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●いい伝統を持つものは時代と共に改良されなければならない人が時代と共に変化し、その心情の根底にあるものは、絶え間ない「変化」である。この世の事象の総(すべ)ては、変化して已(や)む事がない。止まる事を知らないのである。そこで、本来の「伝統」と、旧時代の一分も違わない寸法通りの「伝承」を見誤ってはならないのである。 軍事研究に少しでも関心のある方なら分かるであろうが、かつて大日本帝国海軍には「零戦」という優秀な戦闘機があった。 しかし、あまりに優秀だったこの戦闘機は、日本海軍のベストセラーになるばかりではなく、ロングセラーにまでもなってしまった。このロングセラーが曲者(くせもの)だった。一旦優秀な戦闘機が出現すると、その設計思想から中々抜け出せなくなってしまう。 設計を考える場合、これを基本にして考え、その他の考え方に頭が廻らなくなる。別発想で思考が出来なくなる。それと同時に、これを基本にしなければならないと言う固定観念が生まれる。つまり、「分別知(ふんべつち)」に囚(とら)われてしまい、そこから抜けだせずに、新たな思考が発想できなくなってしまうのである。 画期的な異次元媒体を製作する時、これまでの優秀性を一切刷新し、新たな立場で物事を構築しなければ新しいものが出現しない。新奇性が生まれないのである。 ところが、一旦、都合のよいロングセラーが登場すると、この発想が捨て切れずに、それを基盤として物事を考えるようになる。やがてこの考えは時代遅れを生み、時代の取り残される。 当初の零戦は、発動機の換装により一号、二号と呼称された。機体の改修は一型、二型と表されていたが、1942年の夏に連続した二桁の数字(最初の第一桁が機体の「改修回数」で、次の第二桁が発動機の「換装回数」を顕わす)で示すように変更されたが、その発想は、何処までも、零戦思想を母体にして考える発想から抜け出せなかった。 既存の一号一型は歳月を経て改良され、一号二型は一一型および二一型と改称された。二号零戦は二号零戦改と仮称され、新型零戦は三二型および二二型と改名され、性能もこれを基(もと)に改良され、一号一型を母体に次々に改良が加えられた。 当初の零戦が余りにも軽快で、性能が良く、運動性も卓(すぐ)れていた事から、これが大戦末期までロングセラーとなった。 ただ辛うじて、登場したのが、プロペラ機の中では、当時、世界最高と言われた「紫電改」(【註】「紫電」一一型の欠点である視界や脚関係の不備を改良し、防禦を重厚にした海軍の局地戦闘機で、昭和18年川西航空機が高性能戦闘機として本土防空決戦の為に作られた名機。特に松山航空隊の源田大佐が率いた「源田サーカス」は有名。B29を懼(おそ)れさせ、「B29キラー」の異名を持った)くらいだった。 日本は、世界の戦術が航空機によって立体戦争になり、既に平面戦争が終焉(しゅうえん)している事に気付かず、古いベストセラーに頼り、これに固執した事が日本の大敗北を招いた原因の一つにもなった。つまり「伝承」に固執すると、こうした二の前になるということを、先の大戦は貴い教訓を残し、これを如実に物語っている。 したがって、時代と共に、「伝統」を基にしながらも、変化する思考が登場しなければならないのである。 この「今的」を無視して、伝承ばかりに固執すると、ロングセラーから抜け出せない発想で、プロペラ機的な戦闘理論を引き摺(ず)って考えねばならぬ事になる。それは奇(く)しくも時代にそぐわない、単なる骨董品に過ぎないのである。
●邪気と外邪を払う 日本刀・真剣と言うものは、単なる得物としての道具ではない。魂の籠(こも)った「神器」である。したがって、太刀を構成する神器は、その遣い方と言うものがある。 太刀筋を糺(ただ)す為には、単に木刀や竹刀を振る要領だけを心得ておいても駄目である。太刀が通る太刀筋・刃筋と言うものを知らなければならない。 しかし、こうした音がするのは、樋(ひ)の入った刀だけであり、樋は、刀や薙刀(なぎなた)の身の棟(むね)よりの側面につけた細長い溝のことである。これは刀剣の重量を減らし、調子をととのえる為のもので、血走りをよくする為に考案されたものである。これを「血みぞ」または「血流し」ともいう。 さて、刀を振ると、実際にテレビや映画で見るようなああした音がするのか。 例えば、樋の入っていない刀で試し斬りをすると、濡れ藁(わら)や竹などは見事に切断されるのに、切断される前に、テレビや映画で見るあのような音は聞き取れない。しかし、音がないのに切断されている。したがって、「音はしない」のである。 太刀は、振りよいように、静かに振るのが良い。鉄扇や小刀を用いるように速く振ろうと用いてはならない。速く振れば刃筋を誤る。つまり、振れなくなり、斬れなくなるのだ。 太刀は、振り切った後の臂(ひじ)を強く延ばし、柄は茶巾絞(ちゃきんしぼ)りの要領でしっかりと絞り、強く振るのが良い。太刀を意識的な早く振ろうとすれば、かえって太刀の持つ機能は失われ、人を斬る目的は果たせなくなる。それはまず、構造上の問題が上げられる。太刀は、刀同様に「反り」がある。特に太刀の場合、多くは「竹の子反り」といって、鍔許(つばもと)近くから反り上がった構造をしている。 更に、片手でも振れる構造で造られている。 一部の中国拳法マニアの人に、刀剣の素振りを、「棒振り」と侮蔑した表現で、甘く見ている御仁(ごじん)を筆者は知っている。しかし、この人は日本刀と言うものを全く知らないように思う。この人に何度か、日本刀で試し斬りを遣(や)らせた事があったが、結局一本の細竹も斬ることが出来ず、一本の濡れ藁も斬ることが出来なかった。その上、無態(ぶざま)にも、刀を無残に曲げてしまった事があった。 そして、この人の結論は、「刀は斬れないものだ」ということであったが、筆者が同じ物を連続で数本斬り倒し、「では斬れない日本刀で、あなたも一緒に斬ってあげましょうか。胴体や首を斬れば命を失いますから、命を失わない程度に、片手でも片脚でも出して下さい。叩き斬ってやりますから」といったら、青くなって首を竦(すく)め、尻尾を巻いたようであったが、それでも私の居ないところで、日本刀の素振りを、今でも「棒振り」と言って憚(はばか)らない。この人もそのうち、侮辱した恨みを買って、命を亡うのではないかと思っている。 世の中に憶測で物事を考えたり、自武道・自流が一番卓(すぐ)れていると思っている人が決して少なくない。それは自分の流派に対する愛着だけではなく、指導者から聞かされた伝説を信じ、一種の固定観念で凝り固まっている人である。こうした見聞の狭い人は、自身の修行の上達の度合いも、そこで足踏みしているようだ。 こうした考えに取り憑(つ)かれて居る人は、打撃系に多く、特に中国拳法の愛好者や、自称・陳家太極拳(この拳法の本物は実に少ない)と称して、中国でも有名な○○先生の名前を挙げ、これらの武技を妄信的に愛好して居る人に多いようだ。 つまり人種によって構造の違いが若干顕われ、これがその国の人の特異な体質の特長になっているからである。日本人以外の外国人のうちで、日本人と言霊が非常に近いのは、朝鮮民族くらいなもので、戦前・戦中は日本も韓国併合という悪政を敷いたのであるから、当時の日本人は、韓国・朝鮮人も日本人も同じと考えていたくらいである。したがって、彼等の徴兵を課せたことは歴史上の明白な事実である。しかし、中国人には徴兵は課せなかった。完全に異民族と思っていたからだ。 昨今は、日本人でありながら、日本の伝統文化を侮蔑(ぶべつ)する人が多くなった。何でも外国のものを、良いと思い込み、こうしたものに熱を上げている。しかし、言霊が違う以上、幾ら熱を上げても、最終的には日本人のものにならない。その大本を握るのは、その国で生まれた文化の元締めである、ひと握りのエリートである。こうした物へ、日本人が横から割り込んで、彼等の真似をしたとしても、最終的なものは掴み取る権利はなかろう。その権利は、総(すべ)てその国の文化の元締めにあるのである。 これは武術に於いてもそうであろう。 そして、言霊や構造上の体質の違いから、一旦、病気や怪我をすると中々治らない。 これはまさしく、身体上の躰(からだ)の構造の違いと、言霊に違いから起る「呼吸病」とでも言うべき症状である。長い呼吸にゆっくりとした動作を合わせ、それにナメクジのように足を滑らせて行く動きは、日本では最も良い健康法と思われているが、こうした健康法は日本人のものではなく、中国人のものである。これを誤ると、病気をしたり怪我をしたりするのである。 実際にその国の武術なり、文化なりの芸事を、朝から晩まで猛稽古に励めば、特に打撃系では蹴りの動作がある為に股関節が外れ、膝関節を損傷し、「股関節亜脱臼」を起す。若いうちは若さでカバーできるが、晩年はこうした身体上の故障は憂鬱(ゆううつ)な病魔と化すのである。したがって、言霊の違いは恐ろしい。晩年は階段を上れなくなるほど、大きな障害を残す場合もある。 さて、日本刀は「神器」であると云った。邪を祓(はら)う威力があると云った。これは日本刀に見立てて、「剣印(けんいん)」を作った場合でも同じである。 例えば、滝行などで御滝場の中に入る場合に用いる。この時の九字は、真言密教などで遣われるものである。したがって、周囲の邪気を祓(はら)う場合は、「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(じん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)」の九字の呪(じゅ)を唱えて、人指し指と中指で剣印(けんいん/人差指と中指を直に伸す)をつくり、空中に縦に4線、横に5線を描くのである。これを「四縦五横(しじゅうごおう)」と言う。 西郷派の夏季合宿セミナーには、滝行を遣(や)る為に全員が九字を切ってその場の邪気を祓い、順に滝の中に入る。ところが何年か前、部外からの参加者の一人が、「自分は宗教が違いますから九字は切りません」といって、邪気を祓うこともなく、勝手に滝の中に入っていった。そしてその日は何事もなく、終わり、合宿も一人も怪我人も出すこともなく、無事に終了したが、それから三ヶ月ほどして、この部外からの参加者が電話をかけてきた。 内容を聞くと、合宿で滝行をして以来、ずっと頭が重いという。また、肩凝りも激しく、頭の中にもう一人、人がいるような感じがするというのである。だから筆者は、「それはあなたが御滝場で誰かの落とした唸(ねん)を拾ったのですよ。つまり、分かりやすく言えば“生霊”というものです。御滝場などはこうした他人の落とした唸がゴロゴロしていて、九字を切り邪気を祓わねばならないのですよ。当時あなたは宗教が違いから九字は切らないといったじゃないですか。これは自業自得ですよ」と言って遣(や)ったら、これに納得したのか、しないのかは分からないが、それから何の電話もかけてこなくなった。 世の中には、指導者の忠告を無視して、自分勝手に古くからの行法を否定して、自己流に遣る人がいる。こうした人が精神的に害されるのである。また、御滝場に行くと、明らかに何処かの新興宗教と思える一団が占拠していて、異様な嬌声を上げ高らかに「般若心経」などを唱えている集団を見かけるが、こうした間違った行法をしている人の落とす唸も、昔以上に強烈なものになり、生霊化しているので、御滝場の入場は九字を切って注意した上にも注意をし、厳格を帰すことが大事であろう。 つまり、こうした間違いは、日本刀も剣印も、日本独特の言霊であり、この言霊の中には邪気を祓う威力があると共に、「神器」としての役割があったのである。それを無視して言霊の違うものを持ち出したり、宗教が違うなどの滑稽な論理で、日本の大自然に備わっている実用的仕来りを無視したことから、多くの不幸現象は起っているのである。
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