■ 死道に学ぶ ■
(しどうにまなぶ)
●生に固執する現代
人間は「非存在」なる生き物である。したがって、やがて死ぬ生き物である。
ところが、現代の先進国に住む人々は、死からひたすら逃げ回り、死を回避するものと考え始めている。死を忌み嫌い、逃げ回っているのである。
先進国の多くの人々の願いは、生き生きと溌剌(はつらつ)とし、元気に、健康に生きることを第一の願望に置き、その結果として、第二の願望は、いつまでも若々しく、長生きをして魅力的でありたいと、強迫観念的な心境を望んでいる。そして、目指すところは、科学の力を借りて、古来よりの夢であった不老不死を成し遂げようとしている。果たして、不老不死は可能だろうか。あるいは寿命が来ても、死ねない現状がどんなに辛いものは知っているのだろうか。
現代社会に生きる多くの日本人は、いつまでも元気で長生きし、健康で居ることを悲壮なまでに固執している。それは憧(あこが)れであり、「生」への執着であり、飢えた人間が、空腹を癒(いや)す以上に、強迫観念的な思惟を抱いている。
その証拠に、滋養強壮剤が薬局で買い求められ飛ぶように売れ、健康ブームで何処のスポーツ・ジムも超満員であり、健康サプリメントが「ねずみ講」紛(まが)いに連鎖反応をして、爆発的に流行している。
しかし、よく考えれば、人類の夢として思い描く想念と、頑迷に、健康でなければならないとする強迫観念とは根本的に違うのである。
ある人は国際的規模のスポーツの実況放送を通じて、勇気を貰(もら)うなどと称し、ある人は元気の出る話を聞きたがり、また、ある人は健康である為には、痩身体躯(そうしん‐たいく)でなければならないとして痩せることに執念を燃やし、逆に健康を損ねる行為に現(うつつ)を抜かしている。とりわけ若い女性などは、この執念の虜(とりこ)になり、自らの肉体の健康を犠牲にして、自身が魅力的になる為に、痩身術に励み、結局は拒食症に陥る愚行を犯している。
では何故、こうまでして健康であり、魅力的になりたいのか。
その一つは、死からの回避である。若々しく健康であることは、死を極めて程遠い存在にさせる錯覚を抱かせるからだ。
多くの現代人が、死を無意識のうちに恐れ、何とかして死を回避しようと足掻(あが)いているからだ。
現代人にとって、「死」は、存在してはならぬ悪者に仕立て上げられてしまったのである。
しかし、死から逃れる行為や想念は、それ自体が自然さを失い、不自然さを齎(もたら)すものである。そこには死神から逃れたい一心の、悲壮感すら漂っているではないか。
却(かえ)ってこれは、「生」からも隔離され、自然の慈悲をも見逃し、これらから遠ざかる一方の、本末転倒なる行為に励んでいるということになる。
現代に至って、「死」は恐れるべき存在として、現代人に強迫観念を植え付けている。死が怖いのは人間として当然であるが、人類の歴史を振り返れば、現代日本人は、死に対して盲目的な観念を抱き、死を逃げ回る対象にしてしまったのは、世界広しと雖(いえど)も、日本と日本人の除いて他にあるまい。
少なくとも、先の大戦の戦前・戦中を通じて、日本人の心の中には、「彼岸」という意識があった。一人の人間が生まれて死ぬという現象は、単に肉体的な人生を表現するばかりでなく、魂の存在も求め、更には死後、その魂が生き続けて「あちら」と「こちら」の、「彼岸」と「此岸(しがん)」との係(かか)わり合いを明確に意識し、それを暗示することを人生の糧(かて)としていた。
そして、この係わり合いを識(し)ることは、取りも直さず、「生」と「死」が重なり合っている表裏関係の構造を明確に学ぶことであった。
生と死は、表裏一体の関係にある。これこそが人間を「非存在」なるものから、「存在」なるものへと導き、「今」を生きることを許しているのである。そして。その許しは、因縁から派生している。
因縁があるからこそ、人間は生きる因縁にしたがって生きているのである。しかし、この「生きる因縁」が失われれば、たちどころに人間は死ぬ。
ところが現代の合理主義的思考は、これらを非科学の最たるものと決め付け、オカルトや迷信の域に封じ込めてしまった。かくして古人の智慧(ちえ)は、現代では失われ、物質のみが最優先する社会を作り上げてしまったのである。これこそ現代人にとっては、悲劇なる一面であろう。
則(すなわ)ち、現代人の深層心理の中には、本来の「生」と「死」が重なり合って存在していないからである。ただ死を、ひたすら逃げ回り、回避するものにしてしまったからだ。そして、自分だけは「死」とは無関係であるという、例外意識が生まれたのである。
●死は宇宙の創造神の深遠なる仕組みの中にある
精神を置き去りにしている多くの日本人の考え方には、西洋の合理主義の「生」の部分のみに焦点を当て、これをひたすら追い求めてきたこれまでの足跡がある。合理主義に照らし合わせ、迷信じみたものを非科学的と断定した。眼に見えるものだけを科学の対象にし、眼に見えないものの存在を、迷信やオカルトの領域に閉じ込めてしまったのである。そして、人の死もこの中に閉じ込め、逃げ回る対象にしてしまった。
故に精神の向上は、殆ど進まなかった。
また、精神の置き去りは「死」を考えるチャンスをなくし、死の物質面が齎(もたら)す不安ばかりを募らせてしまったのである。
その不安は、肉体的苦悶(くもん)を齎し、死後の魂の消滅までもを断定的に、かつ「見通し」のなさまでもを招いて、不安と心配ばかりを掻(か)き立てたのである。そして、この不安や心配は、強烈な死の恐怖を招き、死に目を閉じ、心を閉ざして、死のことを忘れようと必至になる一方、濃厚な翳(かげ)りを、生の上に投げかけ、死は忌(い)み嫌われるものになってしまった。
その最たるものが現代人に襲い掛かった、死と直結する、成人病や現代病といわれるものでなかったか。
現代病や成人病は、肉体的寿命から起る「老化」が原因であるが、老化さえも「死」と直結してしまった観がある。人間の患う生活習慣病は、元々が不摂生から派生した病気と信じられているが、元を糺(ただ)せば、その不摂生すら、運命的には一種の老化と考えられる。その代表格が、ガン発症であり、あるいは高血圧や動脈硬化から起る脳梗塞や脳血栓である。
これらの病気も確かに、もとの患い始めは、生活習慣に起因する暴飲暴食と日々の不摂生であるが、このように導かれたのも、一つは運命の陰陽が働き、生きる因縁を失わしめていることである。したがって、生きる因縁を見失った者は、これらの病気に罹(かか)れば、即、死が訪れるのである。万一生き残っても、植物人間という廃人である。
一方、生きる因縁を失わない者は、病気に罹っても、簡単に死なず、病気と共棲(きょうせい)しながら生きることを許される。病気と倶(とも)にあり、病気を抱えながら「生」を全うすることが許される。
これはひたすら死から逃げ回り、何とか病気を回避して、「生」に執着するものと対照的である。この両者を隔てる根源には、死を学ぶ意識があるか、否かに懸(か)かっているようだ。
現実に実際現象として、「九死に一生を得る」という不思議な現象が起こる。死からひたすら逃げ回る者は死に、死を覚悟して死地に赴いたものは生きるのである。こうした話は事実として、地球上にはゴマンとあるのである。
人間にとって、「死」は逃げ回る対象のものではない。また、忘れる対象のものでもない。むしろ、「死を覚悟する」ことこそ、人間の自覚意識を明確にさせるものである。死は、日々、死を自覚する必要がる。
したがって、死は忘れようと思っても、逃げ回っても、非存在である人間は、何(いず)れ死ぬ。誰もが死ぬ。死ぬことに誰一人、例外はない。
死の恐怖は、自分の死ぬのも怖いが、愛する隣人が死ぬのも、非情に恐怖を感じさせるものである。愛するものが死ねば、自分が見捨てられた感覚を抱くからだ。
つまり、この時の恐怖は、自分だけが置き去りになされという恐怖で、死の恐怖とは別問題である。しかし何故か、死を、これらのものに結び付けて現代人は考えてしまう。こうしたところにも、死を錯誤し、死を誤解する現代の元凶が横たわっている。
そして、現代人の死に対する考え方は、まず第一が「死の回避」であり、第二が「死を忘れる」ことである。
しかし、果たして死は回避したり、忘れられることが出来るだろうか。
誰もが、死には虚無であると思う。死が虚無であるからこそ、せめて生きている間は生き生きとして、こうしたポーズをとり、死から逃げ回って駆けずり回り、出来るだけ死から遠ざかろうとする。その挙句に起った妄想が、死を忘れるという暴挙であった。ところが、死は忘れようとしても忘れられるものではなく、一瞬忘れた積りでも、人間が「非存在」なる生き物である以上、死の忘却は土台無理な話である。
そして遂には、忘れたいという妄想が、もっと長生きをして、生きながらえたいという錯誤を生み、「生きたい」という実態と確証は、中々得られないことから、最後は無気力状態に墜落させるものである。これが死を逃げ回った結果から起った、必然的な結末である。
その上で、死の回避や、死の忘却は「強迫観念」を作り上げる。
現代に生きる多くの日本人は、死に対して激しい憤(いきどお)りと、強迫観念を抱いている。誰もが強迫的に「生き生き志向」を抱き、生き生きすることが健康の秘訣と誤解しているようだ。
そして、生き生き志向から健康が得られない場合、最後は、遂に無気力方志向に陥って、墜落の憂(う)き目を見るのである。
足を地に着けず、死からひたすら逃げ回り、浮き立たって駆けずり回ることが、生きることではない。また、虚無の中に消滅してしまうのが、死ではない。死ねば終わりだとする、死は、そんな安っぽいものではないのだ。
生も死も、宇宙神の創造した、もっと現実的で深遠なる壮大な計画の中に組み込まれた意義深いものなのである。その意義深いものを、宇宙の創造神が人間に体験させようとしているのは、人の生であり、人の死であるのだ。
●生に固執すべからず
現代人にとって、死は盲目的な恐怖感で彩(いろど)られている。したがって逃避の意識が露(あらわ)になる。そして現代人の死に対する忘却意識は、死を、無理に無意識の底に押し込んで、表面的なポーズとして「生き生きと振舞う」ことにより、死の忘却を図っているのである。その最たる現われが、「健康に生きる」ことであろう。その為に、病気というチョンボは許されないのだ。
しかしそれは、全くのお門違いであり、本末転倒であるということだ。何故ならば人間は「非存在」なる生き物であり、死と無縁な生き物でないからだ。
現代人の多くが見逃していることは、「死」という、最も普遍的であるテーマは、実は個人の死生観にも密着し、それが表裏一体となって、切っても切れない関係にあるからだ。これにより、現代人は死を盲目的に恐怖し、これから逃げ回って忘却の彼方に閉じ込めようとする。ここに現代人の解放されない、自由を失った現実がある。
ところが、死を想うことによって、これまでの柵(しがらみ)から解放され、自由に思考でき、闊達(かったつ)自在に行動する自由自在の境地をも、描き出すことは出来るはずだ。生に固執すれば、解放感は失われ、自由自在性は阻害される。一切の行動は危険が伴うので、行動が制限され、箱入り娘のように家でじっとしていなければならなくなる。いつも死の恐怖に脅えていなければならなくなる。病気を嫌い、健康に固執する考え方は、結局人間の死期を早めるばかりである。
現代人の多くが屡々(しばしば)陥る漠然たる不安は、「生」の喪失に他ならず、実は、生とは間違いなく、死と言う一定方向に伸びているものである。生きるということは、その延長線上に「死」という現実が待ち構えていることだ。
則ち、よく生きるということは、よく死ぬということでもあり、よく生きることが出来れば、よく死ぬことも出来るのである。
しかし、この「よく生きる」ことと、「よく死ぬ」ことが表裏一体になっているのを見逃しているのが、取りも直さず、今日の死を逃げ回る現代人なのである。更に、現代人の大きな誤解は、死が意味する「生の実態」と、時間が意味する「魂の永遠」を、恐怖の名に摩(す)り替えて、これから逃げ回っていることである。しかし、如何に回避しようと決して逃げることの出来ないのが、死であり、死こそ、人間の人生において唯一つ絶対に確かな現実である。
●「別れ」という臨死体験
私たちは、いずれ死すべき存在である。したがって、「死」について、深く掘り下げ、探求しなければならないことが、人生の大半の課題である。
一般に死について考えるというと、どこか病的で、なぜか暗いイメージを抱いてしまうようだが、死は決してそうした存在でないはずである。
むしろ死を想うことにより、反対に、死を見詰める現実が、生きる現実をも明確にさせてくれるのである。死を深く突き詰めるということは、同時に「生」の意味をも深く突き詰め、人間はどうあるべきかということを教えてくれるのである。その上で、現実の今の「生」をも、これまで以上により豊かにし、死を想うことは、懸命に生きる「生」をも明確に、鮮やかにさせるものなのである。
そして、こうした探求は、人間の命が有限であることも再認識させてくれるものなのである。
それは、誰もが、いつかは死ぬという宿命を抱えているからである。また、此処に人間の命の有限性がある。
死とは何か。
それは人間の命の有限性において、新たに確認することが出来る。永遠なる生がないように、永遠なる死も、実は存在しないのである。したがって、「人間は死ねば、それでお終いよ」という、世間一般で信じられている論理は成り立たなくなる。
人の命の有限性は、その有限をサイクル的に循環して、次なる生命を作り出し、このサイクルが魂の永遠を感得させる。
然(しか)しながら、死生観の齎すものは、実は、人間の命は実に不確かで、「非存在」なる生き物であるということを明確にさせるのである。それ故に、人間は、時として臨死体験を積まなければならなくなる。つまり、「小さな死」の体験である。
人間は歴史の中で、臨死体験である「小さな死」を数々体験してきた。その最たるものが隣人との離別である。惜別(せきべつ)とはこうした臨死体験を、人間に齎すものであり、人間は惜別により、新たに生まれ変わるチャンスを掴み、一周りずつ年輪を重ねるように大きくなっていく。その為に、別れを告げるという現実と行為に耐えねばならない。
人間の一生は、小さな臨死体験の連続であり、また、「別れ」の連続である。この「別れ」を体験することは、一種の臨死体験と同義で、私たちは人生の「別れ」の、最大のものとして「人の死」がある。つまり、人の死んでいく過程には、一種の死に対する「心構え」が必要なのである。つまり、「臨終の作法」である。臨死体験は、人間の死に方に、「臨終の作法」があることを明確にさせてくれる。
人間は不確実な存在であるから、死は、いつも理不尽な形で襲ってくる。また、不確実であり、非存在である人間は、出合いがあっても、その後、再び相まみえる時があるのだろうかという一抹(いちまつ)の疑念も付き纏(まと)うものである。それが、しばしの別れであっても、その別れには多少なりとも苦痛が伴うもので、「喪(うしな)う」という喪失体験を通じて、人は死の臨死体験をするのである。
しかし、「別れ」の本当の意味は、一方的に、何かを喪うということではなく、「別れ」は、「受ける」と解釈したいものである。一つの授かりものが、別れを通じて得られるのである。したがって、人の死という人生最大の別れであっても、それは喪う別れではなく、何かを受け取る、次のステップに進む為の別れと解釈したいのである。
そして人生の最大の別れである、人の死も、見方を変えれば、次のステップで再会の希望も込められているのである。死は終着点ではなく、再生の為に出発点なのである。
●緊張という必死
緊張とは何か。
この事を悪いことと思ったり、安易に見逃して、弛(たる)んだ日常を作り出している人は、実に多い。したがって、緊張の本当の意味が分からない。誰もが、緊張はいけないことだと思っている。リラックスこと最上と信じているのである。しかし、こうした意識は緩慢を作り出すだけで、精神には毒であっても薬になることはない。
そもそも緊張とは、本来、野獣が餌を狙い、あるいは敵の攻撃から身を守る防禦(ぼうぎょ)の姿勢であり、これは高級なものでも、異常なものでもない。換言すれば自分の存在を認識した、極めて自然で、かつ動物的な姿勢であり、反応である。
緊張すれば、躰中の血が漲(みなぎ)り始める。その為に高揚(こうよう)が起る。辺りにも張り詰めた空気が流れる。それも相手によって、緊張の仕方は様々である。年長者であり、狡猾(こうかつ)さを具(そな)えた老獪(ろうかい)な人物であれば、その緊張は最大のものとなり、逆に、相手が未熟で、技術的にも大したことがない人物であれば、緊張度合いも、やや弛(ゆる)み、緊張の質に違いが出てくる。
しかし、何(いず)れも緊張であることには間違いがなく、それはひいては、人間が自他の関係において、他者の中に自分を生かそうとする試みの確認である。
また緊張も、自分を生かそうとする中にも、魂の香気(こうき)を持っている人は、単に緊張するばかりでなく、緊張の中にも柔軟性を持っている。臨機応変性に富んでいるからである。これを「高貴な緊張」という。この高貴を持っている人は、剛柔の使い分け非常に上手なのである。
一方、香気を持たない、緊張にも欠けた人もいる。緊張がなく、人に見られていることを知りながら、幼稚に無邪気に振舞う人。椅子に坐れば股が自然と開いてしまうダラシのない人。ステレオやテレビやラジオの音を、隣近所に響かせて平気な人。何処にでもゴミを捨てる人。電車やバスの席を詰め合わせない人。店屋や繁華街の通路で立ち話をする人。何れも皆、緊張が欠けているのである。
こうした人は、隙(すき)を作り易い。したがって、加害者の眼からすれば、容易に危害が加え易い人となる。被害者とは、こうした人達であり、皆、緊張が欠けているから、事件に巻き込まれ易い。また、病気にもなる。体質も悪いから、一旦病気に罹れば完治せず、だらだらと悪くなって無慙(むざん)な死を迎えたり、植物人間になっていく。
ストレス病に罹りやすい人は、緊張に欠けた人である。警戒が足らないのである。日常生活に、非日常の警戒心が欠けているからである。
緊張することを知らず、臨死体験の経験がない人は、病気に罹り易い。一旦病気に罹れば、中々治らず、致命的な病気を引き摺(ず)る人である。自分の無慙な未来が描けない人とである。
人間にとって緊張は大切な訓練となる。緊張することを知らない人、あるいは緊張する訓練を受けたことのない人は、直ぐに病気になる。その最たるものがストレス病であろう。
人間の日常生活は、単に日常ばかりが存在するのでなく、その中には「非日常」という厳しい側面が接している。この接している事実を知らない人は、ストレスから完治不可能な難病奇病に罹り易い。成人病の代表格であるガン発症や、高血圧症などは、総て緊張が足りないことから起る。心に隙(すき)があったからだ。犯罪に巻き込まれて死んでいく加害者と、五十歩百歩である。
さて、緊張について、僭越(せんえつ)ながら筆者の日常を紹介したい。筆者の日常は、日常というより、「非日常」に近い。午後10時過ぎ夜間や、真夜中の深夜には、何らなの敵愾心(てきがいしん)がある者から、いわれのないのイタズラ電話が掛かってくる。また、その他の敵意の満ちた無言電話やワン切り電話も掛かってくる。ファックスも来る。世の中には、善人が半分居れば、必ずその数に見合うだけのクズも居るのだ。特に武道界や武術界には、偏見と固執の殻に固まった、この手のクズが多い。
もう、こうした電話やファックスが掛かってくるようになって、十数年以上にもなる。
この話を、筆者の勤める大学の総長に話したことがあった。
そして、総長曰(いわ)く、「あなたは毎日、緊張が保たれて非常にラッキーな生活をしていますね」と、一見、筆者を羨(うらや)むような返事が返ってきた。一見呆気(あっけ)に取られたが、よく考えてみると、尤(もっと)もだと思った。褒(ほ)め言葉の電話より、数十倍も価値があるというのだ。
他人の褒め言葉やお追従(ついしょう)は、人間誰でも、それらを聞けば心地よいものである。しかし、こうした褒め言葉やお追従は、一方で心に増長を起し、自惚れ、有頂天に舞い上がる危険性を持っている。有頂天に舞い上がれば、当然隙も作り易い。間抜けな人間は、こうした間隙(かんげき)を衝かれて、命を落としている。ある意味で、総長の言葉は緊張を促す「千金の重み」があった。
こうした中での生活は、まさに戦時であり、臨戦態勢を敷く生活であるから、「非日常」であり、緊張が趨(はし)って隙を作らないのである。
これは何処か、精神的苦痛を強(し)いるストーカーの被害者と酷似するが、筆者はこれを有り難く受け取り、緊張する手段に使わせてもらっている。その為に、いわれのない電話に対し、こちらは「簡単には負けないぞ」と、一段と稽古にも励みが付くのである。
六十歳を過ぎて、毎日稽古に励むことが出来るのは、「非日常」を想定して、緊張が趨っているからだ。しかし、その中にも緩急があり、日常生活も、ボケ防止の為には、必要不可欠と思っている次第である。
どういうわけか、ストーカーにも等しいイタズラ電話やファックスを、実は逆手を取って、このように利用しているのである。もともと“合気”は敵の力を利用して、自分を生かす術であるから、まさにこうした非日常は、精神的には“合気”を地で行くような生活をしている。
また、筆者はもう余命幾許(いくばく)もない末期ガン患者であるが、ガンと共棲(きょうせい)する非日常も、緊張がいい刺戟(しげき)となって、まだまだ生きる因縁を繋(つな)ぎ止めているようだ。
緊張の足りない人は、病後、致命的な欠陥を負い、病気に負ける人である。闘病生活に負ける人である。また、この人達は、「人間が病気で死なない」ことを知らない人である。必然という、「因縁」を知らない人である。したがって、緊張により、他者の中に、自分をどれだけ生かすことが出来るか、それ自体を知らないのである。
緊張の緩慢は、人間を植物状態にする。弛(ゆる)みっぱなしでは、隙を狙われて、他者からの外圧は攻撃となって外側から襲ってくる。植物状態になる人は、緊張の欠如から、病魔に犯された人である。
さて人間は、他者が自分をどれほど育てるか、その役割をはっきりと認識する必要があろう。
他者からの外圧は凄まじいものがあるが、その中でも拒否され、憎悪され、忌み嫌われ、侮蔑(ぶべつ)され、罵倒(ばとう)され、見下され、こき使われ、意地悪され、窮地(きゅうち)に追い込まれ、一方で時には愛され、救われ、褒(ほ)められ、好まれるという人間現象の中で、私たち人間は、どうにかこうにか、自分自身を創り上げているのである。総て、自分は他者からの影響によって、自分が築かれているのである。接する他人が厳しければ厳しいほど、よき緊張が趨(はし)って、よき自分が出来上がるのである。「よき自分」とは、他者からの緊張によって作り上げられたものである。
そこで、緊張のない人間は、自分一人の閉鎖された宇宙に閉じ込められることになる。そうなると、傍若無人に振舞う以外、なくなってしまう。時と場所を選ばなくなる。そうなると隙だらけになる。隙のある人間は病気からも、加害者からも狙われ易い。死ねば、再生のない「永遠の死」である。
人間の人生に、「死ぬかと思うほどの強烈な緊張」は、防禦(ぼうぎょ)の意味からも必要不可欠であろう。「死ぬかと思うほどの」、この体験のない人間は、やがて病魔に犯され、犯罪者に絡め捕られて、あえなく命を失うのである。現代人が簡単に成人病であるガンなどの闘病に敗れて、死んでいったり、ボケたり、植物人間になるのは、過去に緊張する訓練を受けなかった人達である。
人間は、人生の中で、命を張って生きることも必要不可欠なのである。つまり、緊張を通じて「死ぬかと思う」 ほどの体験を、日々の鍛錬から学んでおかなければならないのである。これこそが「死道に学ぶ」ということであり、人生の最大のテーマなのである。
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