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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●健脳状態を保つ為に修練

 人間、頭が殺(や)られれば、それでお仕舞いである。
 如何なる、強靭な肉体を持った持ち主でも、優秀な才能を持った持ち主でも、頭が吹き飛ばされれば、そこで決着がつく。だから「頭」は大事である。

 「頭の大事」から考えると、健脳あっての肉体であり、精神である。
 健康法が教えるところは、脳の守りであり、健脳法の技術である。健脳を保つ為には、まず、愚かしい邪欲(じゃよく)を捨てる事である。自然に則して生きる事である。
 理想的には、太陽と共に起き、太陽と共に寝るのが正しい。自然の中に居る自分を意識するのが正しいのであって、自然の流れの中に、自分が存在していなければならない。

 自然の流れに逆らった生活をすれば、それは不摂生となり、やがては自分の心身に祟(たた)る。祟られれば、また、それだけで「魂」は不健全となる。
 人間は自然の子である。武人も例外ではない。自然の法則から外れた稽古は、何の役にも立たない。単に、役に立たないばかりでなく、健康を害し、やがては敵に敗北する。

 朝は早く起き、夜は早く寝る。素朴こそ、自然と共にある姿である。自然と共にあれば、食餌法(しょくじほう)も素朴となる。粗食・少食に心掛け、食餌は腹六分(はらろくぶ)位を心掛けるべきであろう。美食に舌鼓を打ち、動蛋白の摂取に躍起になる必要はないのだ。食肉も牛乳などの神話も、総てご都合主義の食品産業と現代栄養学が企てた策略である。しかし、この策略に踊らされる武道家や格闘家は多いようだ。

 人間は、一日1400Kcal 程度の「仙人食」で、充分に体躯を賄(まかな)っていけるのである。美食に溺れることの愚から解放されるべきである。

 次に食餌(しょくじ)と共に正さなければならないのは、「姿勢」である。猫背ではどうしようもない。一方、動蛋白や乳製品の食べ過ぎで、猫背が出現する。猫背では姿勢を正すことが出来ない。

 さて、姿勢が正されれば、自分の信ずる道は自(おの)ずと見えて来る。毅然(きぜん)とした心も生まれる。信念を貫く事で、心を鍛え、人と人の和を大切にし、「争わない理(ことわり)」を把握することもできる。理解度も早くなる。「こだわり」や頑迷さからも解放される。

 喧嘩師を気取ったり、あるいは肩で風を切るようなストリート・ファイターを気取ったり、好戦的な粗暴な振る舞いをするのは、健脳技術が整っていないからだ。
 だから、意地になる。些細(ささい)な事で噛み付く。こうした類と、武術家とは、自(おの)ずから次元が違うことに気付くべきである。
 喧嘩師では、サバイバルとしての生きる智慧(ちえ)を見失う。謙虚に在るべきだ。如何なる対峙(たいじ)した相手も、侮(あなど)ることなかれ。

 幼少時代から、母親に甘やかされ、十分に躾(しつけ)をされず、好き放題やって来た人間は、前頭葉が未発達である。短気で、喧華早いのは、それだけ健脳技術の邁進に努力しておらず、R領域の命ずるまま、爬虫類脳のまま、生きているからである。爬虫類脳が健在な者は、縄張り意識から前頭葉が発達せず、感情で行動する。切れやすい。
  こうした状態にある者は、感情で物事を観察し、感情で決断する。その「感情」に囚われ、「感情」に動くことで、最後は墓穴を掘るのだ。
 また、感情を行動原理とする人間は、自分の欲望をセーブできない。自分の欲望を満足させるために、我儘な行為に及ぶ。こうした類は、武道家や格闘家を自称する人間に多い。

 こうした人間は、一部の信奉者に強(こわ)持てはするであろうが、人格としては、何にも得るものがない。一種の無頼漢である。心に邪念があるから、結局、無頼漢に成り下がるしかない。強弱論を論(あげつら)い、勝った、負けたを論ずるのは、それが、それだけ信奉する次元が低いからである。

 次元の高きに居る者は、目先の勝負には「こだわらない」ものである。一時の勝ちは、「本当の勝ち」でないからだ。今日の勝者は、明日の敗者であるかも知れないのだ。こうした一時の勝ちを求めて争う事を、「妄想」という。これは根拠のない主観的な想像から起る。自惚れから起る。奢(おご)りから起る。弱肉強食論の最たる欠点といえよう。

 こうした妄想が強い人間は、病的原因によって起るため、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。哀れな存在だ。したがって、妄想を莫(な)くす必要がある。
 愚痴と嫉妬と欲を「三毒」という。
 この三毒を後生大事にしているのが、阿修羅(あしゅら)である。阿修羅は、人間界に下にいて、争うことしか知らない。争いごとをエネルギーにして生きる悪神の霊体である。

 人間も、こうした霊体に取り付かれれば、生涯を争いごとで終始しなければならない。これでは心の平穏な日々は訪れない。心が掻き乱されて、訴訟ごとが絶えないようでは、「安住の地」に駒を進めることは出来ない。阿修羅とは、そうした悪神の一霊体だった。

 古代インドの神の一族に、阿修羅(あしゅら)なるものがいた。
 阿修羅はインドラ神(帝釈天)など、天上の神々に戦いを挑(いど)む悪神とされる。仏教では天竜八部衆(仏法を守護するとされる八種の異類で、竜神八部とも)の一部衆として、仏法の守護神とされる一方、六道(りくどう)の一として、人間以下の存在とされる。絶えず闘争を好み、地下や海底に棲(す)むとも言われる。

阿修羅像。その背景には、神々に争いを仕掛け、常に闘って好戦的にならなければ解決できない、心の蟠(わだかま)りがある。

 天界と人間界と、地獄界・餓鬼界・畜生界との間にある世界を、「阿修羅道(あしゅらどう)」と言う。
 この世界では、阿修羅の棲(す)む場所で、争いの絶えない世界が展開されている。
 では何故、阿修羅は戦いを好むのか。これを衝(つ)き動かしているのは、人の心の中の「嫉妬(しっと)」である。
 嫉妬とは、自分より優れた者や、幸せを享受している者に抱く、妬(ねた)みや嫉(すね)みである。また、自分の愛する者の愛情が、他に向くのを恨み、憎むことである。

 阿修羅の一族は、生まれてこのかた、争いばかりを起こし、嫉妬心に振り回されて生きて来た。これはまるで嫉妬妄想でもあった。
 嫉妬妄想は、自分の配偶者や愛人が、他人と性的関係や愛情関係を持つと信じる妄想である。また、アルコール中毒や、その他の精神病に見られる妄想に汚染され、人生の大半を妄想によって、費やす病的な症状である。こうした妄想も、実は嫉妬から起る。

 阿修羅はこうした嫉妬を原動力にし、生まれて以来、争いばかりを繰り返す。そして、その宿敵の対象は神界の神々である。
 神々が棲(す)む世界には、あらゆる望みを叶えてくれる「如意樹(にょいじゅ)」が生い繁(しげ)っているという。また、その樹木の枝には、「如意宝珠(にょいほうじゅ)」が撓(たわわ)に実っていると言う。

 如意宝珠は、あらゆる願いを叶える不思議な珠(たま)である。この珠は衆生(しゅうじょう)を利益すること、限りないことから、仏や仏説の象徴とされる。
 しかし、神々の世界の下の階層に棲(す)む阿修羅界には、如意樹の幹と根だけが突き下がっていて、あらゆる願いを叶える如意宝珠の実は採(と)ることが出来ず、ただ仰(あお)ぎ見るばかりである。こうした事により、阿修羅は神々に嫉妬し、その果てに戦いを挑むのである。

 戦いを仕掛けられた神々は、こうした阿修羅の挑戦に眉(まゆ)を潜める。神々は元々戦いを好まない、穏和な性格の持ち主であるからだ。
 ところが、挑発された以上、神々もこれに臨戦態勢を取る。この時ばかりは「粗暴の森」に分け入り、その森の泉の水を飲む。この泉の水を飲むと、神々は怒りに燃える。武器を取って立ち上がり、阿修羅に立ち向かっていく。戦いの「火の玉」になるのである。

 神将は「十三の頭」を持つ象に乗り、その中央の座には、主神インドラ(因陀羅(いんだら)ともいい、)が坐している。インドラはインドのヴェーダ神話に見える雷霆(らいてい)の神である。戦車で空中を疾駆し、猛威を揮(ふる)う軍神でもある。仏教に入って、仏法を守護する帝釈(たいしやく)天となったと言う。

 帝釈天は梵天とともに仏法を護る神である。また、十二天の一神で東方の守護神とされる。須弥山(しゆみせん)山頂のトウリ天の主で、喜見城(きけんじょう)に住むとされる。その城には四門に、四大園があり、諸天人が遊楽するという。インド神話のインドラ神が、仏教に取り入れられ、これが帝釈天となった。

 阿修羅に比べ、遥かに多くの功徳(くどく)を積んでいる神々は、所詮(しゅせん)、阿修羅の敵ではない。一気に蹴散らされる。阿修羅達は傷付き、次々に斃(たお)れていく。この戦いは、元々は阿修羅の嫉妬から起ったものだった。阿修羅はこの戦いに敗れ、更に深い苦しみの底へと墜(お)ちて行く。阿修羅の世界に生まれても、嫉妬が派生し、閉ざされた心からの解脱(げだつ)は無理なのである。そこに阿修羅の苦悶(くもん)がある。

 だから心の蟠(わだかま)りになる「三毒」は除去しなければならない。自ら固定観念はつくらず、表面的なものに心を迷わされず、直観力を研ぎ澄ます事である。
 人間は頭脳の内部が、「理屈」や「こだわり」という既成概念で一杯になると、心に歪(ゆが)みが顕われる。
 したがって、心身を健康に戻し、健脳状態を保つ為には、自分の裡側(うちがわ)を見詰める「内観法」が必要になって来る。自分とは、一体何者かを掘り下げていく必要がある。

 だから、古人は自己探究の為に「滝行」に励み、心の歪(ひず)みを正して、常にリフレッシュさせる事を心掛けていたのである。自己の体内に精気を呼び込み、浄化されるためだ。
 健脳状態を維持していく為には、毛細血管を鍛え、また新たな毛細血管の回路を開くように精進していかなければならない。毛細血管の開発で卓(すぐ)れた効果があるのは「滝行」である。

滝行に打ち込む青年時代の曽川和翁宗家。

 滝の上部から落下する滝の水は、まず、水の衝撃で、空気中にマイナス・イオンが派生する。このマイナス・イオンが健脳にとっては重要なのである。滝の傍(そば)に居るだけで、気分が爽(さわ)やかになる。これはマイナス・イオンが作用するからだ。
 単に人体浄化だけではなく、「唖門宮(あもんきゅう)」から「会陰宮(えいんきゅう)」までの回路を開き、精気を取り戻す役目も大きい。比喩的な言葉を借りれば、ここには、「水の精霊」が通過するのである。
 更には、身体機能を調節している自律神経の働きが活性化される為である。この時、同時に身体の体細胞を作っている細胞膜の働きも極めて良好な状態になるからである。

 こうして細胞を活性化させると、栄養の吸収も良くなり、老廃物の排泄もスムーズに行われる。栄養の吸収が良くなり、然(しか)も老廃物が悉々(ことごと)く排泄されるとなると、新陳代謝は盛んになる。
 そして、滝行で最も重要な事は「滝に打たれる」と言う行為である。

  これは何を意味するか。
 「滝に打たれる」と言う事は、肉体に水圧刺戟(しげき)が加わる事だ。水圧刺戟が肉体に加わって、効果がないわけではないのである。効果は覿面(てきめん)なのだ。唖門から会陰にかけて、精気が通る回路が開かれるため、脊柱(せきちゅう)および脊柱の経穴(ツボ)と関連を持つ内臓までもが強化され、健全になるのである。

 これは指圧刺戟や、足圧刺戟が、人体にとって、如何に効果が大きいか、これからも容易に判断できよう。
 だがら、古人は滝に打たれ、吾(わ)が身をリフレッシュさせ、滝行によって、思考力まで次々に開眼していったのである。

 かつてその昔、柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべいみつよし)は、沢庵禅師(たくあんぜんじ)から、「滝の水を止めてみよ」という難解な公案(禅宗で、参禅者に示して坐禅工夫させる課題で、古徳の言行を内容とする難問が多い。これに若い雲水たちは苦悶し、悟りの難しさを知る)を授けられた事があった。
 十兵衛三厳は、来る日も来る日も、滝に参じる。しかし、公案は難解であり、未(いま)だに滝の水を止め得ずに、苦しんでいた。そして、日々、苦悶(くもん)の連続で、虚(むな)しい時を過ごすのであった。

 ところが、滝通いが一ヵ月を過ぎた頃、はたと思い当たるものがあった。それは自分の心が、動いているから、滝の水も動くのであって、自分の心を滝の流れに任せず、また、自分の心を止めて、流れ落ちる水は自分の心ではなく、滝の水が落ちているから、滝の水が止められずにいるのであって、心を止めれば、また滝の水も止まると観(かん)じたのである。実は、滝の水に合わせ、心が動いていたのである。
 心の動きを止めれば、また滝の水も止まるのである。こうして、十兵衛三厳は見事に開眼を得るのである。

 これは、真剣を抜き合って、敵と対峙(たいじ)した時と同じである。
 自分の心が敵の刃(やいば)に動(どう)ずれば、敵の刃は、この上もなく恐ろしいものになる。しかし、自分の心を止め、心に安定と静寂を得れば、また敵の刃も静寂を得て鎮(しず)まり、よって、敵の刃は遂に止まり、それがまるでスローモーションで見えるということを発見したのである。
 如何なる動きも、動きの連続で構成されている。しかし、それはまた「動きの一コマ」にすぎない。一コマを連続させて動かすから、動きになる。動きに押されれば、恐怖心も沸き起こる。それは、心が動揺するからだ。
 しかし、心の動揺を鎮めて、動きの連続を「静止画像」の一コマと捉えれば、心の動きは抑えられる。動きの連続を一コマに置き変えれば、どんな早い動きも、一コマの連続に過ぎない。

 動きを動きとして捉えれば、敵の誘いに乗って刃を合わせ、自分の心が敵に動ずれば、吾(わ)が心は掻き乱され、敵に隙(すき)をつくり、付け込まれ、敗れてしまう。
 だが、心が鎮まれば、敵の刃の動きも止まり、その動きの一つ一つが一コマの連続となり、まるでスローモーションのように、能(よ)く見えるのである。十兵衛三厳は、沢庵の公案を見事に解いたのである。
 また、これが一心不乱の集中力から起った、「不思議」がなせる業(わざ)であろう。

 沢庵禅師の「滝の水を止めてみよ」との公案は、単に人間の視覚作用の考え方を根本から変えるだけでなく、もう一つの重大な効用は、自分の毛細血管の回路を開発し、その数を増やすと言う効果もあったのである。

 滝行をするには、裸になる必要がある。季節を問わず、裸になり、裸の儘(まま)空気に触れる必要がある。夏は涼しいが、冬は寒くて辛いだろう等と思ってはならない。夏冬構わず、裸になり、まず最初に空気に触れる必要がある。肌が寒気に触れる、あるいは寒水に触れるということが大事なのだ。

 滝行の効用は、裸で空気に触れ、次に水に触れるということである。それも躰(からだ)の上から下まで、ずぶ濡れになり、空気と共に水に濡れ、その圧力も受けなければならない。こうした行法は、冬の日は、とてもでないが、ただ黙って滝に打たれるわけには行かない。“気合い”が居る。大声で、滝の流れ落ちる音に負けないくらいの“気合い”が居る。“気合い”負けすれば、滝の水に呑まれる。呑まれれば命取りだ。したがって、“気合い”は命の生命線である。

 だが一方的に、滝の水に押しまくられるだけではない。
 まず、皮膚が冷たい空気に触れて、更に、冷たい水に躰(からだ)が触れると、血液を供給している身体の最先端の、皮膚の表面部にある毛細血管が一気に収縮する。生命の防衛本能が起るからだ。その為に、毛細血管は急激に閉じる。

 その時、動脈血液は、毛細管の手前にあるグローマスである副毛管を通って、静脈側に流れようとする。これが一種のバイパス作用である。この作用が繰り返されると、この回路が強化され、体内の血液高騰(こうとう)を防ぐ働きを始める。

 普通、血圧が急に高まると、小動脈が破裂する。その為に破裂した箇所は内出血する。その最たるものが、脳溢血(のういっけつ)である。脳溢血は脳出血に同じである。脳の血管が破綻(はたん)して出血し、脳組織の圧迫・破壊を来す疾患である。
 高血圧や動脈硬化によるものが最も多い。発作的に起り、頭痛・意識消失・悪心・嘔吐・痙攣(けいれん)などを来し、出血部位により種々の神経症状を呈する疾患だ。予後は出血の部位や、その大きさによって異なるが、しばしば半身不随などの後遺症を残す、恐ろしい病気である。

 更に脳出血は、炎症やその他の様々な疾患が、脳内出血を深く関わるようになる。
 したがって、健脳の為にはグローマスを強化する必要がある。この強化の鍛練の有無により、健康と不健康を隔てるのである。

 まず、人間の身体と言うものをじっくりと考えてみなければならない。人間は、その他の動物と違い、裸ではない。衣服を着用している。この部分が他の動物とは大きく異なる。衣服を着ている為に、他の動物のように、皮膚のグローマスを自然ままに鍛えて、健康を保つ事は不可能である。その上、現代人が軟弱になる所以は、糖分やアルコール類の摂取や、喫煙をする為、グローマスが非常に脆(もろ)くなっている。

 したがって、血管の強くし、また毛細血管の回路を開く為にはどうしても、水を被ったり、水風呂に浸かったり、あるいは滝行に励んだりの必要性が出て来るのである。これにより、冬でも躰がポカポカに暖かくなり、毛細血管の回路が開かれるのである。同時に、健脳状態が維持できるのである。健脳状態が保たれるか否かで、今後の修行も左右される。

 かつては、滝行により開眼した著名な武術家を多く排出した。
 ところが現代は、こうした野外訓練が行われず、ただ体育館やスポーツジム等に室内に籠(こも)り、そこで必要以上に汗を流すと言う事ばかりに終始している。これでは、本当の修行が出来ず、自然の中で心を鍛える、開眼すら起らないのである。
 一旦は道場と言う室内から離れ、大自然の中に吾が身を置いて、その中の人となるべきであろう。

 

●臥竜の精神

 動乱の時代、智慧(ちえ)ある者は歴史の傍観者(ぼうかんしゃ)でありたいと、吾が身を野に投ずる。唯一人、乱世の世の時の刻みを、見ている人間でありたいと願う。
 しかし一方で、動乱の世、乱世は、勇者を魅了して戦いへと駆り立てる。しかし、勇者は天意の前には脆(もろ)い。天意は余りにも気紛(きまぐ)れであるからだ。

 天意とか、天命とか言うものは、気紛れである。幸運の女神が気紛れであるように、天が人間に授ける意志も、気紛れに出来ている。また神風も、気まぐれで、聴く耳を持たない者の前からは消えてなくなる。

 天意を授(さず)かるには、「充(み)つる時機(とき)」が必要である。この充つる時機を無視して、覇(は)を唱えたところで、人間の力は余りにも無力である。また、最大の力を有したものだけが、覇を唱えるのではない。世界最強と行ったところで、それは人間の唱える一種の傲慢(ごうまん)に過ぎない。こうした傲慢は、天に比べれば最微小なものだ。限り無くゼロの近いものだ。

 中国古代の考え方に、天子が諸侯を封ずる印に与えた玉を「珪(けい)」とし、それを代々の子孫が所持しても、天子たる器(うつわ)がなければ、それは天に届かない。また、珪を受け継ぐ「度量」がなければ、天の時機は永遠に訪れない。
 だから、如何なる名門の生まれに生まれても、親から子に受け継ぐべきは、財産や金銭ではない。覇を唱える「度量」である。

 則(すなわ)ち、覇業とは、一世一代のものであり、己の生涯において、自身が完結するものである。この点、親の七光りだけで、覇を競う者は脆弱(ぜいじゃく)である。親の威光も、親の権威も、子にそれだけの度量がなければ、覇者としての道は歩めない。名門の家が、三代続かないのはこの為である。

 損得勘定のみで動く合理主義者は、苦労して運気を掴むことに疎(うと)いようだ。特に、人間にとって一番薬になる「徒労」を嫌う。
 徒労と言えば、一見無駄なアクションであるかのように映るが、苦労を徒労に置き換えてしまうのは、損得勘定から生まれた発想である。苦労をしているうちは、それが徒労に直結するような事であっても、実はそれが徒労などではなく、苦労の延長線上にあることを知らねばならない。苦労を厭(いと)わず、経験しているうちは、喩(たと)え徒労でも、苦労の延長線上にある。努力を惜しまない人間は、それ自体を喜びに置き換えているので、徒労などというものは、実際には存在しないのである。

 苦労を徒労に終わらせるか、努力の結果として観ることが出来るかは、その人の「度量」によるところが大きい。
 臥竜(がりょう)とは、野に臥(ふ)した竜のことである。今は天に駆け上がる時期を待ち、ひたすら努力を続ける姿を、こう呼ぶ。しかし「下積み」を経験している時期でもある。努力の一つ一つを積み重ねる時期なのだ。失敗や挫折の多い時期なのだ。

 心が大きく揺れ動く時期であり、敗北を味わう時期でもある。したがって、「心の姿勢」が問われることになる。「心の姿勢」が崩れなければ、毅然(きぜん)さは失われることがない。またこれを経験することは、将来、大きな自信になるであろう。

 喩(たと)え、敗北しても項垂(うなだ)れず、背を伸ばし、眼を上げ、胸を張る。その姿勢がとれるか否かで、その人の将来が決定されるのである。これが運命の分岐点といえよう。
 人は心中に、悔しさ、惨めさ、さらし者になったと感じたとき、恥ずかしさが先走って、この状態から中々立ち直れない。だから失敗を嫌うようになる。未熟での敗北を嫌うようになる。

 しかし、こういう時の人間心理に、勇気を奮い立たせることが出来れば、首を項垂れ、視線を落とし、背中を丸め、逃げるように小走りになることはない。それは人生の決着ではなく、一局面の敗北でしかない。一局面で、人生の総(すべ)てが決まるわけではないのだ。

 問題は、失敗し、苦労し、下積みを重ねて、いつの日か天に昇る「臥竜の精神」が必要なのだ。だからこそ、山あり、谷あり、晴天の日もあれば、雷雨の日もあることを知らねばならず、むしろ、こうした日が次から次へと襲ってくるというのが自然であろう。

 自然を知れば、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に物事は運ばないことが容易に分かってくる。そして人間の価値とは、その人がどれだけ下積みを続けたかに懸かる。下積みを続ければ、絶望的な窮境の体験が見出される。これを体験すれば、出口なし、あるいは越すに越される袋小路に追い込められるだろう。しかし、此処から生還できれば、その功績は大きい。
 その体験こそ、貴重な宝であり、これを重ねることにより、その人の「度量」が磨かれていく。

 また、「度量」と共に、「捨身の心」が磨かれる。捨身とは、一種の「開き直り」である。開き直りを得れば、固執することから解放される。「こだわり」がなくなるのである。

 かつて柔術の流派に「扱心流(きゅうしんりゅう)」という流派があった。この柔術の流名の由来は、『武芸流派大辞典』によれば、『扱心流本心之巻』に、「それ扱心は敵の気を扱うにあらず、敵対の上おのが気を自由自在に扱うを要す」とある。

 この流派の教えるところは、腕でも、足でも敵に捕られたら、そのままにしておき、その部位を捨ててしまうのである。そして、別の局面で勝機を掴むことを主眼に置く流派である。
 この流派は、江戸永禄の頃、江洲犬上郡の士、犬上左近将監長勝が興した流派で、柳川藩に伝えられ、扱心斎永友によって九州各地で広く行われていたとある。

 さて、扱心流の教えるところは、例えば、敵に右手首を捕られたら、それはそのままにし、敵の攻めない方を攻めて、勝機を見出すという教えをモットーにしている。
 右手を捕まえられれば、一般人の考えとして、これに「こだわり」、この体勢から挽回しようと考える。何とか抜け出そうとして、もがく。しかし、もがきは焦りを呼ぶ。焦りは注意を散漫にして、自分の弱点を敵に曝(さら)け出してしまう。気を取られて、そのために愈々(いよいよ)深みに嵌(はま)り込む。遂には、右手のみならず、左手も押さえられ、足も押さえられ、全身までもが押さえられて、身動き一つ出来なくなる。ここに「こだわり」が誘発する敗因がある。

 馬鹿に一つ覚えで、「こだわって」ばかりいては、吾(わ)が心は永遠に解放されないだろう。「こだわり」をさらりと捨てて、深みに堕(お)ちる愚を知れねばならないのである。
 将棋や呉の世界でも、へたな一手を打って、局面がすっかり死んでしまうことを戒める言葉があるではないか。

 「死棋腹中、勝機あり」とは、下手な一手を打ったところは、「こだわらず」に捨ててしまって、放っておき、生きている他の局面に勝機を見出す態勢を作ることを言うのである。勝機を見出すには、死んだ局面ばかりに「こだわって」いてはダメである。局面全体を見渡して、生きている箇所から再起していかなければ、やがては全体も死んでしまうのである。

 こうした事を、「死中に活を得る」という。しかし死中に活を得るには、合理主義だけでは発見することが出来ない。だから下積みを経験し、その苦労をバネにして、鋼(はがね)のような弾力のある自己を確立することが必要なのである。


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