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圧倒的な大勢力と、物量に物を言わせる大国を前に、「無謀」という理由で、太平洋戦争を無謀な戦いであると決め付けるならば、日清戦争も、日露戦争も否定されねばならず、そればかりか、朝鮮戦争も、ベトナム戦争も無謀な戦いの汚名を被って、否定されねばならないのである。 最初から、圧倒的な大勢力を有し、巨大工業国で物量に物を言わせる大国であるから、戦わずして軍門に下り、負けを認めるべきだと、尻尾を巻く以外ないのである。だが、無謀な戦いとする進歩的文化人の言は、朝鮮戦争とベトナム戦争で見事に覆される。
●ベトナム戦争日本より一周り小さい国・ベトナム。人口は約八千万人である。これに比べて、日本は太平洋戦争当時、人口は約一億人ほどと推定された。ベトナム戦争当時も、旧日本軍に比較すれば、貧弱な弱小国であった。 ベトナム戦争における、北ベトナム軍の勝利は、特異な地形を生かしたジャングル戦を展開した事であった。ベトナム戦争は、1960〜75年の北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線と、アメリカ軍と南ベトナム政府との戦争であった。そして熱帯の、高温多雨の気候や、ジャングルと言う特異な地形を利用したことは言うまでもない。 ベトナム戦争を指揮したのは、ホー・チ・ミン(Ho Chi-minh・胡志明/ベトナムの政治家。1890〜1969)である。ホー・チ・ミンは20歳頃に渡欧し、フランス社会党ならびに共産党に加入して独立運動に従事した。第二次大戦中はベトミンを組織して抗日運動を指導する。
更にホー・チ・ミンは1945年、ベトナム民主共和国を建て、初代国家主席(大統領)に就任する。植民地支配復活を策するフランスに対して、徹底的に抗争をつづけ、1954年にジュネーヴ協定により、独立を確保した。また、労働党主席を兼ね、アメリカの支持する南ベトナム政権に対抗しつつ、社会主義建設を指導した。 この抵抗運動で功を奏したのは、社会主義や共産主義の理念ではない。こうした理念やイデオロギーと、ベトナム戦争で用いられた戦術や戦略とは、殆ど無関係である。要するに、三十年以上に及ぶ、豪奢への抵抗と、欧米打倒の執念が、この戦争に勝利を齎(もたら)したのである。 ホー・チ・ミンの軍事指導は、東洋人の清き精神をもって、それを欧米への反旗とし、一つの宇宙を形作る不可僻な定理を発見し、その定理に従い、軍事指導した事であった。 歴史の中には、様々な権力者が登場した。ある者は「皇帝」を名乗り、ある者は「主席」を名乗った。また、ある者は選挙に選ばれたふりをして、期限付の「大統領」を名乗った。名乗る名前は様々であるが、要するに「天子」を名乗ったのである。 人が天子に遵(したが)う場合、掲げるイデオロギーは殆ど関係ない。イデオロギーをとやかく言うのは、末端に位置する微生物層においてのみである。末端分子は、自分の入れ挙げる主義主張に、激情を注ぎたいからだ。この場合、社会主義や共産主義というイデオロギーは、極めて有効的なものになる。 人が、主義主張を重ねる時、そこには天下の趨勢を窺う意図が読み取れる。この意図とは、則(すなわ)ち、強欲(ごうよく)の化身である「欲深さ」である。したがって、私利私欲で天子を称すれば、天は怒りを発する。必ずや、天罰が下り、身の破滅を招く。天を懼(おそ)れることを知らない無知こそ、愚かなものはない。だから、天の意向に沿う、イデオロギーや大義名分のスローガンが必要になる。 だが、人の群れや、人心と言うものは、利益と恐怖と、天に対する懼(おそ)れで動くものである。これを知る者のみ、天子の資格を得る。 愚将に率いられる、側近達の無知も、同時に作用するからである。集団が浮き足立ち、四散体勢の敗走状態になった場合、これを押さえるのは、自軍の「戦闘への利」を高らかに掲げる事である。「戦闘への利」を具体的に掲げてこそ、配下はそれに準じて、これから先の帰趨を読むのだ。 イデオロギーを掲げ、その主旨に、大義名分を見出せる場合は、次の条件下である。 不満ばかりで拠(よ)り所を持たない配下は、これのみに激情をぶつけ、執念を燃やす事ができる。アメリカ独立戦争も、フランス革命も、ロシア革命も、この原理で動いた。かくして、支配勢力と被支配勢力は、互いに憎みあい、死闘を演ずる事になる。 一方支配者は、その地位を保ち続ける事により、歴史の変化を食い止めようとする。 民族間や国家間で繰り広げられる闘争も、イデオロギーの違いばかりでなく、その闘争の動機は、人間の深層部に秘める欲望である。富の形成を目指して、欲望を実現させようとする。特に、上層部に位置する幹部はこの意識が強い。これが労働貴族といわれる所以(ゆえん)である。 近代における欲望の形成は、人材の確保に加えて、資源や食糧、貴金属や工業製品、豊富な労働力や領土の拡張であろう。 これは人間の持つ業(ごう)が、歴史を繰り返す因縁に於いて、変化への動機を構成しているからである。この、変化への動機に於てのみ、歴史は動かされる。民族や王朝、国家や企業、その他の組織は、この動機によってアクションを起こし、目紛(めまぐる)しく変化する。古代から現代に至るまでの、戦争の歴史は凡(おおよ)そが、この中に集約されている。 生き残りを賭(か)けて展開されるサバイバルを考える場合、こうした歴史に目を向けなければならない。単に、戦い方のテクニックだけでは、大局が見えないのである。そして、ベトナム戦争こそ、「小能(よ)く大を制す」の典型ではなかったか。
●山岳戦現代に生きる日本人は、山里(やまざと)から平地に移動し、そこで物質に囲まれる都市文明を築いた。その為に、山岳地帯の「山の生活」の大半を放棄したのである。したがって、それ以降の日本人の多くは、平地に降りて以降、山を知らなくなった。 山岳ゲリラ。それは生き残りを賭(か)けた戦闘集団である。 本来、日本の地形を考察すると、その多くは山間地である。急峻(きゅうしゅん)な山岳地帯も決して少なくない。こうした山岳地帯を利用する術を知らなかった。平坦な地域で戦う、陸上戦しか頭になかったのである。これが戦闘理論を貧しくし、奇手などを用いぬままに敗戦に至った経緯である。 しかし現実には、外国の特殊部隊と言われる穏微な集団は、山岳地帯で戦う事を得意としている。山岳地帯やジャングル地帯を利用すると、奇手を用いる事が可能になるからだ。小が大を倒す事が可能になるからだ。 人間と言う生き物は、人類発生の歴史から検討してみて、順応性が非常に高い生き物である。大自然に溶け込むことも、他の動物に比べて順応性が高い。大自然の中で、十日間生き延びることができれば、二十日間、生き残ることも可能になり、あるいは一ヵ月も同じ事になろう。但し、これには過酷なサバイバル訓練が必要になる。サバイバルの基礎を積み上げて、はじめて可能になるのである。 特殊部隊の訓練は、秋深くから訓練を開始して、剣呑(けんのん)な冬場に挑戦し、これを引き継ぐようになっている。これが冬季訓練である。 特殊部隊の訓練は山岳地帯を訓練場として、サバイバルの基礎訓練に入る。冬場を訓練の頂点として、訓練に入れば各部隊を敵と味方に分け、夜戦をやらせるのである。半日かかろうと、一日かかろうとそうした事は問題にせず、最後の一人になるまで戦い抜かせるのである。特殊部隊は軽装備を旨とするため、重装備に武装は行わない。 武器にしても、原則として火器は携帯していない。部隊員の所持品はナイフとロープのみである。ナイフで、まず武器をつくる。その武器で、食用になる動物を狩る。獲物は熊、猪、猿、鹿などである。蛇やネズミを見逃さない。ライターなどと言う文明の利器は持っていないから、火は、その都度(つど)熾(おこ)こす。アルコールやタバコは厳禁である。こうして、徹底したサバイバル訓練をやるのである。 したがって訓練を始める前と、終わった後とでは、その後の人間に違いが出る。簡単に殺されない人間に変貌している。これは平坦地や試合場で、格闘技を愛好している愛好者のそれではない。命を張って来た、男のそれである。嗅覚、聴覚ともに、異様に鋭くなっている。 これは、かつての木食行(もくじき‐ぎょう)をやった密教僧にも匹敵する。視覚や夜目の利(き)く事は勿論の事である。そうならなければ、獲物を獲(と)る事は出来ない。獲物を獲ることが出来なければ、飢えて死ぬだけの事である。主眼は、強靱(きょうじん)な体力を養うことよりも、大自然に順応して生きる体質を養成する為である。強靱に鍛え上げた体力も、体質が悪くて、病気になればそれ迄であるからだ。 快進撃の連勝連敗だって、やがていつかは止まるものである。戦いは攻めるばかりが能ではない。動く時は動き、止まる時は止まって、静を養う。この動と静に組み合わせにより、戦いは構成されている。体力に任せて動き回るだけが能ではないのだ。
●アジアの軍事バランスの急激な変化 アジアの軍事バランスは急速に変わり始めている。アジアの大国・中国では、空母配備を整え、またその一方で、マレーシア、インドネシア、タイ、台湾ではF15やミグ29などの最新鋭戦闘機を購入して、強力な武装国になりつつある。 また、アジアのこうした軍備増強に進む政治的な情況に対し、日本には、いざという時機(とき)の特殊部隊が存在しない。あるいは国際的な大事件が起っても、それに対処すべき術を有しないのである。ここに、先進国に、伍(ご)して行けない現実がある。 現実には、日本が戦争を放棄しても、国際世論や国際社会では、日本に戦争を放棄させない実情がある。それは、日本の衣・食・住が海外の国々との関連によって、日本人の生活が維持されているからだ。 そして、極東に位置する日本列島の現実を考えると、世界のどの国で戦争があっても、その、間接的かつ直接的な影響は、もろに受けるのである。 この愚直な態度は、ただ、わが眼を閉じて、外の外界を見なければ、外界で何が起ろうと、自分には関係がないと言う鈍感さと同じであり、全く無防備な発想である。こうした発想は、つまり、自分だけは特別であり、また例外であり、不慮の事故や事件には巻き込まれないと考えるのと全く同じである。
●「生」へのサバイバル
目先の結果だけを追い求める現代、そこに精神的な奥深さを見抜く人は稀(まれ)である。 現代文明と言う世の中で、物質的な豊かさを享受しながら、基本的人権に保証された「個人」が、際限なく尊重され、人間の本来持っていた精神的思考の価値観は薄れ、豊かさだけを追い求めている。 現代人を見ると、その姿は一見自由に見えて、実は自由ではない。あらゆるものに縛られている。あらゆるものに規制され、制約下に生きている。 では、何故こうした生き方しか、人間は出来ないのか。 世界史から歴史を振り返れば、紀元前200年頃、カルタゴの名将ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスのローマ軍が、宿敵のカルタゴ軍の城壁を守り、ローマ帝国が、カルタゴ船の地中海航行の安全と保障をしているようなもので、歴史上からでは絶対にありえない構図になっている。このありえない構図こそ、日米安全保障条約なのである。 今日の日本という国は、小学生でも知っているように、自由貿易の上に成り立っている。多くの日本人は、石油危機といっただけで青くなるが、危機を暗示するものは石油や食糧ばかりでない。今日の日本の繁栄は、自由貿易の上に成り立っているばかりでなく、自由貿易制が破壊されれば、日本の繁栄ばかりでなく、日本という国家そのものが崩壊してしまうのである。 日本人はこれから先の生き残りを賭けて、日本経済の根本は石油や食糧のみに目を奪われている。石油や食糧輸入が止まれば、経済は立ち行かなくなり、国民はそれで飢えるのではないかと思っている。そして、これ以上の事を考えない。ここに日本人的発想の短見さがる。 資源問題を考える時、 日本人は戦争や革命において、非常事態が発生し、これが原因して、様々な危機が訪れると考えがちである。しかし、実際はそんなに単純なものではない。また、生易しくもない。 そして、第二次世界大戦終了後、今日の繁栄は、自由貿易の上に成り立っているように映る。 だから、こうした不安定要素を表面上のみ、駆逐(くちく)して、臭い物には蓋(ふた)をすればよいという思考が生まれた。全体を無視して、個に趨(はし)る思考である。 だからこそ、半信半疑の科学万能主義に凭(もた)れ掛かり、その権威や技術に頼ろうとする。公害と、資源の枯渇(こかつ)を齎(こたら)す憂鬱(ゆううつ)にあっても、今は兎(と)に角、幸福へのキップとして科学万能主義や物質中心主義に凭れ掛かるのである。そして凭れ掛かる事により、自己の存在を豊かに見せようと粉飾するのである。 しかし、この豊かさの中に、真の価値観は見い出すことが出来ない。見せかけてあるからだ。 大衆民主主義社会が確立された現代、その人生の目的だった「真実の自己の具現」は、道理のない社会常識に振り廻され、昏迷(こんめい)を極めて、その迷える禍根(かこん)に巻き込まれて潰(つい)えようとしている。それは、「今」という時代が、世界的にいっても、方向転換の時代であるからだ。 かつて、人類の平等、人間の公平を求めて奔走した時代があった。社会主義や共産主義の出現が、それであった。しかし、それは模索であり、一つの試案に過ぎなきあった。 金や物を基軸とし、物事の基本をこの中に置いている。物持ちや金持ちが、「親の七光り」ばかりをひけらかす無能な人間であっても、それに対して、敬意を払う訝(おか)しな現象が起こっている。この意味で、「現代」と言う時代は、金や物に魅了され、あるいは扮飾(ふんしょく)されて、その中に埋もれる現実がある。 だがしかし、如何なる名門の子として生まれたとしても、親から子が受け継ぐものは、親の財産や金銭ではなく、名門として生まれ来た、その「度量」こそ、一番大切なものであったはずだ。この度量が、伝えたい子に備わっていなければ、いくら名門の大富豪と雖(いえど)も、没落は免れない。要は、一世一代で完遂する志がモノを言うのである。 西洋によって、日本に持ち込まれた物質文明や科学万能主義は、地球汚染からも分かるように、いまや暗礁(あんしょう)に乗り上げ、動きの取れない状態に至ろうとしている。 現代人は、なにゆえ人間的で、現実的な深き問題を相手にしないのか。 常識は、何処まで突き詰めても、常識を超えることはない。常識の範囲で、消極的に、こじんまりとして納まるものである。したがって正攻法と言う常識は、こうした範疇(はんちゅう)に落ち着くものである。これを倒し、生き残る為には、非常識が必要であり、非常識の延長上にこそ、常識を打ち破る偉大さがある。 戦場に於ての戦いには、筋書きやシナリオはない。また、それを背後から声援するファンも居ない。筋書きの無い戦いには、またスターも、エースも居ないのである。この現実にあるのは、死ぬか生きるかの熾烈(しれつ)な、生き残りを賭(か)けた戦いである。 人は、他人の不幸には見て見ぬふりをする。また、他人の幸福を見ては、一つ、それに肖(あやか)りたいと思う。しかし、他人の不幸は知らぬ顔をする。不幸にかかわれば、自分が不幸に染まるという懸念(けねん)すら抱いている。 「落ちた犬は打たれる」という諺(ことわざ)がある。人間は、不幸に見舞われ、一旦落ちれば、あとは打たれるしかないのだ。袋叩きにされ、後ろ指を指され、罵倒(ばとう)され、嘲笑(ちょうしょう)されて、ドン底での苦汁を嘗(な)めねばならない。そこで、這(は)い上がれる者は、意外に少なく、多くは失意のうちに沈んで行く。 苦しめば苦しむほど、心は清らかに洗われる。「洗心」とは、この事を言うである。 こういう時代に生きる人々は、「人生とは何か」という問いに対して、周期的に還って来る。 そして、生き残りを賭けて、サバイバルが必要な時代、多くの人は、「生」そのものの智慧(ちえ)の力を見失っている。力の究極の根源が見出せないのである。それは、自分自身の深層部の、心の奥底に眼むっているのにも関わらず、である。
●陽明学の行動原理 こんな時代であるからこそ、眼を開けて、外の景色ばかりに眼を奪われずに、自分の足の裏でも見る裡側(うちがわ)の意識が必要だ。 ここに時代の残した哲理がある。それが陽明学だ。 陽明は、優秀な高級官僚の子として生まれたが、彼は根っからの勉強嫌いで、十八歳で実践重視の朱子学を学ぶが、これにも飽き足らなかった。そこで次に学んだのが兵学や武術であった。 後に、流罪を申し渡した宦官(かんがん)が内部抗争によって要路の地位を失うと、陽明は、再び中央に復帰した。復帰後、農民や南昌王(なん‐しょうおう)の反乱を次々に鎮圧し、やがて陸軍次官にまで上り詰め、晩年は武官として名声を馳せた。 かつて陽明は、朱子と論争した陸子(りく‐し)の説に近付き、心知こそ、まさに現実であると言う「心即理」の唯心論を打ち出したのであった。心知によって、物事の善悪邪正を判断すべき「致良知」の内省主義、あるいは心知は行動をして外なる現実に齎(もたら)さねばならないと言う、「知行合一(ちこう‐ごういつ)」の実践第一主義を唱えたのである。 知行合一は、朱熹(しゅ‐き)の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して、事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は行の根源であり、行は知の発現であるとし、知と行とを、同時一源として、これを実践に用いる事であると説く。ここに実践第一主義のテーマがあるのである。 サバイバルを展開して、生き残りを賭けた行動原理は、机上の空論であっては、何もならない。机上を離れ、現場の実際を見極める事こそ、実践第一主義に回帰されるのである。 人間の運に陰陽の周期があるように、武運に生と死があるように、また天にも、天の命があり、それは刻々と変化する。その変化に於いて、天が与えようとする機を採(と)らずに放棄すれば、天は機嫌を損ね、天の命のある者に災いを齎す。 サバイバルは一種の戦いである。
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