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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 西郷派之秘剣・合気剣の極意 ■
(さいごうはのひけん・あいきけんのごくい)

●大事を成し遂げるには小事から

 武術修行では千日の稽古を「鍛」と云い、万日の稽古を「錬」と云う。そして、これを併せて、「鍛錬」と云う。
 太刀を取り、総(すべ)ての対戦者に勝つ為には、「太刀の遣(つか)い方」を心得なければならない。太刀の用い方を会得できてこそ、全身の動きは柔軟になり、太刀は自身の延長上にあって、自由自在に動いてくれるのである。

 太刀の用い方は「自然の理(ことわり)に基づかなければならない。
 ここで云う自然の「理」とは、「太刀の理」であり、ここに自身の焦(あせ)りや、速く用いようとする意図的な作為が入ってはならない。太刀の理に遵(したが)い、自然であることが大事であり、自然の中から正確な判断を下し、進退の駆け引きと、その調子を会得しなければならない。更に自分の手・足の延長上として、太刀があり、太刀はまさに自分の手の延長となる。

 こうした自分の手足の如く動く、太刀の遣い方と研究し、どうすれば勝てるかを体得するのである。武技を極める者にとって、今日は昨日の自分に勝ち、明日は今日の自分に勝つ努力をしなければならない。ここに日々精進の心構えがある。
 何事も、千里の道は一歩からであり、大事を成し遂(と)げるその第一歩は、勝利への第一歩となる。この「第一歩」を疎(おろそ)かにしてはならない。

 しかし「千里の道は一歩から」と言う俚諺(りげん)を、意外にも聞き逃す者は多い。分かり切ったことだと、頭の中でだけ、お題目として暗記している。したがって、この意味がよく分かっていない。分かっていないばかりか、第一歩を踏み出すことすら、その努力に向かって精進をしない。はや飛ばしで、いい加減に扱ってしまう。第一歩がいい加減であれば、次に第二歩もいい加減である。ここに諸芸上達の機会は失われ、生涯成就せずままに人生を閉じることになる。こうして潰(つい)える者は多い。

 まず、大事を成し遂げようと思ったら、小さな事を怠らず、基本の基本を大事にして、励まなければならない。小事も積もり積もれば、大事と作(な)るからだ。
 しかし、小人(しょうじん)の常として、大事の成就し難いことを嘆き、最も成就し易い小事を等閑(なおざり)にする。小事をいい加減に扱う。

 こうした心掛けであるから、一生懸(かか)っても大事が成し遂(と)げられないのである。基本の基本を見失う事なく、「千里の道も一歩から」の俚諺を忘れるべきでない。千里の道の第一歩は、まさに基本の基本であり、小事の小事である。しかし、これが小事であるからと、軽く扱ってはならない。また、見逃してはならない。

 青年時代、誰もが大きな野心を燃やし、それに向かって奮闘しようとする心構えを見せる。そこに夢があり、大志を掲げる。しかし、こうした場合、多くは単に野心を燃やすばかりで、野心の欲望ばかりが鼻につく。小さな、地道で辛い小事を馬鹿にし、これを怠ることが多い。夢が空想化し空回りするのである。夢ばかりに期待を抱き、地道な辛い、足許(あしもと)を固める作業を怠ってしまう。ここに愚者の見逃しがある。

 若い時から、小事を馬鹿にしてきた者は、老年になっても、何一つものにすることができない結末を招く。こうした結末から、これを自分の不運と勘違いし、世の小人(しょうじん)の常として、人を嫉(そね)み、世の中に憤(いきどお)りを感じ、自分の怠慢を棚(たな)に上げて恨んで一生を終える。こうした、不成功のまま、何一つ成就しないまま、人生を閉じる者は多い。それだけに、「死」についても研究することがなく、多くは死を解決できないままに死んでいく。迷いに迷い、迷った挙句に死んでいく。不成仏の極みである。何と愚かな人生であることか。

 これは自分が長年小さな事を見過ごし、怠って来た報(むく)いである。世の中が不公平なのではなく、自分が小事の大切さを見逃し、怠けたからに過ぎない。
 一方、一廉(ひとかど)の大成者になる者は、これまで不成功者が軽蔑して顧みなかった小事を、着実に積み上げて来た経歴が、大事を成し遂げる要因を作ったのである。運命の明暗はここにあり、大事の成就を夢に見ながらがら、小事を見逃して来た者と、大事を致すことを最初から念頭になく、ただ一心に小事に取り組んで来た者との間に、人生は大きな隔たりをつくるのである。人生の生き方に隔たりが出来るのは、小事を積んだか、そうでないかに懸(か)かる。

 千里の道は、「最初の第一歩」から始まる。「最初の第一歩」は実に小さな第一歩である。その第一歩を軽んずる者は、千里を行くどころか、一里も歩かないうちにへたばってしまうのである。これは怠慢が生んだ無能であり、むしろ愧(は)ずべき行為である。

 曾(かつ)ての武士は、「愧じ」に対して敏感であった。「愧じ」意識が強かった。人格が問われる武家社会にあって、「愧じ」に対して無頓着ではいられなかった。武門の行動律は、恥辱(ちじょく)に対する感覚である。名誉意識である。
 人に笑われる、侮蔑を受けるなどの、人から揶揄(やゆ)されることは、武士のとって人格に否定であり、卑怯者と罵(ののし)られたり、腰抜けと侮辱されることと同義であった。屈辱(くつじょく)を受けることこそ、武士にとって「最大の愧じ」であった。

 ところがこうした「愧じ」に対する意識を持つ、昨今の武術や武道の愛好者はめっきり少なくなった。単に、武道オタクであることが、自称・武道家だと自負して疑わないところがある。したがって愧じに対する意識は薄い。薄いどころか、愧じの上塗りをして傲慢(ごうまん)である。自分を第一人者と自惚れた者すらいる。

 武人にとって、愧じに対する名誉意識とは、則(すなわ)ち、わが「命」であり、人格であり、品格であった。その象徴として、「太刀」があり、武人は太刀をとったのである。太刀は、武士の象徴であり、武士が太刀を帯びると言う行為は、名誉と同等の重さを持つ、まさにそれは「命」であったのである。

 大伴家持(おおとものやかもち)の悟道歌に、次ぎのようなものがある。

  剣(つるぎ)太刀 いよよとぐべし いにしへゆ
    さやけく負ひて 来にしその名ぞ

 太刀とは、武門の行動律を示したものである。太刀こそ、名誉意識を象徴したものであった。武人が稽古を通じて「太刀の理」を命賭けで学ぼうとするのは、単に暴力を象徴したものではなかった。太刀を遣う、本当の働きを会得する為であったのである。

 したがって、太刀遣いも、小手先に頼らず、全人格を前面に置いた命賭けのものになる。
 世間に、自称武道家と称し、「小手先技法」に明け暮れる者は多い。小手先技法だけを練習して、太刀の遣い方を知らず、兵法の何たるかを分かっていない者が多い。その上、小手先の技法を、日本一などと称して、自惚れている輩(やから)もいる。

 二次元平面の上で戦い、その平面単純な平地で闘技して、勝てばそれでよしとする者は少なくない。つまり小手先空間で満足し、実際に「三次元の戦闘ステージ」があることを全く分かっていない。
 こうした者の小手先技法は、基本の基本である小事の教えを全く厳守していない。小事の小事を、飛ばしに飛ばし、省略に省略を重ねて、自分では「分かった」としている。しかし、一向に分かっていない。基礎の基礎を飛ばしに飛ばしているのだから、どうしても小手先技法に頼らざるを得なくなる。

 小手先技法に頼る輩(やから)は、まず、太刀を取る場合、指先の動きと、手頸(てくび)の三寸か五寸ほどの動かし方を知り、それが早いか遅いかを論じている。また、ある人は臂(ひじ)から先の動きの速さを論じ、これが早いか遅いかを、勝負の心得と勘違いしている。
 更には、手・足の動かし方のみを練習し、敵に対して、幾らかの動きの速いことで勝利を得ようと焦っている。しかし、総てこうしたものは「小手先技法」に過ぎない。小手先の良し悪しや、小細工だけを問題にしている。展望がない、目先の「こだわり」である。
 何事にも「こだわる者」は、目先しか見ていない。したがって、小手先のお粗末な芸当で誤魔化そうとする。

 小さな小手先に趨(はし)る技法の利得に、勝機はない。基本を大事にし、基礎の基礎の中に大事に至る小事が包含されており、小事イコール極意と心得なければならないのである。小手先技法の中に、決して極意など備わっていない。

 小手先技法にばかりに「こだわっている」と、結局、敵の計略を見抜いたり、敵の強弱を見極めたり、それが兵法の理(ことわり)にかなっているか否かの判断が狂ってしまうことである。
 こうした愚を冒さない為には、朝夕稽古して、鍛錬に鍛錬を重ね、真の儀法(ぎほう)を磨きに磨き、力量を蓄えて、神通力もを発揮させねばならないのである。

 神通力とは、不思議な事をする力ではない。全身の力を結集して、この能力をフルに発揮させる働きの大用を、則(すなわ)ち、「神通力」というのである。その力の根本には基礎の基礎、基本の基本の小事が横たわっているのである。換言すれば、小事を積み重ねるとは、実に「極意を積み重ねている」のである。

 

●迷うこと勿れ、自分の腕を疑うこと勿れ

 太刀合いに於いて何処を攻めるか、何処に打ち込むか、迷ってはならない。太刀の道、一つをもって「命の遣(や)り取り」をするのであるから、自分が自信を持って打ち込み、あるいは斬り込んだ「最初の一太刀」は、ゆめゆめ疑ってはならない。
 基礎の基礎を鍛練し、小事を手堅く積み上げて来た小人の後の努力の結果と言うものは、必ず、何らかの結果を齎すものである。したがって、自分が打ち込んだ一太刀は疑うことなく、迷うことなく斬り込まなければならない。

 万一、躱(かわ)されたからと言って、それで諦めてはならない。もし、躱されて次の手が出て来ないと云うのは、小事を怠った証拠であり、小事を積み重ねて来た者ならば、基本に忠実である限り、万一、躱されたとしても、それで諦める事なく、一気の何処でも打ち捲(まく)り、切り捲るはずだ。

(すく)い跳ね上げから、一旦躰(たい)を開き、相抜けの機会を窺う。そして掬い上げから、躰を開き「手頸(てくび)の返し」に成功したら、左半月を描き、抜け出る態勢を作る。
そして機を窺い、一気に相抜けで勝負を決してしまう。
 ちなみに「相抜け」とは、相打ちとは違う、死地に活を求める、「生きる剣」なのである。したがって、相打ちで共に斃(たお)れてしまう剣とは異なる。互いが同等の実力である場合、太刀合を行えば相打ちになりやすい。しかし、これでは共倒れである。どちらか一方が、死地に活路を求めるとすれば、相抜けで、「生きる剣」を用いなければならない。

 吾(われ)が打ち出すと、敵は、これを打ち止めようとし、あるいは張り除(の)けようとする。その瞬間を捉えて、一気に打ち捲(まく)るのである。この場合、何処でも打ち捲るがいい。頭でも、手でも足でも、何処でも構わず、敵を休ませる事なく、徹底的に打ち捲ることだ。
 八つ当りでも構わない、徹底的に打ちのめすことである。区別なく八方へ打ち散らすことである。

 この太刀に懸ると、敵は息つく閑(ひま)がなくなる。打ち据えられて惨敗する。したがって、冷静さを失わない八方への打ち散らしであり、凄まじい剣となる。これは勝機を逸せず、確実に勝ち捲る太刀遣いである。とにかく、「あと一太刀」の信念で、確実に打ち据えたと確信しても、更に「あと一太刀」を加えるのである。この「あと一太刀」は敵に息をつかせる余裕を与えないのである。

 しかし、「あと一太刀」を打って、もうこれで勝ったと思ってはならない。こうした慢心が生まれた時、敵に斬り返されて危うくなる。これまで打った、せっかくの「あと一太刀」が無駄となり、油断したその時に斬り返されるのだ。

 一太刀打ち、これが確実と思っても、更に「あと一太刀」を打ち込む。その「あと一太刀」を打ち込んで、その一太刀で敵を斬ることが出来ようが出来まいが、こうした事には頓着せず、更に二度、三度、四度、五度、六度と繰り返し、「あと一太刀」を打ち込み、敵に顔を上げさせないことである。徹底的に容赦なく打ち込むことだ。

 この覚悟が決まっていれば、「最初の一太刀」で、一撃にして敵を倒す事が出来るのである。自身に凄まじい覚悟がいる。したがって迷う事なく、「最初の一太刀」を打ち据えなければならない。また、自らの腕を信じて、「最初の一太刀」を自信を持って打ち込まなければならない。自らを疑うことのない、「自信」こそ、太刀遣いの全生命である。

 また、一気に敵を連打する太刀遣いは、実戦には非常に有効である。打ち据えた敵の悲鳴が聞こえても、これに耳を傾けてはならない。悲鳴に、ハッとして気を抜けば、次ぎの瞬間には死に物狂いで敵が反撃して来る。その反撃によって命を落とす事すらあり得る。まず、敵に一撃をくれたら、悲鳴など耳にせず、敵の怯(ひる)むところに付け入り、これを滅多打ちにすべきだ。

 相手を倒さねば、自分が殺されるからである。殺されては、幾ら反論を試みたところで、命のない以上、何も出来ない。しかし、生きれいれば、それに自己主張を加える事ぐらいは出来よう。何事も、命あっての物種であり、死んでは反論すら出来ないのである。何が何でも、生き残ることだ。

 また、小事に小事を積み重ねて、やがて気付くことは、「人間の眼は非常に弱い」という事である。人間の眼は、中心から外側に向かっている。したがって、万一、自らの自信をもった一太刀が躱(かわ)され、敵の反撃の一打を受けたら、その「受け」は、敵の眼を突くように受けなければならない。

 敵の太刀を受けるには、大方三つの方法がある。その一つは普通に行われる、ただ「受けるだけ」という消極的な受け方である。単に斬られたくないから、受けるだけである。しかし、積極的な受け方として、敵の凄まじい剣を受けたとして、敵の眼を突くようにして受ける。これこそ積極的な「受け」であり、太刀遣いの極意ともいえる「突き受け」である。「突き受け」の威力は凄まじい。眼を徹底的に攻めるからだ。

 更に、受けとしての極意とも云うべき受に、敵が凄じい勢いで斬り込んで来た時、これを受け止めることを気にせず、左手に握り変えて、一気の敵の眼を突き刺すことである。もし、斬られれば、自分の斬り傷は受けることになろうが、それでもこうしたことを全く気に止めず、ただ眼を突くことだけに集中し、この気魄(きはく)をもって敵の裡側(うちがわ)に入り込む事なのである。

 裡側に入り込むとは、単に「懐(ふところ)に飛び込む」といった抱擁的(ほうようてき)な入り方ではない。こうした甘いものではない。敵に中心部に進入し、中心点を崩壊させてしまうのである。
 太刀を抜いて太刀合う以上、これくらいの凄まじさは必要であろう。

 人生は一旦命を失えば、そこで命の再生リセットはあり得ない。死ねばそれまでである。したがって命を失わぬような太刀合が必要である。
 今日の時代に刀を抜いて太刀合うなどの刃傷沙汰は殆どありえなくなったが、しかし、人生の生き態(ざま)としてこの程度の迫力はいろう。遣られて、遣られ放しでは実に情けない。こうした気魄は、いつの時代も忘れてはならず、現代にも生きているのである。

 本来、「受ける」と言う動作は、受動的なものであるが、敵の眼を突き抜く気魄によって、これが能動化するのである。生き物の眼は、人間に限らず急所である。この急所を狙うのが、戦いに勝つ秘訣なのである。
 これだけを熟知しておれば、これ間人生を生きていく上において、一種の「切り札」になるはずである。

 しかし、この「切り札」を見逃す者は多い。護身の術として最も有効な、生き物の目は、さいだいの急所であることを忘れている。
 例えば、来客があり、客のもてなしとして、茶などの飲み物が出されたとしよう。しかしこの客が、敵なのか味方なのか判明しないとき、茶碗やグラスで客の目を突き刺すくらいの覚悟はいろう。敵味方が判明しないとき、中途半端な安堵をもって、客を歓迎すべきでない。 

客の中には客を装った人間は、世の中に五万といる。もし、こうした下心があり、客を装って来訪したものに心を許すと、一気に根こそぎ遣られるものである。したがって、用心は怠ってはなるまい。
 この場合の用心の術として、敵か味方か判別しない客が眼の前に座っている場合、万一の用心として、茶碗かグラスをお膳かテーブルの角で叩き割り、この欠片(かけら)を以て、敵の眼を突く、あるいは眼にめがけて斬りつけるくらいの「術」は身に付けておくべきだろう。

 訪問セールスなどを装った敵か味方かはっきりしない者や、戸別訪問の押し売りと思えるセールスマンの口調やペースに乗せられて、物を買わされるという後味の悪い結果が出現するのは、敵か味方か判別できない来訪者に対し、口車に乗せられ安易に心を許してしまうからであり、こうした覚悟の甘さや、自分の態度の曖昧(あいまい)さが、セールスマンの巧みな話術のペースに乗せられ、高額な、殆ど役に立たない物を買い込まされてしまうのである。自分のお人よしと、人を見抜く見識のなさを責めるべきである。

 人生は、至る所に「落し穴」があることを把握しておかねばならない。見ず知らぬ者の、お追従に乗せられてはならない。必要以上に巧みな口上手は、何処かに下心のある証拠である。また、安易な妥協は、命取りになり、財産を失うばかりか、命までも失う結果となる。
 現代は、詐欺が横行する時代である。したがって、消極的な弱者は、徹底的に打たれ、餌食(えじき)にされるのである。
 こうならない為にも、毅然(きぜん)とした態度が示せる自己の確立が必要であり、よく鍛錬された自身の腕前は、ゆめゆめ疑ってはならないのである。

 また、自我に固執してはいけない。執着心は命取りである。その為にも、冷静に判断が下せるよう、心身の鍛錬が必要である。相手の行動や仕種(しぐさ)や態度を、充分に把握する必要がある。口上手に乗せられたり、お追従によってはならない。更に、「身びいき」とぴうのは、最も冷静な判断を失わせる元凶の材料となる。誤り易い。充分に自戒すべきである。

 我執と慢心を自戒することを教えるのは、武術などの武芸に限らず、あらゆる芸道の掟(おきて)であり、共通する戒めである。
 慢心が起った時点で、その術の上達は止まる。武芸でも、慢心を起こした為に、敗北する実例は多い。したがって、我身を身びいきしてはならない。「身びいき」は自惚れを齎(もたら)すばかりでなく、一方において、自己の否定にも繋がり、自己への疑いにも繋(つな)がるのである。

 社会生活を営んでいる人間という生き物は、外野のデマに流されやすく、捏造(ねつぞう)の仕掛けの裏を知ることが少ない。その為に、惑わされ、騙されやすいのだ。そしてその挙句、自分の腕すら疑って掛かる。その心理戦術に掛かってもならないが、逆に、これを巧みに利用することは、有効な手段である。しかし、自らを信じる力量を持っていなければ、これも無に帰するのである。
 しかし、こちらに「落し穴」を仕掛ける力量があれば、滅多に敗北は招かないものである。

 こうした考え方は、平和を望むなら戦争を知らなければならないのと同義であろう。平和の連発だけでは、決して戦争を抑止することは出来ないのである。

 江戸初期の書物に、『故老諸談(ころうしょだん)』 という、徳川家康が、戦国期の世が終わり平和な時代になった、この時代のことを正直に告白した、嘆きを記した話が掲載されている。
 これによると、僧侶の喩(たと)えを挙げて、「今時、諸侯は多くあぶれ者や、正体の知れない者を、矢鱈(やたら)に養いたて、大衆を欺(あざむ)き、米銭を掠(かす)め取る邪悪な僧尼が何と多いことか。道徳あって、人を感化する名僧は万人のうち一人か二人である。武士、出家、儒者をおしなべて、真実の人は絶えて果て、偽者がうろつきまわる世になった」と批難し、嘆いている。

 戦乱の世が治まり、世の中が平和になってくれば、逆に、世相や人柄などの人格は、軽薄になってくるものである。これは今も昔も変わらぬ傾向である。これは時代を真剣に生きる者が少なくなった為であろう。

 つまり、人の生き方が、天職に対する自覚が薄れ、金・物・色にほだされる世の中となり、道を軽視して、大雑把(おおざっぱ)に推量することが主流となった為である。こうした世相を反映して、これらが主流になると、まず、人命が軽視される。昨今の世情不安に並行して、青少年の凶悪犯罪が増え、世の中が不穏を呈しているのは、これを如実に象徴している。こうした実情から云うと、現代人は道から外れた路線を歩く人種といえよう。

 しかし、道から外れたところを、歩いていても、道理に通じないのであるから、やがてこれは、自らの報いとして背負わねばなるまい。また、基本的な動作も蔑ろにされよう。
 こうなった時機(とき)、人は判断を狂わせるものである。

 本来ならば、武人は常に冷静でなければならない。静かに、どこまでも静かに、心を細かく配り、何事にも注意を怠らぬことが肝心である。広い眼で観察眼を養うことが肝心である。
 剣の極意には、躰(からだ)が静かなときにも心は働いていて静止せず、逆に、躰が烈(はげ)しく動くときには、心は平常心を保たなければならないとある。

 換言すれば、心が躰の働きに引き摺(ず)られず、また、躰が心の働きに引き摺られることないようにして、それでいて心と躰は、「両輪の輪」の如くの働きをしなければならないと説かれている。
 つまり、敵の動きに即応できる態勢を、常に備えておけということなのだ。

西郷派之秘剣・合気剣の極意についての「合気剣術・総合武範」の詳細はこちら


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