トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流手裏剣術(二)>> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
布団や毛布は、刃物の場合は更に有効で、寝室の押し入られたときは布団や毛布で防禦楯(ぼうぎょたて)とし、刃物の抑止をこうしたもので行う訓練も、一度シュミレーションするべきであろう。 まず、深夜、他人の家に押し込んでくるような犯罪者に迷わず反攻すべきである。押し入ること事態が家宅侵入であり、その上、暴力を振るうのであれば、殺人未遂を企てていることになる。これに抗(あらが)う権利は、被害を被っている方にもあるのである。 また、この事が外国の警察や軍隊と、日本の警察の大きく異なる点であろう。外国人の正義と日本人の考える情緒的で感傷的な正義の違いであろう。 ところが外国では、犯人側の死者が何人でようが、必要な火力を使って一気に片付けてしまう。これは事件解決に時間が掛かり、長引くことの方が問題にされるからである。ある意味で、加害者には厳しい、毅然(きぜん)とした態度を示すことの方が重大であると考えているからだ。 人間が人生を生きていくということは、自他共に「圧力」を行使することで、その人の存在が保たれている。人間はどんなに綺麗(きれい)なことを言っても、ある意味で、「自分が生きる」ということは、他の生命を犠牲にして、自分が生き残るということである。この原則を忘れてはならない。 人生は、「苦しみ」であるとともに、また「痛み」でもある。何の罪もないと言っても、人が一人、何十年も生きるということは、他の生命を犠牲にし、あるいは他の生命を食って生きているのである。それだけ人は、生命を殺傷してきたことになる。その最たるものが、食肉などの動物性の食物であろう。 人間以外の、食われる運命にある牛や豚などの動物は、自分の命を人間に捧(ささ)げる為に生まれてくるようなものである。これを率直に凝視すれば、彼等の人生もまた「苦しみ」であり、「痛み」である。 苦しみも痛みも、慣れれば、喩(たと)え窮地(きゅうち)に陥っても、新たな打開策を見出すものである。諦めてはならないのである。最後の最後、その土壇場(どたんば)においても、切羽詰った次元から、新たなる打開策を探す努力を怠ってはならないのである。まずは、生き抜くことであり、生き残ることである。今まで、他の生命を奪って生きてきたのだからだ。 その為の鍵となる手裏剣は、九死に一生を得る為の、また、生き残る為の道具になるべきもので、これを単に「卑怯な飛び道具」と一蹴(いっしゅう)してはならないのである。
●生き残りを賭けて 手裏剣術の根底に在(あ)る戦闘思想は、生き残る為の手段としてそれを確実にする為に、本来はこの術理が発達してきたと思う。 ここに「卑怯な飛び道具」のイメージはない。凶器を持つ敵に対し、飛び道具で対抗するのは、むしろ正攻法であるとさえいえる。 それは江戸中期の大相撲が、土俵を発明したことにより、土俵の平面円で力合戦を繰り広げ、円の外に出たら負けとか、手を付いたら負けとかの、ド素人にも分かり易いルールが生まれたことで、物を持って戦うとか、物を投げて戦うとかが、卑怯な振る舞いとされたのである。 つまり、ルール化される中で、誰の眼から見ても公正であり、公平であるという意識を作り出す為であった。日本人大衆の情緒的で感傷的な国民気質は、こうした意識の中に発生したのかも知れない。 ところが、実際に乱戦となると、ルール的な要素は微塵(みじん)もなくなる。総て非情なものとなる。情け容赦(ようしゃ)がない。しかし、人間の死闘をルール的な意識でしか観(み)ることの出来ない人は、「乱戦」や「乱闘」の意味が正確に理解できない。表面的に見れば、残忍な行為に映るだけである。 しかし、現象人間界やそれを取り巻く大自然は、本来は「無分別」であり、温情も非情も存在しないのである。実に無常である。 手裏剣術の戦闘理論は、「斃(たお)すべき時機(とき)は斃す」ということである。これに迷いは要(い)らない。躊躇(ちゅうちょ)することも許されない。これこそが、「生き残る為の条件」である。 今日、外国に比べれば比較的安全といわれる日本でも、時代が下がるにしたがって、不穏な様相を呈してきた。現代人は、年齢が下になるほど、不躾(ぶしつけ)であり、礼儀知らずが多くなる。その礼儀知らずの序列も、団塊の世代、団塊の世代ジュニア、団塊の世代ジュニアの子供というふうに、段々年齢が若くなっていくほど、礼儀知らずやマナーの状態は悪くなり、したがって、それだけ人命も軽視される意識が働いているようだ。 いつなんどき、刃物を持った精神異常者が路上で、摩(す)れ違いざまに襲ってくるかも知れない。また、深夜、家族が寝静まった頃、複数の侵入者がガラスを叩き割って、雨戸を壊して、押し込み強盗風に侵入してくるかも知れない。 こうした意味で、現代社会は危険と隣り合わせの世の中であるといえる。このような現世にあって、万一の場合の「抗う術」のシュミレーションだけは模索する必要があろう。 こうした殺人集団は、時と場所を選ばず、拳銃やその他の火砲を浴びせ、爆発物を仕掛け、女子供が巻き添えになろうと、全く気に掛けない。こうした集団が、万一、わが家に侵入してきた場合、どう対処するか考えておくべきである。 テロリストは初期段階で発見し、自分が狙われているのではないか、わが家が押し込み強盗のターゲットになっているのではないか、あるいは押し込み殺人を仕掛けられているのではないかという、疑いと注意を払うことから始まる。安易に、自分や自分の家族は例外であるなどと思わないことである。 またテロリストを発見するには、初期の段階でこれを知ることが大事であり、犯罪者の心理として、押し込み強盗や、押し込み殺人を実行する前には、必ず「下見をする」という行動を起すので、不審な人間や不審な車を見かけたときは、安易に自分とは無関係と思うのではなく、まず疑ってみることだ。 日本人は、ややともすると他人の行動などについて無関心を装ってきた。無関心でいることが一種の美徳のように考えてきた。しかし、これからはこうした考え方は、思考者の命取りになるだろう。 人間の本性は善人半分、悪人半分と考えるべきである。どんな国にも、その国のどんな地域にも、県民性がよいといったところで、陽気な人間が半分いれば、陰気な人間も半分いる。故郷自慢で善人ばかりのような地方でも、この地域が総て善人ばかりとは限らない。 つまり、人の世で、人間の種類とレベルを色分けすれば、敵に属するものや敵性に属するものが50%の確率で存在するということである。 人間への危機は、天災だけではなく、人災もまた同じように私たちの命を狙っているのである。世の中は年々治安が悪くなり、益々悪化する一方である。それらをどう切り抜けるか、それは現代人の生存の為の課題であろう。 そして、想像も絶する大事故や大事件に見舞われることが、世界中の各地で起こっているが、それでも九死に一生を得る人がいる。死地から生還する人がいるのである。 災害や不慮に事故に対して「保険」というものがある。「保険」は、災害に遭ったり、不慮の事故に遭遇した場合、襲われて死傷したりした場合は、家族に支払われたり、怪我や病気をした場合はそれについて支払われるものである。一種の「備え」である。 この「備え」を考えた場合、「生き残る為に投じられる努力とそのエネルギー」は、咄嗟(とっさ)の防禦策として実戦の域にまで高めておく手裏剣術の修練も、実は「保険」と考えることが出来まいか。決して、覚えておいて無駄になる代物ではない。
●実戦では技術だけではどうにもならない 生き残りを賭(か)けての戦いは、その場その場の臨機応変さがものをいうが、その根底には「他力一乗(たりきいちじょう)」の精神がなければならない。「他力一乗」に迫れば、それは一種の「出たとこ勝負」であるが、その根底には生死を超越した心境が養われていなければならない。 人間の兵法修行の根本は、「生死の超越」にある。「武の道」には、生も死もない。 このとき、宗矩の門に、ある一人の入門を願い出た武士が居た。宗矩はこの武士を一目見て、次のように言った。 この武士は、生まれて以来の素性を淡々と語り始めた。 宗矩は、これを聞いてたいそう感心して、 宗矩はそう言って、この武士に『柳生新陰流』の免許皆伝の巻物を与えたという。 「大剛になし。死生(しじょう)の悩みを解脱した人は、まさに真人であり、この人はもはや武術の必要などない」と。 武術の修行は、本来武士階級によって修練され、血と汗によって伝承され、それが日本の伝統武術になってきたわけである。そして、この根底にあったものは「殺さねば、殺される」という素朴な死生観であった。生と死を超越し、生に固執しない態度である。この態度をもって、まっしぐらに敵の心肝に突入するのが武術である。自分の生き死には関係ないのである。 一撃により、忽(たちま)ちに首と胴が離れるのが武術である。必死必殺の「道」が武術なのである。この必死必殺において、何を迷うことがあろう。 また、必死必殺について、次のような逸話も在る。 ある日、星野勘左衛門は、所用で家老宅に赴いたことがあった。その時、家老は勘左衛門に、たっての願いとして、「その方は、この力士と試合をしてみよ」と仰(おお)せつかった。勘左衛門は、「わたしは武士でありますゆえ」と、これを何度も辞退した。 遂に試合の日が来た。 行司(ぎょうじ)がこれを見て、「相撲をとるのに刀を差すのはお門違(かどちが)い。さっそく刀を外されよ」と咎(とが)めた。 力士は、この勘左衛門の言に、傲慢(ごうまん)にも、「お前は本当は、俺から無態(ぶざま)に張り手の一撃で張り殺されるか、投げ殺されるのが怕(こわ)いのだろう」と言い放ち、勘左衛門に掴みかかった。勘左衛門はこの凌辱(りょうじょく)に等しい力士の傲慢を、すかさず躱(かわ)し、抜き打ちをもって、一刀の下(もと)に、袈裟斬(けさぎ)りで力士を切り捨ててしまった。 これを見ていた周りの者は、一瞬唖然(あぜん)となり、暫(しばら)く経って、驚いて騒ぎ出すと、勘左衛門は家老の下に進み出て、「武士が勝負を戦うというのは、このようなものであると存じます。興行相撲取り風情(ふぜい)に、武士の命を手玉に取られたくはありません。わたくの命は忠義を貫く為にあるのであり、相撲取りと試合する為にあるのではありません」 こう言って勘左衛門は、一礼をして去っていった。家老はこれに対し激怒したが、あまりのも咄嗟(とっさ)のことで、どうしようもない状態になってしまった。 現代人も、素手では素手、刃物では刃物と、目には目を、歯には歯をと考え勝ちだが、本来人間には、「分際」というものと、「立場」というものがある。分際を弁(わきま)えず、立場を弁えない者に対しては、やはり星野勘左衛門の行動律も、尤(もっと)もだと言えるであろう。 殺されてしまえば、「死人に口なし」である。後で、犯行を犯した兇悪犯は、幾らでもウソを言い並べることが出来るのである。加害者保護の立場から、擁護派弁護士を通じて、詭弁(きべん)も幾らでも吐けよう。
順之助が若い頃、東京でヤクザと諍(いざか)い事を起し、暫(しばら)く揉(も)めていたが、漸(ようや)く手打ちの段となった。ところがヤクザ側には魂胆があり、順之助を葬(ほうむ)ろうとする画策があった。 この手打ちにおいて、ヤクザの親分が親善に見せ掛けた握手を求めてきた。しかし、これには魂胆があり、握手と見せ掛けて、匕首(あいくち)で順之助を刺す肚(はら)であった。 人間は、戦うべきときには、戦わねばならぬのである。これに躊躇(ちゅうちょ)を覚えたり、些(いささ)かの迷いが起れば、それは自分の命を失うことを意味するのである。 生き残りは、単に「期待」だけでは、どうにもならないのである。わが身に降り懸(かか)る危険は徹底的に排除し、切り抜ける「抗(あらが)う術」を養っておかねばならない。 この現代という時代に、暴力が否定され、加害者すらも人権を主張する今日、進歩的文化人の言だけに言い負かされていれば、その犠牲になる被害者は、常に人権を踏みにじられてしまう運命が免れないだろう。そして、理不尽な暴力に殺されれば、「殺され損」ということになる。 昭和43年2月20日夜、静岡県清水市内のクラブ「みんくす」で、暴力団との手形の縺(もつ)れから、2人の男を射殺した在日韓国人二世の金嬉老(日本語読みは、きん‐きろう。韓国語読みはキム‐ヒロで、本名は権禧老クォン‐ヒロ)は、その後、静岡県榛原郡川根本町の寸又狭温泉(すまたきょうおんせん)に逃亡し、とある旅館に立て籠(こ)もった。 この事件が発生後、籠城する様子がテレビ等で実況・放映された。その上、この事件に関連する警察官がテレビ出演するなどした。評論家の大宅壮一がこれを評して、この事件は警察がメディアを使い、在日コリアン差別問題として仲介しているようだと述べた。また、これが「劇場型犯罪」に近い様相を見せていたのである。この事件は「寸又峡事件」とも呼ばれている。 旅館に立て籠もった金嬉老は、警察が謝罪することを人質解放条件として要求し、それ以外の要求がなかった為、差別問題と絡めて報道されるに至った。また韓国でも、この事件の報道が行われた。韓国マスコミでは、金嬉老が「差別と戦った英雄」として取り上げたのである。人質事件を犯した犯人を、英雄に摩(す)り替えてしまったのである。 この事件当時、金嬉老が所持していた兇器は、ライフル銃と実弾1200発以上。更に、120本のダイナマイトを所持しており、旅館の経営者一家と、泊り客10人を人質にして、約3日間強にわたり、狂気のドラマを自作自演で演じたのである。これにより、平和な山間であった寸又峡の部落は、恐怖のどん底に落とし入れられた。 この異常な事件は、日本人に様々な反響を呼んだ。しかし、金嬉老は人質までを取って立て籠もった兇悪犯人であるにもかかわらず、この当時、進歩的文化人たちは、その行為を民族問題にすり替え、犯人・金嬉老を励まし、更には正当化して英雄にまで仕立てたのである。 この事件をきっかけに、その後の学生運動は、学生の仮面を被った暴力肯定論者によって正当化され、暴力行為が是認されることになるのである。また、この時代以降、日本人はこうした暴力行為を傍観(ぼうかん)するという態度に出るようになり、その一方で、加害者側の人権が、左翼的な思想に凝り固まる新聞によって取り上げるようになる。そして、兇悪事件に遭遇し、襲われて死亡したり、辛うじて生き残っても、その後の生涯に後遺症を抱えてしまった被害者側の人権は、今日でもない、殆ど尊重されない状態にある。 やはり、今こそ、心の拠(よ)り所として、精神的な支柱がいるのではあるまいか。 「敵の撃刺(げきし)にかまわず、この五体をもって敵の心胸を突いて背後にぬけとるを心にて踏み込まざれば、敵の体にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進して不倦(うまず)、刻苦して不厭(いとわず)、思ひをつみ功を尽くすときは、しない太刀を取って立ち向かうと、自然と敵があとすざりし、面(おもて)を引くようになる。如斯(かくのごとし)にならざれば、真実の勝負は中々存知(ぞんじ)よらざること也」と。 この規訓によれば、人間は生き死において、殺すか殺されるかと真剣になって修行することにより、はじめて大事に臨む場合の「生死」が明らかになると説いている。 つまり、死生観を超越する為には、殺すか殺されるかのギリギリのところまで、詰めていって、その「殺される後(あと)一歩」というところから生還しなければならないと説いているのである。 こうした観点で、今日の武術や武道を見廻すと、今の日本において、これに値する精神までをひっさげた「武の道」を説いている流派は、果たして如何ほど在(あ)るだろうかと思わざるを得ない。
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