時間をずるずると引き延ばされ、遂に、延長戦に持ち込まれ、今度は武技的な勝負でなく、精神的な勝負、あるいは気力の勝負となる。 だから、幾ら道場で武技を練っても、それは素人に通用する技かもしれないが、「したたかな者」には無効である。 このヒントは、次の書物を引用して、もっと具体的に説明しよう。 具一寿師によれば、実戦を次のように冷徹に評している。 実に重々しい諌言(かくげん)ではないか。単純明快な論理ではないか。 また、敵対したままで、退く事も、進む事も出来ない孤立した部隊が、その中に、柔道の経験者が居たとして、腐っている部隊員の前で、柔道の「古式の形」を演舞したところで、これが鼓舞(こぶ)されるだろうか。皆無である。茶番である。演ずれば、まさに「道化師」だろう。 そんなものは、戦場では、実戦では、何も役に立たず、敵を恐れもさせないのである。単に、無駄な余興(よきょう)である。無駄なことはしない方がいい。実戦に役立たねば、覚えることすら無駄である。現在、アメリカやアメリカに準ずる多国籍軍が、中東地域やイラクで苦戦しているのは、「アメリカのこけおどし」が中東地域のイスラム圏人民に、全く通用しない為である。 これは、ヨーロッパがイスラム圏に攻勢をかけた十字軍を検(み)ても、分かることだろう。「十字軍の遠征」は、11世紀期末から13世紀末まで延べ3回以上、遠征が繰り返されたが、結局、キリスト教徒たちはイスラム圏の人民を屈服させるには至らなかった。イスラム教徒の討伐は、成就しなかったのである。そして、今、アメリカは再び、現代の十字軍の遠征を行っている。アメリカに追随する国家を引き連れ、多国籍軍を標榜(ひょうぼう)し、強引にアメリカの軍事力で、イスラム教討伐を行っているが、この「現代版・十字分の遠征」は、一向に功を奏していない。益々深みに嵌り、ベトナム戦争の似(に)の前となっている。 口先では「テロ撲滅」の大義名分を掲げている、アメリカ国民や日本国民を騙(だま)しているが、要するに、キリスト教国家アメリカは、過去の歴史を繰り返しているだけである。歴史は繰り返すというが、まさにかつての十字軍の遠征は、現代のアメリカを髣髴(ほうふつ)とさせる。そして、アメリカの傲慢(ごうまん)は結局成就しないだろう。 それは取りも直さず、「武張った態度」や、それから滲(にじ)み出る「滑稽(こっけい)なまでの怒り肩」が、全然、怖くないのだ。畏れられない、そこに居るだけで威圧する気魄のない存在は、かえって混乱を招くばかりなのである。現在の中東情勢の混乱は此処に由来する。要するに、アメリカやアメリカに準ずる多国籍軍には、武術で言う、「動き」と、それを支える「流れ」が止まっているのである。だから、イスラム圏の人民から見て、ちっとも怖くないのである。 西郷派は、伝承武道ではなく、伝統武術である。西郷派の「杖の型」を、型として捉(とら)えず、「動き」として捉えよと教える。杖の動きは、「流れ」として流れるべきであり、「流れ」は動くを伴い、勢力を継続させるものになる。勢力の継続こそ、流れに準じる動きであり、「動き」によって、実戦では勝利を得るのである。勝利は、室内で、道場内で、優劣が決するものでない。優劣の明暗が決定的に表明するのは、実戦の場、戦場の場なのである。 戦場には、もともと勝敗の差は何処にもない。あえて「差」というものを捉えようとするならば、それは「動き」に見ることが出来よう。動きを、一種の分解写真のように演ずる者は、ズブのド素人であり、幾ら道場での室内稽古が何十年の猛者でも、実戦での戦いでは、全くの「ド素人」である。 歴史を振り返れば、かつて日本軍は陸海軍ともに、「戦争を知らない軍人達の集合体」ではなかったか。彼等は、日本を敗北に導いたことは、彼等の敗戦責任である。 そして、今日のアメリカも、「戦争を知らないアメリカ国民」に、イラク情勢が委ねられ、自分たちの選出した大統領によって、イラクへイラクへと、草木も靡(なび)かせているのである。 西郷派はこうしたものに頓着しない。「こだわり」を捨てた流派である。「絵に描いた餅」同然の、故錬的な大東流の伝承武道に与(くみ)しないのである。
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