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戦闘の本質を問う詭道の兵法

■ 合気手裏剣術■
(あいきしゅりけんじゅつ)

●長距離に手裏剣を打ち込む為には

 手裏剣を長距離に使用する為には、まず、手裏剣が「大型である」と言う事である。大型でなければ飛行距離を伸ばすことができないからである。したがってこれが飛行条件となる。
 一方、針手裏剣などの軽い手裏剣は飛行距離が伸びず、また野外では風雨に流されたり、手裏剣を打った場合の、手の裡(うち)のコントロールが奪われることになる。長距離には小型のものは不向きなのである。

 

▲回転打法の握り方(この写真は術者が左利きの場合を表す)

 さて、長距離での手裏剣の打ち込みは、「回転打法」という特異な打ち方でないと標的まで手裏剣を打ち出す事は出来ない。
 この打ち方は、手裏剣の回転する無駄な力を制御し、飛行距離を延ばすと言う稽古を積まなければならない。その上に、打って、「突き刺さる」と言う事が条件となる。
 直打法の【第一の打法】【第二の打法】と異なるのは、まず、「手裏剣が手離れをした瞬間に回転する」ということである。

 まず、手の裡に手裏剣を握るのは、「逆さにして、手裏剣の尖先を手の裡に納める」と言う事である。したがって剣尾(けんび)は中指の頭から突き出た恰好になり、剣尾側の側面を人指し指と薬指で手裏剣を挟む事になる。
 構えや打ち方は、直打法の場合とほぼ同じで、右側頭部(左利きの場合は逆)の上から、日本刀で上段から媒体に向かって切り降ろすような「本打ち」で打つのである。

 打ち方と手離れの瞬間の、手裏剣の進行図は次の通りである。

▲回転打法の手裏剣の飛行状態(クリックで拡大)

 回転打法で手裏剣を打ち込むと、まず手裏剣は手離れの瞬間、尖先(きっさき)が斜め下を向いたまま、斜立ちの状態で手離れし、飛行状態に入ってから、手裏剣に回転が伴うようになり、次に尖先を上に向けて立ち上がり、尖先が立ち上がつた状態から的に向かって、そこから90度回転して的に突き刺さる。的に突き刺さるまでの回転角度は、構えから標的に刺さるまでの全部で、540度であり、手裏剣は「一回転半」した事になる。

 こうした長距離の手裏剣を打つためには、まず手裏剣の全長の「長さ」というものが問題となり、この長さは、「回転率」と大きな関係を持っている。全長が短いと回転が多くなり、逆に長すぎると回転が少なくなり、標的を完全に刺し貫くことはできない。したがって理想的な手裏剣の「長さ」と「形」と、尖先部の刃の長さと剣尾の大きさとの関係が調和していなければならない。こうした調和のある大手裏剣が、風雨などに左右されず、長距離を打つことができるのである。

▲西郷派大東流手裏剣術で使う大型四稜手裏剣の全貌(クリックで拡大)

 わが西郷派大東流で用いる四稜大型手裏剣は、手裏剣の打法と手離れを計算して、手裏剣が回転を始めるのは、手裏剣が打ち込まれ、手離れし、標的まで全飛行距離とした場合、それが始まるのは約三分の一に差し掛かった頃からであり、斜に立ち上がり、立ったまま、飛行するのは約二間ほどである。
 したがって全飛行距離は六間から七間であり、メートル法に直すと、10.9〜12.7mである。こうした10m以上を飛行させるのであるから、小型の手裏剣ではあまり飛行距離が伸びず、寸法も短い為に回転し過ぎて途中でコントロール不能になり、更には的に届く前に途中で墜(お)ちたり、風雨の場合は、これらに流されると言った事で、長距離での打法は適さないのである。したがって、やはり大型の手裏剣が必要になるのである。

 大型手裏剣は携帯に嵩張るので、持ち運びに不便であるといった反面、長距離の間合いを持つ敵を打つという長所があり、「万打自得」の修練を積んで、少ない数の手裏剣で敵を打つという気魄が必要である。また、長距離を打つ打法は、棒手裏剣が回転するということを常に計算に入れておかなければならないので、こうした制御などの技術も会得することが大事である。

 回転打法での打ち方の心得は、棒手裏剣を挟んだ人指し指・中指・薬指の三指が手裏剣の側面の胴部を抑え、三指が一つの小銃などの「筒」と見立て、打ち込まれる時の手離れの瞬間に手頸(てくび)へ、調節を試みた「利かせ」を掛けなければならない。つまり手頸を利かせる為の、制御と抑止法である。また、手裏剣の長さと鰓部(えらぶ)の太さに応じて、指先から剣尾を出す長さや、人指し指と薬指の挟み方を調節しなければならない。

 手裏剣の上達は実際に打ち込んで腕を上げるしかない。論理や理屈は必要なく、「万打自得」が必要である。 実際に数多く打ち込み、躰(からだ)で覚えるしかないのである。

 投擲武器を武術的な見地から考えれば、実戦においては手の裡に握り締め、それが一種の「切り札」になっている時が一番有効な条件といえる。それは戦いの展開として、主導権をとっているからである。
 手裏剣術は《武芸十八般》 に含まれる歴(れっ)きとした武術である。したがって「武術」というものは、「格闘技」というものとは、根本的に異なっている。格闘技は多くの場合、スポーツ格闘技を意味するものであって、スポーツのルールに従い強弱と優劣と勝敗を競うものである。その根底には、正々堂々と違反をすることなくフェアーに闘う「スポーツマン・シップ」というものも存在するであろう。

 しかし手裏剣術には、そうしたものは存在しない。これはこの武術が、常に実戦に際しての非日常を想定して術理が出来上がっているからである。単なる素手で戦う格闘術というものではなく、生死をかけた命の遣り取りにおける、最終決着の際の武術観で、人間の生死を分ける極限にまで及ぶものである。
 命を遣り取りするためには、日頃の厳しい修練を積み重ね、この中に一瞬の機械を物にする勝利が隠されているのである。
  したがって、スポーツ格闘技に見られるような、あるいは柔道、空手、ボクシング、レスリングなどの格闘技に見られるような、闘い終えて、互いの健闘を讃えあうような、甘っちょろい「スポーツマン・シップ」など、存在しないのである。最終的な決着は、生死を分けるということであり、生き残ることができた者だけが、人間の死生観を超越できるのである。

 世の中は、複雑に絡む政治や理念や思想で動かされているという事を、ご存知だろうか。今日の世の中で起こっていることは、中世や近世で、戦士たちが守り通してきた、武士道や騎士道、あるいは武道精神で動かされていないということである。
 しかし、策謀(さくぼう)渦巻く現代にあって、勝った者が「総て」であり、死ねば元も子もない。つまり「勝った者」とは、実は殺されずに最後まで「生き残った者」を指す。使われた手段が何であろうが、そんなことは問題ではない。また、使われた武器が何であろうと、それも問題ではない。生き残ったということだけが、「勝者」の証(あかし)なのである。なぜなら、死んでしまった敗者は、「口が訊(き)けない」からだ。

 長寿を重ねて生き残ることの出来た者だけが、唯一の勝者であり、如何に試合上手でも、途中で病死や事故死などをすれば、そこでその人間の人生は費える。だから、わが流は、「生き残ること」と、「負けない境地」を求めて、自らが手探りで修行する流派なのだ。

 「起死回生」という言葉がある。
 また「起死回生の一撃」というものも、現実には存在するようだ。
 しかしこうした窮地から、生還ができるのは、やはり日夜の修行の結果がものを言う。こうした緊急避難において、「家伝の宝刀」を抜くには、単に知識と技術で闘うというばかりではなく、「心の領域」を支配する理不尽な暴力に屈しないという信念と精神力が必要なのである。
 「いざ」という時、気遅れしてしまったら、無慙(むざん)に殺されるしかない。殺されないためには、やはり理不尽な暴力を跳梁する、普段からの心の在り方が問題になるであろう。

 巷(ちまた)には「柔よく剛を制す」という言葉があるが、この言葉は、もはや死語に等しい。そんなものは、如何なる格闘技においても、今日では見ることはできない。
 特に素手で戦うスポーツ格闘技では、もはや死語であろう。
 しかし武術には、こうした次元のものが今でも多々存在するのである。手裏剣術もその一つだ。
 これを単に投擲武器と技術と捉えるか、あるいは此処から学ぶ儀法を通じて、「心の拠(よ)り所」と捉えるかは、個人の精神性の高さに委ねられるであろうが、後者を選択した場合、そこには窮地から「起死回生の一撃」が飛び出すかもしれない期待が隠されていよう。

 「卑怯」とか「正々堂々」という次元は、スポーツのレベルにおいてのみである。死ぬか生きるかという窮地にあって、殺されれば、それまでだ。死人に口なしである。動機や経緯を論ずる者も居ず、闘いの行方と過程を評価する者も居ず、戦闘のルールを守れせるレフリーもいない。殺すと決めた執行者に、反則などないのである。こうした無法に入れ揚げたのが、実はテロリストといわれる連中ではなかったか。

 複雑化する現代社会は、人倫や人脈が複雑に絡み合い、人心指向は多重になり、複合的な様相を呈しているというばかりでなく、これに加えて、時代のスピードが早くなり、急激な加速度がつき始めているということだ。
 ちょうど、遠心分離機の回転数が上がり、この回転が速くなれば、此処から弾かれる塊(かたまり)が出てくることは必然であろう。そして飛び出した塊は、世の中の動きについていけない、不良品であるということは否めない。
 精神異常者、覚醒剤患者、変質者、ストーカーというバーチャル恋愛の愛好者といった種類の人間は、反動で凶悪犯罪者になったり、テロリスト化する事実も、また否めない。遠慮なくナイフがポケットから抜き出され、あるいは手榴弾が投げられたり、自動小銃がぶっぱなされるかもしれない。

 こうした場面に遭遇した場合、運尽きて拳銃弾を食らったり、心臓を一突きにされて、これをもって、生まれた身の不運と、諦めがつくならそれもよかろう。しかし、狂人の刃に倒れるというのは、何とも無慙で、無念で、悲しい運命ではないか。
 運だけは、他人に頼ることなく、自分で切り開かなければならないのである。そして「九死に一生を得る」という言葉通りに、その「一生」を得ようとすれば、やはりこうした非日常を予期して、命を守るために備えを固め、日夜精進する人だけがこれを得ることができよう。

 こうした九死に一生を掴む心構えとして、手裏剣術を新たな覚悟と、研究媒体として学ぶのも、一つの妙案であるのではあるまいか。

 

【手裏剣術を稽古するに当りの注意】
 手裏剣術を稽古しようと思って、実際に手裏剣を打つ場合に問題になるのが、稽古場や標的です。
 道場において手裏剣を習い、それを稽古する事については、法律上で罰される事はありませんが、道場以外の場所で行なう場合は様々な法律の規制が伴います。
 更に刑法上の問題もあり、無闇(むやみ)に、何処でもという訳にはいきません。一番よいのは手裏剣を教える道場に通う事ですが、手裏剣を教える道場は全国的に見ても非常に少なく、また古流として、この手裏剣術を正しく伝える道場が叔ないようです。

 したがって、どうしても自分一人で、と言う事になります。
 健康法として始める場合は、自分独自の稽古場が必要になります。公園などでこうした稽古を行うと、武器製造法や軽犯罪法に掛かり、最悪の場合は凶器準備集合罪などの罪で逮捕されかねません。
 また、山間地の山深い空き地や、他人の所有する土地や、農業用などの広い畑の一劃(いっかく)などで無断で稽古を行うと、そこには土地の持ち主が居ますから、不法侵入罪や、上記の罪に問われかね、逮捕される場合もあります。
 したがってやはり、日本で稽古を行うには、農閑期などに、畑や、田圃の片隅の使用を断ってそこを稽古場所にすれば良いのですが、こうした場所は限られ、やはり独自の稽古場として、稽古中、通行人などに当る事の無い、世間から隔離された手裏剣術専用の稽古場を持つ事が必要になります。

 稽古場は、自宅の庭などを使う場合は、コンクリートの外壁のあるところや、ブロック塀の近くは出来るだけ避け、地面は土か砂である事が理想でしょう。地面が土であれば、手裏剣が的に刺さらず、墜(お)ちても跳ね返る心配がありません。
 兎に角、初心者が稽古をするとき、手裏剣を打っても刺さらないような場合が多々あるので、跳ね返って来る手裏剣の事を考えて、「畳の手裏剣の標的」意外に、標的の下に別の畳を敷く事も大事です。また、万一の場合を考えて、できれば周囲を古畳で囲うことも大事な準備の一つです。

 自分独自で稽古をする場合、跳ね返りの手裏剣を防止する為に、大きさは横二間、縦三間のマットや蒲団を用意し、重ねた毛布などを敷き詰めるのも妙案です。危険防止の為に万全を尽くし、周囲には窓やドアや障子などがない場所を選びましょう。また、人が常時出入りするような場所や、近辺が人の通行する往来では、絶対に行わないと言うのが武術実践者の心得です。稽古場所には万全を尽くし、細心の注意を払う事が必要です。

 屋内を利用して、稽古を行なう場合も同じですが、屋内の場合は、至近距離(一間半から三間程度まで)からの稽古だけとどめるべきでしょう。中距離や長距離は、間数を必要とする為、独自の稽古場所を確保できる方は別でしょうが、民家やマンション内の稽古は、中距離や長距離では不向きです。屋内の稽古場は、単に手裏剣が飛行する距離だけの「広さ」や「長さ」があれば良いと言うわけではなく、天井の高さも問題になって来ますので、天井の普通の室内の天井の高さでは、屋内稽古場として不向きです。

 次に、的は必ず古畳を利用し、丸太、木片、平板などは不向きです。古畳を利用すれば、打って刺さった時の刺さり具合の感触も非常に良いものであり、第一、一本当たりの高価な手裏剣を傷めたり、尖先や刃の部分の刃零(はこぼ)れも減少されます。また、刺さらなかった場合の事も考えて、跳ね返る危険もあり、必ず古畳を利用しなければなりません。
 的を作るには、古畳を三枚用意し、更にその下にはマットや蒲団を用意し、敷き詰めます。安全第一を心掛け、自他共に事故や怪我をしないように心掛けて下さい。
 「他人を傷つけず」また「自分をも傷つけない」というのが、手裏剣術を稽古する場合の心構えであり、こうした基礎的な心構えのない人は、手裏剣術を稽古するに値しない人です。

 武術の「武」は、「戈(ほこ)を止める」という意味ですが、戈を止めるためには、そこに「止めるため」と修練が必要になってきます。そして修練の目的は、「百年兵を練って、自他共に傷つかない」というのが究極の目的です。
 《武芸十八般》をもって、人を殺したのは、戦国乱世の十六世紀までのことで、今日では《武芸十八般》に殺傷の意図は隠されていません。
 むしろ、精神的な修養の面の比重が多く、これを心身に当てて、健康法に通じることが今日の武術のそもそもの修行目的です。修行し、稽古を積み重ねるという、この目的を明確にするために、《武芸十八般》を真摯に学ぶためには万全の注意と、絶対的な安全は欠かすことのできない、武術家に課せられた義務なのです。

 

【手裏剣術の的の造り方
 標的になる的の中央には、自分の顔の大きさ(顔の山根(さんこん)を中心にした目の幅の中心円)くらいの黒い円を描き、さらに直径30cmくらいの白い円を描きます。これが一般的な手裏剣術の標的です。
 また、西郷派大東流手裏剣術の独特の「○に六」の図柄の的を作ってもよいでしょう。
 この場合は、直径50cmに中央を10cm分だけ塗り残した円を描き、その下に人体を現す肩の部分の「一」と、左右の「ハ」の内蔵を表す部分を描きます。この「ハ」は左右の肺を表す古典的な手裏剣術の標的です。

「○に六」の図柄の西郷派大東流の的

▲手裏剣術稽古の一般的な的

 畳の配置は、中央に使う古畳の隣には、左右に各々二枚の古畳を立て掛け、手裏剣が的から反れて跳ね返るのを防ぐ役目を持たせます。畳を立て掛ける場合は、ストッパー的な工夫を凝らし、容易に倒れて来ないようにします。廃棄処分同然の古畳は、畳屋に行けば無料(ただし自分で取りに行く事が条件)で分けてくれる事もあり、また有料にしても、そんなに高価なものではありません。一枚二千円も出せば、配達までしてくれる畳屋もあります。

 手裏剣術は精神鍛練と集中力の訓練にもなります。
 ただし、独自の、自分勝手な稽古法では、手頸のスナップなどの効かせ方にも問題が出て来るので、よき指導者の教えを受ける事が大事です。
 また、「打法」にも種々の高度な儀法があり、こうしたものは手裏剣術の指導者について、適格なアドバイスを受ける事が必要です。


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