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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●「他力一乗」が教える、衰えるものと衰えないもの

 強ければいいと言う筋肉の強さなど、やがては齢と共に崩壊する。筋肉だけの筋トレ重視を誇張する筋肉格闘技などは、生き残っていく上で、あまり大きな意味があるとは思えない。それは今日のプロスポーツを見れば明白であろう。プロスポーツ選手は、自分の筋力を維持する為に、涙ぐましい努力と、その強化を図っている。しかし、こうした筋力も年齢と共に失われている。

 更には、筋力の維持の為に大量の動蛋白が消費され、その為に、どうしても血液酸性化と共に身体の部位の稼動箇所の故障や怪我が多くなる。故障し、怪我をすれば、選手生命は終わりか、あるいは治療・恢復(かいふく)の為に多くの時間が費やされる。しかし、恢復できずに自らが消耗品となって朽(く)ち果てる者も珍しくない。プロスポーツ選手とは、消耗品の中に身を投ずる生活者であろようだ。

 人間は肉体に依存して生きている為、その魂(たましい)は肉体に依存し、心までもが肉体の附随物に成り下がっている。しかし、肉体に依存する魂は、肉体の衰えと共に、魂までもが衰えていく。それは肉体の知覚しか出来ない者が、肉体に依存し、煩悩(ぼんのう)によって心をコントロールし、その操(あやつ)られるままに行動しているからだ。

 つまり、煩悩の根元には、未来の自己実現が含まれているが、「こうなりたい」「ああなりたい」の夢が、附随物として作用している為、自己現実が完成を見ない場合、夢は裏切られる。
 あるいは裏切られないにしても、空想の中に浸り、蜃気楼(しんきろう)のような捉(とら)え難いものを追いかけて夢中になる。しかし、夢が達成されなかった場合、その人の追いかけた足跡には、むしろ幸福より、不幸の領域が大半を占めているのではないか。

 さて、サバイバルで一番大事な想念は、「自分がこの世に生まれて来た」ということ自体を、根源的な表現型として、「幸運だった」あるいは「強運だった」と捉(とら)えることである。「幸運」あるいは「強運」の想念なくして、窮地(きゅうち)に追いつけられた時、あるいは天変地異に見舞われて、「もやはこれまで」と想う時、ここから幸運なくして、また強運なくして生還することは出来ない。

 したがって、サバイバル術の「生き残り作戦」の根底には、「自分が幸運である」あるいは「強運である」という想念が必要であると云う事だ。この想念が、やがては魂を励まし、心を確たるものへと作り上げていくのである。窮地に追い込まれ、災害に遭遇して、「もはや、これまで」と観念するのは、実に愚かしい事である。

 しかし、生き残るには、「幸運」が重なり、「強運」が連続しなければ、その願いは空しく潰(つい)えるだろう。
 一方、「九死に一生を得る」ような人間は、実に幸運の持ち主で、強運の持ち主である。こうした「運」を持っている人は、「運」の一字に隠された、その奥にあるものを読み取り、「運」自体の、深くて大きな奥行きを知る人なのである。また、単にこうした人は、運気を知る為に、肉体の欲望に振り回される事なく、謙虚に「魂の躍動」を知覚する能力を持ち、心身ともに魂的の浄化まで図っているのである。

 「運」は知覚するものであると言う。そうであるならば、その内容を察知する必要がある。「九死に一生を得る」ような人は、他力運自力運の両方を兼ね備え、絶妙にコントロールしている事だ。

 ここには筋力や実力だけという、一方的な考え方はない。生き残れるのは、一方的に筋力を養ったものとは限らない。また、実力者だけとも限らない。
 例えば、雑草が間引(まび)かれる時、腰のしゃんとした、日当たりのよい所に生息していて、十分に栄養を享受している雑草が引き抜かれずに、日当たりの兇(わる)い、一見ひょろひょろの、腰の弱い雑草のみが引き抜かれる運命にあろうか。

 「引き抜かれるか、そうでないか」は運であり、強き者のみが最後まで生き残れるとは限らないのである。此処に働いているものは、「生き残る」と言う条件下において、紛れもなく「運」が働いている事は明白であろう。
 これは、地球上の生物の一つである人間においても同じ事が言える。人間も、「運」に助けられなければ、一秒たりとも生きていけないのである。したがって、「いま自分が生きている」ということは、非常に幸運な持ち主であり、強運な持ち主である事を、深く心で観(かん)ずる事だ。
 それが「天命」である。この知覚なしに、あるいは察知なしに、サバイバルを敢行する事は出来ない。

 つまり、「運」とは、心の持ち方次第で、「衰えたり」あるいは「旺盛になったり」するのである。
 一般に「運」などというと、喜怒哀楽、一喜一憂に流されて、その中の局面的な「喜び」を幸運と云い、反対に「憂い」を不幸と感知しているようであるが、こういう局面的なものに振り回される意味合いのものを、「運」と称しているのではない。

 命を賭(か)けた「運」というものは、決して、安全圏にいて、保身を貪(むさぼ)る者に訪れないと云う事だ。一喜一憂や喜怒哀楽に振り回される者が口にする運と、「九死に一生を得た」者が口にする運とは、そもそも次元が違うのである。その、次元も違うし、もっと深いものである。また、命の質量が重いのと同様、運の重みも、深さもこれとは異なるわけだ。

 まず、九死に一生を得るような体験をして、見事、生還した者は、運を呼び込む前兆として、非常に勘(かん)が優れている事だ。自惚(うぬぼ)れる事なく、謙虚であり、「幸運の女神」が耳許(みみもと)で囁(ささや)けば、その微(かす)かな囁きを、確かに聞き取れるほどの「勘」を持って居る事である。したがって一時的な喜びに、有頂天に舞い上がったりはしない。

 軽率に、有頂天に舞い上がる人間は、勘の鈍い人間であり、その鈍さが墓穴を掘ることも少なくない。往々にして、世の中には有頂天に舞い上がる「目立ちたがり屋」という人種がいるが、こうした人種は不運の人身御供(ひとみごくう)に真っ先に差し出される人間である。
 また、こうした人間に限って自惚れが強く、世の中は総て自力本願で動いていると思っている。つまり、自信過剰を自分で自覚できない人間である。

 勘こそ、「他力一乗」の原則である。その勘としての冴(さ)えは、まず「他力の幸運」に気が付く感度がいいことである。
 それ故に、自分で他力(天命)で生かされて「運が良い」と知覚できる事である。また、常々、こうした自己暗示に良き想念を送り込み、「実力だけでは、どうしようもない」と云う心構えが出来て居る事である。だから人の忠告を、謙虚に聴く耳を持っている。種々のアドバイスを受けて、多くの諌言(かくげん)を自分の身の上に割り当ててみようとする。傲慢(ごうまん)にならず、自惚れない事である。

 「九死に一生を得る」者は、幸運にも、生き残れたからそう思うのではなく、逆に、プラスの想念を自分の潜在意識(魂)に働きかけて、結果的に九死に一生を得た人なのである。

 日本には古くから俚諺(りげん)に、「九死に一生を得る」という言い方がある。これを体験した人は、非常に運が強い人であると云う。
 こうした人は、窮地(きゅうち)に追い込まれ、苦境に立たされても、びくともしない人である。
 窮地とは、苦境とは、まさに「絶望に淵(ふち)」に自らが立たされる事を云う。こうした時、凡夫(ぼんぷ)は、もうダメだ。絶望だ。投げよう。逃げようと考える。

 また、その考えが、そのまま行動になって、逃避行を企(くわ)てる事も少なくない。そして、ついに逃亡の果てに、へたばり、苦慮し、疲れ、再度、自分が逃れる事の出来ない運命を抱えている事を知る。そして失意のうちに、朽(く)ち果てるのである。
 これこそ、現実逃避を企てた、一般的な末路であろう。不幸を自ら招き寄せた典型といえよう。

 しかし一方、これを見事に克服する強運の持ち主がいる。
 こうした持ち主は、まず、現実逃避を企てない事だ。逃げずに踏ん張る事だ。押し込まれても、跳ね返すことが出来ることだ。
 相撲で云えば、押され気味でありながら、最後の最後に、どっこい残って、打捨(うっちゃ)りを食わす事のできる力士だ。強運の持ち主は、実にしぶといことだ。

 このように、人生には思い掛けない形で、何らなの打開策が見つかる事もあるし、天佑(てんゆう)が吾(わ)が頭上に輝く事もある。それは「投げない」あるいは「諦めない」ということである。
 逃げずに踏み止まれば、それが逆境や困難であっても、追い詰められて、そこから不思議な力が湧(わ)くのである。
 人間、追い詰められれば、そのギリギリのところで、必ず、誰かに、何かに、奇蹟的に助けられ、命拾いをする。

 これこそ、間一髪(かんいっぱつ)で助かる典型的な形であるが、その典型的な形は、幸運の構造式の上に成り立っているのである。
 「切羽(せっぱ)詰まる」とは、こうした境遇からの生還であり、ここに「九死に一生を得る」現実があるのである。何事も「命あればこそ」であり、この命の根元は天命によって守られ、その行動原理は、やはり「他力一乗」が支配していると言えよう。

 

●武運を磨く

 危険域の中に居ても、殺される人と、殺されない人が居る。格闘技術のレベルが高くても、それが仇(あだ)で直ぐ殺される人と、格闘技術は拙(つたな)くても、最後まで殺されずに、しぶとく生き残る人が居る。
 殺される人と、殺されない人との間には、明らかに「運」というものが働いている。殺されずに最後まで生きる運を、「武運」と言うのである。「武運長久」の願いは、ここに始まる。

 したがって武運が拙(つたな)くては、幾ら格闘の技術に磨きをかけても、最後まで生き残れるとは限らない。生き残る為には、生き残るだけの因縁を持っていなければならない。だから因縁の縁として、「武運」に磨きを掛けなければいけないのである。因縁は「必然」と同義語だから、やはりここには「他力一乗」の武運が働いている。

 これは病気でも同じである。
 同じ病種の病気に罹(かか)っても、直ぐに治る人と、一旦、病原菌に犯されれば、それ以降どんどん悪化し、最後はそれが元で死んでしまう人が居る。一方は、病気に罹りながらも、直ぐに回復し、もう一方は、一旦病気に罹って中々完治せず、ずるずると悪化の方向に引き摺(ず)られ、やがては死んでしまう人が居る。
 「幸運の女神」は、誰にでも平等に、幸運の囁(ささや)きを投げかけている。しかし、これを聴く人と、聴かぬ人とに別れる。「聴く耳を持つ人」と、そうでない人に大別される。

 聴く耳を持つ人は、病気に罹ってもやがて自然治癒力が働いて、健康を回復していく。
 ところが聴く耳を持たぬ人は、体質が悪い為に自然治癒力が働かず、ついには失意のうちに短命で終らなければならなくなる。運の良し悪しは、この違いなのである。サバイバルで生き残るには、武運が拙くては生き残れない。

 「幸運の女神」は、誰にでも囁(ささや)きかける。「神風」は、いつでも、どこでも吹いている。
 しかし、微(かす)かな囁きを聴き、幽(かす)かな微風を感じるのは、その人の「徳」であろう。
 「徳」がなければ、この囁きを感知する事は出来ない。この、感知するかしないかの、違いは実に大きい。だから「徳」を養う必要がある。「徳」イコール「武運」なのだ。

蓮華(はす)「徳」と縁を結ぶ植物として、蓮華古来より尊ばれた。

 生き残る人と、そうでない人が居る。腕は立っても、それが許(こと)で、更に禍に巻き込まれ、短命で終わる人が居る。短命で終われば、寿命が尽きてないで死ぬのだから、紛(まぎ)れもなく事故死であり、横死(おうし)である。
 しかし、生き残った人が、道場での稽古上手とは限らない。むしろ下手かも知れない。それでも生き残る。

 では、この違いは何処にあるのか。
 室鳩巣むろきゅうそ/江戸中期の儒学者で、剣術を極めた剣豪。木下順庵(じゅんあん)に朱子学を学び、加賀藩の儒官、のち新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講。著に『駿台雑話』『六諭衍義(りくゆえんぎ)大意』『赤穂義人録』などがある。1658〜1734)の『駿台雑話』に、こういう話が出て来る。

 ある日のこと、鳩巣先生は若侍達が多く集まった剣術の道場に招かれた。そして、若侍達から武術修行の話を所望された。
 その時、鳩巣先生は、突然「諸君は、武術の稽古に日々専念しておる。これは、まことに結構な事じゃ。しかし、幾ら武術が優れ、腕が立つからと云って、武運が拙(つたな)くては何もならぬ。ところで諸君!武運の稽古はしておるかな」と切り出した。

 この鳩巣先生の突然の問いかけに、一同は唖然(あぜん)としてしまった。そして誰一人、これに応える事が出来ず、黙してしまった。
 この時、鳩巣先生の言わんとするところは、「武運を養う稽古が、ここで聖人の書を講ずる所以である。武運とは“徳”の顕われである。聖人の書は“徳”を積む修行なのだ」と謂(い)わしめた。

 この事を鳩巣先生は、若侍達に教えたかったのである。
 そして、わが西郷派は、武技を競う事ばかりに専念するのではなく、「徳」を養うこと、「武運」の稽古を惜しまないことを力説するのである。何故ならば、武運が拙くては生き残れないからだ。

 

●古流の秘伝が通用しなくなった今日

 傲慢(ごうまん)な大東流指導者は、「秘伝はまだまだある」と嘯(うそぶ)く。しかし、現代の格闘技が大氾濫(はんらん)する世の中で、「秘伝」という、かつての「隠し事」は、総合格闘技のバーリトゥードをはじめとして、ムエタイ、柔道、ブラジリアン柔術、レスリング、サンボ、相撲などの格闘技の巨漢選手の前では、殆ど通用しない時代になった。

 こうした時代において、秘伝と称される技法を小出しにしながら、「秘伝は、まだまだある」という説法は、殆ど説得力がない。愚者の鸚鵡(おうむ)返しに聞こえる。
 本来、秘伝と言うものは、単に古人の会得した得意手(とくいて)を、技術的に「転写」するという儀式で終ってはならないものである。
 しかし、近代は「転写」の意味が、技術的なレベルで終っている場合は少なくない。これでは「伝統」ではなく、「伝承」の範囲でとどまっている。伝承では、変化する時代の激流に対処できないのである。

 つまり、「伝承」には、技術を伝授された者の、「創意工夫」の余地が全く残されていないことである。旧時代の「転写」を。そっくりそのまま行わねばならぬからだ。
 単に、旧態依然の物の、伝承を伝承として受け取らねばならぬからだ。改良の余地は残されていないことになる。
 そうなると、現代に置き換えての、新たな伝統としての創意工夫の足跡が殆ど見られないことである。この意味からすると、伝統と伝承の違いは、こうした所にも顕われる。

 伝承は、どこまで突き詰めても「転写」の範疇(はんちゅう)を免れないが、伝統は古人の教えの上に、それを授(さず)かる者の「創意工夫」の跡が見られる。したがって、「転写」と「創意工夫」とは、自ずから異なっている事が分かるであろう。

 「転写」の欠点は、時代にそぐわないことであり、時代の流れに合わせて変化させる「創意工夫」の発想とは、自(おの)ずと異なるのである。
 そして「変化する」という次元に於いて、秘伝が単に伝承の範囲で終了している場合は、長い歴史を持った秘伝が、昨日今日降って沸いた、新興武道にも敗れることも起こりうるのである。

 

●練習場と実戦場の違いを知る

 「基本に忠実」あるいは「基本を重視する」という考えがある。
 この考えは決して悪い事ではない。しかし、「次元」というレベルで考えた場合、戦闘ステージは、最悪の場合を想定して、そこは「戦場」であろう。
 つまり、わが流で云う、「実戦場」とは、戦場の事である。

 戦場は、一般の練習場や試合場とは異なる。観客も居ない。声援やファイト・コールも入らない。また、平地とは限らない。そして最終的には「決戦場」となる場合が少なくない。命を賭(と)して、生死を超越し、そこが最期(さいご)に死に場所になるかも知れない。
 この意味において、単なる練習場と、命を賭した実戦場とは大きく異なっている事が分かるであろう。

 普通、弱者が強者に対抗する実戦場は、歴史を紐(ひも)解いて見ても、「山岳戦」になることが多い。山に立て籠(こ)り、此処を「わが根城」とする。
 行動などの主要な根拠地は、歴史上、山地が多い。ここは練習場や試合場とは異なる、異次元の戦闘ステージであるからだ。
 前者が平面であるのに対し、後者は立体であり、三次元空間を移動する行動原理が必要となる。

 これは空間を飛行する飛行機やヘリコプターが、三次元移動物体であり、また海中を見れば、潜水艦が三次元移動物体と云うことになる。
 空間を飛行する三次元物体は、陸地を移動する移動物とは異なり、また海中を見れば、海上を移動する海上船舶と異なっていることは明らかであろう。そして、三次元を移動する戦闘物体は、明らかに地上や海上の大兵に比べて小数であり、ここに「小が大を制する」根本的な戦闘発想がある。
 その為に、地上より優位に立てる戦闘物体は空間を選び、また海上の大戦力より優位に立てる戦闘物体は海中を選んだのである。

 こうした「三次元」という行動原理の中から考えていくと、山岳も、やはり三次元の戦闘ステージに入り、ここには高低移動があり、横移動がある。
 これはその他の動物が、山を根城にして暮らすのによく似ている。平地での、平面上では防禦(ぼうぎょ)において、自らが不利になっていることを知っている為である。またこれは動物が感得する本能的な自然の摂理でもあろう。

 こうした発想から、「山岳戦」という戦闘方法が古来より考え出されている。そして、ここで戦力の総結集が行われ、決戦場になる場合が少なくなかった。

 山に立て籠(こも)ると言う場合の利点は、小勢力で戦う場合のゲリラ戦に有効であり、小勢力が大勢力を迎え撃つ場合、こうした戦闘が展開される。したがって平地の戦場とは、全く異なるという事である。平地では二次元戦闘であるが、山岳地帯では三次元戦闘となる。
 ここに「山稽古」としての修練の意味があるのである。
 この意味に於て、わが流では「山稽古」を最も大事にするのである。果たして、道場内の室内稽古や防禦法だけで、無事生還する「術」が学べるだろうか。


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