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西郷派大東流と武士道

■礼儀と武士道■
(れいぎとぶしどう)

●「忍ぶ恋」を知らぬ、ストーカーに走る若者の愚

 現代は「堪(こら)え性」の無い現代である。忍耐がなく、我慢がなく、堪忍がなく、信念の無い時代である。多くの人がふやけたままの、漠然として、その日暮らしを余儀なくされているのである。ここに現代社会における、現象人間界の恥部と、「見通し」の利(き)かない危惧(くぐ)の一面がある。

 さて、武士道で忘れてはならないのは、「忍ぶ恋の実践」である。
 「堪え性」のない人間は、「己(おの)が恋愛」にしても、直ぐに告白に奔(はし)り、相手側からの結果を急ぎ、その挙げ句に断られれば、腹いせの厭(いや)がらせをしたり、ストーカーと成り下がる。老いも若きもこの現象に陥り、一層の憎悪を募らせるようだ。
 「堪え性」の無い故である。
 では、「堪え性」のない実体は、一体何を招くのか。

 まず、歪(ゆが)んだ形の愛が派生する。最初は献身的な愛から発展したものが、日を追うごとにエスカレートして行き、やがてスーカー行為に代わり、無言電話、奇妙な告白の手紙、過剰な愛の告白メール、過剰なプレゼント、尾行、覗き、厭がらせ、そして狂気の要求として、無態(ぶざま)な失態から起る逆恨み……。

 人間の裏側にはこうした狂気の一面があり、狂人と成り下がる恐ろしい一面を持っている。充(み)たされる事の無い独占欲や支配欲、異様な執着心と執拗(しつよう)な厭がらせ。これままさに、「サイコ・ホラー」の再現であり、無想と現実の混同が、現代人の心を狂わしているようである。
 そして一歩間違えば、誰でも被害者となり、加害者となり得る時代である。
 ではこの元凶は、一体何処から起ったのか。

 取りもな直さず、戦後のアメリカ民主主義下における「自由恋愛術」に起因していると言えるだろう。
 多くの日本人は、戦後民主主義教育下で、「女性が男性の愛の告白を断る時は、優しく断るように……」と教育された。
 また、男性は逆に、女性から断られても、「しつこく追い回し、執拗(しつよう)に迫るのが男の優しさだ。力愛だ」と教育された。しかし、この愛の告白の構図は一体なんであろうか。

 この構図の裏側には、男性が暗黙のうちに漠然と展開する、自覚症状の無い強迫行為ではあるまいか。
 戦前・戦中・戦後を通じて、上流階級を除く、アメリカの中産階級に位置する男達は皆こういう迫り方をし、強姦同様の婚前交渉を繰り返して結婚に至り、やがて愛想が尽きて離婚するというコースを辿るのが、大方の通り相場のようだ。世界でも、アメリカの離婚率は上位を占めている。また、日本もこの後を、急速な勢いで迫りつつある。

 そして現実問題として発生している、歪んだ形の愛情表現は、最終的には陰惨な結末で終わる場合が少なくない。
 自覚症状の持たない男性側の愛の告白は、確実な形で女性を脅迫し、脅せば、愛を告白した女性を自分の所有物にできると言う妄想を抱いている。

 一方、執拗に迫る男性に対し、女性側はその男性の愛を拒絶すると同時に、その代償として、かつての自分の友人や尊敬する上司を失い、不安に嘖(さいな)まされ、恐怖に怯え、悩みを抱えたまま、強迫に屈して、最後は殺されると言う結末を招いてしまう場合も有るようだ。

 それまで友達同士、あるいは上司として尊敬を払って居た男性が、突如、部下の女性に、愛を告白したり、友達同士で信頼関係にあった男女が、男性側の告白により、その拮抗は一挙に崩れてしまう現実を招く。そして一方的な違った局面が、醜鬼の如き激しさで浮上して来るのである。女性側からすれば、今まで信頼していた友人を失い、また尊敬して居た上司を失い、実は彼らは、裏側に非常に醜い心を持った鬼だった事に気付かされるのである。少なくとも女性側から見た、これまで信頼関係にあった友人像、あるいは尊敬の対象であった上司像は、彼らの愛の告白によって一挙に崩れ去り、その体臭からぷんぷん臭うものは、醜鬼そのものに映るのである。

 こうした背後に隠れた女性側から見た男性像は、実は幻滅を感じ、告白によって失うものは、非常に多いと考えねばならぬのである。
 しかし、もし、彼女の友人なり、上司なりが、「忍ぶ恋」の武士道精神を知っていれば、女性に対して幻滅を与えることはなく、また失うこともなく、従来どおりの信頼関係や、尊敬する対象になり得たはずである。

 世の中には、結論を急ぐバカ者が多い。あるいは不正に手を染め、その自覚症状が疎い者がいる。彼らの中にも、ある程度のステータスに値する学歴と学閥(例えば国立旧七帝大系の大学を卒業し、更に同大学の大学院を経てドクターなり、マスターの学位を取得)を持ち、知的面で優れていて、社会的にも確固たる地位を持つ者がいる。しかし、こうした輩(やから)にも、一定量の比率でバカが存在する。
 日本では、日本を代表する最高学閥と信じられている東大出身者(特に法学部)のキャリア官僚でも、一定量クズがいて、毎回のように収賄罪などの不祥事を起こしている。これは人間の持つ知的レベルと、モラルが必ずしも一致しないということを物語っている。どんな優れた組織や集団にも、あるいは官公庁の中にも一定量のバカやクズはいるものなのだ。

 さて、醜い鬼は、異常な行動に出るから困り者である。
 しつこく付け回す行為、断られても断られても、執拗に迫る一方通行の歪んだ愛のメッセージ。やがてこれが、ストーカーと言う陰湿な、闇(やみ)の世界の迷い人になるのである。

 数年前の事であるが、我々は現代を生きる時代の象徴として、アメリカ映画の『卒業』を観(み)た人が多いと思う。映画の主人公のダスティン・ホフマンは、人々を欺(あざむ)きながら、多くの情報を集め、家族のふりをして騙(だま)したり、牧師のふりをして、愛を告白した女性に激しく迫る。しかし彼のこうした行為は、まさにストーカーのそれである。
 意中の女性の結婚式会場を知らべたりの彼の異常な行為は、まさに暴力と言うべきものである。結婚式の最中に、教会に駆け付け、そして騒ぎを起こす。

 しかしストーカー擬(まが)いの、彼のこうした行為に、かつて迫られた女性は、驚くべきことに、一端は断ったはずの彼の愛を、その場で受け入れ、自分の新しい良人(おっと)となるべき男性を教会に置き去りにして、彼の許(もと)に奔るのである。

 この内容に似た映画は日本でも、『男はつらいよ』48作「紅の花」(山田洋次監督作品)の最終作品にも登場する。
 車寅次郎の甥・満男の女友達だった、高校時代のブラスバンドの下級生・及川泉は、岡山県津山の某男性と結婚に漕ぎ着けるが、結婚式の会場までの花嫁道中に、満男がレンタカーを運転して駆け付け、この道中の進路を妨害する。そして、この筋書きは、どこか『卒業』と同じ形を思わせ、一種の「彼女攫(さら)い」のような結末を招く。

 そして泉は、自分の新郎となるべき男性に残したまま姿を消し、満男の後を追う。周囲を唖然(あぜん)とさせる。満男は意中の泉を手に入れたので、最終的にはストーカーの汚名を被せられずにすんだが、一歩間違っていれば一種の「誘拐犯」であり、まさに満男の遣(や)った妨害はストーカー行為である。
 そして、平成7年当時、ダスティン・ホフマンの『卒業』に共鳴して、こうした行為を美談化したり、英雄視する風潮が生まれた。

 もし、こうした「ストーカー」兼「女攫(さら)いの誘拐騒ぎ」が、美談として正当化されるのであれば、 結納を交わし、結婚に漕ぎ着けた男性であっても、結婚後も、ぼやぼやしていれば自分の新婦を、他の男から力で奪い取られるという恐怖に怯(おび)えなければならない。まさに社会ルールを無視した、秩序の崩壊といわざるを得ない。
 そしてこれが、ストーカーの横行する、「現代」という時代を象徴しているとも言える。

 戦後、アメリカから伝わった自由恋愛術は、「告白」という形をとって意思表示をし、それを通じて、相手を独占し、支配すると言う形が演じられて来た。しかしこの実体の蓋(ふた)を開ければ、愛とストーキングの狭間に揺れ動く、無想と狂気が見隠れする。贈り物をプレゼントし、一旦金品で釣り上げておいて、相手の欲に絡めて、絡め捕ると言う遣り方は、戦後日本にも流行し、今日もその延長上にある。

 時代の価値観と個人の持つ価値観が交差し、金銭至上主義に趨(はし)ったため、プレゼントの応酬合戦は庶民にまで浸透し、流行した。バレンタインともなれば、この応酬で、てんやわんやであり、また逆バレンタインにかこつけて、男性は意中の女性をしとめようと奔走する。
 この現実こそ、金によって、何でも手に入ると言う、国際ユダヤ金融資本が植えつけた処世術の一つである。しかしこうした処世術も、功を奏しない場合がある。
 こうした歪んだ愛情が功を奏せず、盲目的な愛に振り回された時、人は間違いを犯し、事件を起こす。

 また、こうした現実が発生する裏側には、家庭内に問題があり、日本に於ては、家長制度の崩壊に原因があると言える。そして日本人は、アメリカを見習い、アメリカの処世術に徹した。しかし、その結果はどうだったか。
 アメリカは、「力が正義なり」という国である。アメリカの民主主義も、歴史を振り返れば、「力」で勝ち取ったものであり、この裏側では多くの人々の血が流されている。その為アメリカでは、攻撃的な性質が「男らしさ」の象徴だと教えて来た。

 この「男らしさ」の象徴は、やがて結婚を経て、家庭に入ったらどうなったか。
 「男らしさ」は、家庭内では暴君ではなかったか。暴君が家庭内に入り込み、彼から扶養されている妻や子供は、良人(おっと)や父親から暴力を受けると言う現実が浮上したのである。
 その為に子供達は、幼児虐待(ぎゃくたい)を受けつつ育って大人になり、社会を一種の先入観や偏見で観ると言う「目」が出来上がってしまったのである。暴力的な態度をとる事こそ、その子が男の子なら、「男らしさ」の象徴であると勘違いするようになる。

 また、昨今は性教育ならぬ「性器教育」が学校でも指導され、誤った男女観を植え付けている。この性器教育が、子供を早い時期から「色狂い」に誘い、性欲過剰の精液垂れ流しの人間を造り出している。
 まして昨今は、動蛋白食品を政府筋でも奨励しているので、子供達も、昔の子供に比べて非常に早熟であり、小学校高学年ともなると、動蛋白食品が齎(もたら)す害によって性腺が異常刺戟(しげき)され、性的な病的興奮が深刻な問題を引き起こしている。また、陰茎癌、睾丸癌、前立腺癌、前立腺肥大症などの排泄障害は、性的な病的興奮が齎した元凶と言えよう。

 現代の動蛋白過剰摂取による性的な病的興奮と、歪んだ愛が奇妙にドッキングした時、そこに発生する必然的な事件は、まさしくストーキングである。
 ストーカー行為の発生の裏側には、動蛋白過剰摂取の実態があり、動蛋白から発生した酸類は、血液中に過剰な異常老廃物を作り出し、その産物は性腺を刺戟し、異常な性的興奮状態を引き起こす。つまり、「さかり」のついた動物が、年から年中、一日も休まず「さかり状態」にあると言う元凶を生み出すのである。そして動蛋白過剰摂取が齎すものは「早熟」であり、「老化」であり、「早死」である。
 その上、精液過剰の深刻な排泄障害が起る。
 排泄機能を司る腎臓は、アルカリ性の条件下に於てのみ、活発に働くのであって、動蛋白過剰摂取によって齎された食物は、やがて血液を酸性化し、著しい機能失墜を起こす。

 この機能失墜はやがて、心身にも悪影響を与え、体質的にはバテ易くなり、流行性感冒(呼吸器系の炎症性疾患)などの伝染病に罹(かか)り易く、思考的には「酸毒思考」に陥る。
 酸毒思考とは、考え方が単純になり、「思い遣り不足」や「相手への配慮不足」が起るのである。世の中を皮相的な一面で捕らえ、右か左かの○×問題にしか答えられなくなり、安直な挙動に走り易くなるのである。これがストーカーを引き起こす元凶である事は疑いようもない。
 それに加えて、アメリカ流の自由恋愛術が流行しているのであるから、スローカー行為には、益々拍車が掛かるのは当然であろう。

 さて、宮本武蔵の『独行道』の中に、「恋慕(れんぼ)の思いなし」という一節がある。
 これは修行者に、愛欲自体が無用であると戒めた言葉ではない。その言葉の裏には、隠された「忍ぶ恋」が説かれている。

 人間の欲望の中で、愛欲程、手に負えないものはない。それなるが故に、一方において、愛欲を罪悪だと思い込ませる異端視的な現実がある。しかしその愛欲を横目で見ながら、これを無理に避(さ)けて通れば、太陽や月や星が大空に輝いているのに、それを見ようとしないのと同じになる。同時に、この存在すら否定する事になる。道理は道理として受け止める、器(うつわ)の寛(ひろ)さが必要である。

 修行者が愛欲を放棄し、ひたすら殺伐(さつばつ)とした勝負必勝の世界に明け暮れるようになってしまったら、最早(もはや)それは、人の修行ではなく、狂人の暴力と成り下がる。そのような人間に、細やかな人情の機微(きび)などあろうはずがない。人間としては失格である。そして人間失格者は狂気に趨(はし)り、やがては自滅するのである。

 男女の愛欲の現実を、あるが儘(まま)に認め、その中の「人」とならなければならない。これが人生を生きる現世の人間の、吾々(われわれ)に課せられた任務であり、修行ではなかろうか。
 人間を外して、修行はあり得ないのである。人間界から抜け出して、深山幽谷(しんざんゆうこく)の山野に入り、そこに籠(こも)ってみたところで、それは所詮(しょせん)、独りよがりの幻(まぼろし)に過ぎない。

 真(しん)の人間たろうとすれば、俗界にあり、俗事にまみれて、更にその俗事に染まらないと言うのが最高の教えでなければならない。隔離された世界に、人間など存在しないからだ。
 そして俗界の修行の場に、情愛と言うものが存在している。これを慎(つつ)んで捕らえれば、人間としての成長を促すが、見通しと憶測(おくそく)を誤り、愚(ぐ)を侵せば、溺愛(できあい)の渦中に巻き込まれる。

 だからこそ、情愛の究極の姿は、「忍ぶ恋」なのである。ここに究極の姿を説いた古人の短歌がある。

恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは

 この短歌の中に、格の高い、丈(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは決して著者だけであるまい。

 長年連れ添った夫婦が、倦怠感に陥って、互いに罵(ののし)り合って愚弄(ぐろう)したり、愚痴や愛想を尽かしているのとは正反対に、いつも新鮮であり、常に瑞々(みずみず)しさを失っていない。
 そして、戦前の青年たちが、肉欲と愛欲を器用に分類して暮らしていたように、肉欲と愛欲の違いを分類し、それを強(したた)かに心得え、上手に使い分ける必要がある。

 真の情愛とは、慎むことであり、身の程を知る事である。軽々しく言葉の応酬(おうしゅう)で、「愛の告白」に至り、安易な意思表示を、性器と言う肉体を通じてするべきではない。

 特に日本人には、欧米人にはない、縄文人以来の以心伝心(いしんでんしん)の特異な機能が内蔵されている。日本人に内在される言霊は、「噂をすれば、影をさす」と諺(ことわざ)にもあるとおり、「言葉には霊が宿っている」という現象が認められているのである。
 そうした言霊を駆使すれば、欧米人のように言語巧みにラブレターで迫らなくても、また大袈裟なアクションで、ジェスチャーの類いを乱発しなくても、以心伝心を遣えば、容易に思念は伝わる筈であった。
 しかし明治以来、欧米化の波に翻弄(ほんろう)されて、こうしたものは回路機能が閉鎖され、切り返えスイッチは切替が出来ず、退化の一途にあり、その機能までが錆(さび)ついてしまったのである。今こそ、わが先祖から連綿として受け継がれた、こうした機能を復活させるべき時である。

 「愛」だの、「恋」だのを告白の言葉とし、軽々しくこれを乱発してはならない。そういう言葉は禁語であり、ある意味において、「忍ぶ恋」の否定に繋(つな)がり、強いては武士道の否定にも繋がる。「忍ぶ恋」を否定して、武士道の実践はない。武士道の全(まっと)うは、安易に肉欲に耽(ふけ)る事ではない。

 昨今はアメリカ風の自由恋愛術が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)し、快楽遊戯が日常茶飯事化されている。自由に恋をし、愛を打ち明けて告白し、歯の浮くような言葉を連発し、金品で釣り上げて肉体を要求し、ラブホテルに誘い込んで強引に奪い取るという、三段構造の求愛が展開されている。
 「押し一手」と「強引さ」が、外へ拡散するのエネルギーを生み、外へ外へと膨張させ、それを益々膨らませて行き、一旦獲得したら、馴(な)れ馴れしくなって、この膨張は此処で止まる。膨張を失ったエネルギーは、今度は萎縮(いしゅく)の方向に向かい、萎(しぼ)み始め、やがて瑞々(みずみず)しさを失って、求愛のエネルギーは力を失ってしまう。そして互いの男女の肉愛が、墜落する危険性を持っている。
 更に、飽きが来て、倦怠感に陥ってしまうと、顔も見るのが厭という事態まで起こる。これが昨今の自由恋愛術から始まった、愛の実態である。

 アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追いかけている。そうした現象は求愛と発散によって、拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことを物語ったものであり、中心に有るべきものが、中心に無いという事からおこる現象である。
 あるべき筈(はず)ものを見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その元凶がある。最初の出逢いの中心軸が、拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だと考えられる。

 現代人は、まさに拡散と膨張の中に、総(すべ)てが縮図として組み込まれてしまっているのである。何もかも、膨張し、中心から遠のいて拡散するのだ。何もかも膨らみ、バブル状態になり、その膨らみ過ぎたバルーンは、やがて許容量の限界に達して爆発するか、あるいは急速に萎縮するであろう。そのメルトダウンに向かっての過程が、中心軸から遠く離れようとする拡散・膨張の状態なのである。

 『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)に代表される日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」の典型である。
 これには『葉隠』の口述者・山本常朝(つねとも)も絶賛している。これを「丈(たけ)の高い恋「と力説している。

 この物語の発端(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そしてその焔(ほのお)は、炎上へと向かう。
 二人は恋の焔を灯(とも)す事によって、その焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出るのである。
 そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎(もたら)され、それが力強く躍動(やくどう)していったのである。そして忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程の中のストーリーが、何とも言えない「切なさ」を湛(たた)え、これが人の心を打つのである。

 現在はアメリカ指導型の民主主義に代表される、奔放主義的自由恋愛が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)している。以前に比べれば、性愛から肉欲まで、モノにするチャンスは一段と多くなった。
 が、同時にそれは、性愛は肉欲を、その延長上に置いている為、恋愛自体は死同然の溺愛(できあい)の落とし穴に落ち込んでいる。そして鮮やかな新鮮さは、不透明(ふとうめい)な濁(にご)りに汚染されて、色褪(いろあ)せたものになっている。

 恋は打ち明け告白し、求愛をしたと同時に、その新鮮さは急速に失なわれ、そして恋の生命は、やがて死んでしまうのである。
 恋は、しっとりとした若葉のような潤(うるお)いを保っていなければならない。瑞々(みずみず)しい新鮮さが失われれば、恋は死ぬのである。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛(できあい)となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。盲目の愚は冒すべきでない。

 この世での男女は、相対的な関係にあり、一方の格が低くなれば、もう一方の格も低くなるという表裏一体の相乗関係をなしている。それ故に、打ち明けた恋は格が低く、一生打ち明けない恋は格が高いというのが、その所以(ゆえん)である。そして、それはいっも新鮮で、鮮やかな瑞々しさを失わないのである。

 『葉隠』の「忍ぶ恋」には、裡側(うちがわ)に秘めた儘(まま)で、絶対に「打ち明けない恋」こそ、新鮮で美しく、生き生きしていると断言しているのだ。
 アメリカ式恋愛術のパターンで告白し、求婚して、長年連れ添った夫婦が、いつしか倦怠感に陥り、恋の生命が衰(おとろ)えて、消滅に向かっている現実を見ると、そこには決して、格の高さなど感じられないのである。

 恋を打ち明け告白し、激しく迫って要求して、獲得するという三段構造は、急速に新鮮さを失うという欠点を持っている。
 彼らの言うLOVEの実体は、精神主義ではなく、寧(むし)ろ肉欲主義が主体であり、男女が合体して享楽を貪(むさぼ)ることが、その実態のようだ。またそれが情愛であると、信じて疑わないのが、昨今の現代人の風潮のようだ。

 少なくても今日の多くの若い男女は、戦後、デモクラシー教育の中でそう教え込まれ、そのように信じ、肉欲主義に陥る事こそ、健康な男女の性の姿だと教え込まれた。
 女性は「十五歳までに処女を失え」とマスコミは嘯(うそぶ)く。教育現場でも、処女を人権的片輪扱いする現実がある。非処女こそが、健全な精神、健康な肉体であると、学校で教える性器教育は、矛盾だらけである。健全で健康な体躯は「非処女から」と嘯くのだ。
 だから小学校高学年ともなれば避妊具が必要で、避妊の準備をしてセックスに励めと、保健体育の時間には教えている。果たしてこれが、健全な人間の営みを示唆する教育と言えるだろうか。
 しかし若者をはじめとして、中年層の、不倫に趨(はし)っている大人まで、これを信じて疑わないようだ。
 これこそ秩序の崩壊ではないか。

 社会構造を破壊し、その社会構造が持つ秩序を破壊する時は、こうした「性器教育」の嵐が吹き荒れる。処世術と共に、恋愛術も歪んだ形で培養され、その培養の結果をもって、秩序を壊しに掛かる。そして庶民は、まんまと仕掛人の罠(わな)に嵌(はま)り、「恋愛」や「ラブロマンス」と言う大義名分をもって、秩序崩壊に加担する。
 ここに、獣(けだもの)の世が出現し、誰もが自覚症状を伴わないまま、非常識が常識化されて行く。腐ったものと、新鮮なものを見分ける眼すら、失われてしまう。物事の実態を見抜く眼が失われたら、どんな現象が起るか。

 それは、人間を表皮で判断し、中身を問題にしないという考え方が起こる。人間の物質化であり、封建時代に逆戻りする現象である。現に、東南アジアからは、多くの若い女性が「ジャパユキさん」として人身売買されているではないか。これこそ、女性を物質扱いする最たる現象ではないか。そして、彼女らを肉の塊として、買い付ける日本人の男どもがいるではないか。

 安易に流行を追い、スタイルやファッションのみで判断し、身に付けた装飾品や金品の所有の度合いで人間を計ろうとする愚が生まれて来る。頭の中身など、お構え無しだ。
 享楽に耽る事が最優先され、人間の所有する精神面を占める「魂」といったものは、殆ど無視される。したがって無視された一面は、直ぐには姿を顕(あら)わさないが、時が経てば浮上して来て、お粗末な実態を暴露してしまう。

 即ち、新鮮さが急速に薄れて、新鮮な眼で恋愛を捕らえる観察眼が疎(うと)くなっていくのである。観察眼が疎ければ、浮上して来た魂すら、それが何者か、検討をつける事すら出来ないであろう。
 そしてこうした観察眼の代わりに、肉欲眼だけが発達して、互いの欠点だけを論(あげつら)い、そこに「離婚」というトラブルが発生する。観察眼が疎ければ、裡(うち)に秘めた格の高い精神面すら見落としてしまうのだ。
 目につくものは表皮的なものばかりで、スタイルがいいとか、あるいはファッション感覚や、肉体的なセックスアピールとか、スマートさだけが問題にされる。その上、人間が単純に判断されてしまい、物質化した外面的視野のみで眺める眼しか育たなくなる。

 また金銭や財産を、その評価に置くべく、人間の肉体そのものもを、評価の対象に入れてしまう。その人のもつ、精神性を否定して、外面的な容姿端麗と言う基準だけを評価の対象にすり替えてしまうのだ。
 そして昨今の肉欲眼の評価は、精神的な面は、一切相手にされないというのが現実が待ち構えているのである。

 昨今は、こうした片手落ちに、益々拍車がかかっている。
 若者の恋愛は性愛に代わり、性愛の延長上の愛欲ならぬ、不埒(ふらち)な性器目当ての肉欲が鎮座(ちんざ)している。欧米にかぶれて、進歩派文化人を気取る多くの「性の解放論者」は、性教育と称して、人間の躰(かだら)が、まるで生殖器のみで出来ているかのように力説する。

 現代は、性の生理だけが追求され、「異性の性器」だけを求めている場合が少なくなく、快楽遊戯のみを求めようとする傾向が強い。
 男女の性は異性に対し、客体物として接し、欲望の一時的享楽の為の道具として扱われる傾向が強く、それはあたかも売春に類似している。
 その最も悪名高き例が、週末ごとの過ごし方などを満載した、男女選び方を記載した「肉欲情報誌」や「エロ・スポーツ紙」などである。

 上は結婚対象のブライダル情報から、下は男女斡旋の俗悪な情報まで、溢れるばかりの男女の肉欲情報を載せ、営利本位の記事と広告が、若者の恋愛問題に矛盾を押しつける。そして、自分が「今何をしなければならないか」も分からない無能な読者に、男女の一時の過ごし方や、自由恋愛という疑似(ぎじ)恋愛術を教えている。
 日本の一億総中流の恋愛不感症は、実はここに由来する。

 人間生活の構造は、『欲・触・愛・慢』の四つから構成されている。
 その中に、男女の事実をあるが儘(まま)に認め、それを実現し体現して、その中の人とならなければならない。これが人生修行の現実である。
 それを無視して、例えば一年前、いや半年前でもいい。その結婚した女性が、その一年前もしくは、半年前の娘の魅力を持っているだろうか。

 多くは、そこに見えた、いつもながらの慣(な)れ合いと、既に定まってしまった、彼の(男性の)人生行路に、少なからずの将来性に懸念(けねん)を抱き、倦怠期の前哨戦(ぜんしょうせん)として、人間の奥底に混迷(こんめい)する擾乱(じょうらん)を演じようとしているのではあるまいか。
 つまり崩れてしまっているのだ。

 その結果、不倫に趨(はし)り、逢引(あいびき)の約束に、一時(ひととき)の慰安を覚え、期待と翹望(ぎょうぼう)を侍(じ)して、快楽遊戯(かいらくゆうぎ)の肉感に侵食されていく。そこに魂的な愚を冒している世俗的な疑惑が見隠れするのである。
 涜神(とくしん)の恐ろしい歓(よろこ)びを、一種の官能(かんのう)に摺(す)り変える疑似(ぎじ)への幸福感。そして一時の快楽遊技を目的にした慰安への逃避。あるいは性に溺れる現実逃避。
 これが、自由の名の下(もと)に、押し進められてきた色欲の実態ではなかったか。そして人々を惑わす自由主義を、更に公正化した詭弁(きべん)ではなかったか。

 白痴的に汚染を受け続ける、われわれ日本人は、陰(かげ)の仕掛人から、あらゆる洗脳を強いられている。その罪悪や背徳や無智は、まさにアメリカ式恋愛術のパターンの代表的なものと言ってもよいのではなかろうか。
 そしてどこまでも、アメリカナイズすることを誰もが、善(よ)しとしている。
 果たして、この見据えた先に、魂が安住(あんじゅう)する境地は控えているのだろうか。

 かつての古人の智慧(ちえ)であった「忍ぶ恋」を忘れてしまった日本人は、現代と言う時代の濁流の中で、アメリカ文化の雪崩込みを歓迎し、その智慧すらも無用の長物にしてしまおうとしている。元来、日本において、「乙女の夢」と言われるものは、処女のまま嫁に行くことではなかったか。こうした夢も、今は遠い昔のことになっているのである。智慧は放棄されたのだ。

 では、この智慧の放棄は何に繋がるか。
  これは紛れも無く、ストーカー行為の被害者であり、加害者を強要される、現実の中に突き落とされる事を意味するのだ。
 誰もが被害者であり、あるいは加害者なのだ。教養や地位、学歴や学閥には一切関係なしに……。

 

以下、つづく。


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