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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●自分の物は何一つ無い

 人間は、「この世」と言う現象人間界の中で、生きている。
 また「この世」では、総
(すべ)て「神」から種々のモノを借りて生きている。氏の為に、自分の物は、何一つ無い。
 大地も借り、住まいも借り、食べ物も借り、食べて良い、許されたものだけを食べ、そして吾
(わ)が肉体すら借りている。
 借りたものは、やがて返さねばならない時期がやって来る。借りたものを、そのままに放置する事は許されない。また、借りているものは大事に遣(つか)わなければならないと言う掟
(おきて)がある。

 しかし人間は、「何から何まで借りている」と言う事を忘れてしまっている。いつの間にか、土地すらも、住まいすらも、乗用車すらも、衣服すらも、食べ物すらも、自分の物と思い込む。自分で働き、自分で稼いだ金で、土地を買い、家を建て、好きな食べ物を買い、好きな服を着、装飾品を身に付け、こうしたものが総て自分の物だと思っている。

 もともと「物」というのは、他者からの借り物である。肉体も物である。人体は明らかに生物と言う物資体である。この物質すら、「神」【註】宇宙の創造者を指す)からの借り物なのである。

 スポーツ選手や肉体信奉者の中で、「自分の躰(からだ)を苛めるのが好き」という者がいる。自分の躰をとことん苛め抜き、苛める事で、「強くなりたい」とか「試合に勝てる肉体を造りたい」と言う者がいる。この考え方は、大きな考え違いをしていると言えよう。
 何故ならば、自分の肉体すら、自分のものでないからだ。肉体すら、「神」から借りた物なのである。やがて返さねばならぬ時が来るからだ。それは人生の大決算である「死」という臨終(りんじゅう)に於てである。臨終こそ、人生の大決算なのだ。
 この大決算に於いて、人間は臨終と言う正念場に立ち会わされる。

 肉体を酷使過ぎれば、必ず無理がいって、故障箇所が生じる。これはスポーツ選手や格闘選手を見れば一目瞭然であろう。こうした故障箇所が発生しても、若いうちは、若さと体力でカバー出来る。しかし、歳を取るに随(したが)い、損傷を追った故障箇所は治り難くなり、克明に苦痛の災いとなって顕われて来る。臂(ひじ)が痛い、膝が痛む、腰が痛い、手首が痛い、足首が痛い、背中が痛い、頸(くび)が痛いなどの慢性的な外傷病である。

 また、肉体の酷使に伴い、慢性化した種々の病気も顕われて来る。「体力をつける」と言う、浅はかな考えで、動蛋白食などの大喰いすると、内臓に負担をかけ、やがて内臓に損傷を受けて、食事の間違いから来る慢性病が発生する。ガンや糖尿病、高血圧や動脈硬化などの成人病がそれである。

 肉体の至る処に故障をつくり、内臓の至る処に慢性病を発生させて、それで命を失うという行為は、「神」から借りた物を返さずに、そのまま放置して行く、無責任な自殺者と同じ行為である。この自殺行為同様のことを、今日の現代人は行っている。

 自殺者は、生きる事を総て放棄して、「神に無断」で、自分の死を決定し、傲慢(ごうまん)にも、殺生与奪の権利を自分の手で下している事だ。
 こうした考え方は、念仏宗(ねんぶつしゅう)のそれによく似ている。
 「生きている間は、何一つ、良い事はなかったが、せめて死した後は、西方域の阿弥陀如来
(あみだにょらい)の膝許(ひざもと)にいって、それに縋(すが)りたい」という考え方である。

 こうした考え方を持つ人間が、果たして、死した後の安住(あんじゅう)の棲家(すみか)を得る事が出来るであろうか。また、果たして、本当に死ぬ事が出来るであろうか。
 「本当に死ぬ」という事は、生きている間を本当に生き、よく生きた者だけが、よく死ぬという事なのである。

 然(しか)し乍(なが)ら、世の中には間違った念仏で人心を惑わし、念仏往生を唱えて、心に仏身を観念し、念仏三昧(ざんまい)を致せば、西域の極楽浄土に行けると嘯(うそぶ)く宗教がある。仏の名を語り、その功徳を乱用して、極楽浄土に往生出来るとする考え方を説く宗教がある。
 そして、この宗教は言う。
 「この世に生きている間は、何も良い事がなかった。楽しい事もなかった。そんな人は、この世に生きている時は苦悩を抱えていたかも知れないが、どんなに苦しんッでも、一度
(ひとたび)死ねば、極楽浄土に行ける」と言うのだ。

 しかし、「生」に於てでさえ、「楽」を得ずして、死した後に、どうして「楽」を得る事が出来ようか。まるで、自殺者の心理描写が、そのまま、この宗教には顕われているではないか。

 「どんなに苦しんでも、一度死ねば極楽浄土……」とは、錯覚も甚だしいところであり、自殺願望者の、まさに心理描写をそのまま顕わしている。
 この世において、未
(いま)だ生を得る事が出来ずして、どうして本当の死を迎えることが出来ると言うのか。

 貧者や病人がよく口にする言葉だが、「生きている時は、何も良い事がなかった。しかし、せめて死ぬ時は大往生してみたい」と。

 年から年中貧乏に苦しめられ、貧困生活に甘んじているが、せめて大晦日(おおみそか)と正月年始だけは、金持ちになって御馳走(ごちそう)を食べ、贅沢(ぜいたく)をしてみたいと願う気持ちと同じである。
 また、年から年中、病床に臥(ふし)しておきながら、元旦だけは清々しい健康人となって……という考えと酷似する。どちらも俄
(にわか)金持ち、俄健康人である。果たして「俄」であっても、金持ちになり、あるいは健康人になれるのか。否。レベルの低い常凡・低調な考え方としか言う他あるまい。

 本当の金持ちは、暮れや正月以外でも金持ちなのだ。本当の健康人は元旦以外にも、健康を全うしているのである。正月の期を挟んで金持ちになったり、健康人になったりはしないのである。こうした状態が連続しているから、その人は金持ちであり、また健康人であるのだ。

 よく生きる事を怠った不幸な人間が、どうして「最期の死の場面」だけが、大往生(だいおうじょう)と言う、奇抜で荘厳な死を迎えることができようか。
 よく生きてこそ、よき死が得られるのである。念仏宗の言うように、苦海に沈むこの世であっても、死した後、あの世に行けば、極楽浄土だと、どうして断定できるのか。よく生きなかった者に俗諦
(ぞくてい)ばかりを曝(さら)すのか。俗諦は、あくまで方便にしか過ぎないのである。念仏宗こそ、真諦(しんてい)を伝える事が出来ず、権勢に結びついた世を惑わす宗教と言える。

 また、この宗教は「方便」という俗諦を使って、人間に「地獄」の概念を植え付けた。本当は、地獄などありもしないのだ。ありもしない地獄を植え付け、地獄から逃れると称して、念仏を広めたのだった。真諦を伝えられず、俗諦のみを伝えたこの宗教は、地獄の概念を植え付けることのみにエネルギーを燃やし、布教してきたのだから、念仏宗の祖である法然も親鸞も、また地獄に落ちたことになる。

 ちなみに神仏守護の宇宙波動としての題目は、「妙法蓮華経」である。
  「妙」は四天王のうち持国天(じこくてん)であり、五行天徳神は国狭槌尊(くにさつちのみこと)。「法」は四天王のうち広目天(こうもくてん)であり、五行天徳神は大戸道尊(おおとのじのみこと)と大苫辺尊(おおとまねのみこと)。「蓮」は四天王のうち増長天(ぞうちょうてん)であり、五行天徳神は豊斟淳尊(とよくみぬのみこと)。「華」は四天王のうち多聞天(たもんてん)であり、五行天徳神は面足尊(おもたるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)。「経」は四天王の中央に座す本尊仏であり、五行天徳神は泥土煮尊(ういじにのみこと)と沙土煮尊(すいじにのみこと)である。

 さて、自殺者の心理では、錯覚状態のままで、本当によく生きる事は出来ない。よく生を得ない者が、よき死を迎えることができるわけはないのだ。
 自分の肉体を粗末にする者は、何人
(なんびと)たりとも許されないのである。粗末に扱い、ボロボロにして汚した肉体を、どのようにして返却すると言うのか。

 「借りた物は返す」と言うのが、この世の定められた掟(おきて)ではないか。借りた物は、返すと言うのが真諦ではないか。肉体すら、神から借りた物ではなかったのか。自分勝手に、肉体を放棄して良いはずがない。
 また、許可も得ずに、肉体を故障だらけにし、ボロボロになるまで酷使して良いはずがない。
 
 

●物の法則

 物と言う、一種の生命体は、これをよく生かす人の処(ところ)に集まる法則を持っている。物は「生きもの」である。肉体も物である。そこには、「物」としての生命体がある。だから「物」は、総(すべ)て生きているのである。道具も、衣類も、大地も、住まいも、金銭も、総てみな生きているのである。

 こうしたものは、大切に、大事に、心から慈しみ、優しく使えば、その持ち主の為に喜んで働き、喜んで仕えてくれるのである。
 一方、粗末に、投げやりに、残酷に酷使すれば、持ち主に反抗するだけではなく、時には憤怒
(ふんぬ)を露(あらわ)にして、大きな反撃を試みる。

 例えば、怪我をするという現象がある。あるいは病気になる。事故に遭う。こうした不幸現象に見舞われるのは、「物」を大事にしなかった為である。大切に慈しみ、愛情を注がなかった為である。物は、ただ酷使すれば、反抗し、ついには反撃を試みる。

 自分に貸し与えられた肉体を、「自分の物」と考え違いして、苛め抜き、酷使すれば、必ずこの後遺症が出る。反抗が起る。これが怪我であり、病気である。
 朝晩、道具を拝むようにして働く、職人や農夫は、その道具で怪我をするという事は殆ど無い。仮に怪我をしても、軽症で済み、治りも早い。逆に、不平や不満の言い、愚痴をこぼし、仇敵を憎むように、奴隷の如く物を酷使すれば、物は人間に反抗を企てる。

 仕事に精魂(せいこん)を傾け、吾(わ)が魂を打ち込むように、また物の有り難さを知り、物によって自分が生かされている事を知っている人は、物の手入れが良く、物を大事にする。決して、仇敵を憎むような、残酷な酷使はしない。

 物と言うも実体は、吾(わ)が手足の如く、意の儘(まま)に使い、才能や素質を傲慢(ごうまん)に振り翳(かざ)すように使うだけでは駄目である。衣服にしても、単に好みで色や柄を選択し、形が気に入っているだけという考え方で、着こなすだけでは駄目である。

 職人や生産者は生産品を、農夫は農産物を、我が子のように愛するが如く、慈しんで育てなければならない。こうした借り物に、殺生与奪の権利は人間側にない。
 世の中には、生き物を育て、この生き物を換金して生きている生産者がいる。

 特に、牛や豚を飼い、それを丸々と肥らせて、歩けない程に畸形(きけい)に育て上げ、霜降り肉と称して、これを仲買人に高く売り付け、財を肥やす傲慢な生産者がいる。畸形に育て、高く売りつけるのである。そして、これを人間に喰わせる為に、屠殺する者がいる。
 このプロセスを見ただけで、彼等は「物を大事に使い、慈しんでいる」と言えるだろうか。
 また、屠殺後の動物達の魂が、どのように冥界
(めいかい)で沈み、迷っているか、その現実を考えた事があるだろうか。

 総ての「物」を象徴し、これを財の頂点に置いたものが、「金銭」である。
 「金銭」という生き物は、「物」の中でも非常に敏感な生き物である。したがって、金銭と言う生き物は、これを大切にする人に集まって来る。決して、浪費家などには集まらない。無駄金を使い、金銭を粗末にする者には、集まらない習性がある。

 かつて富豪と言われた人達は、金銭を持ち歩く時、胴巻きに入れ、現金を我が子のように肌身は出さず持ち歩いた。また、ある金持ちは、各々の札に、アイロンで伸(の)しをかけ、皺(しわ)を伸ばして、大切に札入れに入れた。人込みの雑踏の中を歩く時は、札入れをしっかりと押さえて、隙(すき)をつくらなかった。
 しかし、こうした事は、金銭を大事にする表皮的な、ほんの一面であり、本当に大事にしていると言うことには当たらない。

 金銭を大事にするとは、無駄遣いをしない事であり、更には、使う時には、充分に生かしきって遣うことを言う。これまでダムの水をコツコツと堰(せき)止め、溜め切った水を一気に、有効に遣う事である。これが物を生かし、充分に遣い切ると言う頂点なのである。

 物は紛(まぎ)れもない生命体である。物は、人間と同じように生きている。それは肉体を見れば明らかであろう。生きているものを、生かし切ることが大事である。酷使するのではなく、生かし切る為には、愛情を持ち、慈しんで使うことが大事なのだ。

 人が、徳に高い人に集まり、その教えを請おうと、その人の許(もと)に集まるのは、徳に高い人が、多くの智慧(ちえ)を授け、その教えを何人にも平等に説いている為である。
 また、徳の高い人は、人と言う一種の物を、大事にし、大切にし、愛情をもって慈しみ、そうした心の度量と、何人も同等であり同格であるという平等観が、人々を惹
(ひ)き付けてやまないのである。

 徳の高い人は、人を理解している。人を理解するからこそ、また物も、少しでもよく働かせてくれる人の処に集まろうとする。
 傲慢人に、徳の高い人間は居ない。ただ中傷誹謗するだけで、こうした愚行を正義と考える愚か者に、人は集まらない。一度訪問したら、傲慢を見抜かれて、次に訪問する事はない。

 傲慢人ほど、「ケチ」である。物に執着は強いが、大事に愛情をもって慈しんでいない。ケチケチするのは、物を生かして遣っていない証拠である。これが金銭ならば、全く生かして遣っていない。ただの出し惜しみをしているだけである。
 資産家でも、出し惜しみをすれば、ただの一介の金持ちではあろうが、「有徳の士」とは言い難い。有徳の士は、必要とあらば、大胆に、喜んで、直ぐにこれを出すものである。それは、金銭の働きを充分に知っているからだ。

 我欲で、金銭を一人占めし、自分の為にのみ遣う事を目的に貯蓄する者は、活動したい、世に出て働きたいと願っている我が子を、親許(おやもと)に勝手に縛り付けておくようなものである。箱入り息子、箱入り娘にした結末が、一体どうなるか、想像に難しくない。単に、世間知らずだけでは済まされず、やがて人に喰われ、人生にのされる暗示は明白であろう。

 昔から、「可愛い子には旅をさせろ」と言うではないか。可愛い子を愛するならば、見聞を広めさせ、智慧を養わさせ、こうした真の愛情と慈しみが必要ではないか。
 金銭が、生き物であり、働きを欲しているとするならば、まさに自分の手許(てもと)にある金は、我が子同然であり、やはり見聞を広める為に「旅」をさせねばならない。循環させる必要がる。旅に出て、やがて戻って来る事を、心から信頼しなければならない。

 また金銭は、その人の努力と「物を大切にする心」に正比例し、欲心に反比例する法則を持っている。財貨と言うものは、喜んで働く人間の許(もと)に、自然に集まる仕組みを持っている。したがって、欲心のあった分だけ、差し引かれてその人に支払われる。

 本来、大富豪と言われた人達は、もともと無欲至誠(むよくしせい)であった人達だ。
 「無私」を自覚し、無欲至誠の境地に至って、「神」は彼等に、金と言う「物」を集結させたに過ぎない。しかし世の中には、大富豪達を指差して、多額の報酬を要求し、金銭を請求する卑しき輩
(やから)と決めつける風潮がある。これこそが、羨望(せんぼう)の最たるもので、貧乏人が金持ちになれない決定的な理由と言えるだろう。

 取るべき金を取り、請求すべき金銭を請求して、値切らせる事なく、また相手に妥協する事なく、請求する事は、もともと金銭は神から借りた物であり、神を介在にして商行為をしているのであるから、何ら愧(は)ずべき行為でない。これこそ筋(すじ)を糺(ただ)し、筋目を立ている毅然(きぜん)とした行為であると言える。

 しかし一方、人の働きと言うものは、金銭によって値打をつけられるものではなく、また、仕事量や時間などで、正確に計算されるものではない。問題は、働く人が、心から喜んで働いているか、時間潰しに、いやいや働いているかにかかる。
 心から自分の仕事に喜びを観
(かん)じ、神から生かされていることを本当に知っている人は、やがて理財を為(な)して富豪の道を歩く事になるかも知れないし、自分の仕事を蔑(さげす)み、いやいやながらに働いている人は、いつまでたっても貧乏から抜け出せない一生つき纏(まと)うかも知れない。

 したがって、人の働きは千差万別であり、今日のように、金融経済が実体経済を凌ぐ勢いで驀進(ばくしん)している世の中では、金が金を生むシステムが出来上がっているとしても、やはり基本は、「まこと」を傾けて、一心に働いているか、否かに掛かって来る。
 この実体を長い目で見ると、やはり「まこと」を傾けて働いている人間は、どんなに不況が襲っても、生活に困らないだけの金銭を得る事が出来、「まこと」を傾けない者は、不況と共に大打撃を受け、経営者ならば不況の煽
(あお)りを喰(く)らうだけでなく、これまでにやらかした不正が次々に発覚し、その不誠実さが世に問われる事になる。

 そして結果的に、金銭に苦しむ者は、何事に対しても「不誠実」であり、結局、金と言う生き物の実体を知らない為に、金の為に不幸になる暗示を背負っている。
 金と言う生き物は、その人の働きの「まこと」に応じて分配され、これが「神」から与えられるというのは、世界共通の道理であり、過去の歴史を手本とした総合体験の哲理であろう。

 しかしである。欲が無ければ、金銭には恵まれないと言う道理も考えるべきであろう。
 求めるから、これに応じて反応が起り、現象として顕われ、それを駆り立てるものは「人間の欲望」である。これはスポーツ選手や格闘技家が「強くなりたい」と思う願望と酷似する。
 スポーツ選手や格闘技家が、「まこと」だけ、「無欲至誠」だけで、試合に勝つことはできない。敗けてばかりで、勝つ事の出来ない選手は、ファンも付かず、人気も生まれず、軽蔑されるばかりであろう。その選手が至誠人であっても、敗けてばかりでは勝負師として情けない限りである。「強くなりたい」と思う先取だけが、勝者になって行く仕組みがある。

 これを考えれば、強欲な人ほど金を貯める。しかし、金の為にその人が倖(しあわせ)になったかと考えた場合、これには少なからず疑念が生まれる。これは、スポーツ選手や格闘技家も同じ事が言えるのである。
 「強くなって、試合に勝ち続けるチャンピオン」が、永遠にチャンプとして君臨する事は出来ない。やがてその座を追われる時が来る。過去の栄光は齢
(よわい)と共に、人々の記憶から消滅して行く。それだけではない。晩年は、もしこのチャンプが無学なら、更に老後は哀れであろう。

 幕末の剣豪・榊原鍵吉(さかきばらけんきち)が明治の世になっても、理財の才がなかった為に、剣術遣いとしてサーカスの曲芸師まで身を落とした事は何とも哀れであった。榊原鍵吉には剣術を求める真摯(しんし)な気持ちと、「まこと」は存在したが、惜しいかな、彼には理財の才がなかった。いわば道場経営術の才だ。
 これは無刀流の達人として知られ、禅の大家としての後世の武術家に尊敬をあつめた山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)とは対照的であった。

 また、天下の名横綱として名を為(な)した双葉山が、晩年、新興宗教に嵌(はま)り、現人神(あらひとがみ)と名乗る平凡な中年女性(この人は誇大妄想的な精神分裂病だった)の教団に馳(は)せ参じ、この教団に、手入れの入った警察官と大乱闘を演じている。

 そして、ひと晩、留置所に留め置かれ、釈放された時に語った言葉は、
 「自分は悲しいかな、学問がなかった。あの中
(女性教祖が璽光尊と名乗る新興宗教)に、己を導くものがあるのではないかと探究するうちに、ああ言う結果になってしまった」と、ぽつりと吐いたと言う。これもまた、宮本武蔵とは対照的であった。

中央の力士は横綱・双葉山。また太刀持・名寄岩らを従える。木鶏と言われて広く勇名を馳せ、努力の人だったが……(昭和13年5月の写真)

 武蔵は13歳から28歳まで、60回以上の試合に及び、悉々(ことごと)く勝利したが、この勝利に溺れることなく、30歳過ぎると試合をぷっつり止め、剣を筆に持ち変えて、書家となり、水墨画家となった。老いて熊本細川領に定住した時は、禅僧を師として、瞑想に耽る傍(かたわ)ら、『五輪書』を綴(つづ)ったことは有名である。

 今にして思えば、横綱・双葉山も、もし教育があり、教養と言うものを身に着けていたら、武蔵のような方向に転進する事が出来、名横綱の伝説は永久不滅のものになり得たであろう。
 更には、武蔵の説く、空・風・火・水・地という、宇宙構成の根元であるエレメントを、彼の才能や素質とともに探究し、もし、これと一体となる秘訣を掴んでいたら、双葉山こそ、「無心の強さ」について、もっと現代的な言葉で、明確に語ることが出来たのではあるまいか。
 そして人情の機微を知る、若者から道を請
(こ)われる幸運を手にしたのではあるまいか。

 しかし、惜しいかな、双葉山には、過去の栄光以外に、「今」を光らせる道標は、後世の人間に示唆することは出来なかった。ここに双葉山の悲劇があり、他にもスポーツや格闘技で慣らした多くの名選手達の晩年の悲劇がある。双葉山こそ、何とも惜しい人物である。

 一方、大富豪として、江戸時代に有名を馳せた紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)はどうであったろうか。
 紀伊国屋文左衛門は江戸中期の豪商であり、幕府御用達の材木商で、町人の中にあっては巨万の財をなした人物である。巨万の財力に物を言わせ、豪遊して、紀文大尽
(きぶんだいじん)と称せられた大富豪であった。しかし、彼は晩年、落魄(らくはく)して哀れな死に方をしている。

 また、江戸末期の豪商・銭屋五兵衛(ぜにやごへい)はどうだったであろうか。
 屋号を清水屋と称し、回米と米相場で巨富を築いた人物である。しかし、やはり晩年は、河北潟埋立工事を行なって漁民の怨みを買い、罪を得て、獄中で病死している。

 こうした大富豪ですら、金と言う生き物を粗末に扱えば、晩年、このようなしっぺ返しを喰らい、自己を失意のうちに埋没させてしまうのである。
 このような晩年に思いを致せば、盛運期に傲慢(ごうまん)に、調子に乗り過ぎて遣り過ぎれば、人から怨みを買った因縁が絡み、晩年には不幸現象が派生していることがわかる。不幸現象は、不浄を齎
(もたら)した事が起因し、金の場合、世にそうした不浄な金に苦しめられる実例は意外に多い。
 この事からも分かるように、本当に身に付く金銭を得る人は、やはり「無欲」で「無私」の人であろう。

 大事業家などを検(み)ると、やはり無欲の人である。何処を探しても、「私」は表面に出て来ない。日頃から生活態度も清廉(せいれん)で、質素であり、倹約家であり、自分の為には決して金を遣わない人である。ボロを着て、人の為に走り回る人である。事業は欲心で左右される程、甘いものではない。人の持つ野望や私心に左右されるものではない。
 人の為に働いているという心構えさえ間違っていなければ、事業家は早々企業を破綻
(はたん)に導くものではない。しかしこれが自分の私欲の為とか、創業経営者ならば自分の会社の為などと、思うとその会社は斜陽に向かう。

 したがって、人の為に人事を尽し、仕事そのものが無上の喜びであり、無限の恵を天から享受していると自覚出来れば、歓喜に満ちて健康に働く事が出来、歳を取らずに若々しく、その事業は自ずから成功の路線の上を奔り続けることが可能になる。金銭は、歓喜と共にやって来る習性があり、喜びを致せば、自然に集まるものなのである。

 かつて江戸末期の篤農家・二宮尊徳(にのみやそんとく)が示した水の例話によれば、徹底した実践主義に則(のっと)り、農民達に報徳教を説いたとある。
 報徳教は、自らが陰徳と積善を重ね、節倹を実践・力行すれば、殖産が得られて豊かになると説いた教えである。欲心を起こして水を自分の方にかき寄せると、向うに逃げる性質がある。したがって、この性質をよく理解し、人の為に、向うに押し遣(や)れば、水はやがて自分の方に返って来ると教えたのである。
 この真理は、金銭にも物財にも当て嵌
(は)まる。そして人の幸福も、また同じである。

 現象人間界の事象は、「物」を愛する人によって生み出される。これを大切に遣い、生かして遣う人に集まって来るのである。この事は則(すなわ)ち、万物は総て「生き物」であるという思想に回帰するのである。

 資産家は傲慢であってはならない。他と比較して、優越感を持つなど、以ての外である。優越感に浸っていては、「有徳の士」【註】徳を備えた人)などになりようがない。だから資産家は、有徳の士になるように、努力を重ねなければならない。この努力を怠れば、やがて所有している資産も、運命の陰陽の支配をもって、最後は散財し、総て回収されてしまうであろう。ここに、資産すらも「神からの借り物」であると言うことがわかる。

 金銭も借り物なら、肉体も借り物なのである。「借り物」は大事にして遣うと言う事が原則だ。
 この原則を犯せば、必ず反撃が起る。必ずしっぺ返しを喰らう。怪我、事故、病気などの不幸現象がこれである。つまり、「ほどほど」にして、「愼む」ことこそ、サバイバルの原点なのだ。

 『菜根譚』【註】洪自誠(こうじせい)の書)も言うではないか。
 「口当たりのよい珍味は、これを過ごせば胃腸を損ない、五体を傷つける毒薬になる。美食に溺れること無く、“程々
(ほどほど)”で止めておけば害はあるまい。心を喜ばす楽しみ事は、これに耽れば身を誤り、人格を傷つける原因になる。楽しさに溺れること無く、“程々”で手を引けば、後悔することもあるまい」と。
 これこそサバイバルの原点ではなかったのか。


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