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大東流の基本となる日本刀の操法

行き詰まらない妙法
(いきづまらないみょうほう)

 「肚(はら)構え」と云う言葉がある。肚の出来た人を、こう呼ぶそうだ。
 しかし、肚に何かの「肚構え」があって、常にそれを頼りにしていると、もし事情がこちらの「肚構え」と異なって居た場合、そうした事に直面すれば、あえなく顛倒(てんとう)しなければならなくなる。

 したがって、初めからそういうものを持たず、肚を「虚」にする事が大切である。
 「虚」とは、いつもわが肚をからっぽにしている事で、その場その場に応じて、変応自在に変化できる事を言う。

 スポーツ武道や格闘技を愛好している人は、必ず「得意技」というものを持っている。そしてその得意技は、一技か二技で代表され、相手がこうした得意技の状態に嵌(はま)り易い形に持ち込んで、技を掛けるという手筈である。

 たいていの場合、試合はルールで規制されているので、こうした得意技を持っていると、極めて有効な技法となるが、これが一度試合場を離れ、無規範・無秩序な巷間に放たれた場合、そこで起こるストリートファイトは、果たして試合場のそれと同じであるか?

 喩えば、一人の有能な試合場での英雄がいて、この人が戦勝祝いで仲間を引き連れ、巷間で、飲食店などで酒を呑み、いい気になっていると、たまたまそこに喧嘩に長けた傲慢集団がいて、その集団に取り囲まれ、いちゃもんをつけられて、表に引きずり出され、否応なく戦わねばならなくなった時、この人はどう出るか? 仲間の連れも、一緒に戦ってくれるのか?

 ストリートファイターを自称する連中は、試合場とは違った鍛練法で、暴力集団の用心棒をしたり、それに命を張って生きている。こうした連中の考え方は、「何が何でも勝つ」という自負があり、ルールや礼儀を知らない。卑怯も残忍もお構え無しだ。
 ナイフや日本刀の脇指や匕首(あいくち)は勿論のこと、それ以外の隠し武器を所持し、スタンガンまで持ち、飛び道具として拳銃まで持っている場合も少なくない。

 喩えば、「一本背負い」が得意だとして、どうこれを用いるか。寝技が得意として、路上でこれをどう用いるか。また制空圏を豪語し「廻し蹴り」が得意だとして、どうこれを用いるか。一対一の白兵戦なら兎も角、一人を抑え込んでいる時に、背後から襲われたらどうなるか。「送り襟」などの「絞技」が得意として、一度に二人も三人も、同時に絞め落す事が出来るか。仮にそれが出来る程の大男として、三人を同時に絞め落す事が出来たとして、敵が四人だったらその四人目はどう制するのか。
 そして次々に数か増え、五人、十人となったらどうするのか。

 喧嘩狎(な)れした集団は、即座に数人が後ろに回り込み、影の中に隠れ、ハイエナが狩りをする時のような手口で狡猾に、一人の強敵を分担・協力して処理にかかる。
 一度、こうした狡猾な集団に餌食になり、こうして戦わねばならなくなった時、得意技だけで通用するか、という事を常に念頭に置いていなければならない。

 行き詰まらないという事は、変応自在に変化できる虚の状態にしている事であり、出たところに応じて、こちらが合わせて働くという事が肝腎であり、相手に合わせるという事になる。

 刃物で襲われ、一度肉体を傷つけられ、動脈の一部を切断された場合、十四秒で意識を失い、倒れてしまう。その十四秒間で止血をし、敵を制するという行動を起こさなければ、間違いなく、試合場の英雄といえども取り替えしのつかない後遺症を負い、あるいは死亡するという事にもなりかねない。
 かの、「空手チョップ」でならした、力道山ですら、たった一人のチンピラに刺されて、後日、死亡した。

 巷間で、不敵な輩は、試合場の選手が思いもつかない隠し武器を持っている。決して素手で戦うことはない。最初から素手で戦う連中は、いわばストリートファイターとしては初心者のグループに入る。

 上級者は決して素手では戦わない。また、殺害した後の事まで考えている。一人の人間を、解体・処理することくらいは朝飯前だ。腑(ふ)別けにも長じている。総てが、常人とは異なり、一般の社会では見掛けない、異次元の存在である。主義も思考も、常人とは異なる。まして裁判所が定義する、「善良な市民」という感覚はどこにも持ち合わせていない。俗に言う、暴力団とも違う。こうした連中が、確実に、巷間を暗躍している。武道家の世界の、それとは全く違うのだ。

 こうした集団に遭遇した場合、「不運」と言わねばならないであろうが、それでも一縷(いちる)の望みを託して、行き詰まったピンチから脱出する事は出来る。
 それは無疵(むきず)で、こうした難から逃れる事を最初から諦めることである。
 ズタズタにされ、刺されたり、斬られたり、時としては重傷を負うという覚悟をする事である。こうする事によって、恐怖も半減し、刺され、斬られる事は覚悟の上であるから、そうなって当り前という度胸が坐る。
 そして相手の出方に応じて、こちらはそれに自在に手を打つ事が出来る。

 この「手」は自分の知から出るものではない。普段の運動神経から出るものでもない。また考えた挙句に、思考力で導くものでもない。敢えて言えば、「霊的反射神経」である。無意識から出る「虚」の業(わざ)だ。危に応じてのみ、発揮される霊的反射神経だ。

 どういう手がその時、自分の頭に浮かぶか、それは自分の知るところではない。知らぬに任せて、自然に対処法が出てくるのが「虚」であり、「行き詰まらない妙法」である。この法を、「切り札」として持っていれば、少なくとも死なずに済むのである。
 こうした妙法を得るには、単に試合形式で技を練っても、出てこないものである。

●仕掛けるという作為からの解脱

 自分の作為は何もなく、肚にも何も抱いていない。肚を構える必要もない。これが「行き詰まらない妙法」である。

 肚や、頭には何もない、これが「虚」である。ただ出たとこ勝負である。
 それは「わが手」と見えながら、実はわが打つ手ではなく、自分の為にする働きではない。自分が生きようと思えば生きる因縁が。天命を信じて、助くるものを助くという、因縁が打つ手なのである。自分の思考や肚積もりでは如何ともし難く、肚構えで立つという考えでは「虚」にならないのである。
 因縁をして手を打たしめるから「吾は虚」に至る事が出来るのである。

 そして虚とは、生も死も存在しない、最初からわが身を捨てた「捨身」の心境なのである。ここに吾も、他もなくなり、自他一体、生死一体の境地があり、生かすも殺すも、これは天命の拠(よ)るところであり、因縁の拠るところなのである。

 人生、何を頼りに生きて行くべきか。
 こう、問われて、至りついた結論は、「虚」の理解だという事になる。
 つまり、何も頼りにせぬ。頼る技すら必要無いとするのが、「虚の実態」である。
 しかし何も頼りにせぬ、何ものにも頼らないという事が虚の実態とは分かっていても、何かに頼らずにおられないのが人間である。何かにしがみついて、必死にこれを放すまいとするのが人間の弱さである。

 そこで、一方においては神とか仏を信じて、あるいは天国とか浄土を信じてこれにしがみつこうとするのが、念仏宗らを信仰する人達の考え方である。何かを立てて、それにしがみつく。それを頼りに生きていく。それはそれで結構であるが、天国とか浄土という、この世に実在しないものに頼るということは、実は何も頼りにしないという事と同じになる。

 こうした実態を知らずに、念仏宗を信仰する人は、また天国だの、浄土だのに振り回されて、真諦を知らず、俗諦の世界に迷い込んで、俗諦が打ち立てる「仮の地獄」に落ちて行く事になる。
 そういう意味で、法然も真鸞も、自分達が想念で作り上げた「仮の地獄」に行き、そして「本物の地獄」に落ちた事になる。しがみつく想念がそうさせ、仏道を俗諦のみで説いたという因縁によるものである。

 さて仏道では一方で「無」と喝破(かっぱ)する。そしてもう一方で「信」と説教する。同じ仏の道から出たものであれば、これは一致していなければならない。ところが「無」と「信」は根本に異なる。

 「無」は、万有を生み出し、万有の根源となるものを指す。無は有との対立を、絶したものとされ、インド思想に見られ、また、老子などに説かれ、更には西洋にも古くから存在して「絶対無」などともいわれた。

 そして一方、「信」は、欺かないこと。言をたがえないこと。「まこと」等を指し、信義や忠信に置き換えられ、商行為に用いれば、思い込み、疑わないこととなって、信用・信頼・自信というようになる。
 また、宗教に帰依すると信仰や信心となる。
 となると、無は虚になり得る要素を持つが、信は虚になりうるか。逆に虚としての信がなり立つならば、信と無は同一体であるか。こうした反芻が次から次へとなされる。しかし念仏宗と、それ以外を説く、仏道では真諦と俗諦が存在する限り、その鼬ゴッコは何処までも平行線を辿るようだ。

 さて、人間行為は「何も頼らぬ」ところに「虚」が成立すると教えられる。しかし、こう考えると、既に「虚」を頼りにする心が生まれている事になる。虚を頼りにする心は既に虚ではなく、虚を意識すれば有となって虚ではなくなってしまう。何故ならば、その意識は「心の中に描いたもの」であり「心に掴んだもの」となってしまうからだ。

 よく捨身になれという。捨身になれば、死中に活を得るという。生き返ると言う。捨身こそ、浮かぶ瀬もありという。しかし本当はこうした考え方は本当の捨身ではない。わが身を生かす為の一つの手段であり、手として考えているからだ。それは真の捨身ではない。人間の思考が齎した、作為なのだ。

 したがってそんな捨身で危機を脱しようとしたら、それこそ本当に、わが身を捨てて死んでしまうのである。
 だから捨身になろうとする意識すら要らないのである。

 一心無宙の邁進が、実はそのままの捨身であり、因縁に任せた捨身であり、それに一度任せれば「任せた」という意識すら要らないのである。
 虚になろうと言う心があっては、本当の虚になる事は出来ず、「虚と言う考え方」で、頭は一杯になってしまう。そういう「虚の思考」で一杯になってしまうのである。


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