■ 合気手裏剣術■
(あいきしゅりけんじゅつ)
●太平洋戦争末期、本土決戦構想として稽古を強要された女学生の手裏剣術
手裏剣は、その命中率と、飛行距離を延ばす為に様々な工夫がされて来た。それは各流派の秘伝となり、流派ごとに極秘の秘伝が存在している。
そして手裏剣の特徴は、力の弱い人、体力や能力がない人や、技量や力量が不足している人でも、鍛練によって、これを自在に使いこなす事が出来、「女性に於いても可能である」とされるところにある。
太平洋戦争の中期から末期にかけて、高等女学校や女子師範学校では薙刀(なぎなた)や弓道が正課として、体育の授業に組み込まれていたが、薙刀や弓道の経験や、それらの素質や鍛錬経験のない女学生は、手裏剣練習に廻され、特に手裏剣は、戦争の敗色が濃厚になり、本土決戦が囁(ささや)かれる頃から、実戦的価値が高いものとして、これが竹槍や薙刀に代わり、盛んに稽古されるようになっていた。
この攻撃目標との距離は、約3〜5メートル前後を目標と定め、近距離から上陸した米兵に対し、ゲリラ戦法を駆使しながら、手裏剣を打ち込むというものであった。
そして非戦闘員であるはずの就学途中の女学生が、いつの間にか、兵士と同じ戦闘員にさせられ、本土決戦の戦闘要員として育てられていたのである。「一億火の玉」を強制された悲惨な時代でもあった。
本土決戦に備えて、手裏剣術の稽古に廻された女学生達は、一般の女学生達と同様、昼間は勤労奉仕で軍需工場で女子奉仕隊員として働き、その余暇を利用して手裏剣の稽古に励んだ。この当時の手裏剣は、鉄不足から、医療用のメスや鋏の他に、竹ベラや簪(かんざし)なども利用されたいう。日本はそれほど、兵器や弾薬も欠乏していたのである。
「贅沢は敵だ!」と称されたこの時代、自分の好き嫌いは許されぬ時代であった。一億国民すべて「皆兵」の時代であった。希望を許さぬ時代でありながら、「志願」という形がとられ、女学生とて例外ではなかった。臨時の戦闘員にさせられた女学生達は、「特志」(【註】特別志願女子学徒兵の略)という形で戦闘部隊に編成されていったのである。そして日本軍の、最後の組織抵抗した時代であった。
特に、戦時中の女学生は、大戦末期になると、女学生間では各学校ごとに手裏剣の稽古が盛んになり、ゲリラ的に、手裏剣を以て躍(おど)り出て、上陸した米兵を撹乱すると言う、軍部の構想が練られていた。
当時の陸海軍は、 多くの兵隊達が外地に赴いていて、日本列島を守備する守備隊は手薄の状態であった。そして陸海軍の兵士の代用が、愛国婦人会の婦人部隊や、海軍の女子通信隊、陸軍の女子防衛隊などであった。そして高等女学校や女子師範学校の女学生も例外ではなかった。
この時、女学生達が稽古していた手裏剣は、おおよそ長さが12cmほどの小型の物で、鰓(えら)の部分にあたる手裏剣の最大幅は11mmほどであった。あるいは長さ10cm、鰓部の最大幅は8mmという物が使用された。非力の女性でも、これを稽古すれば自在に使いこなす事が出来、非合理的な竹槍に比べて殺傷能力が高かったことが上げられる。
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▲大戦末期の手裏剣の稽古をする女学生
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▲戦闘員の女学生
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▲女学生が手裏剣の稽古をする図(クリックで拡大)
イラスト/竜造寺丹羽
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ベトナム戦争の際、ベトミン婦人部隊では旧式の小銃が一様に配付されていたが、配付できない部隊には、弓矢や吹矢の指導がなされ、特に吹矢は大きな効果を挙げていた。形を変えた、「小が大を倒す」発想であった。
吹矢は、竹または木で作った吹筒の中に紙の羽を付けた短い矢を入れ、息をこめて吹き飛ばし、小鳥やそのたの小動物を射抜いてあてる武器であるが、その先にトリカブトなどの毒性の薬液を塗り、これを頸筋(くびすじ)に打ち付けると言う技法で、多くの米兵を打ち取った影の歴史を持っていた。
この発想は、大戦末期の日本軍が、女子学生に手裏剣の稽古をさせていたと言う、本土決戦構想に一致するのである。奇(く)しくも大戦末期の日本列島では、女子学生の手裏剣部隊は公に登場することはなかったが、それでも、非力な女子学生が「一打必殺」の目的を以って、手裏剣を稽古していたと言う事実は、非常に興味深いものがある。
手裏剣は命中率と飛距離と間合を考えて、その正確な打法を実現させる為にその基面は、多くが六角であり、あるいは八角である。六角の物は、単に四角のものよりも手離れと安定度に長け、また「打ち易い」特性を持っている。更に剣尾に馬の尻尾を巻いたり、鹿の革を巻き付け、剣尾には房糸を施すことによって、方向舵の役割を持たせている。こうする事によって、命中率を高め、また飛行距離を延ばすことが出来た。
こうした、日本武芸の一つである手裏剣術を大戦末期、米兵の上陸に備えて女学生達に稽古させて居た事は、愚かな発想の竹槍訓練より、遥かに効果が大きかったものと言える。
かつて海軍大将の要職を経て、総理大臣も経験し、大戦末期は皇室侍従長であった鈴木貫太郎は、ベニア板でつくられた海軍の特攻用モーターボート『震洋』や、陸軍将校の指導する婦女子の竹槍訓練を見て、まず「ほー」という呆れた声を挙げ、「一大消耗戦は科学力と、大量生産できる増産力にある」と豪語し、こうした空しい努力を重ねる当時の日本の軍部の思考に、呆れ気味な悲鳴を上げたと云うが、秘蔵訓練されていた女学生の手裏剣術の稽古を見れば、また、鈴木侍従長の感想も異なって居た事であろう。
手裏剣術は《武芸十八般》 に数えられる有数の武芸であったからだ。
当時のアメリカの脅威に対して、アメリカの工業力と科学力に悲鳴を上げていたならば、その後の、朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、戦わずしてアメリカの軍門に下り、朝鮮民族やベトナム民族の将来はアメリカに取り込まれる結果を招いていたであろうが、両民族はこれを受け入れることはしなかった。
ちなみに、太平洋戦争を、多くの歴史評論家は、「無謀な戦争」と位置付けている。しかし、朝鮮戦争やベトナム戦争を、朝鮮人民やベトナム人民から見た場合、果たしてこれが無謀であったか否か。
こうして考えてくると、果たして、太平洋戦争は本当に勝てない戦争であったのであろうか。
もし、太平洋戦争が無謀な戦争であり、勝てない戦争であったとするならば、少なくともそれ以前に、二度経験した日清戦争も日露戦争も、等しく無謀な戦争と云うことになる。
当時、多くの日本人はこの両方の戦争に勝利するなど、夢のように思っていた。日清戦争に於いても、精神的に勝利の自信は持っていたであろうが、この自信は陸海軍の参謀本部だけであり、更には、当時はは、東洋の田舎国家であると自負していた日本国では、日露戦争に勝算ありとする日本人は何処にも居なかった。
日清戦争当時、唱歌『元冦』は、日本人の間で盛んに歌われた歌であったが、清王朝と云う中国大陸に鎮座する帝国は、元(げん)にも比すべき世界帝国であり、この大帝国と戦争をするのであるから、これこそ無謀であり、誰一人勝などとは思っても居なかった。ところがこの戦争に、日本は勝ってしまったのである。
日清戦争の勝利は、外征しての勝利であるから、「元冦の役」の撃退の勝利などには比ぶるべきもない。太閤秀吉すら、望んでも得られることの出来なかった大勝利であった。大武功である。これに日本国民は踊り上がった。有頂天になり、毎晩堤灯(ちょうちん)行列が繰り出され、軍国日本の威風は全国を風靡(ふうび)した。
そして次は、十年後の日露戦争である。
当時のイギリスとロシアは世界帝国主義・植民地主義の大家元であり、日本の愛国者の中には、「西に英獅あり、北に露鷲あり、虎視眈々(こしたんたん)としてわがしえを窺う」と評したくらいである。その露鷲と、日本が戦うのであるから、日露戦争に勝てる勝算など最初からなかった。更に、当時の日露の国力の差は歴然としていたからだ。
これを象徴的に顕(あら)わすものがシベリア鉄道と京釜(けいふ)鉄道であった。
当時のロシア帝国は、驚くなかれ、一万km以上もあるシベリア鉄道を完成させ、そのシベリアからの終着駅は朝鮮半島を経由するソウル・釜山間の大鉄道であった。
しかし日本は、たかだか数キロの釜山鉄道すら完成させることが出来なかったのである。したがって世界の軍事専門家ならびに日本軍の軍事筋すら、この戦争には勝てるはずがないと思っていた。ひとたび戦えば、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)だと一蹴(いっしゅう)されるに違いないと思っていたのである。
日英同盟を結び、日本と同盟国にあったイギリスすら、日本の勝算は皆無であると踏んでいたのだ。
日本人の経験した戦争の比重の重さで、日露戦争と太平洋戦争を比較してみれば、日露戦争こそ、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても無謀な戦争であった事が分かる。ところが、明治維新以降に於いて、日本は二度も無謀な戦争に勝利しているのである。これこそが、日本人が熱望して止まない「柔よく剛を制す」であり、また「小能く大を倒す」の理であり、小国が大国に勝てないと言う公理は何処にもないと言うことを、世界に先駆けて示した事であった。
第二次世界大戦に於いて、日独の強大な軍事ワールド・パワーを無条件降伏させ、世界最大最強のアメリカ軍とて、先の大戦後、常に勝運に恵まれはしなかった。朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争では、前近代性から脱していない中国人民解放軍と、アメリカ軍とが戦い、苦戦が強いられ、更には全国連軍の援助を受けつつ、三年も戦って、「やっと引き分け」と云うありさまだった。
日米開戦を楯にとって、歴史評論家や経済評論家が述べたような、アメリカの工業力と、アメリカ軍の物量作戦は、殆ど功を奏しなかったのである。
これがベトナム戦争となると、もっと酷いものになる。アメリカはベトナムに対し、毎年250億ドルの戦費の拠出を行い、然(しか)も核兵器を除く、あらゆる新兵器を投入して、それでも惨敗するという醜態であった。勢力の大小と、物量の大小と、国力のバロメーターである工業力の強弱を比べれば、ベトナム戦争こそ、ベトコン側にとって、まさに無謀きわまりない戦争と言えた。
圧倒的な大勢力と戦ったが故に、これを「無謀なり」と否定し、「愚かな戦い」と愚弄(ぐろう)すれば、かつて日本人が、歴史の中で経験した源義経の「鵯越え」も、楠木正成の「千早城」も、織田信長の「桶狭間」も、更には日清・日露の戦争も、総て否定しなければならない。
否定はそればかりではない。
朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、今後に起る、アメリカの関与する戦争の悉々(ことごと)くは、総て否定しなければならなくなる。
何故ならば、世界の警察官を自称し、アメリカの圧倒的有利な国力に刃向かうことは、まさに無意味であり、同時に無謀であるから、第二次世界大戦後の朝鮮人民も、ベトナム人民も、尻尾を巻いて、強大国アメリカの軍門に降るべきであったはずである。
もし、こうした二者選択の中で、太平洋戦争のみが相変わらず「無謀な戦争」と譏(そしり)を受けている現実を考えれば、これまで日本精神の主柱と考えられていた、「柔よく剛を制す」も、「小よく大を倒す」の国民資質も、総て否定しなければならなくなるのである。
しかし、今日に至っても、この事を本気で論じる歴史研究家やエコノミストは、まだ一人も顕われていない。
そして現実問題として、「学者」と云う権威筋から考えれば、これを論ずることは岩波書店の権威筋から転げ落ちることであり、またシンパサイダー的な色彩の強い朝日新聞から轟々(ごうごう)の非難を恐れての、学者はこぞって、一応の、「先の大戦・無謀論」の論理に落ち着くところが大と見るべきであろう。
いわゆる、先の大戦を振り返って、小国が大国に刃向かう論理を掲げることなどは、学者筋にしてみればタブーなのである。したがって「小よく大を倒す」もなければ、「柔よく剛を制す」も存在しないことになる。
また今日では、「柔よく剛を制す」の、古来より使い古された言葉は、武道界や格闘技界では既に死語となっていることも認めなければならない現実があることも事実だ。
ところが歴史的に見て、公理の事実から「小よく大を倒す」という現実は、時代の至る所で存在している。それを挙げれば、「鵯越え」でり、「千早城」であり、「桶狭間」であり、小が大を倒す現実が歴史の上からも見て取る事が出来る。それは秘中を胸に納め、「いざ」と言う時に、これを用いる用い方である。
歴史的に見て、鵯越え(神戸市の市街地西部から六甲山地を越えて北西方に走る山路)は1184年(寿永三年)、源義経が一谷いちのたにの平家の軍を襲撃しようとし、鷲尾三郎を先導として越えた難所であるが、義経はここを常人が不可能だと思う場所を走破した。
また、千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村の金剛山の中腹にあった城で、坂路極めて険峻)は1333年(元弘三年)楠木正成が籠城(ろうじょう)し、北条氏の軍を防いだ所として知られる。
更に桶狭間(尾張国知多郡北部の地名。古戦場は名古屋市緑区有松町桶狭間・豊明とよあけ市栄町の辺)は、1560年(永禄三年)織田信長が今川義元を奇襲して敗死させた地である。何れも奇襲の観が強く、指揮官が奇手を用いる事で、小が大を倒し、勝利して居る事である。
さて、「小能く大を倒す」とは、実際にはどういう事を云うのであろうか。また、「柔よく剛を制す」も然りである。
『三略上略』には、「温柔な者が、かえって剛強な者に勝つことができる」としている。命を賭(と)した戦いでは、荒れ狂う、猛々しい者のみが強者とは限らないといっているのである。
戦術は、見かけ倒しで展開されるものではない。戦術で勝利をおさめる事が出来るのは、姿形で極まるものではない。日頃から「よく鍛練した者」が、最後には勝利を掴むのもであって、その根底には、勝つ事より、「負けない境地」に至る戦闘理論が流れていなければならない。これこそが「小能く大を倒す」の思考法である。
何故、手裏剣術が《武芸十八般》に選ばれているか。
それは、まさに日本武芸こそ、「小能く大を倒す」の哲学が、その背景に流れているからだ。この哲学が脈々と生き続ける限り、弱者は強者の思いの儘(まま)にならず、また強者の屈辱に屈することもない。そして手裏剣術は、ここに武術的な戦闘理論と哲学を形作っていることになる。
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