トップページ >> 武門の礼法と食事法(一) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
食事は単なる栄養補給ではない。したがって武門の家では、質素(しっそ)を旨とした食事の字を「食餌(しょくじ)」という字に当てた。 多くの人が考える食事と言うのは、三度三度の食事の中で、日常やっているのであるから、改めてこれを稽古する必要がないように思われるかも知れない。しかし、昨今の実情を見ると、既に若者を中心にして、「正しく箸(はし)が遣えない男女」が多くなり、その不正確さは、日本贔屓(びいき)の外国人より酷いものになっている。 現に、箸をスプーンのようにしか使えない日本の成人女性は幾らでもいる。教養のほどが疑われても仕方がない若い女性は、昨今では、実に多いのだ。
さて、食餌法は四季折々の旬(しゅん)の物を摂り、この食事こそ、味覚的にも、感覚的にも、それを正しく頂くことが世界に冠たる健康食と言えるのである。薄味にし、添加物や化学調味料の入らない、出来るだけ自然食に近いものを目指し、正しい食餌法を学ぶべきである。こうすれば体質の悪さからの脱出が出来、伝染病下でも感染せず、健康な体躯(たいく)を取り戻し、優れた体質として、これを死ぬまで維持する事が出来る。 人が、どういう育ち方をし、また、どの程度の文化的内容を持っているか、健康か、不健康か、偏食の有無や、間食の習慣の有無が有るか無いかは、一度食事をさせてみれば分かる事である。そして、その人の思考や、頭の中の程度まで一挙に分かってしまうものである。そして食事は教養と表裏一体の関係にある。 食事の仕方など、習わないでも分かっていると豪語する人に限り、箸の先の、どの位の部分を遣(つか)っているか、あるいは口運びしているか、また、その咀嚼法(そしゃく‐ほう)等を見てみると、こういう手合いが、如何にいい加減な食事をしているか、一目瞭然となる。また、教養に乏しく、食事の摂(と)り方の手順を追うと、動物のそれに近いものがある。 一般に食事の作法と云えば、西洋流のナイフにフォーク、スプーンにナプキンの扱い方と云った事を連想する向きが多いが、料理学校や食事マナーの研修会などでは、その多くが西洋料理、特にフランス料理に関しての洋食文化のマナーであり、日本人が古来より連綿(れんめん)と培って来た食養道については、殆ど指導されることはないようだ。 そして欧米食の基本は、ナイフとフォークに集約されるが、 この使い方を見てみると、例えばステーキなどの食肉を食べる場合、フォークで食肉を抑え、それをナイフで切り割(さ)くという行為は、肉食獣が草食動物を前足で押さえ、それを食いちぎるという行為に酷似している。 この二つの食事の行為を見ても、その根底に流れる食思想は、洋の東西では異なっているといえよう。
食餌法(食事法)には、武門の作法の心得があり、往古の武人と云われた多くは、箸を「五分先」で遣(つか)っていたと言う記録がある。 五分先とは、箸先・先端の「約1.5cm」のことで、この部分で食物を掴み、皿に載せ、あるいは茶碗に運び、更には口へ運ぶと云う事を遣っていたのである。また、これは相当な「指の力」がいることも事実であり、鍛練によってこの状態に至る。 武術修行は、指先と無関係でない。指が動くということは、躰全体が動くということである。 あるいは女郎蜘蛛などが、獲物を蜘蛛(くも)の糸で捕らえる際も、足先の触手をうまく動かし、くるくると巻きつけるようにして、獲物を雁字絡(がんじ‐がら)めにし、捕獲するのである。これは植物にも見られる。 したがって、人間の行動律も、手の指先や足の指先を巧みに動かし、そこから起勢が始まるということを物語るのだ。 さて、武士の食事の、主食の基本は玄米であり、町家のように白米は食べなかった。 これはビタミンB1の欠乏症のことで、末梢神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心肥大、浮腫を来し、甚しい場合は心不全により死亡する病気である。答辞は衝心(しようしん)とも云った。 また、ものの本の記録によると、江戸に在住する武士は、心身を鍛えるためと、脚気予防に、玄米を主食とし、日本橋を出発点として鎌倉まで歩き、それを一日で往復したとある。今から考えれば、凄い行軍力を持っていた事になる。そしてこれだけの行軍力の裏には、玄米を主食にした脚(あし)の強さがあったのである。
玄米は栄養学的に言えば、多くの利点を持っている。それは玄米が「生きた穀物」であるからだ。白米は畑に蒔いても発芽しないが、玄米は畑に蒔けば発芽するのである。発芽するというのは、玄米が「生きた穀物」であるという証拠でもある。 何故ならば、消化が良すぎて、食後すぐに血糖値が増加するからである。この為にインシュリンが脾臓から分泌され、血糖値を抑えようとするが、日に三度三度のこの繰り返しが、脾臓を疲弊(ひへい)させ、過労によって糖尿病になるのである。このとき、動脈壁のインシュリンも総動員され、動脈は脆(もろ)くなり、動脈硬化が引き起こされるのである。 古人の智慧(ちえ)に学べば、玄米の食べ方として、「屯食(とんじき)」なる食べ方があった。これは「おにぎり」のことであり、武家は屯食を造りこれを携帯食として戦場に持ち歩いた。また、戦国期以前は半農半兵であった職能民としての武士は、屯食なるものをつくり、この表面を焼いて、保存食にするという智慧(ちえ)を編み出していた。武士や農民にとって、屯食は戦場での命の蔓でもあったのである。 そして屯食を食べる際は、よく噛み、一口入れて噛む回数は、50回程度(【註】本来、咀嚼法には一二三(ひふみ)の食べ方である「一二三祝詞」がある)であったという。食べ物をよく噛むことは、“こめかみ”の筋肉を鍛えると同時に、“こめかみ”付近には海綿静脈洞があり、ここの血液は、噛むことによって脳を一巡し循環する働きを持っている。知性に富んだ人は、この筋肉がよく滑らかに動き、非常に発達しているのである。
現代人が深く認識しなければならない事柄は、「食事は単なる栄養補給」ではないことだ。 古神道的に云うならば、「祀(まつ)り事」であり、一粒の米、一片の野菜、一滴の水などは、天と地の恵みが凝縮されたものであり、この恵みによって、人間は「天命によって生かされている」という現実があるのだ。 いやしくも「武」を口にするのであれば、食事の作法の中にも、「道」が存在する事を気付いて欲しいものだ。ただ、荒々しく、猛々しいだけでは人格を形成できないのである。 殺伐とした喧嘩三昧(ざんまい)に明け暮れ、ストリート・ファイターを気取ったり、喧嘩師のレベルで、武道や格闘技に明け暮れているのでは、何とも無味乾燥であり、こうした屠殺人(とさつにん)の類(たぐい)には、輝かしい未来などあろう筈がない。やがて喧嘩師も齢をとるのだ。晩年の「みじめ」を考えれば、「今」何をしなければならないか、当然、見当がつく筈であろう。 人と人が争う根底には「感情」というものが起爆剤になることが多い。 人間の行動律の中での愚行は、感情に趨(はし)り、これを起爆剤にしてしまうことだ。したがって感情に流されることなく、冷静な状況判断がいるのである。 さて、好戦的で傲慢(ごうまん)な人間ほど、食事の時の態度は非常に悪く、所作も卑(いや)しく、膝を崩して胡座(あぐら)をかいたり、中には、立て膝で食事をする横着者がいる。 食べた跡(あと)を凝視すれば、食べ方も汚く、箸の戻し方も乱雑で、食事を通じて養った教養など何処にも感じられない。ただ乱暴に、喰(く)い廻(まわ)した跡だけが克明に残っている。そして本人は、その食べ跡が、鋭く観察されている事も気付かないのである。 テレビ等にスポーツ・タレントとして、よく登場するお茶の間の人気者の「あの選手は、たった、あれだけの人間か」と失望させることが、よくある。しかし本人の気付かないところで、料理を作り、料理を出し、そして引き上げた跡の状態を、料理人からじっくりと観察されているのである。 さて武門での食事は、総(すべ)て「一汁一菜」で、非常にシンプルな食餌法(しょくじほう)を実践している。 したがって正しい食餌法に徹すれば、如何なる病気も自然に恢復(かいふく)して行くのである。また、食餌法を糺せば、体質改善にもつながり、丈夫な体質になるのである。
玄米六割に、小豆・大豆・粟・黍・稗・丸麦・押麦・ハト麦・赤米・黒米などの雑穀四割が混ざった玄米雑穀ご飯に黒胡麻がかかり、それと味噌汁が、一日二度(【註】昼食と夕食。本来は朝餉(あさげ)と夕餉(ゆうげ)という言葉があるので、朝食と夕食のことであるが、中世の時代と時間差があるので、今日では昼食と夕食のみ.。そして朝食時間には固形の食べ物を入れるのではなく、玄米スープか、ドクダミなどの薬草茶を飲用する)の食事の基本となる。 玄米雑穀ご飯と云う、主食さえ正しければ、御数(おかず)は味噌汁に沢庵、梅干に野菜の煮っころがしという簡単なメニューでも、決して栄養失調になる事はない。 健康は食次第である。しかし、厚生労働省が云うように「一日30種以上の御数を何でも食べよう」では、真の健康体を作る事は出来ない。また現代栄養学が云うように、「何でも食べよう」の総花主義では、測定値の数字を持ち出す事によって、その間違った考え方が固定化され、過食気味になって人間の食性を見落とすと言う現実がある。 つまり食物が消化される事により、腸壁内の腸絨毛(ちょう‐じゅうもう)で、赤血球母細胞が食物より造り変えられ、その赤血球母細胞内から放出された赤血球は、血管内に送り込まれて、全身を巡り、躰(からだ)の総ての細胞に変化・発展していくと云う「分化」が起る。 こうして細胞組織に辿り着いた赤血球や白血球は、その周辺の体細胞から強い影響を受け、誘導され、その場が、肝臓ならば肝細胞へ、脳ならば脳細胞へと分化を遂げるのである。そしてこうした「分化」の始まりは「食」によって齎される。(【註】体細胞は赤血球が変化したものであり、その組織付近では、生物学が云うような細胞分裂は起っていないし、それを確認した医学者も居ない。また、白血球と云うと、一般には病原菌を食べてしまう働きがあると思われているが、これは断片的な観察結果を短絡させた間違いである。白血球の働きは、もっと別の所にあり、体細胞に変化・発展すると言うのも、白血球の役割である。事実、先学者達は、白血球は筋肉や軟骨、上皮、腺、骨などの各組織に変化・発展すると言う証明を実験結果として遺している) 食べ物は、まず口から入り、消化管の主要部である胃で、胃液を分泌し食物の消化にあたる箇所から、躰の中心部である腸内に入る。それが腸内に取り込まれる事によって、血管内を駆け巡る赤血球に変化する。それが更に本体である、内臓、筋肉、骨、皮膚等の総ての組織器官を構成する体細胞へと発展して行く。 現代医学は、しかしこうした考え方をとらない。「骨髓造血説」を生物学上の根拠として表面に打ち出し、骨髓造血説(「骨髓バンク」という現代医学的な発想も、ここから生まれた)と云う一つの仮説の元に、現代の医療を押し進めている。しかし、骨髓で赤血球が発見されたと言う事実を、医学者は誰一人のして見た者は居ないのである。 しかし、現代医学の論理は死体解剖より組み立てられた仮説に基づき、それが構成されている。そして現代医学の治療の中心は骨髓造血説に基づく、検査の結果によって提出された数字への診断だ。 そして現代医学を顧みる時、赤血球は骨髓で補充されると言う仮説を定説として掲げ、人間の血液は骨髓で造血されると言う、「骨髓造血説」が正しいと言う事を提言している。しかしそれには誤謬(ごびゅう)があり、生きている健康体の人間の骨髓には脂肪が充満していて、ここで造血している状態を正確に把握できず、発見できないと言うのが実情なのだ。その意味で、「骨髓造血説」は仮説の域を出るものではない。 科学における定説は、時代と共に覆(くつがえ)るものである。 食事の際、「姿勢」について、緩慢(かんまん)になったり、だらしなくならないように厳重注意を促している。食事作法は静坐によって行われる。万物に対して、傲慢や横柄を嫌い、礼儀を糺(ただ)す為だ。 人間は「食の化身」である、と霊的食養道では定義されている。 自分が生きる為に、その犧牲(ぎせい)になってくれた動植物の命に、感謝し、何ものにも、慈悲の念を送る事こそ、人間が、食に対して抱かねばならない思想であり、これまで、日本人はこうした食思想によって食養道を育(はぐく)んで来た。したがって、ここには「礼儀」が備わっていなければならない。ただ、食べ物に喰(く)らい付き、貪(むさぼ)り付き、噛(か)み砕き、呑み込んで腹に納めればいいと言うものではない。 食事の姿勢は、上体を垂直に起こし、食道の軌道・器官が垂直になる事が好ましい。また、箸を口に運ぶ時は、箸先に、自分の口が喰らい付くのではなく、食物を載せた箸先の方が口許(くちもと)に向かうように心掛ける。したがって、口の方が料理に近付くのでは、非常に見苦しくなり、みっともない姿になる。 人間は食にありつく時、案外と無防備になるものである。隙(すき)も作り易くなる。そして、その無防備と隙は、無態(ぶざま)に、人前に曝(さら)し出す結果となり、他人に“我が姿の醜さ”を見せている事でもあるのだ。 さて、武門の食事では、見苦しさを戒めている。 更に、一汁一菜で出される沢庵(たくあん)などの漬物類(一般には香(こう)の物といわれる)は、西洋食で云えば、一番最後に食べるデザートのようなもので、これを最初からボリボリと喰らい付くのは蔑まれる食事の行為である。 武門の作法とは何か。
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