■陽明学・生きる為の人生哲学■
(ようめいがく・いきるためのじんせいてつがく)
●志と勇気
人の志は「品格」の有無で決定される。品格は志の別名であり、志を胸に秘めている者は、気高(けだか)い品位を持っている。
その品位は、人に自然に備わっている人格的価値であり、品格とも云われる。品格は、目的意識としての将来の「見通し」を明確にし、人が何を考え、何を求めて求道(ぐどう)の道を進んでいるのか、その心の向う方向を自(おの)ずと示してくれる。
さて、尚武(しょうぶ)を語り、武勇について論じていると、何やら猛々(たけだけ)しい、強(こわ)持ての、近寄り難い人物のように誤解され易いが、これは大きな誤りである。本当の志を裡(うち)に秘めている者は、威張り腐ったり、頭ごなしに他人を扱ったり、目下を罵倒(ばとう)するような暴言は吐かないものである。
志は、別名、「親切心」の標榜(ひょうぼう)である。また「厚意」の現れである。そして愛情も兼ね備えている。したがって鄙劣(ひれつ/品性・行為などの、いやしく下劣なこと)な態度には出ないものである。
「親切」の言葉からも窺(うかが)えるように、物言いは「優しさ」がある。しかし、物言いが優しいからと云って、その人が軟弱であるという事ではない。
それは逆である。軟弱な人間程、「空りきみ」があり、威(い)を張って見せるものである。
巷間(こうかん)で、「弱い犬程、よく吠える」と言う。まさにこの言は的中である。弱い犬程、よく吠え、相手が年下とか、弱いと見抜けば、とことん吠え捲り、更に、バックに何者かが控えていると、「虎の威を藉(か)る狐」を決め込む。つまり、このタイプの人間は、自分以外の他人を、色眼鏡で視(み)ると言う事だ。
個人でも、悪意のある眼で視ると、何もかもが悪いように映ってしまう。
大人しい控え目な人間を女々しいと言う。朴訥(ぼくとつ)な人間を田舎ッ平と愚弄(ぐろう)する。
しかし、心に目指すところのある者は、こうした愚行は侵す事がない。
酷薄(こくはく)な印象を与える人間は、古来より、君徳(首長の徳)の欠ける者として決して高い評価は下されなかった。温情味がなく、人生の機微(きび)に疎(うと)い者は、評価が低かったのである。何故ならば、明治維新前、武人と言うのは当時の知識層であり、その見識の中には、深い思慮と、人間理解の徳育の成果が備わっていたのである。
西郷隆盛は当時、武人の典型のような人物として深い尊敬を受けていたが、この尊敬は、彼が猛々しい、武張った人物では決してなかったからだ。
時代小説や時代劇では、作者が勝手に作り上げた武張った武士が登場するが、武士も上・中・下のランクがあり、日本陽明学の祖・中江藤樹(なかえ‐とうじゅ/江戸初期の儒学者で日本の陽明学派の祖)が、上のランクを付けた武士は、猛々しい武張った武士ではなかった。
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▲ 中江藤樹の図
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▲中江藤樹像
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中江藤樹が示した「武士とは」を題して書かれた『翁問答』には、かつての自分が仕えた大洲藩(おおず/媛県西部、大洲盆地にある現在の大洲市で、もと加藤氏六万石の城下町である。中江藤樹の旧宅があり、藤樹は大洲藩の藩士であった)の同士の為に、士道について述べられている。
この書の筆には、一種独特に気魄があり、叙情的に情熱が籠(こも)り、時に、それ程もでにと思わせる迫力がある。
中江藤樹は、脱藩をして、一旦は武士を捨てたはずであったが、武士に期待を繋(つな)いでおり、士道を明らかにする事によって、その使命感を明白にしている。
『翁問答』では、まず武士を「士」として捉えている。
藤樹の言う「士」とは、天子・諸侯・卿大夫(けい‐たいふ)・士・庶民の五等の身分のうち、卿大夫を助けて、様々な役職に就き、政治上の実務を担当する人物を指すのである。この人物は、「道」の実現の為に、渾身没頭してその開発事業の一翼を担う身分の士を指すのである。したがって、士道とは、明徳を明らかにし、仁義を踏まえて、天下の泰平の為に尽くす人格を備えていなければならないと説いたのである。
当時の言う「武士」とは、そのような身分と、身分相応の職分にあって、然(しか)も文武の統一に心掛けねばならないとしたのである。
世間では、気立てが優しく、起居振る舞いが優美な者を「文人」といい、猛々しく、荒々しい者を「武人」と云っているが、それは大変な考え違いであると指摘した。
「文」とは、天下国家をよく治め、人間関係を正し、この機能を正常化させる仕組みを言う。また、「武」とは、悪逆秘道の者が、「文」の道を妨げ、こうした者に対し、懲罰を下したり、成敗する者を「武」としたのである。
即ち、「武」とは、天下国家の秩序を回復する役割を担う者を「武人」と定義したのである。
文の道を実現する為に武道(【註】武道と言うのは今日で言う武道とは異なる。武士の厳守すべき道を言う)があるとしたのが、中江藤樹だった。武道の根拠は、武を擁護(ようご)し、それを守る事であった。文なくして、武道はないとしたのである。
しかし、文道も、武道も、威力と実力によって実現が維持される限り、文道の根拠はあくまでも武道であった。
即ち、中江藤樹の考える文武両道は、総じて「一徳」であり、武なき文は真実の武ではなく、文なき武は真実の武ではなかった。両者は、両輪の輪の如き役目を果たして、文武両道と言い、かくして、文は「仁道」の異名であり、武は「義道」の異名であった。
藤樹の説いた文武両道の、目指すところは、士道は「文武の道」であり、仁義の道であって、これまで考えられて来た、武張った武辺(ぶへん)の武道ではなく、儒教の説く、「君子の道」なのであった。
したがって武士は、人倫の道の担い手として、農工商の三民の模範とならなければならないとしたのである。
しかし、現実は中々そうはいかなかった。理想のようには行かないものである。
現実を見回すと、武士には上、中、下の区別される要素が歴然として横たわっていた。同じ武士にも格差があり、ランクがあったのである。このランクは、家柄や身分を指すものではない。精神面での思考や心の在り方で、武士は三つランクに区別されていると観(み)たのである。
上の武士は、明徳が明らかであり、名利私欲に趨(はし)らず、仁義を行う勇気があって、文武を兼ね備えているものであると定義した。
中の武士は、明徳が充分ではないが、私利私欲に迷わず、自分の名誉や同僚等への義理を命賭けで厳守する者であった。
下の武士は、上辺は義理を大事にするように見せ掛け、仁にも厚いように思わせ、しかしそれでいて、心の裡側では私利私欲が逞しく、立身出世を狙っている者であるとしたのである。
武士の上、中、下の品定めをする要点は、徳と才能と功であり、これが文武と一致しているかを観たのである。
武士にとって徳分は、文武合一の明徳である。また、才能とは、天下国家の政治を運営する上で、文武両面に亘っての智慧(ちえ)や能力、技術や工夫であった。次に功は、国家を運営し、国難を打開して、国防を全うするなどの、国政上の実績であった。
この三つの、武士のランクを区別する物指しとして、適切に処遇する事が、また主君たる者の是非となったのである。
●誠をもって誠に帰す
「志合えば胡越(こえつ)も昆弟(こんてい/兄弟の意味で、「昆」は兄の意)たり」と『漢書鄒陽伝』にはある。
これは、志が合えば、疎遠な者も兄弟のように親しくなれることを表す意味である。それに、年齢の差など関係がない。
西郷隆盛は、自分より遥(はる)か年下の、少年少女に対しても、無礼・乱暴な態度で接しなかったと言う。
一般に、年下の者や目下の者に対しては、物事を粗略(しょりゃく/誠実さがなく、おろそかにする事)にするように、軽く見下し、横柄な態度でこれに接する。特に、少年少女ともなると、更に見下し、これを甘く見る。あるいは侮る。弱年者には人格の有無を見ない。
凡夫か、否かの境目は、年下や目下の者の接し方によって決定されると言ってもよかろう。凡夫は、年下や目下を甘く見るばかりでなく、特に、少年少女に対しては、一個の人格を備えた人間とは見ないようだ。したがって、その口の利(き)き方も横柄であり、傲慢(ごうまん)であり、辛辣(しんらつ/きわめて手きびしいこと)である。心の中には、離れ難き侮蔑(ぶべつ)がある。
ところが西郷隆盛は、幼い者にも、一個の人格を備えた立派な存在と看做(みな)し、これを遇する事を識(し)って居たと言う。
現在の教育者でも、小児に対して、若年層の子供を一個の人格ある存在として看做す者は稀(まれ)である。教えるが側と、教わる側に境界線を引き、境界線のこちら側は教える方、向こう側は習う方と、しっかり線引きし、教えるが側の物言いで、甚だ傲慢な態度でモノを言う教師が少なくない。それでいて、「自分は教育者」などと胸を張る。既に、こうした態度に侮りが起っている。
そして、「弱い犬程、よく吠える」と言う諺(ことわざ)が思い返される。弱い者ほど、虎の威を藉る狐に成り下がろうとするのである。
人間理解とは、「人間観察」の事であり、観察眼や養われていれば、その理解は速い。また、観察力を旺盛にすれば「徳」が備わる。徳の少ない者は、要するに観察力が欠けているからである。相手をよく見ないからである。検ても上辺だけであり、その肝心な中身を見ようとしないからである。ここに人物選定の品定めを誤る元凶があるのだ。
人間観察の確かな眼を持っていれば、当然、温情味も出来、人に尊敬される一面を備える事が出来る。武家の目利きの基準の一つとして、「温情味」をいう事が挙げられていた。温情味がなければ、武人としては高い評価が下されなかったのである。
かつて旧日本海軍はイギリス海軍を手本に、海軍士官を育てた。そして日本海軍士官がイギリスから学んだ事は、紳士の意味を持つジェントルマンであった。
ジェントルマンはgentlemanの「静かで優しい人」を指し、単に日本語解釈で言われる、「殿方」だけを表す語ではない。同時に「勇敢」も表すのである。
「勇敢」といえば、「勇気」を連想するが、勇気とは戦場だけで発揮するものではない。戦場から遠く離れた処でも、勇気は発揮できる。知略や武略も勇気の一つであり、喩(たと)え裏方に準じていても、勇気は発揮する事が出来る。そして勇気は、誠を尽くす者の証でもあった。至誠とは、誠実な事であり、また実直な事でもあった。
関ヶ原の戦いの際、薩摩の武人達は知略を配して中央突破作戦を試み、見る者の肌に粟(あわ)を生じさせ、島津義弘(しまづ‐よしひろ/安土桃山時代の武将で、兄義久と共に九州を略定したが、豊臣秀吉に降り、大隅に封ぜられ、文禄・慶長の役に殊功をたてた。関ヶ原の戦に石田三成にくみして敗れ帰り、兄に因って降を請い、剃髪して惟新と号した。1535〜1619)麾下(きか)数十騎が一気に薩摩まで駆け戻ったではなかったか。この決然たる行動は、まさに勇気のそれでなかったか。
この勇気の裏には、優しさがあった。その優しさの裏には、柔軟な頭で、知略も武略も自由自在な発想があった。そして忘れてはならない事は、武人としての温情味だ。これを考察すると、単に試合に強いだけでは、こうした発想は生まれないという事である。
そして「勇気」とは、その行いの中で、最も大事になるのが、「過ちを認める勇気」である。
過ちを認めるこの勇気を、「第三の勇気」という。
第一の勇気は「進む時に勇気」であり、第二の勇気は「退く時の勇気」である。第一ならびに第二の勇気は、勇猛心のある者ならば、如何なく発揮できよう。ところが、第三の「過ちを認める勇気」は、並みの勇猛心のある者では、中々これを実行する事が出来ない。
それは、人が自分の過ちを素直に改められないのは、多くはぐずぐずと姑息(こそく)な保身ばかりを考えて、これまでの猛々しかった勇気が時間と共に萎(な)えてしまうからである。
勇気を示す上で、最も難しいのは「第三の勇気」なのである。したがって、これを発揮しなければならぬ時は、奮然と勇気を奮い起こし、「即」実行しなければならないのである。
多くの場合、以前からの諸々の悪は昨日死んだ如くに消え去り、その後の善は今日生まれた如くに生々しく盛んになってくる。だがらこそ、昨日迄の過ちは、即その非を認め、これを認め、切り除かなければならないのである。
それはあたかも毒蛇が自分の躰(からだ)の一部に噛み付いた場合、その箇所の毒を一刻も早く取り除くようにである。
過ちを改めるには、時間を置いてはならない。少しの猶予もあってはならないのである。
『易』の中には「風雷益」というのがある。これは「君子はもって善を見ればすなわち遷(うつ)り、過有ればすなわち改む」という意味である。
第三の勇気を奮い起こすには、「恥心」「畏心」「勇心」の三つの心を備えれ居なければならない。単なる猛々しい勇猛な心だけでは、どうしようもないのである。したがって第三の勇気を奮い起こすには、以上に述べた三つの心が必要なのである。この心が備われば、喩(たと)え如何なる過ちであろうとも、「春の氷が日に照らされて消え去るかのように」消えてしまうものなのである。
この世に消えざる「憂い」など、一切ないのである。
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