トップページ >> 技法体系 >> 手裏剣術 >> 合気手裏剣術(三) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手裏剣の打ち方は、畳の的を狙って投擲(とうてき)すると言う打ち方では駄目である。的を更に貫き、その先をも貫くと言うイメージが必要である。それは丁度、能の能楽師の鼓(つづみ)が、鼓を打つ際の打ち方と同じである。
また弓術では、「勁弓(つよきゆみ)をひきて、よく中(あた)ることを得るの力は、臂(ひじ)腕にあらず、指頭にあらず、ただ身体の正中なる丹田の枢軸より発せし一気を以て、発(はなた)ぬ先に的を貫くなり」とあり、よく弓矢を発するのならば、的ばかりに命中させようとする、人間的な欲望の「目先の欲」を捨てて、心術(しんじゅつ)を中心にして、それが「天の道理」に通じれば、芸道は伸びるとしているのである。ここでいう「天の道理」とは、自分と宇宙が一体となり、その一体になることによって、自然の本性が現れるとしているのである。 古伝の教えをあげれば、人間は、心が外物と相対すると、「意必固我」(てまえぎめ)の念が起るとされている。自己の思うところに心を求めて、その結果、自然の本性は失われ、偏頗(へんぱ)に陥ると言うのである。偏頗に陥れば、我が現れて目先の目標を追うようになり、膚浅(うわべ)のことに気忙しくなり、実戦では実用に立ち難くなると言うのである。 手裏剣術の標的を打つ技術と、弓術における的を射る技術は、ある種の共通点を持っている。それは東洋的な「無」の真髄(しんずい)に触れ、宇宙との一体感をもって、これに回帰する事である。 凡夫は矢を的に当てる場合、目で見て狙わなければ当らないと考えてしまう。これこそが、今まで深く刻まれた間違いだらけの暗い固定観念であり、深く染み込んだものの考え方である。 それは矢を射るのではなく、矢が「射られる」と言う事なのである。矢が射られれば、的は自分の方へ近付いて来て、それは自分と一体になる事を顕わす。的が自分と一体ならば、それは自分も矢と一体となる。更には自然の本性と一体になる事であり、この一体感が、矢は、有(ゆう)と非有(ひゆう)の不動の中心に据えられ、したがって的の中心に矢がある事になる。 弓術では的を見る場合、一体「誰が見るのか」、「何を見るのか」、「誰が射るのか」、それを自問自答させ、そこに「射る」ことの解答を求めさせようとする。そして、己と矢と的が一如になったとき、「大悟の境地」に到達すると言われている。
弓矢とともに《武芸十八般》に数えられる手裏剣術は、標的を貫くということで、その目的を同じにする。しかし「射る」と「打つ」では、その動作が異なる。「射る」は「弾く」であり、「打つ」は、針などを刺し入れると言う意味を持つ。前者は「当てる」が目的であり、後者は「倒す」が目的となる。この「倒す」は、「不意を打つ」にも通じるであろう。ここが、弓につがえて、矢を放つ、つまり「弾く」とは異なるところで、求める境地は同じ共通点を持つが、その方法論が弓術と異なるところである。 さて投擲武器には、手裏剣に似たものにナイフがある。また、陸上競技の投擲と言えば、フィールド競技の中で、砲丸投・円盤投・ハンマー投・槍投などがある。 人間が「物を投げ付ける」という行為は、本能的なものであり、またその「投げ付ける威力を知る者の得意技」として、戦記物には残されている。 そして、かつての職能民の中から「物を投げる」と言う武芸が登場して来る。物を投げると言うのは、何も石ばかりを投げたわけではない。刻々と豹変する戦場では、自分の所持するあらゆる武器を投げ付けて抵抗する。この投げる事に、最も多く使われたのは、古今東西をとわず、「槍投げ」であった。 槍を投げると言う事は、当然刀剣も投げると言う事であり、新陰流では「飛燕六箇条之太刀」というものがあり、技法の最後には、打太刀(うちたち)が刀剣を手裏剣代わりとして打つ形が残っている。 投擲武器を飛ばすと言う概念は、決定的有効打になり難い反面、対峙(たいじ)した相手が、予想外に出ると言う奇想天外な行動に、相手を一瞬錯乱する事が出来る。昔は、喧華上手は、ただ素手で闘うばかりでなく、自分の周りのあらゆるものを投げ付け、まず、奇想天外な行動に打って出て、その隙(すき)を窺(うかが)って勝機を得ると言う行動に至った。 幕末の薩摩藩の志士で、「人斬り半次郎」と恐れられた中村半次郎こと桐野利秋は、いざ太刀合(たちあい)となると、まず自分の履(は)いていた下駄を惨殺する相手に投げ付けたとある。それと同時に踏み込んで、有無言わさず斬り付け、相手を斬り据えたと云われる。ここには「履いていた下駄を投げ付ける」という意表に、相手を一瞬混乱させ、想像を絶する思わぬ奇想天外な行動を取るところに、投擲武器の機微が窺(うかが)われる。 しかし、素手意外でしか闘った事の無い格闘家は、「物を投げ付ける行為」を卑怯だと罵るかもしれない。これは実戦という現実を知らない者の言うことだ。また、こうした行為をフェアーでないと言うかもしれない。しかしこの考え方は、スポーツ格闘技の考え方であり、実戦武術の戦闘理論とは異なるものである。 そして、殺された後、警察は殺人事件として捜査を開始し、犯人逮捕には至るであろうが、それでも死んだ者が生き返るわけではない。事件が犯人逮捕によって一件落着を見るであろうが、殺された被害者側は、何とも納得の出来ない結末になってしまうだろう。ニュースに出れば、殺された被害者の家族は、世間の同情を受け、義援金などの見舞いを貰うであろうが、それは最初の数カ月までであり、三ヵ月もすれば、すっかり世間から忘れ去られるであろう。こうした家族の多くは、最後は一家離散の運命を辿る事が多いようだ。 日本も、急速に外国並みに、国家の治安が悪くなっている。通行人が、突如、精神異常者から殺傷されるとか、覚醒剤患者が、幻覚症状で地域の住民を手当り次第に、無差別に襲い掛かると言う事件は、日本でも頻繁(ひんぱん)に起り始めている。あるいは、家の中に、突如強盗が刃物や拳銃を持って襲い込んで来る場合があるとも限らない。こうした局面に遭遇した場合、一体どうしたらよいか、常々から考えておくべきである。 「物を投げ付けるなんて卑怯ではないか?!」などの愚問は、生きるか死ぬかの場合に通用するものではない。生きるか死ぬかの戦闘では、これを審判するレフリーは居ない。こうした場合、拳銃や刃物を持った相手にルールは存在しないし、また反則もない。何を遣ろうと、生き残らなければ、好きなようにされてしまう。 野外だったら、砂や泥を掴んで、相手の顔に向かって投げ付けるのも一案だろう。手に掴み易い石を咄嗟(とっさ)に拾い上げて、即座に投げ付ければ、直ちに主導権がとれ、刃物や拳銃の相手でも反撃が可能であろう。 咄嗟に石を拾って主導権を取り、相手を追い詰めたとしよう。しかしこれが一個しかなければ、それを投げてしまった時点でお終いとなる。また投げて外れたり、致命的な傷を追わせる事が出来なければ、「しまった」と動揺するばかりでなく、相手に反撃するチャンスを与えてしまう。こうなれば万事が窮すだ。以降、後手に廻る事になり、相手を更に憤慨させて、二倍も三倍も大きな仕返しを受ける事になる。 これまで考えた事の無いないような迫り方の暴力も、研究しておくべきである。 しかし投擲武器を考えた場合、「打つ」という事に徹して考え、「一打必殺」を狙うのならば、それは手裏剣以外にあり得ない。手裏剣術こそ、「柔よく剛を制す」の最大の護りであり、追い詰められた「背水の陣」に際して、最後に「我が宝刀を抜く」と言うことが必須条件となるのである。 手裏剣術の武術精神は、何も相手に対して、これを打ち込むという事ではない。百錬千磨して、心に余裕を持ち、精神状態を、相手より優位に置くことである。とっておきの「切り札」を持つことだ。
手裏剣の構えは、剣術における太刀合と、まさに同等である。 また、手裏剣は飛道具なるが故に、一般素人からは、大きな誤解をもたれている側面が否めない。その誤解の多くは、手裏剣術の術者は、相手の素手や、構えた刃物が届かないところから、物陰に隠れて、不意打ちを喰らわす卑怯な武器ではないかと思われていることだ。しかしこれは、実戦武術の心得がない者の大きな誤解であり、飛道具であるから卑怯と言う論理は成り立たないのである。 武術は《武芸十八般》からも窺(うかが)えるように、武器を交えるものを「武術」と称している。刀剣もこれと同じであり、刀剣を用いての剣術が、正々堂々と相手と渡り合い、「肉を切らせて骨を断つ。骨を切らせて命を断つ」とするならば、また手裏剣術も、剣術と然りであり、剣術の気魄で、手裏剣も「打つ術」なのである。
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