インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 技法体系 >> 剣術 >> 合気剣の極意(一) >>
 
大東流の基本となる日本刀の操法

■ 西郷派之秘剣・合気剣の極意 ■
(さいごうはのひけん・あいきけんのごくい)

西郷派之秘剣・受け流しの合気剣

●伝統と伝承の違いを見極めよ

 時は移り行くこのである。しかし時代にそぐわない、間違った骨董品的な遣(や)り方で、これを「伝承」と称し、これを遣り続けるのと、一方は時代にマッチした「伝統」を守ると言う事は、本来根本的に違うものである。
 一般に武芸と言うものは、戦場での優位な位置に立つ為に、「一分(いちぶ)の兵法」として、特定の能力者の伎倆(ぎりょう)をもって、個人的闘技に抜きん出た者を持て囃(はや)す事から始まった。これは武士が時代と共に、職能の伎倆を身に付けて云ったことに由来する。武芸によって身を立てたからだ。

 そして、個人的闘技は、その後、様々な「武勇伝」を作り出し、実際には架空伝説に等しいものまで登場した。こうした武勇伝の中に、その流派の流祖は、歴史上の偉人を求め、あるいは皇室との繋(つな)がりのある皇胤(こういん)を強調して、一種の政治的配慮の許(もと)で、自流自派を売り込んで出来た歴史の足跡が否(いな)めない。多くの流派伝説は、流祖の「武勇伝」と「皇胤」と言う、この二つの関連性付けから始まっている。

 実際には、流派伝説になった実像は小さなものであったが、時代が下るにしたがい、怪しげな燈火(あかり)によって照らし出される影絵は、その影を大きく見せ掛ける事で、武勇伝仕立ての茶利(ちゃり)が作り出され、「実」を隠して、「虚」なる部分を捏造(ねつぞう)・拡大して行った。流祖伝説はこの数直線上に立つものが多い。また、こうした伝説に纏(まつわ)る流派は少なくないようだ。

 多くの日本人が芝居や映画の武芸伝説に充(あ)てられる時、こうした根も葉もない伝説に振り回される事が多い。そしてこれがまた、古くからの「伝統」を排して、継承形態のみの「伝承」が強調される現実を生み出した。
 その為に、「伝承」はいつまでも伝承の範疇(はんちゅう)から脱する事が出来ず、その領域に止まり、時代遅れの骨董品と成り下がった観(かん)がある。したがって、実像を現代に伝える「伝統」と、「虚」なる骨董品仕立ての「伝承」とは、自(おの)ずから異なるのは一目瞭然(いちもくりょうぜん)であろう。

 さて、物事には「損得」がある。損得と言うからには、「損」が先に来て、「得」が後から蹤(つ)いてくる。損しなければ得にはありつけない。損失と利得の関係は、こうしたものである。「伝統」に学ぶ伝統武術は、物事の損得を弁(わきま)えよと教える。

 それは損得の中に、実際に役に立つものと、そうでないものが存在するからだ。したがって損得には、役に立つものが「得」であり、役に立たぬものが「損」である。つまり役に立つものと、役に立たないものを逸早(いちはや)く区別して、役に立つものを拾い、役に立たないものを捨てるという事である。

 徳川家康は『永日記(えいじつき)』の中で、次のような話をしたと記されている。
 「空堀(からぼり)は幅が狭く、壕(ほり)の下で敵の槍が振り回せないほどにするが良い。水堀(みずぼり)も、また狭い方が良い。敵の舟はその中で自由に操られないくらいのものが良い。更に、狭いと言う事は、寄せ手に近く、城内から打つ鉄砲の弾が中(あた)るから良い。その意味で、いまの江戸城西の丸の壕は広ろ過ぎた」と嘆き、このことが非常に機嫌を悪くしたと記されている。

 家康は外観を重んずるより、実用を重んじた武将であった。物事の「損失」と「利得」を常に考え、骨董品に成り下がり易い、城郭(じょうかく)の外観を批判したのである。ここには、「城造りの伝承」を重んじるより、防備の要(かなめ)となる「城としての伝統」を重んじる、物事の損得が見て取れる。この意味で、実用一点張りだった。

 城は外観の美しさより、まず、「防備第一」に考え、攻め込み難い事が第一義で、そこから齎(もたら)される美しさは第二次的なものであった。城は外観の美しさが先に来て、防備が後に従うものでない。先に防備が来て、外観の美しさはその結果から生まれたものである。
 「守り」と「見栄」を心得違いしてはならない。これが「伝統」である。

 人間は、ややともすると面子(めんつ)にこだわり、見栄を張り、外観で他を圧倒しようとする。他人を意識し、自分をよく見せようとする。しかし、こうした外観の見栄など、見る者が見たら、それが虚仮嚇(こけおどし)の虚勢であることは直ぐに見破られてしまうのである。
 本来、大事なことは、外側から検(み)た「表皮の部分」でなく、その裡側(うちがわ)に秘められた、「見えない部分の威力」に本当の威力と価値がある。また、これこそが「利実得失の理(ことわり)であろう。

 武芸や兵法(ひょうほう)と言うものは、単に外観にこだわり、見栄を張り、利害得失に寛大であってはならない。こうした寛大さは、やがて身を滅ぼす元凶になる。こうした元凶を振り回して、敵に勝つ事など、到底不可能だ。
 兵法の心得としては、物事の損得をハッキリと見極め、時代遅れになり易い、伝承にこだわる愚を排除しなければならない。

 また、伝承を重んずれば、骨董品になり易いと論じて来たが、見栄が過ぎれば、演劇での役者感情の「見得(みえ)」にもなり、役者の感情が頂点に達すれば、いわゆる「見得を切る」という愚行にもなりかねないので、この辺も要注意であろう。

 昨今は、一部の大東流愛好者の中で盛んに「見得を切る動作」が、演武会などで頻繁(ひんぱん)に行われているが、これは演劇の世界のそれであり、感情の頂点を示すもので、感情が頂点に達した時、一瞬静止して、特に目立つポーズをとるこれらの動作は、投擲(とうてき)武器の目標になり易く、感情が頂点に達したポーズであるから、ここに至るプロセスも、感情で動いていた事になる。つまり、演武者の入れ込みと、心の傲慢(ごうまん)が「見得を切る動作」に導いたといえる。これこそ「驕(おご)りの感情」の最たるものであろう。

 感情は、冷静な判断に負ける宿命を持つ。武術修行者は演劇役者でないのだから、滑稽(こっけい)な見得(みえ)など切る必要はない。あるいは、これは虚勢の「見栄(みえ)」なのか。しかし、感情の範疇に止まっていることは、疑いないようだ。
 自分を大きく見せ、体裁を繕(つくろ)うことなど、「愚の骨頂」である。努々(ゆめゆめ)遠くから飛んで来る投擲武器の警戒が必要であろう。

 さて、剣の教えには、「遠き所を近く見、近き所を遠くにみること」とあるではないか。
 つまり敵に対する「目配り」が大事だと言っているのである。遠く離れた所にいる敵の動きをつぶさに感じ取り、深遠な敵の正体を見破ることこそ武術の極意であり、これを無視して感情で振り廻され、役者擬(まが)いの見得を切るとはどうしたことか。
 果たして、遠き所を近くに、しかと見ているのか。

 自分の躰(からだ)から縁遠いことに大雑把(おおざっぱ)になっていては、敵の現象を大観することは到底不可能であろう。近視眼的に育成されたものは、やがて滅びる運命にある。敵の身近な動きに捉われる事なく、総(すべ)てを深遠に、総合的に検(み)てこそ、最終的な勝敗に決着をつける事が出来る。つまり精魂(せいこん)の集中が必要であろう。
 ここに損得取捨の、「伝統」と「伝承」の違いが存在する。見得を切るなどの滑稽な動作は、今日のように高性能銃が発達していない江戸期までの代物である。飛び道具が横行する時代に、役者紛(まが)いの見得などは時代遅れも甚だしい。此処(ここ)には、こうした批判が寄せられて当然であろう。

中段の構えより、術者は敵の付け入る機を窺う。この時機(とき)の特長は、吾(わ)が左手を開いて、弛(ゆる)んだと見せ掛け、「吊り込むため」の誘いを仕掛ける。呼吸を合わせるということであり、右拳前で、左半身で構える。
一旦吾が剣を上段八相と見せ掛け敵を誘う。敵はその誘いに乗り、左半円で上段からの攻撃を仕掛けようとする。隙(すき)はその刹那(せつな)に起る。
次に敵が上段に振り上げようとした刹那、一気に入身で、入り込んで柄頭当てを行い制す。この場合、敵の顎(あご)のオトガイ中央部を叩き割り、「唖(おし)」と同じ状態に陥れる。

 

●太刀合を吟味する

 真剣での申合せは、その前提が「敵を斬る」ということが第一の課題で、敵と対峙(たいじ)した時、その身構えは「太刀の遣(つか)い方」が大事となる。太刀の遣い方に於いては、柄(つか)の握り方が大事となり、わが西郷派では、太刀の刃筋(はすじ)と倶(とも)に、「握り方の大事」を挙げている。

 柄を握る場合は、拇指(おやゆび)と人差指を心持ち浮かすように握り、人差指は真っ直ぐと延ばす。つまり、人差指を延ばす事で、その「延長線」が出来上がり、剣の行動線の行方を人差指が示唆(しさ)するようになっている。だが、これも「心持ち」という感じを大事にして延ばすのが肝心であり、ここに指の骨の骨格的な「伸び」を用いてはならない。つまり、ピンと張るのは間違いである。この間違いをしているのは、何も大東流を真似る者ばかりでなく、わが西郷派の門弟の中にもいる。早速、改めるべきである。

 次に中指であるが、この指は締め過ぎず、弛(ゆる)め過ぎず、加減して握る事が大事である。薬指と小指は、締めるようにして持つ。この、締めるように握る場合、手の中に弛(ゆる)みがあってはならない。これを「手の裡(うち)という。そして「手の裡」が正しければ、柄を握る左右の拳は合谷(ごうこく)同士がピッタリと剣筋の一直線上に重なる。

 敵を斬る場合においても、手の裡(うち)の具合は変わらないが、手が竦(すく)む事のないように柄を持ち、刃筋を正さなければならない。
 太刀の個人的闘技においての、「一分の兵法」は敵の太刀を打ったり、受けたり、抑えたりする場合でも、拇指と人差指の「心持ち浮かして握る」という、指の調子は変えてはならない。第一の課題は「敵を斬る」ことであり、この覚悟をもって太刀を握らなければならない。

 また、指の「締め方」に於いて、あるいは「支え方」に於いて、その加減具合は繰り返しの稽古によって会得しなければならない。この繰り返しの稽古は、単に、型の練習だけに止めず、敵を斬る気魄(きはく)が必要であり、この「魄」をもって敵と対峙(たいじ)しなければならない。この「魄」こそ、最も合理的な太刀合に於いての心の持ち方であり、これを「魂魄(こんぱく)といい、また「気魄」という。

 これこそが、刀剣に担わされている、過去・現在・未来の三つの要素のうち、この世に止まるという陰(いん)の霊魂を、「今」という現在に重ね合わせ、敵に対し、「魄」で迫るのである。

 この思想は、竹刀を持つ剣道競技と根本的に異にする戦闘思想を持ち、竹刀ではそれを手に持った時機(とき)、敵を斬ると言う概念は生まれないが、これが真剣である場合、その太刀合に於いては、必ず「敵を斬る」という確かな信念が生まれて来るものである。太刀を取る以上、「敵を斬る」という信念は喪(うしな)ってはなるまい。つまり、太刀の遣い方は、実際に「人が斬れる」ような遣い方でなければならない。

 太刀は力で用いてはならない。僅か二本の指で振っても、太刀筋が正しければ、自由自在に振れ、更に人を斬れるものである。この要領さえ会得しておれば、その動きが自由自在となる。この点が、刃筋を伴わない、竹刀剣道や木刀剣術とは異なるところである。

 逆に、太刀をやたら速く振ろうとしてはならない。速く振ろうとすれば「力み」が生ずる。太刀を遣うのに「力み」は禁物である。「力み」が生ずれば、太刀筋が狂う。太刀筋が狂えば、自由自在の動きが失われる。また、「小刀(こがたな)きざみ」を行ってはならない。

 「小刀きざみ」というのは、速く振ろうとして、軽過ぎる「振り」になってしまうからである。振りが軽くなると、切断する媒体に当たった時、跳ね返されてしまう。手の裡が確かでないからだ。
 また、跳ね返される理由は、臂(ひじ)を大きく延ばすことができず、萎縮(いしゅく)して強く振り下ろせないからだ。
 こうした「撃ち込み不充分」は、昨今の剣道の竹刀競技に見る事ができる。軽過ぎ、ただ速いだけで、実際にはあれでは人は斬れまい。甘い振り方、打ち方である。これも競技化の弊害であろう。

 しかし、今日の競技武道が盛んな今日、「敵を斬る」という魂(たましい)に訴える「魄」は失われているように思える。
 何故ならば、真剣勝負と、凡(おおよ)そ懸(か)け離れた道場内の竹刀稽古では、「魄」を維持するにしても、竹刀では現実に敵を斬ることができないのであるから、致し方ない事かも知れない。
 だが、これを「致し方ない」と済ませていては、肝心な、太刀合ってその直後に、立ち上がった刹那(せつな)、離れた刹那、瞬時に敵から飛び込まれ、一刀の下(もと)に敗北する場合がある。勝負は一瞬の刹那に於いて、決する事を忘れてはなるまい。

 筆者はかつて、敵と太刀合う以前に、敵の気配を感じたら、そこから勝負が始まっていると教えられた事がある。何も、刃(やいば)を交(まじ)えた時機(とき)から勝負が始まっているのではない。既に気配を感じ、殺気を感じた時機から勝負は始まっているのである。
 敵の気配を感じ、殺気を感じたら、その場から、いきなり斬り込まれても、それに対応できるように「魄(はく)で迫れ」と教えられた。「魄」が薄れては、闘志を亡(うしな)うからだ。

 敵が用心しているか、油断しているかは、敵の気配を感じただけで、はっきりと伝わるものである。ここまで心を研ぎすまし、小さな物音一つ聞き逃さず、敵の匂いや息遣(いきづか)いまで感知しなければならない。その為には、「魄」をもって、太刀を抜く以前から察知しておかなければならならない。自らを静寂な佇(たたずま)いの中に置き、周囲の雑音に撹乱(かくらん)されてはならない。物音をしっかりと心で聞き分けることだ。体臭の違いを、しかと嗅ぎ分けることだ。

 斬るか、斬れるかの真剣勝負に於いて、気魄を持つことは大事である。この気魄は、過去・現在・未来の太刀のそれぞれの次元の中にある。万一、現在の「今」に勝負に負けても、自らは闘志を失っていなければ、現在に斬られたとしても、未来に向かって、まだ戦う意志を投げていない事を表示することくらいは幾らでもできるはずだ。

 闘志を失っていない人間は、喩(たと)え斬ったからと言って安心できない。その注意点に「残心」の教えがあるが、しかし、残心ぐらいでも安心できない場合がある。一部の大東流で見得を切る動作も、あれは残心なのであろうが、実戦ならば、そう簡単に掛け捕られた方は、自分が掛け捕られたと諦めてはくれまい。意地があれば、闘志があれば、関節が外れたとしても、あるいは骨が折れたとしても、起き上がってきて挑戦を試みよう。挑戦を試みないのは、このての武道が演武であるからだ。最初から、受けと取りが約束され、その約束において芝居で言う演技をしているに過ぎない。

 かつて「人斬り半次郎」と恐れられた薩摩示現流の達人・中村半次郎こと桐野利秋(きりのとしあき)は、幕末、志士として活動したことは周知の通りであるが、桐野利秋の云った言葉に、次ぎのようなものがある。

 まず、「太刀を持っている間は、太刀で戦い、太刀が折れれば、素手で戦い、手を斬り落とされたら、足で戦い、足を斬られたら、這(は)って行って歯で戦い、命を取られたら魂(たましい)で戦う」と云ったが、実に「魄」とはこうした凄(すさ)まじい戦い方を、未来に示すものなのである。「今」の状態が未来を決定することを忘れてはならない。
 自分の持っている気魄は、一気に「過去・現在・未来」を貫通させる事により、生き返り、「魄」としての気構えが出来るのである。

 だが、かつて剣術と言われたものが、明治28年(1895)の大日本武徳会【註】武道の奨励を目的とした団体で、京都を本部に全国に支部を置いた。第二次大戦後に解散するが、後に「武徳会」として復活)の創設と共に、柔術が「柔道」と言い改まったように、剣術も北辰一刀流などの主要流派を中心に、「剣道」と改名され、その頃から、「敵を斬る」という気構えはなくなったように思える。

 例えば、今日の剣道を視(み)ても、相手を充分に斬っても居ない癖(くせ)に、身構えを崩して残心を忘れたり、一本入ったと合点した途端に身構えを解いて相手に背を向けたり、竹刀を高く挙げて、芸妓(げいき)(もど)きの嬌声(きょうせい)を挙げて勝ち名乗りをあげる、愚かな剣士がいるようである。

 これは筆者から言わせれば、非実戦的な馬鹿気た所作であり、もし、競技で敗けても、闘志で負けていない剣士がいれば、斬られて倒された後も、魂(たましい)で向かって来て、勝ったと思っていた剣士は、「魄」で呆気無く倒されてしまうかも知れない。
 つまり、簡単に己(おの)が魂(たましい)を葬り去れれてしまうわけだ。嬌声を張り上げ、勝ち名乗りを挙げるような、「引揚げ剣法」は、実戦では決して赦(ゆる)されないのである。こうした剣士は、戦場に赴いた途端、早々と戦死であろう。

 今日のスポーツ剣道に対し、スポーツ的なアクションや恰好は良くないが、膝の関節を常に、屈伸自在に動かし、十分に腰を落して据え、最後まで敵に引き揚げる余裕を与えない、斬って斬って斬り捲(まく)る剣術の秘剣は、「気魄」の意味で、スポーツ競技とは次元が異なるのである。
 恐らく、本来の太刀合いとは、そうしたものでなかったか。


戻る << 西郷派之秘剣・合気剣の極意(一) >> 次へ
 
Technique
   
    
トップ リンク お問い合わせ