トップページ >> 技法体系 >> 剣術 >> 合気剣の極意(四) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こうした見落としや、敵に対する観察眼を怠ると、敵を制し、吾(わ)が方に勝利を導く事は出来ない。 「遠い所を近くに視、近い所を遠くに視る」見方というものは、戦闘思想であるばかりでなく、人生を長期の出来事から構成された「構図」と看做(みな)す考え方である。この考え方によれば、人生は決して短距離競争でない事が分かり、長距離を走行して、最後はどのように「有終の美」を収めるかが問題になってくる。 近視眼的に人生を走り抜いて来た者は、短距離ランナーである為、最後は多くの距離を余して途中で息切れがして斃(たお)れてしまう。長距離を短距離ランナーの走行力で走っては、最後まで持続力が続かないのだ。 これを剣術に置き換えて考察すれば、敵の身近な動きに心を捉(とら)われず、最終的な勝負の決着にこそ、眼を向けるべきもので、途中の経過は余り問題ではないのである。 したがって、前半戦の勝負は余り問題にならず、終局の戦利に精魂を傾倒させるべきで、途中で幾ら努力したか、こうしたことは、一旦斃(たお)れてしまえば余り問題にはされないのである。これこそ、不幸の人生の結末として、一笑され、それで終わりである。一敗地に塗(まみ)れながらも、「有終の美」に辿り着くことが大事なのである。
●地道な鍛錬に励み、警戒心を失うな 剣を学ぶには、基本の基本を確実にし、基礎の基礎を謙虚に学ばねばならない。基礎を蔑ろにする者は、自らの命も軽るんじて、やがて無慙(むざん)の失うものである。したがって、地道に鍛錬を積み上げなければならない。 世に、神通力とか、神変自在などというものがあるが、これは格別に変わったことをする現象を起すものでない。また、鬼神(きしん)が降りてきて、それが人に取り憑(つ)くものでもない。神通力は、凡夫(ぼんぷ)の目の前で奇蹟を起す超状現象ではないのである。 これは全身の能力を発揮させよと教えているのである。全身の能力をフルに発揮させることが出来れば、つまりこれば、神変自在の神通力なのである。 こうした太刀の構え方を学んだ後、策略、偽り、物真似、強奪、裏切り、寝返り、賄賂(わいろ)、工作(謀略・破壊・転覆・防諜など)、抱き込み、返り討ち、捏造(ねつぞう)、欺瞞(ぎまん)、類似、流布、卑下、増長、風説、射落とし、虚を衝(つ)く法や、落とし入れ、罠(わな)の仕掛、敵味方の判別、攪乱(かくらん)の術などを学び、次に種々の武器の扱い方や、飛び跳ねたり、飛び下ったりの法を学ぶのである。これは決して卑怯ではない。一見、卑怯な手口に映るが、裏を返せば、極めて合理的である。こうした事が合理的である為、国家や企業などの組織が、この合理性の恩恵に預かっている。ただ、こうした水面下の暗躍は、表からは見えないだけである。 世の中は、この合理的な構図と構成により、動いているのである。その為には、「穢(きたな)さ」を学ばねばならない。「穢さ」を知らない者に、美しさを評価する資格はない。戦いとは、「非情なもの」であり、兵は詭道(きどう)なのである。 つまり、一筋縄ではギブアップしない、「したたかさ」を養うのである。その為に、無力な善人であってはならない。可もなく不可もなく、小中学校の教科書で教える「おりこうさん」であってはならない。これは小市民を育成する為の都合の良い、「人間飼育」である。こうした時機の権勢の政治力に嵌められてはならない。常に、裏の裏を考え、物事を平面ではなく、立体的に組み立てて思考する事である。ここに「三次元を戦闘ステージ」とする、剣術の奥儀がある。 また、柔術を用いて、「奪いの太刀」で、敵の刀を奪い取ったり、蹴倒したり、投げ払ったり、普段の道場内稽古の型に捉われない、自由自在の働きがあることを知らなければならない。これを知ることを「大用(たいよう)」という。 大用を用いるには、普段から油断なく、総てに細心の注意を払わねばならない。 また、「覚悟」としては、襖の裏や障子の裏に足音がしたら、襖越し、障子越しに槍で突かれる覚悟を承知し、これに備えなければならない。こうした異常事態を日常空間の中に作り出しておいて、非日常に備えなければならない。 人間社会には、一般の動物と比べると、その比ではない激烈な縮図が展開されている。そして、ここには想像も絶するような、危害が発生し、災難に遭遇する現実がある。こうした諸問題を次々に解決し、外敵に打ち勝つ勝利への道が、この地道な稽古の邁進(まいしん)の中に包含されているのである。
●目利きの秘訣 剣技に熟練するとは、同時に「目利きの法」も通じ、これを会得しなければならない。 『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の名で名高い甲州流の軍学には、「五箇条の理(ことわり)」というのがあり、この甲州流軍学書は、全20巻からなる。そして「五箇条の理」の第一箇条には、「大将の人柄を目利きして、その奉公人は得物を見知りして、諸役を仰(おお)せ付けらるること」とある。 つまり大将たる者は、人の「目利き」や「品定め」が上手でなければならないとしているのである。その為には、召(め)し遣(つか)う奉公人の長短を知り、逸早(いちはや)く長所のみを伸ばしてやり、それに相応しい役目を命じなければならないとしているのである。ここには、部下を見抜けない者は、人の上に立つ資格はないとしている。 人の遣い方が上手ということは、人の長所を発見するのが長(た)けているということなのだ。人間は十人十色であるが、それぞれに長短を持ち、その長所を引き出してやれば、その恩に報いると言う事なのである。人は遣いようで、如何様(いかよう)にも変化を齎(もたら)し、そして活きるのである。したがって、「目利き」が大事になる。 「目利き」とは、見えない処にあるものを、まさに見えるが如く鑑定することである。本物の正体と言うものは、中々肉眼で捉えることができない。常に、肉の眼に見えぬところに存在する。だからこそ、眼に見えないものを見抜かねばならない。 これは敵を観察する場合も同じである。常に敵は自分を悟られないように、襲う場合は姿を隠して潜伏して来る。まるで豹(ひょう)が跫音(あしおと)を立てずに、そっと寄り添うように忍び寄って来る如きだ。視界に入らぬ、死角から攻撃の魔の手を延ばすのが、真の敵と言うものだ。 しかし、未熟者はこの眼に見えぬ敵を悟ることが得意でない。こうした敵は、気付かれぬよう、穏微(おんび)の影に溶け込み、善人面(ぜんにんづら)して味方の中に紛(まぎ)れ込み、善人のような振る舞いをして、見た目も好人物である。あるいは好々爺(こうこうや)の老人であるかも知れない。しかし、こうした一見善人と見間違う輩(やから)が、或る日、突然いわれもなく襲って来る。 この隠微の影に隠れた敵を、眼に見えないからと言って、見逃してはならない。また、安易に見逃しては「目利きの上手」とは言えない。 こうした見えない敵は、至る所に隠れて、鈍感な人間の隙(すき)を窺(うかが)い、あわよくば撲殺しようと狙っている。 したがって、敵が切り掛かって来るのを肉眼で確認し、それから身を躱すようでは、既に遅いのだ。 スポーツ競技は、肉体重視の論理から組み立てられ、これにルールを設けたものが競技格闘である。この論理で、眼に見えぬ敵の所在を探知する事は不可能である。三次元科学は、眼に見えないものを測定する「物指し」がない。測定できないから、眼に見えないものは存在しないことになる。 例えば、近代剣道のような竹刀競技に於いて、後ろから打ち込まれると言う事は、その剣道競技のルールから行ってもあり得ないことだ。また剣士も、後ろから襲われてはお手上げだろう。 しかし、実戦はスポーツ競技でない。こうしたルールなしの、隙(すき)をついて攻撃する、攻撃がある事を予知できない者は、最後は結局惨敗し、敢(あ)え無く命を落すのである。ルールに甘んじていては、最後は命を落とすことになろう。そうならない為にも、常に「非日常」を想定し、目利きを働かすことである。 実戦・戦場での駆け引きは、敵を混乱状態に落としいれ、判断力を失わせ、どさくさに紛(まぎ)れて、錯乱状態に陥れることである。これこそが勝利を収める「戦術」であり、本来ならば、「武道の観点」からすれば、非常に見苦しい作戦であるが、戦場の駆け引きとしては、最も合理的である。この合理的な面を、見苦しいとか、スポーツマン・シップに反するとかで見捨ててはならない。 戦場では、「目利き」による誘降、買収、デマ、攪乱という高等戦術が大いに功を奏することがある。中国の有名な兵書の『六(りくとう)』の中には敵の内部を攪乱させる戦術が取り上げられている。 昔から、どんな英雄も、物財や金や色には弱く、これらに溺れて自滅して言った名のある名将も多くいたのである。 つまり「漁色」が崇(たt)り、腎水(じんすい)が空虚となって、無慙(むざん)な病死をしたのである。
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||