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経済の不調と、社会の不平等は大きく貧富の差を隔てる。つまり、経済的不調と、社会の不平等が同時に発生すると、その国の治安は極度に悪化する。こうした状況下では、何処の国でも、マフィアのようなアングラ的な犯罪組織が勢力を伸ばしはじめる。犯罪組織の存在が大きくなり、犯罪ビジネスが活発化するのである。 1990年代初頭のバブル崩壊によって、日本人は「一億総中流」の意識が幻想であったことに気付き始めた。とても、「中流」などとは言えない実情にあることを、大半の国民は薄々認めざるを得なくなった。そして、この現実の背景には、金融経済が実体経済を上回っている実情が揚げられる。 その後の不良債権の蓄積が、銀行には山積みされ、実際には破綻(はたん)に追い込まれる金融機関が続出した。北海道拓殖銀行や山一証券などの金融機関が出現し、一層経済は不調の方向に進み、長引く不況の悪循環の後遺症が、今でも続いている。 一部の楽観的なアナリスト達は、いま日本の経済は好調に向かい、アメリカの株式市場の株高に連動して、日本の株価も上昇し、不景気から抜けだせたと呑気(のんき)な発言をしているが、実際には、今日の日本経済の好調は「仮の姿」であり、本格的な不況はこれからだと思われる。その経済不況の露払い的な行事として、今日の経済が「上向き」であるかのような、日本経済人の思い込みと自惚(うぬぼ)れがあるのである。日本の仮の姿として、好調の恩恵を受けるのは大企業だけに限られている。 不穏で、混沌とする社会の出現の経済モデルは、今日のヨーロッパの世相を見れは明白であろう。 資本主義経済下では、「金持ち」対「貧乏人」を、ユダヤの黄金率から言うと、28%:72%で分割・配分する。これが最もバランスのとれた状態である。 その中で、中産階級の底辺に位置する階層が、貧困層へと転落し、こうした貧困層に追いやられた階層を「ワーキング・プアー」という。働いても、働いても生活が楽にならず、豊かになれない層である。 その反面、アメリカの富の60%は、僅か5%の大富豪達に独占され、アメリカの商業社会の根底に流れていた契約社会と言う、これまでの概念が崩れ始めた。そして金持ちであるか、貧乏人であるかの決定は、白人であるか、大学院などを出た高学歴であるか等は一切問題ではなくなり、所謂(いわゆる)スーパー・リッチ富裕層の金が、金融経済のマネーゲームによって、金が金を呼ぶ商法形式へと変わって来ている事である。 つまり、こうした構図が格差社会を急速な勢いで造り上げているのである。そこに、現代の「富裕層」対「貧困層」の配分比率を24対76に分割しているのである。この格差構造が、金持ちと貧乏人の、現代のアメリカ社会の構図を造り上げている。 こうしたアメリカの現実社会の背景には、キリスト教やユダヤ教の「契約」が、物質文明至上主義者たちによって、踏みにじられる現実があるからだ。既にアメリカは、契約社会を捨てる傾向にある。 絶対神ヤハウェは、恐ろしい神である。呪がかかる神である。その呪いを一旦背負えば、如何なる大富豪といえども、最後は帝政ロシアのニコライ2世のような悲惨な結末を迎えなければなるまい。その呪いの兆候は、ベネズエラの国家体制が社会主義に変わり、反アメリカ主義を打ち出していることから見ても明らかであろう。アメリカに楯を突く国が南米でも、朝鮮半島でも、中近東でも、アフリカでも増え始めているのである。そして、その敵対国の総元締めは、中国であろう。
富の独占は不公平が生じて、利益配分の不平等が生じ、社会全体が迷走を始めるのである。そこに不穏な影が忍び寄る。犯罪組織が溜まり場を作る。 そして日本も、この後を、急速な勢いで追い駆けている現実は否めない。 また、経済格差の隔たりが大きくなるにつれ、経済的犯罪がエスカレートして行き、「悪循環のシナリオ」が現代社会を、やがて包み込み、支配することになるであろう。 所謂、富裕層に対する風当たりが強くなり、信頼感が損なわれるばかりでなく、不信感を抱かれる意識が明白となり、更には、政治家や高級官僚のスキャンダルによって、リーダーシップをとっているトップクラスへの信頼が失墜することである。 また、犯罪集団の社会支配が始まれば、スキャンダルは、ある意図をもって、故意に組み立てられ、仕掛けられ、それが実行犯によって実行されるという事である。犯罪組織の手にかかれば、トップクラスのスキャンダルなど、意図も簡単に作り出せよう。こうして今までにも、闇の中に葬り去れたれトップの、何と多いことか。 最早(もはや)こうなれば、大衆はトップクラスに対して、耳を貸さなくなるばかりでなく、かつての幕末の「ええじゃないか運動」のような、政府転覆の目論みが実行に移されるかも知れない。その行き着く先は、日本人全体のモラルの崩壊であり、最悪のシナリオで、日本は好むと好まざるとに関わらず、日本人の社会の根幹であった、良識を維持したモラルが瓦解(がかい)してしまうかも知れないのだ。 そして現代の日本人は、こうした現実の中で、亡国の危機を知らないで日常生活を営んでおり、経済格差の広がっている事実を、誰もが真剣に捉えていない。 犯罪社会が支配する世の中では、淫乱や色情の現実が浮上して、社会全体は悪化に向かう。 日本では、日本人のモラルが失われた時、アメリカのように、大都市での暴動が起るか否かは、定かでないが、今日の「一億総中流」というような平均的な豊かさは徐々に失われ、10億円以上の資産を持つスーパー・リッチが顕われる一方で、今日の食べ物にも困る大勢のワーキング・プアーが顕われるもの確かなようである。 そして、これから浮上することは、戦後の日本の特長としてきた社会的安定は失われ、個々人の人間的尊厳は軽視され、纔(わずか)な金銭で、犯罪を請け負うような輩(やから)が出て来ることも予測されるであろう。
●生き残りを賭けて 生き残りを賭(か)けて、生存術を学ぶ為には、ただ、気持ちだけではどうにもならない。 では、「敵を知り、己を知る」とは、一体どういうことか。 人間の肉の眼は、外側に向けられている為、外側を警戒する識別は辛うじて備わっているが、裡側(うちがわ)を監視する眼は殆ど養われていない。表皮だけを見て、それに評論を下す事は長(た)けていても、その深層部まで見抜ける人は稀(まれ)である。 人間界は、また、現象世界でもある。因と縁が交互に押し寄せ、空間的にも、時間的にも、この因縁により連動され、大きなリングの輪を為(な)している。 一般的に、事象や現象は、原因があり、その原因によって結果が起ると信じられているが、これも連続する巨大なリングの輪の中では、何処が始まりで、何処が終わりか、また、どれが原因で、どれが結果か、釈然(しゃくぜん)としない所がある。一つの因縁で繋がっているからだ。 こうして観(み)て行くと、「因」と「縁」は、それに齎(もたら)される「果」の関係において、空間的にも、時間的にも、網の目のように繋(つな)がっていて、どれが最初か、どれが最後かも明確でなく、ただはっきりしていることは、全体の力が「一点に集約」されて居る事である。そこに「要」の一点がある。 だからこそ、一点を掴んで、その紐を引けば、一つの目を中心にして、全体の目が引き寄せられる仕組になっている。この理論に基づいたものが、実は「合気」であった。 我々の肉の眼で見る、例えば、木の葉が散ったと言う自然界の現象は、空間的には世界の端々まで関係し、時間的には、未来にまで影響し合っている。 人間の棲(す)む現象世界は、総(すべ)ての個人、あるいは、あらゆるものに存在する宇宙的絶対性と、清浄性は、総ての生き物に内蔵されている。ただ、人間以外の生き物は、仏心を有していないので、これを自覚することができない。 ちなみに、「智慧」と「知恵」の違いを御存じだろうか。 人間世界を、分別知の「知恵」の概念で凝視すれば、自他離別に映り、世界は各々に独立した姿で映るが、「無分別智」で、現象人間界に起る事を洞察すれば、各々は互いに関係し、影響し合っている事が分かる。 諸法無我とは、三法印の一つで、いかなる存在も、永遠不変の実体を有しないというこという。また、「我(が)」を否定する事で、人間存在や、事物の根底にある永遠不変の実体的存在を感得できるのである。 依他起した存在とは、肉の眼に映る現象を捕らえ、日常、普通に映る、家や車や家具等の物体であるが、これ等の存在は、我々の認識的感覚では、何(いず)れもしっかりしていて、頼りになり、実体としての存在感があり、変わる事の無い、不変なものと思われがちである。 しかし、こうした物も、無分別を通してその智慧で透徹すれば、今なお、変化して止まない、頼りにならない、幻想としての存在でしかないからである。何れも幻(まぼろし)としての響きから脱していない。つまり、現象界で起っている総ての現象は、「仮の存在」以外の何ものでもないのである。 我々が五感を通じて感じる事が出来る諸々の存在は、「因」と「縁」が掛け合わされて派生したものであり、「存在する」という影響下において、生じたものである。しかし、この存在の影響は、因縁によって生じたものであるから、因縁が変われば、また、消滅の憂き目を見るのである。 依他起する存在は、刻々と変化し、変化の後、他のものへと姿を変えていく。姿が変化するものは、則(すなわ)ち、今は「存在しているもの」であるが、実は、やがて姿を変える「仮のもの」という事になる。 現象界の如何なる存在も、「因縁」によって生じたものである。心に映し出される、現象世界では、多種多様の存在のうち、どれが迷妄であり、どれが真実であるか、それを判定するのが固定観念に囚(とら)われない「無分別智」である。無分別智こそ、真実を判定する原理なのである。 現象世界では、我々が認識したその儘(まま)の姿が、その儘の真実として存在しているわけではない。然(しか)も、認識する前に、種々の迷妄に惑わされ、執着や煩悩(ぼんのう)によって歪(ゆが)められている。つまり、歪められたものを、真実として感得する事こそ、分別知と言う固定観念から生まれた最たる元凶で、真実への認識は狂ったものとなる。認識した、その儘が、無条件に真実ではないのである。 知識に頼り、知識だけを優先させて、現象界で起ることは、「変化だ」という真理を忘れれば、最悪の事態を迎えることになるであろう。これは変化を嫌い、変化を恐れた時にやって来る。 日本がこれから先も、今日の平和がずっと約束されて、これが半永久的に存続すると言う考えを持つ者は、よほどのお人好しか、楽天家である。しかし、こうした考えを持つ日本人は少なくない。 しかし、理想と現実は違う。晴天で穩やかな日に、シェルターの建造を始め、人から「何でシェルターを造っているのか」と訊(き)かれれば、「近いうち嵐が来る」と答えたらどうなるだろうか。多くからは大笑いされ、馬鹿にされるだろう。大衆・庶民とは、こうしたものである。 したがって、先覚者の閃(ひらめ)きの一言は、嘲笑(ちょうしょう)の域を出ない。また、大衆・庶民は、「嵐が来る」の言には、決して耳を傾けようとしないものだ。ただ一蹴(いっしゅう)し、「馬鹿馬鹿しい」で終わりである。晴天の穩やかな日に、賢人が造るシェルターの意味は、大衆・庶民から見て、「馬鹿馬鹿しい、現実離れ」のものと映る。 ところが多くの人々は、大雨が降り始め、豪雨に変わり、強風に曝(さら)され始めて、シェルターが必要であったと気付くのである。
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