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西郷派大東流と武士道
日本人の古来よりの「死」の思想は、「みんな、死のうではないか。このは他の下に……」という思想に貫かれていた。
 特に武門では、この思想を重んじた。

 人は、死を覚悟し、死を致すとき、惰夫(だふ)でも「勇者」になる。臆病者でも、途端に勇猛果敢な戦士となる。恐怖に脅えることを、消滅させることが出来る。こうして、惰夫が勇者になったとき、懐疑(かいぎ)も不安も消える。ただ前進あるのみという積極的な気持ちになる。戦って、生き尽すのだと言う勇気が起こる。

 死のうと決意したときから、死んだとしても後悔をしない気持ちが起こる。そしてこの気持ちに到達したとき、不思議にも、死ぬどころか、却(かえ)って自分自身を大幅に生かし、成長させているのである。


■武門の礼法と食事法■
(ぶもんのれいほうとしょくじほう)

●人間は猛々しいだけでは「徳」が備わらない

 単に、武技の稽古に明け暮れると言った修行ばかりでなく、人間として進むべき道を示唆(しさ)するのも、武術の目標と掲げるところである。
 また、礼儀や作法を学ぶ事も大事であり、単に自分の体得した猛々(たけだけ)しい武技を人前で披露して、強持(こわも)ての輩(やから)に成り下がるのではなく、「人間としての道」を学ぶのである。

 猛々しく、乱暴な振る舞いは、多くの人の尊敬を得る事が出来ない。若い頃に勇名を馳(は)せ、強(こわ)持てとして、多くにファンを惹(ひ)き付けた格闘家でも、その人の晩年は、非常に寂しい老後に違いない。人間、齢(よわい)には叶わない。
 かつての勇者も、世界チャンピオンも、やがては時代から忘れ去られ、孤独な人生を歩かねばならなくなる。特に「徳」のない老人に成り下がった時、かつての有名選手など、人は、鼻も引っ掛けてはくれれない筈(はず)だ。

 青年期から晩年期に至り、体力は衰えても、現役として、肉体を使って戦える間はいいが、四十歳を超え、初老に入り、やがて五十の五十路(いそじ)を超えて、老年期に入る頃から、肉体的には若者に叶わなくなって来る。
 その人が、若い頃、強持ての格闘技家であったとしても、六十歳や七十歳の老人になってまで、肉体を張って生きていくと言う事は、非常に過酷なものである。また、若者と対戦して、勝てなくなれば、相手にもされず、「唯(ただ)の凡夫(ぼんぷ)」に成り下がってしまう。こんな晩年は、何とも惨(みじ)めではないか。

 齢と共に、肉体は衰えて行くが、酷使し過ぎた肉体は、運動やスポーツ経験のない普通の人よりも、更に故障だらけの肉体となってしまう。
 膝を傷め、腰を痛め、肘や肩を傷め、あるいは股関節を傷め、前立腺肥大症を煩(わずら)い、至る所が故障だらけになる。その上、スポーツをしない一般の人より免疫力が低下し、肉食やその他の動蛋白摂取の害が出れば、眼も当てられなくなる。

 『論語』には、孔子門下の子路(しろ)と、孔子の問答が出てくる。
 子路曰(いわ)く、「もし、先生が大国の総司令官になられたとき、どんな人を頼りにされますか」と、孔子に訊(たず)ねた。

 孔子は、「暴虎馮河(ぼうこ‐ひょうが)、死して悔いなき者は、吾ともにせず。必ずや事に臨んで懼(おそ)れ、謀(はか)りごとを好んで成す者なり」と答えた。
 要約すれば、「素手で虎に立ち向かったり、歩いて黄河を渡る類(たぐい)の命知らずは御免である。むしろ臆病なほど用心深く、成功率の高い周到綿密(しゅうとう‐めんみつ)な計画を立てる人間の方が、よほど頼りになる」というのである。
 進むことだけ知っていて、退くことを知らない人間は、危険この上もなく、結局墓穴を掘るといっているのである。

 あるいは『荀子(じゅんし)』の言葉に、「遇と不遇は時なり」というのがある。これは、世に認められるかどうかは、時勢のいかんによって決まるものだというのである。

 つまり、どんなに素晴らしい才能や素質を持っていても、世に認められなければ発揮することは出来ないのである。そして認められるためには、焦らずに時を待たねばならない。時を待つこと以外にないのだ。その待ち方が、出処進退の大きなポイントになるのである。つまりこれが「教養」だ。

 教養とは、自分の“身の処し方”も含まれるのである。
 身の処し方は、まず、じたばたしない事であり、物欲しそうな態度はよくないのである。これこそ、安静を保ち、恬然(かつぜん)を保つことなのである。
 また、実力を蓄えることを怠ってはならない。かつ柔軟な思考で、志を高く保つことなのである。これを総称して、「教養」というのである。そして教養を深めるには、信頼に応えるための「徳」を積まなければならない。

かつて武家では茶の湯を学び、また香を嗜(たしな)むことを旨とした。これこそが武人に必要不可欠な、人間としての教養である。
 単に猛々しい武士であっては、万人の尊敬は集められないことを知っていたのである。

 猛々しい武人である前に、人間としての道と、礼儀・作法を学ぶのである。
 ただし、「学ぶ」という行為は、小・中学校のように、教師側から一方的に押し付けられる教育ではなく、「自分が自らの意志で求める」という立場をとらなければ、この学ぶ行為は成立しない事になる。
 つまり、自らが「求道(ぐどう)の士」となり、これを求め、探す事である。この向学心(こうがくしん)が無い者に、進歩はあり得ないのだ。

 猛々しい荒霊(あら‐たま)は、肉体が若い時にだけしか、功を奏しない。
 「荒(あら)ふる神」の仕種(しぐさ)は、一時的なものであり、荒霊は、やがて穩やかな幸霊(さち‐たま)へと移行しなければならない。
 その為にも、武人は、修行の一環として、茶道を学んだり、香道(こうどう)を学んだりするのである。これは武人である前に、「人間として生きる」と言う事を意味するからである。

 武人であっても、一個の人間であるのには間違いなく、人間として生きる中に、真の武人の姿がある。また、その中に、「文武両道」の教養がある。
 「闘魂」をもって生きると言う事は、猛々しく外の敵ばかりと戦うのではなく、「自分」という裡側(うちがわ)に居る敵とも戦わねばならない。心を修め、道を求めてこそ、本当の武人の姿であるといえるのだ。
 そして「習う」とか、「教えて貰う」という意識は一切取り払い、茶道や香道においても、修行の目的は、自らが求道(ぐどう)して、探究すると言う気持ちが大切なのである。ただ待っているだけでは、何もならないのだ。
 つまり自分から求めて、「求道する」ということが大事なのである。

 おおよそ「修行」と名のつくものは、安易に指導者から教わるものではなく、自分から求めていくものなのである。この「求める」という行動原理の中に、「学ぶ」という本当の意味がある。
  “どうしてなのか”とか“なぜなのか”という事を探求することが、真の修行者あるいは求道者の態度であり、これを安易に指導者に求めてはならないのである。まずは、自分自身での自己探求から始まるのである。これが「学究の徒」の姿である。

武門での盃の持ち方。盃を左手で持つのは、いつでも“いざ”と言うときに、利き腕の右手を使えるようにしておくためである。逆に左利きの人は、持ち方がこの逆になる。

 嗜(たしな)み事の一つに、盃(さかずき)の持ち方がある。
 武家では、盃は「左手で持つ」のが常識である。では何故、左手で持つのだろうか。

 これは盃に限ったことではない。武家では物を持つ場合、総(すべて)て左手で持つことになる。その理由は、右手というのは武人にとって、利(き)き手、利き腕であり、利き手、利き腕を制せられるということは致命的な結果を招くからである。右手で物を持つことによって、“いざ”という時機(とき)、右手が使えないというのは困りものである。“いざ”という時機の為に、右手を自由にするということは隙(すき)のない状態を作ることであると同時に、現実主義において、機能美を学ぶことがこれに加えられるのである。

 したがって現実的な機能美を見出すためには、坐礼をするときも、左手から出すということになる。右手は武士にとって左手以上に大事なのである。左手を先に出して着き、次に右手を出して着き、引っ込めるときは右手を先に、そして左手を後に引く。これも、流れの中に存在する機能美である。

武家での起居振る舞いは、すべて礼法の流れの中に包含され、それは型に嵌(は)まった、堅苦しいものでなく、流れるような自然な流れが尊重された。
 自然の流れこそ、隙(すき)のない起居振る舞いであり、この中に「坐る」「立つ」「歩く」の行動があり、何よりも隙を作らないことを重んじる。隙を作らないことは、同時に敵をも作らないことに通じ、これは武門での礼儀と作法の貫流する一つの特徴である。

 坐る、立つという動作を例に挙げれば、その一連の動作の動きは、どの部分を切り離してみても、常に重心軸は安定を保っていて、前後左右、どちらの方向からの攻撃に対して備えることが出来ることを要求されるのである。
 なかば膝を屈した、中腰の姿勢からも、瞬時に跳躍、抜刀が可能であり、可能であることを目安に、日々鍛錬していくのである。

 また、わが流は、「学ぶ」という人の道への拠(よ)り所として、歴史を学ぶことを説いている。
 『近思録』 (致知篇)には、「凡(おおよ)そ史を読むには、ただに事迹を記するを要するのみならず、すべからくその治乱安危、興廃存亡の理を知るを要す」とある。

 ここでいう「史」というのは、歴史のことであり、歴史からの学び方を説いている。
 つまり「歴史書を読め」と説いているのであるが、歴史書を読む目的は、単に、何年にどういう事件が起こったかということを、小中学校の試験に出される、年号とともに暗記することが目的でないと説いているのである。昨今の日本人の歴史を学ぶ歴史観は、その勉強法にしても、ただの暗記である。年号と事件を一致させることが、歴史の学び方と考えている者も少なくない。

 ところがそうした歴史観は、枝葉末節的なことであり、こうした学び方は本当に歴史を学ぶことにはならない。肝心なのは、国なり、個人なりが、なぜ栄え、なぜ滅びたかを探求することであり、そこには「興亡の理」が存在しているということを学ぶのである。
 特に中国の古典歴史書には、人間模様の大きな教訓が残されている。この教訓を歴史の中から学ぶのである。

 この歴史を学ぶということについて、『三国志』には有名な話がある。
 『三国志』には、呉(ご)の孫権(そんけん)のことが出てくる。その孫権の部下には、呂蒙(りょもう)という将軍がいた。

  呂蒙という将軍は一兵卒からの叩き上げの将軍であった。したがって戦(いくさ)には強い。最下位の下級兵士からの叩き上げなので、とにかく戦には強かったが、叩き上げの武将の悲しさは、基本的な教養が欠けていることであった。
 食事のとき、礼法に適(かな)った食し方も知らなければ、茶を嗜(たしな)むということも知らなかった。殆ど無学で、無教養に近かったのである。一兵卒ならばそれでも構わないであろうが、いやしくも将軍ともなれば、それで押し通すことは、リーダーとして許されることでなかった。

 これを危惧(きぐ)した孫権は、呂蒙を呼んで「歴史書を読み、これを学ぶということで、自己啓発をしたらどうか」と促した。そして呂蒙に、十冊ばかりの歴史書をリストアップして、「これを読むがよい」と薦(すす)めた。
 その歴史書は、大きく分類して、兵法書と歴史書の二つであり、兵法書には『孫子』ならびに『呉子』などでを揚げ、歴史書としては『左伝』ならびに『史記』などを揚げた。

 呉の国の最高トップである孫権からそこまで言われて、これを捨て置くことが出来なかった呂蒙は、その日から一念発起(いちねん‐ほっき)して、猛勉強を始めたのである。呂蒙の勉強振りは、学者顔負けだったという。
  そして、自らも将軍であるだけに、歴史書に登場する将軍たちの気持ちがよく分かるのであった。呂蒙は遂に、「興亡の理」という、一種の“普遍的な法則”を見つけ出したのである。

 その結果、単に相手をねじ伏せるだけではなく、“智慧(ちえ)で勝てる法則”を知り、見事な変身振りを見せたのである。
 中国では、昔から国家の指導者たちは、歴史書に親しみ、そこから「興亡の理」 を学び取っていった。こうした智慧に学ぶ行いは、日本では鎌倉時代に入ってくる。武将の必須条件が、「興亡の理」を修得することであった。

  日本でも、武士階級の興(おこ)りに合せて、この頃から歴史書に学ぶことが盛んに行われ始める。歴史書の学ぶ特徴は、まずこれを学ぶことにより、「教養」の根幹が形作られ、更には礼法を通じ、長期的な視野が養われるということである。単に猛々しいだけでは駄目であるという、智慧の面からの「興亡の理」が見えてくるのである。

 歴史書には、兵書を含めて、多くの教訓が残され、プラスとマイナスの面から見て、先人たちの経験した記録があり、どうしたら愚行になり、どうしたら窮地から打開できるかの回答書的な役割を果たしていたのである。
 したがって、日本においても歴史書は、兵書と合せて、武家では広く読まれ、そこから武士階級は「興亡の理」を学んでいったのである。

 「興亡の理」を学ぶということは、 単に戦争が強くなるということばかりでなく、武人である前に、まず「人間である」ということを学んでいくのである。

 日本では、そうした基本的な、根幹に据えられたものが、「修養」とか「修身」というものであった。
 修身は、もともと「身を修める」ものであるが、これは何も高遠なものではなかった。修身の第一の目標は、「言動を謹んで徳を養う」ことであり、第二の目標が「飲食を節し、日々戦場の心構えで粗食少食に耐える」ことだった。

 人間社会に、一人の人間として立っていく為には、それなりの能力の他に、教養を身に付けなければならないが、同時にその背後には、「徳」を身に付けなければならなかった。つまり、能力と同時に、人格的な「品位」を身に付けなければならなかったのである。人格的な要件こそ、「徳」に他ならなかったのである。
 また「徳」は、人間的な魅力の要素の一つでもあった。これが備わってこそ、周囲から信頼を勝ち得るのである。

 では、「徳」を身に付ける為にはどうしたらよいか。
 「言動を慎む」ということであり、発言を慎重にして「過ぎない」ということなのである。
 歴史書を読むと、“多弁の害”を戒める言葉がたくさん出てくるのである。
 例えば、「多弁なれば、屡々(しばしば)窮す」「病は口より入り、禍(わざわい)は口より出(い)づ」「巧言は徳を乱る」「信言は美ならず、美言は信ならず」などは、こうした言葉を慎み、慎重を期す事が繰り返し出てくるのである。つまり「過ぎるのは良くない」としているのである。

 こうした「慎み」の原点には過ぎない、「ほどほど」という思想が流れている。
 『菜根譚(さいこんたん)』 には、次のように記されている。
 「口当たりのいい珍味は、すべて腸を痛め、骨を腐らせる毒薬である。ほどほどにしないと、健康を損なう。快適な楽しみは、いずれも身を滅ぼし、徳を失う原因となる。ほどほどにしないと悔(く)いを残す」とある。

 これは美食を口にしたり、享楽に耽ることを戒めた言葉ではない。度を越し、それにのめりこんで溺(おぼ)れることを戒めている。そして根底に流れる思想は、「ほどほど」ということなのである。
 この思想は、対峙(たいじ)した相手の「総(すべ)てを奪ってはならない」ということを根底に持ち、勝は「六分でとどめる」ということを言っているのである。
 例えば、勝は「八分」では勝ちすぎであり、「六分」でとどめることが最も良いとしているのである。勝ち過ぎれば、恨みを買われるからである。そして勝ち過ぎれば、次は、わが方が大敗する番なのである。だからこそ、「慎(つつし)む」ことが大事であったのである。
 この諌言(かくげん)を最後まで守り通したのが、甲斐の国司・武田信玄であった。

 ある意味で、「食」も同じことである。
 一般には腹八分というが、本来は、軽快な体躯を養う為には、「腹六分」が理想なのである。
 鈍重な人間は、大食いに趨(は)る。また、咀嚼(そしゃく)回数が、10回程度と少ないから、脳の“満腹中枢”が働かなくなり、喰(く)っても喰っても喰い足りず、幾らでも食べられるのである。
 やがて五感が正しく機能しなくなり、内臓は疲れやすくなり、それぞれの臓器の疲弊(ひへい)が始まる。そしてこうした体質は、病気の感染に弱いばかりでなく、糖尿病やガンなどの慢性病の疾患を派生させることにもなるのである。
 したがって、「ほどほど」ということが、人生を長寿で暮らす秘訣となるのである。

 また「ほどほど」は、「中庸(ちゅうよう)」であり、偏り過ぎないということを指すのである。
 しかし現代のように、飽食が持て囃(はや)され、焼肉などの食肉をスタミナ食と盲信し、これをたらふく食って、酒を飲むというのは、非科学的な不合理なものであって、実に「妄食(もうしょく)」なのである。「ほどほど」に満足する境地を身に付け、また「食の陰陽」をも、心がけるべきなのである。

 武門では古来より、人間の霊性を、肉体よりも重視した。霊性が人間を動かす原動力と考え、その霊性を養う根本に、玄米を中心とした穀物菜食に置いた。食事は、食餌法(しょくじ‐ほう)に徹し、食餌は常に簡素を旨とした。
 また一方、肉食は精神にとって有害なものであり、“理性的な能力を曇らせる”と説き続けたのである。肉食をしていたのでは、霊性を歪(ゆが)め、ある種の霊験新(ていけん‐あら)たかな霊的能力が発揮できなくなってしまうからである。
 菜食を実践することにより、齎(もたら)される霊的な力は、同時に「言霊(ことだま)」を真に活用させるために必要十分条件だったのである。

 

●武と食は表裏一体

 「武の道」も、「食の道」も、その行動原理には共通点を持つ。それは「わが身を護る」と言う点においてである。
 一般に「護る」といえば、護身術などの「護る術」を連想するであろうが、此処で言う「護り」は、そうした護りではない。「打ち負かす」ことをしない護りである。

 これは、わが流では「負けない境地」と呼称しているが、不意に敵に襲われたとき、その敵を打ち負かして勝つことではないと教えるのが「負けない境地」なのである。争わず、敵に攻撃を「断念させ」ることなのである。したがって、敵に勝つことと、攻撃を断念させることは違うのである。必ずしも、打ち負かす必要はないのだ。

 「武」でいう「護り」は、殺されそうになる、こうした「最悪の事態」を回避することを言う。最悪の事態を回避するためには、まず「捨身になる」ことが大事であろう。捨身になることにより、一度死に、そして死んだ後に、再び蘇(よみがえ)るのである。

 この世は、「何によって栄えようか」という甘い考えは通用しないようになっている。理不尽な上に、極めてシビアである。こうした状況と共存していく為には、捨身になって「死のうではないか」という覚悟が必要である。
 そして死のうと決意をしたのであるから、喩(たと)え死んだとて、悔いはないはずだ。

 このように捨身になれば、却(かえ)って死ぬどころか、不思議にも蘇(よみがえ)るのである。蘇って、自分を最大限に生かしきるのだ。これが「捨身」であり、人を活かしきる偉大な行為なのである。この「偉大な行為」の下(もと)には、惰夫(だふ)でも、途端に勇者になる。臆病者でも、勇猛果敢な戦士になる。

 「何によって生きようか」とか、「何によって栄えようか」では、極限状態に陥って、焦り、じたばらするばかりである。だから、損得ばかりを考えてしまう。ありもしない幻に取り憑(つ)かれて、「恐れるものは皆来る」の現実を作り出してしまう。
 大事なことは、こうした損得を考えることを捨てることである。捨てることにより、生き返り、更に生かし切る“活路”が開けるのである。

 捨身になって、「いま自分は死んだのだ」と思えば、その「死」によって、安住の生命(いのち)を得る。「依(よ)って以て、死ぬべきもの」を捕まえたとき、人は、はじめて心の安住を得る。長い間の迷いや、心の動揺や、不安や苦悩から抜け出せる。これこそが、目から鱗(うろこ)が落ちるときである。

 「生きていくには、どうしたらよいか」と、建前論によって模索するから、いつも迷いが起こる。また「こうしたら損をするのではないか」と不安を抱いたり、損得勘定で物事を考えるから、いつも心配事は去らず、利害や打算に左右されて、少しも心が休まることがないのだ。株式投機やその他のマネーゲームに奔走する人は、こうした感情に左右され、不安材料を抱えて生きている人である。一喜一憂に、感情をかき回す人である。
 このような状態に陥ると、安定が得られず、安定が得られないから、「力」がないのである。損得を超越したところに、「真の力」が存在していることを知るべきである。

 肚(はら)に力を入れ、肚を据(す)えて懸かるには、まず「捨身」になることだ。「依(よ)って以て死ぬべきもの」を捕まえることだ。
 安住と安らぎを得るには、「何と一緒に死のうか」あるいは、「これと一緒に死ぬのだ」という、「一つの死ぬべきもの」を見つけさえすればよいのである。
 以上、述べたことが「武」による「護り」である。

 では、「食」による護りとは何か。
 それは食を慎むことであろう。食べ過ぎないことであろう。「ほどほど」の状態で、箸を置くことであろう。食べ過ぎてはいけないのである。
 昔は「腹八分」などといわれた。しかし、「腹八分」でも多い。「腹六分」で丁度良いのだ。

 食べ過ぎは内臓を疲弊(ひへい)させる。内臓の疲れは、判断を鈍らせる。鈍重にもなり、判断力が低下する。また、内臓の疲れた状態が続くと、頭の回転が悪くなり、頭に流れる血の巡りが悪くなる。「馬鹿の大食い」とは、これを顕著に表している。
 最早こうした状態では、滅びるのを待つだけだろう。
 そこで、食による「護り」は、肺臓を疲弊させず、然(しか)も頭の回転が速く、頭脳明晰(ずのう‐めいせき)の状態を常に維持しておく必要がある。

 もともと「武」における「護り」とは、咄嗟(とっさ)の場合に、危険から逃れる「術」のことをいう。この護りの術を得るには、スポーツのトレーニングなどと違い、修得などに長い歳月を必要としない。あくまで、咄嗟に、暴漢から襲われたときの、身を護る法である。一時の護りを目的とするものだ。こうした術を修めるのに、長い時間や経験は必要ない。
 現代風に言うならば、パトカーが来るまでの、護りの術と言うことになる。したがって、勝つ必要はない。暴漢に攻撃意欲を喪失されれば良いのである。

 護るのが目的であるから、この「護り」は、手合わせをして派手なアクションをする必要もない。暴漢に、襲うことを断念させればそれで良い。その主目的は、生死の関頭(かんとう)に立って、貴重な生命を護ることを主眼とするのである。

 こうした時に鈍重であってはならない。のろまな動きは敵にも見破られ、侮(あなど)られ、つけ込まれる。そうならない為には、やはり普段から内臓を疲弊させない状態を維持しておいて、「腹六分」で満足し、身軽な体躯を造っておく必要があろう。頭も、食べ過ぎで、血の巡りが悪い状態にするべきではないだろう。機敏さもいるであろうし、明確な判断力もいる。脳も躰(からだ)の一部ということを忘れてはなるまい。

 此処に、真の意味での「護身の定義」があり、武の修行と、食の作法は「一体である」ことが分かるであろう。


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