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西郷派大東流と武士道

■陽明学・生きる為の人生哲学■
(ようめいがく・いきるためのじんせいてつがく)

●「分際」という言葉が崩壊してしまった現代

 日本では古来より、身分と言うものは存在したが、欧米諸国のように「階層」と言うものは存在しなかった。したがって本来、日本人に階層と云う意識はなかった。
 爵位(しゃくい)などの階層が起ったのは、明治維新以降の事であり、それまで存在したのは、身分であり、家柄を表す「格」だけであった。

 しかし「格」と云う言葉も、明治維新以降、四民平等の平定の中で、消え失せ、今では「同格」の「格」の字すら遣わなくなってしまった。今日の資本主義の下で、人格の「格」が、「同格」などというと、階層崩壊に繋がり、経済格差で作り上げた財産・職業・学歴・社会経済的地位の序列化された社会層のヒエラルキーは崩壊してしまうからである。したがって「階層」は、ひと握りの経済的エリートが、最も鼻を高く出来る唯一の言葉であるからだ。

 「礼」の忘却にともない、法則の要(かなめ)を為(な)す「格」は既に崩壊した。要が崩壊したのであるから、「きまり」としての身分も崩壊するのは当然の事であり、この身分の崩壊によって、「礼」の根幹の為(な)す、「立場の認識」は希薄になってしまった。
 かくして「立場の認識」が薄れれば、当然のように「分際意識」も薄れ、これまでの格式意識は、一挙に観念の崩壊に導いてしまった。

 現代は、往時おうじ/過ぎ去りし持代)に比べれば、分際の観念は崩壊しているから、同時に、これは節操意識の崩壊に繋(つな)がっている。また、個別の今日的な観点から現代を凝視(ぎょうし)すれば、例えば、街金や風俗営業で金儲けの上手だった人間が、あるいは頂点に上り詰めた芸能タレントが英雄視され、まるで偉くなったような気になって国会議員に出馬したり、豪邸を建てるなどの、人の羨望(せんぼう)を煽(あお)っているが、これこそ分際意識の欠如の最たるものである。

 時代は流れ、変化を遂(と)げるが、かつての観念であった人倫の根幹を為(な)した「分際」とか、「節操」とかは、歴史の遺物として埋没しつつあると見るのは正確な読みであろう。

 分際や節操は、何も底辺に位置する庶民だけが失っているのではない。
 以前、誰かが、「今の政治家に分際と節操を求めるのは、八百屋で魚を探すようなものだ」と、ある人物が酷評したが、これに正面から反論して、この「ある人物」をこき下ろした政治家が居たが、しかし、与野党を含めて、政治家の中で、分際と節操の両方を兼ね備えた政治家は、未(ま)だ一人も見た事がない。

 庶民も政治家も、つまるところ、貧富の範囲の経済格差はあるにしろ、倫理観程度の差はそんなに開きがないのである。つまり、こうした意味においても、頭の程度が庶民と同格か、それ以下かも知れないということだ。

 また、昨今の人間現象の特徴として、カタギとヤクザの区別がなくなり、カタギがヤクザ擬きの態度をしたり、ヤクザがホワイトカラーの経済人に紛れ込んで、手広くビジネスを展開している事を見ると、その境界線の崩壊には、素人衆が公営ギャンブルだけではなく、厳禁の博奕(ばくち)にまで手を出して、こうした所に出入りしても、何の後ろめたさも感じなくなった時代であるといえるだろう。
 そして、その分だけ、道義と礼儀が廃(すた)れ、「礼」の面では著しく混乱を来たしているといえよう。

 かつて武門で尊ばれたのは、その態度が毅然(きぜん)として居た事であり、更には、沈着重厚、信義、率直、簡潔といった諸徳であった。分際も、節操もこの中に加味されていた。しかし、こうした諸徳は往時の遺物と、骨董品扱いされ、本来の意味が正しく解釈されなくなった。そしてこれらの諸徳が人間の品格形成に大きく関与していたのだが、これが忘れ去られる事は、同時に礼を失う事であり、何とも残念である。

 

●左右を見るな、前をしっかり見れ

 右顧左眄(うこさべん)して、辺りをきょろきょろ見回したり、分け目を振ると言う注意散漫状態は、決して喜ばしい態度ではない。
 右顧左眄とは、人の思惑や企みなどを実行する時、周囲の様子を窺(うかが)って、決断を躊躇(ためら)ったり、人の眼を憚(はばか)って、悪戯(いたずら)をしようか、どうしようかと迷う時に遣われる言葉である。しかし、これは左右の警戒を戒めている言葉ではない。

 また前進しながら、「後ろを振り返るな」と云う事は、武門では厳しく躾(しつ)けられた事である。後ろを振り向く事は、他人の目を気にする態度であり、また、自分の評判を気にする卑屈な態度である。更に、「後ろを振り向く」というのは、未練などの言葉からも解る通り、「思い切りの悪さ」を表した態度であり、これが幼児期の場合は、「乳離れの悪さ」を表す。

 こうした乳離れの悪さ現象は、特に剣道などの試合場でよく見られる光景である。例えば少年剣道を見てみると、道衣や防具の直し時間などになると、母親が一々我が子を呼び寄せ、服装を直したり防具を直したり、あるいはあれこれと指示を出す親を見かける事がある。
 これはまさに、「遠くに遊びに行くな」「知らない人について行くな」などと、サイン・コールを出している光景を連想させる。

 更に、選手は選手で、打ち込んだ竹刀が、何等かの効果を上げたと思う度(たび)に、審判員の方を振り向き、自分の方にポイントがあったのではないかとする態度は、まさに母親からのサイン・コールを待つ姿を彷佛(ほうふつ)とさせ、審判員の顔色を窺(うかが)う姿は、母親からの「言い聞かせ」を待つ姿と酷似する。
 昨今は、大人になっても親離れの兇(わる)い大人が居(お)り、幼心(おさなごころ)の現れとして、判断力や理解力の十分でない者もいるようだ。

 右顧左眄は、競技武道ばかりでなく、格闘技やスポーツ全般にも多く見られるようになった。選手やコーチ達は、常に「観客アピール」をよく口にする。これも、一種の右顧左眄であり、観戦者と切り離して考えられない近代スポーツ界の思考は、要するに監督離れ、コーチ離れの出来ない、幼児期の乳離れの出来ない大人を育てていると言える。

 自分の意志のみでは戦えず、常に誰かからのアドバイスを耳許(みみもと)で囁(ささや)いて貰わないと、試合展開が出来ない人間を育てていると言える。そしてこうした、西洋の観戦スポーツに慣(なら)された日本人は、こうした監督なりコーチなりの耳打ちする姿が当たり前と思うようになり、これに疑問を抱く人は殆ど居ないようだ。

 しかし、かつて武術の世界では、こうした耳打ちをして貰う事は、芸人根性として賎(いや)しまれたものであり、本来ならば、命の遣(や)り取りをする武術では、決して似合わない姿である。
 そしてアドバイスと言えば聞こえがいいが、要するに耳打ちであり、自分の試合展開を監督ないしコーチに点検してもらい、更には対戦相手の欠点を探してもらって、その欠点目掛けて次の攻撃を集中させると言う、勝敗の行方を占ってもらっているようなものだ。
 要するに、他力本願であり、選手は自分一人の力で局面を打開する事が出来ないのである。

 こうした他力本願は、監督やコーチが耳元で囁く間は良いが、囁(ささや)かなくなれば、途端に弱くなる選手がいる。往年の選手が、いま売り出しの選手から簡単に敗れてしまうのは、こうした耳打ちをする選手の介添人(second)が居なくなってしまったからだ。
 かくして、往年選手の選手生命はこれで費(つい)え、前方を見る事が出来なくなり、また「見通し」が利かなくなり、晩年は悲惨な生活を強いられる者も少なくない。

 

●真の武辺の嗜み

 中江藤樹によれば、武士の気質は猛々しいばかりでは駄目であると言う。
 いつも猛々しく、ただ腕力沙汰に及んで、人を殺傷するようなことを武辺(ぶへん)の嗜(たしな)みとしている者は、浅ましく、嘆かわしい限りであると洩らした。戦場や、必要にやむを得ない場合は、勇猛に振る舞わねばならないであろうが、平成無事の時に、何かと進んで無益な勇猛さを示すのは愚かな事であるとしたのである。

 それは例えば、戦陣の嗜みと言って、毎日鎧兜(よろい‐かぶと)を装着して生活するようなものである。ただ猛々しく振るまうことは、武芸を習い、軍法を学ぶ事とは別である。猛々しく腕力沙汰に及んで、人を殺傷する等は、かえって武辺の障げになるのである。
 その訳は、勇猛で腕力に頼る人は、例外いなく、他人を軽蔑したり、安易に好戦的で闘争心が激しい為に、喧嘩三昧に及び、あるいは犬死にして、親や主君に迷惑を掛けてしまうからである。

 藤樹は、これを誠に浅ましい限りであるとした。
 例えば、喧華や、意地からの勝負で、圧倒的な勝ち方をしても、それは「噛み合いに強い犬」と何ら変わりがないとしたのである。人間は、噛み合いばかりが強くても、何の役にも立たない。人格を押し下げるばかりである。
 世間の人間は、軽薄な思想に流され易く、あるいは心が暗い為に、猛々しい人が武辺をすれば、勇敢だと勘違いしてしまう。また、武辺とは「猛々しい事である」と安易に考えてしまうようだ。更には、文芸なき者が武辺をすれば、武辺とは無芸文盲だと早呑み込みする。

 そこで藤樹は、「中国を観(み)てみよ」と喝破(かっぱ)したのである。
 中国の士には、無学文盲の人は百人に一人も稀(まれ)であると言うのである。したがって、大手柄をたてる大将や、武辺強き侍は皆教養があるとしたのである。
 ところが日本の武士は、無学文盲が多い。その為に文芸に親しみ、学問に励むのは僧侶や神主、公家や医者のすることだという風習が出来てしまった。

 しかし藤樹は言う。「例えば義経を観よ。弁慶を観(み)よ」と。
 「この二人の文芸は、ともに当時の武士達よりも優れていたではないか」と言うのである。武士に学問は必要であるが、たとえ学問に志がなく、文芸を習ったとして、それは武辺に差し障りのある事ではないと説く。
 武辺と学問、あるいは文芸は一見相容れないもののように映るが、文盲の武士が他人の文芸のあるのを妬(ねた)み、自分の文盲の恥を隠そうとして誤魔化(ごまか)す姿は、どう理解すればよいのか。
 また、文盲を自慢する猛々しい武士も、せめて義経や弁慶の爪の先ほどでも真似(まね)すれば、それ相応に名声は高まるであろうと嘆いている。

 かくして藤樹は、当時の所謂(いわゆる)武辺の嗜みに、断固たる批判を加えているのである。この批判は、現代にも通じよう。

 特にスポーツ格闘家等を見てみると、十六世紀の乱世の世と変わらない生き方をしている愛好者が少なくない。ただ強ければいい、試合に勝てばいいと考える文盲の愛好家は少なくないであろう。それはそれで、若いうちは通用しよう。
 しかし、その若さで命が絶えるのなら別にしても、晩年まで生き残り、そこで生きて行く事を考えれば、学問すべき時に学問をしなかったそのツケは、決して小さくないであろう。
 往年の名選手が無学の為に、晩年の惨めな生き方などを見ると、そのツケは少なからぬものがある。

 では、そのツケは何処から廻って来るか。
 それは「明徳が明らかでない」ことからである。
 藤樹の説く士道としての道は、文武両道であり、両方のバランスをもって仁義の道を踏み行う事であった。儒教の説く、君子の道であった。したがって、武士はまず学問に励まなければならないとしたのである。真の学問を学び、明徳を明らかにする事が武士に与えられた第一の使命であると説いたのである。
 わが心の裡(うち)にある明徳を明らかにし、その明徳が明らかになれば、文武は自ずから統一されると説いたのである。その統一により、勇気も仁義の「大勇」となろうしたのであった。

 その上に、更に軍法を学び、軍礼を学び、武辺を嗜めば、士としての作法を心得たことになり、これは聖人の定めた天理に適(かな)うとしたのである。儒学を学ぶ事によって、それを正しく理解すれば、それは自ずから行いとなり、ここで学んだ智慧(ちえ)が生かされる。また、学問によって、士道を正しく実践することができ、これにより人生を全うする事が出来るとしたのである。

 人間は生まれつきの先天的な気質と性格、更には後天的に身に付けた環境による習性は、非常に偏り易いものである。この偏りを正さなければ、中庸(ちゅうよう)にはなれないとしたのが藤樹の思想である。したがって、学問をする場合は、自分の主観や、先入観により迷いに陥ることがある。だから、客観的に実態を見抜く準拠が必要であるとしたのである。
 そしてその要点は、心が潔(いさぎよ)く義理に適(かな)う事であるとしたのである。

 人の人生を振り返れば、人間はまことに様々な迷いに陥り、孝を失い、道に外れてしまうのは何故だろうか。
 それは総て「私」が起るからである。「私」から端を発するのである。「私」とは、わが身と、わが物を思う事から起るものである。
 孝は、人に対する敬愛であって、この「私」を打ち破って、人間を人間たらしめるのである。したがって、孝を失っていては、幾ら博学で、同時に武辺を嗜んでいても、真の文武は両道成立しているとは言えないのである。これでは単に、愚かな禽獣(きんじゅう)と変わりないのである。禽獣に成り下がれば、やがて「強弱論」で物事を考えるようになり、力こそ、暴力に勝つ正義だと錯覚してしまうのである。

 そこで藤樹は、「私」「私心」「人欲」の三つを取り去って、孝徳を明らかにし、人は学問をしなければならないと説いた。
 『翁問答』には、学問は人間の義務の第一義であり、これこそが急務であると説いている。しかし、偏見に満ちた偽学問が流行しているので、あらゆる角度から多角的に学び、複眼的に学問を見詰めなければならないとした。

 何故ならば、人間は生まれつきの癖と性格があり、また生まれて以来の後天的な習性や希望が人各々にあり、自分の得手不得手が起って、学問自体を偏らせている。したがって、どれが正しいか、どれが間違っているか、指摘する事が出来ない。これにより思考に偏りが生じるのであると、博学の徒を厳しく指摘するような言を吐いている。そして、これがやがて藤樹を朱子学から陽明学に向かわせる要因を作ったのである。

 藤樹に指摘は手厳しい。
 多くの者は、学問をやっているうちに、自分の得手に傾いたり、自分の都合のいいような方向に向かい、誤りを犯しても気付かないまま、偽学問をしてしまうものである。そして朱子学への懐疑が陽明学に向かわせるのである。

 これまでの学問は『四書大全』であった。その中心は朱子学であった。四書に示されている聖人の教えの行動原理は、厳格に順守する格法主義であった。そして、朱子学批判は、朱子学者・藤樹にとって一大変化であった。
 また、これが格法主義に疑いを抱き、四書・朱子学から抜け出す具体的な一歩を踏み出したのであった。

 知行合一(ちこうごういつ)。これは人間の行動原理として、最も崇高なものである。知っている事は、行う事により、その知が成就する。ところが、世の中を見回してみると、知は知の領域を一歩も出る事がなく、その知は行いとして顕われて来ない。これでは本当に知っていると言う事にはならない。知っていると言う事は、行動が伴ってこそ、それが知っていると言う事なのであり、知の領域に止まっていては、それは単に知の価値しかない。知は行ってこそ、知が成就するのだと藤樹は説いたのである。
 また、本来の言う「文武両道」とは、こうしたものを顕わしたものではなかったか。

 藤樹の説く「文武両道」は、単に学問に優れ、武術に優れたものを指すのではない。両方を通じて、人に対し、愛敬の心で接することの出来る明徳を指すのである。藤樹は最後まで、明徳の大事を説き続けた。

 ところで中江藤樹は、殆ど師と名のつく人につかず、独学で日本陽明学の祖となりえた人物である。更に、藤樹の許(もと)に集まってくる門人や村人たちに対する感化を考えると、そこには藤樹の持つ非凡な資質が感じられる。しかし、ただそれだけのことであろうか。
 藤樹は文武両道の道を通じて、人間的完成に向かおうとした人である。その為に、一生涯いかに苦心し、精励に耐え抜いてきたか、それはとうてい筆舌には尽くされまい。

 特に目覚めた、覚醒の魂を持った藤樹は、理想と現実の中で葛藤(かっとう)を繰り返し、然(しか)も、内と外の乖離(かいり)に心血を注いでいった。またその側面には、苦悩した人間らしい一面も残していた。

 今日、次のような逸話が伝えられている。
 それは藤樹が、夜道で追剥(おいはぎ)に襲われた時機(とき)のことである。 藤樹は、いきなり追剥の集団に包囲された。この時、少しも慌(あわ)てず、藤樹は懐から銭二百文を取り出し、これで許してもらおうとした。しかし、追剥集団は、これだけでは許さない。身包み脱いで置いて行けという。藤樹はこれに困り果て、腕を組んで座り込んだ。そして考えた挙句、如何なる理由で、自分が追剥の言いなりになり、身包み剥がれなければならないのかと考えた。
 しかし、追剥側に道理がないと見るや、刀を抜き、名を名乗って一戦交えることにした。

 追剥たちは、中江藤樹の名を聞いて驚いた。そして、その場に刀を捨てて、謝り、その後、改心して良民に立ち戻ったという話がある。
 しかしこれは事実ではなく、後世の仮託であろう。

 では何故、こうした仮託が出来上がったのか。
 それは知行合一を旨とする、愛敬をもって、人に接するという態度が、こうした逸話までを作り出し、知っていることと行うことの、良知を致すということは、かくあるべきだと示した陽明学の実践を促したものであろう。心は理に合ってこそ、安んずる事ができるのである。したがって、理の前には、天下と雖(いえど)も大とせず、一身と雖も小としない表現こそ、陽明学の知行合一であった。これこそが、行いの中での知の実践であった。道理がなければ、自分の心まで曲げて、屈服したり、軍門に下る必要はないのである。

  それ故に、理想と現実、内と外との対立葛藤に苦慮し、なおも人を愛敬し、全力を尽くして、純粋に生き抜いた知行合一の人・藤樹は、人生の学問において、人間の可能性を開示した人物といえよう。そして、それは後世の人間に、親しみと勇気を与える聖人としての何たるかを示しているといえよう。


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