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戦闘の本質を問う詭道の兵法
小型の「へら型六角手裏剣」の造り。剣尾に「房」を巻き、房は真っ直ぐ打ち飛ばす為の方向舵(ほうこうだ)の役目をする。全長13.0cm、重さ70.3g。剣尾孔1個。ひ弱な女性にも投擲可能な軽量手裏剣である。

手裏剣術
(しゅりけんじゅつ)

●イザという時機、無駄な手裏剣を投げて威嚇打剣を打つな

 手裏剣は威嚇(いかく)の武器ではない。打った後、それにより敵を怯(ひる)ませ、敵の戦意を削(そ)ぐような武器ではない。手の裡(うち)に、持ち続ける武器である。
 したがって手裏剣を打って、それで威嚇しようなどと、ゆめゆめ思わないことだ。
 限りある種利権の本数を、一本でも威嚇に廻し、無駄打剣を打つと、敵からカウントダウンされて、残りの数を数えられる。

 手裏剣術で一番強いのは、術者の手の裡(うち)にある時で、無駄打剣を飛ばして、それで怯(ひる)み、戦意を失わせるという結末には中々運べないものである。

 むしろ威嚇打剣を打つことを避け、複数を相手にするときは、手元に対抗しうる有効本数を残しておくことである。手の裡にあるから強いのである。手裏剣を手の裡に持ってれば、どうなるか、予測不可能だから強いのである。
 手裏剣がもっとも有効な威嚇になるのは、敵の面前で手裏剣を打って見せ、「どうだ、凄いだろ」という、こけおどしの威嚇ではなく、手裏剣がしっかりと術者の手の裡(うち)に握られていて、「戦えば、これを相手にすることになるぞ」という、こちらの威嚇の方が大きい。
 その意味から考えても、日夜修練を積んでおいて、「万打自得」に努めるべきであろう。打ち損じがないという域まで、迫ることだろう。

 また、確実に自分が生き残りたいと考えるのなら、迷わず、深夜の侵入者には手裏剣を打つことだ。複数で渡り合う場合、後手に嵌(はま)っては取り返しのつかないことになる。飛び道具で渡り合う場合、先手必勝が生き残りの鍵となり、「敵の攻撃を受けておいて、次は、この手で……」などという甘い考えでは、後悔する展開で結末を迎えることになる。

 また、殺されない為には、兇悪犯に対し、激しく抵抗することである。刃物を持った相手の言いなりになり、何でも言うことを聞いてしまうと、総(すべ)てを取り上げられ、凌辱(りょうじょく)を受けた後で殺されることになる。

 兇悪犯罪の手口は、刃物や拳銃で脅(おど)すという遣(や)り方ではなく、ありったけの物を被害者から奪い去り、総てを取り上げれば、屈辱や、凌辱に継ぐ凌辱が待っており、その後、始末として最後は必ず殺されることである。
 昨今の兇悪犯罪の性質は、こうしたものへと移行してきている。決して、命越えをすれば助かるだろうなどという甘い考えや、希望的観測に縋(すが)らないことだ。

 これはアメリカなどの、拳銃の所持を認められている国でも、夜中の侵入者には迷わず拳銃を発砲することが許されている。夜中に他人が自分の敷地内に侵入したときや、その家の使用人が夜中に侵入したときでさえ、発砲が許されているのである。

 これは未(いま)だに、人間は「人類は皆兄弟」などという崇高(すうこう)な次元まで、人間はそんなに進化していないことを物語っている。
 日本では、人質事件でもハイジャック事件でも、人権擁護(ようご)の立場から、犯人であっても出来るだけ無傷で逮捕しようとするが、実際にテロリストと戦うには、テロリストを殺すか、自分が殺されるかのいずれかである。

 運悪く、押し込み強盗の複数集団が、拳銃を所持していたら、大抵の場合は右利きで、右手に拳銃を持っているので、拳銃に対して殺意を持っている銃口からは、自分の左側に見えるから、狙われている方は左側に逃げるようにしなければならない。射手から見て、右側に逃げれば腕は右側に開き、拳銃を握る脇が開くからだ。しだがって、狙われている方は、左側に逃げればよい。

 左側に逃げれば、拳銃の射手は右側に腕や脇が開くことになり、発射した弾丸は流れ弾になる場合が多い。万一、発砲状態になったならば、射手から見て右側、狙われている自分の方から見て左側に逃げて、その隙(すき)に逃げるか、応戦するならば左へ躰(からだ)を移動しつつ、抗(あらが)う術を用いなければならない。
 そして、一旦応戦態勢に入ったならば、迷わず、躊躇(ちゅうちょ)することなく、命賭けで徹底的に戦わねばならない。

 手裏剣は、堅く敷き詰まった「畳を起す道具」にも使えるので、畳を防弾チョッキ代わりに使うことも有効であろう。畳を楯(たて)にして3〜4mくらい離れていれば、小型拳銃の22口径や38口径くらいは防げるであろう。また、布団も有効であり、拳銃弾の銃創を浅くしたり、食い止めるのには効果がある。

手裏剣は堅く敷き詰まった畳を起す道具にもなる。突然の侵入者が拳銃やコンバットナイフなどで武装して押し入ってきた場合、畳はそれらの武器の防禦の楯のなる。
 まず、手裏剣で畳の縁
(へり)の部分を突き刺し、畳を持ち上げ、起して垂直に立て、これを楯にする。
 3〜4m程度離れていれば、拳銃弾は簡単に貫通することはなく、ナイフを投げたとしても畳で防げるのである。床藁
(とこわら)の目の絞まった、昔ながらの本床畳は突き刺しても、日本刀やナイフでは貫通できない。

 布団や毛布は、刃物の場合は更に有効で、寝室の押し入られたときは布団や毛布で防禦楯(ぼうぎょたて)とし、刃物の抑止をこうしたもので行う訓練も、一度シュミレーションするべきであろう。
 そして、忘れてはならないことは、仮に単独犯であったとしても、刃物やその他の兇器を持った強盗に対し、素手で組み付いたり、素手で格闘しないことである。自分もそれに対応できる武器を持つか、布団や毛布で防禦楯を作り、その「術」を充分に研究しておくべきである。

 まず、深夜、他人の家に押し込んでくるような犯罪者に迷わず反攻すべきである。押し入ること事態が家宅侵入であり、その上、暴力を振るうのであれば、殺人未遂を企てていることになる。これに抗(あらが)う権利は、被害を被っている方にもあるのである。
 兇悪犯に対しては、断固徹底的に反攻すべきである。反攻すべき時に、反攻せず、その機会を失えば後は殺されるだけである。こうして、何の罪もない人が殺されていく。権利は加害者の人命だけにあるのではなく、被害を被っている被害者の人命をもっと優先すべきである。

 また、この事が外国の警察や軍隊と、日本の警察の大きく異なる点であろう。外国人の正義と日本人の考える情緒的で感傷的な正義の違いであろう。
 日本では、世論やマスコミが人権擁護の立場を貫かないと煩(うるさ)く嘴(くちばし)を挟むようになっている。これは日本人が情緒的で感傷的な国民気質を持つことに端(たん)を発している。その為、警察力もこれらを気にして、死傷者を出さないように、気長に時間を掛けて手緩(てぬる)い人権擁護的な鎮圧に懸(か)かる。

 ところが外国では、犯人側の死者が何人でようが、必要な火力を使って一気に片付けてしまう。これは事件解決に時間が掛かり、長引くことの方が問題にされるからである。ある意味で、加害者には厳しい、毅然(きぜん)とした態度を示すことの方が重大であると考えているからだ。

 人間が人生を生きていくということは、自他共に「圧力」を行使することで、その人の存在が保たれている。人間はどんなに綺麗(きれい)なことを言っても、ある意味で、「自分が生きる」ということは、他の生命を犠牲にして、自分が生き残るということである。この原則を忘れてはならない。
 したがって人生は、釈尊(しゃそん)が言うように「苦」に集約され、そこには「痛みが伴う」という現象が起こる。

 人生は、「苦しみ」であるとともに、また「痛み」でもある。何の罪もないと言っても、人が一人、何十年も生きるということは、他の生命を犠牲にし、あるいは他の生命を食って生きているのである。それだけ人は、生命を殺傷してきたことになる。その最たるものが、食肉などの動物性の食物であろう。

 人間以外の、食われる運命にある牛や豚などの動物は、自分の命を人間に捧(ささ)げる為に生まれてくるようなものである。これを率直に凝視すれば、彼等の人生もまた「苦しみ」であり、「痛み」である。
 こうした「痛み」を共に分配するならば、また、人間の人生も痛みが伴う「苦」であり、この「痛み」については、単に耐えるだけでなく、慣れるしかないだろう。

 苦しみも痛みも、慣れれば、喩(たと)え窮地(きゅうち)に陥っても、新たな打開策を見出すものである。諦めてはならないのである。最後の最後、その土壇場(どたんば)においても、切羽詰った次元から、新たなる打開策を探す努力を怠ってはならないのである。まずは、生き抜くことであり、生き残ることである。今まで、他の生命を奪って生きてきたのだからだ。

 その為の鍵となる手裏剣は、九死に一生を得る為の、また、生き残る為の道具になるべきもので、これを単に「卑怯な飛び道具」と一蹴(いっしゅう)してはならないのである。

 

●生き残りを賭けて

 手裏剣術の根底に在(あ)る戦闘思想は、生き残る為の手段としてそれを確実にする為に、本来はこの術理が発達してきたと思う。
 剣術家が剣で相(あい)対峙する前に、投擲武器としての手裏剣を用いる技術は、本来表裏一体のものであり、手裏剣を打ち込むことと、斬りつけることは同じ意味を持っていた。そして、手裏剣を敵に打ち込んだ場合、即座に飛んで出て相手を斬り倒した。

 ここに「卑怯な飛び道具」のイメージはない。凶器を持つ敵に対し、飛び道具で対抗するのは、むしろ正攻法であるとさえいえる。
 しかし、時代が下がり江戸中期頃になると、その後の近代では、競技的な果し合いや、旦那芸的(だんなげいてき)な武芸が主流となり、また、腕力勝負が中心となり、「飛び道具を使うのは卑怯(ひきょう)だ」というような、大衆感覚の世論が生まれるようになった。

 それは江戸中期の大相撲が、土俵を発明したことにより、土俵の平面円で力合戦を繰り広げ、円の外に出たら負けとか、手を付いたら負けとかの、ド素人にも分かり易いルールが生まれたことで、物を持って戦うとか、物を投げて戦うとかが、卑怯な振る舞いとされたのである。
 これにより、特に飛び道具は、卑怯な手段の代名詞とされることになる。

 つまり、ルール化される中で、誰の眼から見ても公正であり、公平であるという意識を作り出す為であった。日本人大衆の情緒的で感傷的な国民気質は、こうした意識の中に発生したのかも知れない。

 ところが、実際に乱戦となると、ルール的な要素は微塵(みじん)もなくなる。総て非情なものとなる。情け容赦(ようしゃ)がない。しかし、人間の死闘をルール的な意識でしか観(み)ることの出来ない人は、「乱戦」や「乱闘」の意味が正確に理解できない。表面的に見れば、残忍な行為に映るだけである。

 しかし、現象人間界やそれを取り巻く大自然は、本来は「無分別」であり、温情も非情も存在しないのである。実に無常である。
 また、善悪すら存在せず、今日の善悪は、人間側が判断する、人間の基準における善悪である。したがって、善悪すら存在しないことになる。
 もし、存在として、その価値が別れるものがあるとすれば、「存在」「非存在」の関係だけである。

 手裏剣術の戦闘理論は、「斃(たお)すべき時機(とき)は斃す」ということである。これに迷いは要(い)らない。躊躇(ちゅうちょ)することも許されない。これこそが、「生き残る為の条件」である。

 今日、外国に比べれば比較的安全といわれる日本でも、時代が下がるにしたがって、不穏な様相を呈してきた。現代人は、年齢が下になるほど、不躾(ぶしつけ)であり、礼儀知らずが多くなる。その礼儀知らずの序列も、団塊の世代、団塊の世代ジュニア、団塊の世代ジュニアの子供というふうに、段々年齢が若くなっていくほど、礼儀知らずやマナーの状態は悪くなり、したがって、それだけ人命も軽視される意識が働いているようだ。
 それだけに、世の中は不穏の傾向にある。

 いつなんどき、刃物を持った精神異常者が路上で、摩(す)れ違いざまに襲ってくるかも知れない。また、深夜、家族が寝静まった頃、複数の侵入者がガラスを叩き割って、雨戸を壊して、押し込み強盗風に侵入してくるかも知れない。
 とりわけ、外国などで頻繁(ひんぱん)に起こっている無差別テロも、やがて日本国内に押し寄せて、日常生活の中で現実化するかも知れない。
 更には、文明生活を根底から狂わせる大地震などの大異変がいつ起こっても、不思議でない状態になっている。

 こうした意味で、現代社会は危険と隣り合わせの世の中であるといえる。このような現世にあって、万一の場合の「抗う術」のシュミレーションだけは模索する必要があろう。
 とりわけ、テロリストにどう対処するか、近年の大きな社会問題になりつつある。日本も例外ではないだろう。

 こうした殺人集団は、時と場所を選ばず、拳銃やその他の火砲を浴びせ、爆発物を仕掛け、女子供が巻き添えになろうと、全く気に掛けない。こうした集団が、万一、わが家に侵入してきた場合、どう対処するか考えておくべきである。

 テロリストは初期段階で発見し、自分が狙われているのではないか、わが家が押し込み強盗のターゲットになっているのではないか、あるいは押し込み殺人を仕掛けられているのではないかという、疑いと注意を払うことから始まる。安易に、自分や自分の家族は例外であるなどと思わないことである。

 またテロリストを発見するには、初期の段階でこれを知ることが大事であり、犯罪者の心理として、押し込み強盗や、押し込み殺人を実行する前には、必ず「下見をする」という行動を起すので、不審な人間や不審な車を見かけたときは、安易に自分とは無関係と思うのではなく、まず疑ってみることだ。

 日本人は、ややともすると他人の行動などについて無関心を装ってきた。無関心でいることが一種の美徳のように考えてきた。しかし、これからはこうした考え方は、思考者の命取りになるだろう。
 興味本位や、バーチャル恋愛ゲームのストーカーも激増している今日、不審な人間を見かけたときは、まず注意を払って観察し、これに警戒することである。長時間不審な車が止まったり、得体の知れないものが放置されている場合は、直ぐに警察や契約しているセキュリティー会社などに通報すべきだろう。

 人間の本性は善人半分、悪人半分と考えるべきである。どんな国にも、その国のどんな地域にも、県民性がよいといったところで、陽気な人間が半分いれば、陰気な人間も半分いる。故郷自慢で善人ばかりのような地方でも、この地域が総て善人ばかりとは限らない。
 善人が半分いるということは、またそれに対峙(たいじ)して、悪人とは言わないまでも、何を考えているか分からないような陰湿な人間も半分いると言うことだ。

 つまり、人の世で、人間の種類とレベルを色分けすれば、敵に属するものや敵性に属するものが50%の確率で存在するということである。
 敵や敵性に属するものを警戒する為には、常に一定の距離を置き、これを鉄則として終始変わりなく厳守することが、長く生き残る為の必須条件となる。

 人間への危機は、天災だけではなく、人災もまた同じように私たちの命を狙っているのである。世の中は年々治安が悪くなり、益々悪化する一方である。それらをどう切り抜けるか、それは現代人の生存の為の課題であろう。

 そして、想像も絶する大事故や大事件に見舞われることが、世界中の各地で起こっているが、それでも九死に一生を得る人がいる。死地から生還する人がいるのである。
 したがって、「九死」と「一生」の、どちらの属するかを考えた場合、やはり誰でも「一生の側」に残ることを考えるはずである。

 災害や不慮に事故に対して「保険」というものがある。「保険」は、災害に遭ったり、不慮の事故に遭遇した場合、襲われて死傷したりした場合は、家族に支払われたり、怪我や病気をした場合はそれについて支払われるものである。一種の「備え」である。

 この「備え」を考えた場合、「生き残る為に投じられる努力とそのエネルギー」は、咄嗟(とっさ)の防禦策として実戦の域にまで高めておく手裏剣術の修練も、実は「保険」と考えることが出来まいか。決して、覚えておいて無駄になる代物ではない。
 実戦で実証されたものは、何よりも頼りになるものである。

 

●実戦では技術だけではどうにもならない

 生き残りを賭(か)けての戦いは、その場その場の臨機応変さがものをいうが、その根底には「他力一乗(たりきいちじょう)の精神がなければならない。「他力一乗」に迫れば、それは一種の「出たとこ勝負」であるが、その根底には生死を超越した心境が養われていなければならない。
 また「他力一乗」を確立するには、死を超越した領域のものが養われておらなければならず、死からひたすら逃れるのではなく、「生死からの解脱」が大事となる。

 人間の兵法修行の根本は、「生死の超越」にある。「武の道」には、生も死もない。
 生死の超越を伝える逸話に、江戸初期の武芸者で将軍家指南役の柳生宗矩(やぎゅう‐むねのり)の話がある。

 このとき、宗矩の門に、ある一人の入門を願い出た武士が居た。宗矩はこの武士を一目見て、次のように言った。
 「ご貴殿は一流の流儀を会得し、それに達した方とお見受けする。その方が、なにゆえ、わが流に入門されようとするのか」
 「それがしくは、一度も武芸を修行した事がありません」
 「武芸の修行をしたことがないなどと、何を言われるか。ならば、予を試しに来たのか。予は将軍家指南役を仰(おお)せつかう柳生宗矩じゃ。予の目の偽ることは出来ぬぞ」
 こう言って宗矩は、この武士に構える体勢を示した。

 この武士は、生まれて以来の素性を淡々と語り始めた。
 「それがしは子供の頃から、武士は命を惜しんではならぬと、父母から厳しく言い聞かされて育ちました。それがしは、いつもこのことばかりを心に掛けて、今では、死ぬことを何とも思わなくなりました。この他に思い当たる事は何も御座いません」
 入門を願い出た武士は、宗矩にそう応えたのである。

 宗矩は、これを聞いてたいそう感心して、
 「兵法の極意は、まさにその一点に尽きる。これまで予には数人の高弟がいたが、誰一人として極意を許した者はいない。ご貴殿は、予の門に入り、あらためで剣術を学ぶ必要は御座らぬ」

 宗矩はそう言って、この武士に『柳生新陰流』の免許皆伝の巻物を与えたという。
 その後、宗矩はこの武士の事を、次のように語ったという。

 「大剛になし。死生(しじょう)の悩みを解脱した人は、まさに真人であり、この人はもはや武術の必要などない」と。

 武術の修行は、本来武士階級によって修練され、血と汗によって伝承され、それが日本の伝統武術になってきたわけである。そして、この根底にあったものは「殺さねば、殺される」という素朴な死生観であった。生と死を超越し、生に固執しない態度である。この態度をもって、まっしぐらに敵の心肝に突入するのが武術である。自分の生き死には関係ないのである。

 一撃により、忽(たちま)ちに首と胴が離れるのが武術である。必死必殺の「道」が武術なのである。この必死必殺において、何を迷うことがあろう。

 また、必死必殺について、次のような逸話も在る。
 江戸期の中期以降の頃、尾張藩に星野勘左衛門(ほしの‐かんざえもん)という武芸に優れた剣豪がいた。当時、尾張藩の家老は大の相撲好きで、丁度その頃、江戸の大相撲から剛力を備えた力士が尾張に巡業に来ていた。
 この力士は、大変な力持ちで、五百石積みの船の碇(いかり)を片手で易々と振り回す程の力持ちだった。天下無敵の様相を呈していたといってよい。家老は、この力士にたいそう惚(ほ)れ込んでいた。

 ある日、星野勘左衛門は、所用で家老宅に赴いたことがあった。その時、家老は勘左衛門に、たっての願いとして、「その方は、この力士と試合をしてみよ」と仰(おお)せつかった。勘左衛門は、「わたしは武士でありますゆえ」と、これを何度も辞退した。
 ところが家老は、切なる願いと称して、この辞退を退(しりぞ)け、勘左衛門の願いは聞き入れれぬまま、その願いは空しく、止むを得ず、後日試合をする運びとなってしまった。

 遂に試合の日が来た。
 力士は締め込み姿で裸となり、四股(しこ)を踏み、既に試合の準備は整っていた。ところが勘左衛門は紋付袴(もんつきはかま)のままで、腰には二刀の大小を指したままであった。

 行司(ぎょうじ)がこれを見て、「相撲をとるのに刀を差すのはお門違(かどちが)い。さっそく刀を外されよ」と咎(とが)めた。
 これに対して、勘左衛門は次のように応えた。
 「わたしは武士であって相撲取りではない。わたしは再三再四断ったにも拘(かかわ)らず、ご家老の望みで、止むを得ず試合をする羽目となった。しかし、武士として大小の二刀を指し、これで応じるのが武士の作法です」と申し述べたのである。

 力士は、この勘左衛門の言に、傲慢(ごうまん)にも、「お前は本当は、俺から無態(ぶざま)に張り手の一撃で張り殺されるか、投げ殺されるのが怕(こわ)いのだろう」と言い放ち、勘左衛門に掴みかかった。勘左衛門はこの凌辱(りょうじょく)に等しい力士の傲慢を、すかさず躱(かわ)し、抜き打ちをもって、一刀の下(もと)に、袈裟斬(けさぎ)りで力士を切り捨ててしまった。

 これを見ていた周りの者は、一瞬唖然(あぜん)となり、暫(しばら)く経って、驚いて騒ぎ出すと、勘左衛門は家老の下に進み出て、「武士が勝負を戦うというのは、このようなものであると存じます。興行相撲取り風情(ふぜい)に、武士の命を手玉に取られたくはありません。わたくの命は忠義を貫く為にあるのであり、相撲取りと試合する為にあるのではありません」

 こう言って勘左衛門は、一礼をして去っていった。家老はこれに対し激怒したが、あまりのも咄嗟(とっさ)のことで、どうしようもない状態になってしまった。
 ただ、そこに居た重臣の一人が、「星野勘左衛門の起居(たちい)振る舞いは、武士として当然のことである。武士が相撲取りと試合をするなどは、筋違いも甚だしい。これは家老の方に誤りがあり、勘左衛門には一切の非がない」と言ったという。

 現代人も、素手では素手、刃物では刃物と、目には目を、歯には歯をと考え勝ちだが、本来人間には、「分際」というものと、「立場」というものがある。分際を弁(わきま)えず、立場を弁えない者に対しては、やはり星野勘左衛門の行動律も、尤(もっと)もだと言えるであろう。
 しかし、誇りが失われ、分際と立場が失われている今日、やはりこれくらいの気構えがなければ、現代の混沌(こんとん)とする、激動の世の中は生きていくことが出来ないであろう。

 深夜、わが家に押し込み強盗や、押し込み殺人の兇悪犯が侵入したとしよう。この時の攻防戦は、生き残りの攻防戦であるから、兇悪犯である敵に、命の尊厳やその尊さというものは全く考える必要がないのである。
 殺されてしまえば、「死人に口なし」である。後で、犯行を犯した兇悪犯は、幾らでもウソを言い並べることが出来るのである。加害者保護の立場から、擁護派弁護士を通じて、詭弁(きべん)も幾らでも吐けよう。
 
伊達順之助
 
 また、日中戦争の当時、満洲(まんしゅう)で日本人馬賊として活躍していた伊達順之助(だて‐じゅんのすけ)のも、次のような逸話が残っている。
 順之助が若い頃、東京でヤクザと諍(いざか)い事を起し、暫(しばら)く揉(も)めていたが、漸(ようや)く手打ちの段となった。ところがヤクザ側には魂胆があり、順之助を葬(ほうむ)ろうとする画策があった。

 この手打ちにおいて、ヤクザの親分が親善に見せ掛けた握手を求めてきた。しかし、これには魂胆があり、握手と見せ掛けて、匕首(あいくち)で順之助を刺す肚(はら)であった。
 この時、順之助は素早くこの罠(わな)を見抜き、迷わず、握手を求めるように見せ掛けたヤクザの親分を拳銃で撃ち殺している。
 この事件で順之助は日本にいられなくなり、満洲に渡るが、危機が迫っている際に迷わず、暗殺者に向けて発砲したイザという時の、身の処し方は、星野勘左衛門が、傲慢な相撲取りを一瞬にして袈裟斬りにした、あの臨機応変さに匹敵するものである。

 人間は、戦うべきときには、戦わねばならぬのである。これに躊躇(ちゅうちょ)を覚えたり、些(いささ)かの迷いが起れば、それは自分の命を失うことを意味するのである。
 生き残りを賭(か)けての、立ち上がるべき乾坤一擲(けんこんいってき)のその刹那(せつな)、何事かに迷い、これを漠然と、運を天に任せては、生き残れないのである。

 生き残りは、単に「期待」だけでは、どうにもならないのである。わが身に降り懸(かか)る危険は徹底的に排除し、切り抜ける「抗(あらが)う術」を養っておかねばならない。

 この現代という時代に、暴力が否定され、加害者すらも人権を主張する今日、進歩的文化人の言だけに言い負かされていれば、その犠牲になる被害者は、常に人権を踏みにじられてしまう運命が免れないだろう。そして、理不尽な暴力に殺されれば、「殺され損」ということになる。

 昭和43年2月20日夜、静岡県清水市内のクラブ「みんくす」で、暴力団との手形の縺(もつ)れから、2人の男を射殺した在日韓国人二世の金嬉老(日本語読みは、きん‐きろう。韓国語読みはキム‐ヒロで、本名は権禧老クォン‐ヒロ)は、その後、静岡県榛原郡川根本町の寸又狭温泉(すまたきょうおんせん)に逃亡し、とある旅館に立て籠(こ)もった。
 この時、旅館の経営者一家と宿泊中の客13名を人質として、88時間にわたり籠城(ろうじょう)した。そして在日コリアン差別問題と絡めて、警察官に謝罪を要求した。

 この事件が発生後、籠城する様子がテレビ等で実況・放映された。その上、この事件に関連する警察官がテレビ出演するなどした。評論家の大宅壮一がこれを評して、この事件は警察がメディアを使い、在日コリアン差別問題として仲介しているようだと述べた。また、これが「劇場型犯罪」に近い様相を見せていたのである。この事件は「寸又峡事件」とも呼ばれている。

 旅館に立て籠もった金嬉老は、警察が謝罪することを人質解放条件として要求し、それ以外の要求がなかった為、差別問題と絡めて報道されるに至った。また韓国でも、この事件の報道が行われた。韓国マスコミでは、金嬉老が「差別と戦った英雄」として取り上げたのである。人質事件を犯した犯人を、英雄に摩(す)り替えてしまったのである。

 この事件当時、金嬉老が所持していた兇器は、ライフル銃と実弾1200発以上。更に、120本のダイナマイトを所持しており、旅館の経営者一家と、泊り客10人を人質にして、約3日間強にわたり、狂気のドラマを自作自演で演じたのである。これにより、平和な山間であった寸又峡の部落は、恐怖のどん底に落とし入れられた。

 この異常な事件は、日本人に様々な反響を呼んだ。しかし、金嬉老は人質までを取って立て籠もった兇悪犯人であるにもかかわらず、この当時、進歩的文化人たちは、その行為を民族問題にすり替え、犯人・金嬉老を励まし、更には正当化して英雄にまで仕立てたのである。
 金嬉老の行為は、当時、全共闘たけなわであり、口で「反戦」や「平和」を叫びながら、角材や投石などの兇器を用意して、集団で、善良な市民を脅かした学生運動の行動と比較されることがある。つまり、主義主張の為には、暴力肯定が大前提であり、その兇悪的な行為は問題ではないという考え方である。

 この事件をきっかけに、その後の学生運動は、学生の仮面を被った暴力肯定論者によって正当化され、暴力行為が是認されることになるのである。また、この時代以降、日本人はこうした暴力行為を傍観(ぼうかん)するという態度に出るようになり、その一方で、加害者側の人権が、左翼的な思想に凝り固まる新聞によって取り上げるようになる。そして、兇悪事件に遭遇し、襲われて死亡したり、辛うじて生き残っても、その後の生涯に後遺症を抱えてしまった被害者側の人権は、今日でもない、殆ど尊重されない状態にある。
 こうした現代社会を、私たちは、一体どう生きればよいのだろうか。

 やはり、今こそ、心の拠(よ)り所として、精神的な支柱がいるのではあるまいか。
 この事について、江戸末期の剣豪で、更には居合術の達人であった忠孝心貫流【註】心抜流であり、真貫流とも、また心貫流とも。この流派は上泉伊勢守秀綱の門人であった、信抜流剣術および居合術の祖・奥山左衛門大夫忠信に始まる。左衛門大夫忠信は浅山一伝斎重晨の師ともいわれる)の平山行蔵(ひらやま‐いくぞう)は、その『忠孝心貫流規訓』に、次のように述べている。

 「敵の撃刺(げきし)にかまわず、この五体をもって敵の心胸を突いて背後にぬけとるを心にて踏み込まざれば、敵の体にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進して不倦(うまず)、刻苦して不厭(いとわず)、思ひをつみ功を尽くすときは、しない太刀を取って立ち向かうと、自然と敵があとすざりし、面(おもて)を引くようになる。如斯(かくのごとし)にならざれば、真実の勝負は中々存知(ぞんじ)よらざること也」と。

 この規訓によれば、人間は生き死において、殺すか殺されるかと真剣になって修行することにより、はじめて大事に臨む場合の「生死」が明らかになると説いている。
 生にあっては「生の道」を尽くし、死にあっては「死の道」を尽くす。それが誠の人間になることが出来る「武の道」だと教えているのである。死生観を超越することを教える。

 つまり、死生観を超越する為には、殺すか殺されるかのギリギリのところまで、詰めていって、その「殺される後(あと)一歩」というところから生還しなければならないと説いているのである。

 こうした観点で、今日の武術や武道を見廻すと、今の日本において、これに値する精神までをひっさげた「武の道」を説いている流派は、果たして如何ほど在(あ)るだろうかと思わざるを得ない。
 武道と名のつくものの、その殆どが、競技的にゲーム化され、あるいは演武事などに集約され、規則を決めて危険をなくし、これらのルールの中でのみ展開する、単にスポーツや体育に成り下がっているものも少なくないのである。しかし、殺したり殺されたりのない、技術本位の競技武道では、「生き残り術(サバイバル)」としての領域を失っているのではあるまいか。


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