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この間に、軍令部には南雲機動部隊の悲報が届いた。 これら沈んだ四隻の空母は、無敵攻撃空母の異名を取る日本海軍の秘蔵っ子であり、時速30ノットを誇る最新鋭艦であった。真珠湾を皮切りに、太平洋やインド洋を巡航し、日本海軍の積極的な作戦を実行する秘蔵っ子的な存在であったが、これ以降は逆転して、陸海軍ともに消極的な作戦しか立てられなくなって行く。 ミッドウェーの敗北や、ガダルカナルやニューギニアの数々の悲劇も、全ては連合艦隊司令長官・山本五十六の責任であり、当時の日本の国力から考えて、勝てた筈の大作戦に敗北したというべきである。 日本の運命を大きく変えていった大東亜戦争(この戦争をアメリカ側から見た場合、「太平洋戦争」と呼ぶ)の、一つ一つの戦いは敵味方ともに、大きく運に左右された。戦争というものは、ほんの纔(わずか)なことで、どちらかが有利になる。 三年九ヵ月の及ぶ大東亜戦争を論ずる場合、これを無謀な戦争と位置付ける考え方が一般的であるが、元々日本人は小兵力を以て、大敵を敗る事に異常な情熱を傾ける国民である。太平洋を挟んだ大東亜戦争が、日本とアメリカの国力の差を論い、圧倒的大差の敵と戦ったから無謀であったと一概に否定すれば、義経の鵯(ひよどり)越え、正成の千早城、信長の桶狭間(おけはざま)等の戦いから、日清、日露の戦争まで、総て否定されねばならぬ。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されねばならぬ。 アメリカの強大な国力を思う時、大国に刃向う事は無意味であるから、朝鮮人民も、ベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、アメリカの軍門に降るべきであったのか? 日本人は、この点に於て、真当(ほんとう)に論ずるべき事を論じていないのではあるまいか。 また、日本のマスコミの現状として、真当に何かを論じようとする時、スポーツや芸能の報道に素早くすり替えてしまう場合が多い。どうでもいい事に焦点を当てる。芸能人同士の結婚式の模様を取り上げたり、芸能スキャンダルだったり、勝負の世界で誰が勝ったか、負けたかという事は、結局、野球はどこが勝ったか、大相撲では誰がかったか、サッカーはどのチームが勝ったかという事であり、単に、これらは優勝したスポーツ・タレントを、英雄とする低俗な考えに他ならない。 恐らくこのような大衆の目を反(そ)らす考え方から、武勇伝は生まれるのであろう。また、ひとたび男子に生まれたなら、これに肖(あやか)りたいと願うのは、また人情であろう。 だが、多くの武勇伝は、歴史がそうであるように、その中には殺伐(さつばつ)とした、血で血を洗う残忍な、個人戦の域を未(いま)だ出得ない宿業がある。武芸者が武芸を以て武技を競うのは、暴力や弾圧を避ける為の、それではない。最初から、野望と野心を剥(む)き出しにした売名行為であった。だから武芸者は、殺伐とした死闘に明け暮れたわけである。
●政治不在の現実が日本を襲う フランス大統領ドゴールは、大統領時代、ヨーロッパの隣国・ドイツに向けて「巨大な経済力は、それ事態が政治的影響力である」と論じた。 これまでに日本の近代史を紐解(ひもど)いてみると、日本が世界構造と国際秩序に積極的に関与し、働きかけた事は殆どなかった。極東の島国として、独歩の道を選択し、古代から江戸幕末まで、中国大陸を支配した大王朝の文化や東亜の秩序には参加するが、それ以外の西欧の文化は拒絶したままであった。 歴史を振り返れば、飛鳥時代から明治維新に至るまでの約1300年間、日本は「鎖国」という名目で、国際交流への参加を拒絶し続けた。僅かに交流のあったのは、ただ二回繰り替えした、朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)の於てのみであった。 日本が、朝貢貿易を求めた時代は、大半が鎖国時代で、平安末期から鎌倉初期に掛けての頃であり、これが江戸時代まで続いた。その間に例外があったのは、僅か二度の、元(げん)のフビライがマルコポーロの言に唆(そそのか)されて日本に関心をもった時だけであった。 しかし、鎖国下の中、近代の日本を震憾(しんかん)させる事態が生じた。それは1853年に突如現われた「黒船」による砲艦外交であった。 ところが日本にとって、世界秩序は所与の条件であり、その形成については、何一つ影響力を行使できない状態にあった。 そして敗戦後の国際社会の復帰も、アメリカ任せの、予(あらかじ)め出来上がった日本国憲法を受け入れる事になる。その後の、米ソの冷戦構造下にあっても、アメリカ任せであり、アメリカによって作られた西側に連れ込まれただけに過ぎなかった。 当時の日本は、世界秩序に口出しするどころか、自らの立場を選択することすら出来なかった。総ては受身による国際参加だったのである。ただ日本にとって、好運だったのは、アメリカと言う世界の先進大国が、日本に好ましい方向に導いてくれるだけの事であった。これは実に好運だったわけだ。 しかし、精神的には、こうした体験は日本人をより一層、世界秩序に対し、受身の態勢をとらせる方向に導いた事であった。つまり、日本人の頭の中には、世界秩序などと言う、大それた問題は、強い国の考える事であり、日本はその傘下に入って、それを旨く利用出来ればいいのだという、思考に帰着しただけの事であった。それは奇(く)しくも、室町初期の考えに戻る事であった。 そしてこの事は、日本が経済大国になった時点でも変わることはなかった。
●軍事思想も戦略思想もない日本日本と言う国家を正しく機能させる為には、まず、今日のような世界平和が絶対に必要条件となる。極東の島国日本は、アジア大陸と太平洋の間に位置し、世界戦争に対し、非常に巻き込まれ易い地域に位置しているからである。 その上、日本の国土を考えると、海岸線が非常に長く、その海岸からの縦深(じゅうしん)は浅く、他国からの侵略があれば、容易に上陸を許してしまう。その為に、非常に守り難い地形をしている。 そして、これこそが、食糧と資源を、外国に依存している日本の偽ざる姿だ。 また、日本人というのは、大陸や欧米人に比べて、何よりも軍事的戦略思想に乏しい国民である。「戦争の何たるか」を知らない国民でもあるのだ。 日本が戦争を放棄しても、世界は日本に戦争を放棄させない実情がある。日本は食糧の輸入を海外の国々に依存しているからだ。したがって、これからも、日本が戦争に巻き込まれないと言う保証はないし、一度こうした惨劇に巻き込まれれば、先の大戦以上に、生地獄を見る事になるであろう。また、辛うじて生き残ったとしても、やがて取り留めた命は、風前の灯火(ともしび)となるであろう。 日本人は、何よりも異民族戦争の経験が乏しい民族である。これが乏しければ、必然的に軍事思想も、戦略思想も存在しない事になり、根本的な欠陥を持った民族と言うことが言えよう。 この事実は、先の大戦であった太平洋戦争が示す通りである。軍略的かつ戦術的な思想の欠落は、決して十年や二十年で再生するものではない。長い民族的な戦争観が必要であるからだ。 日本と清国との間に行われた日清戦争は、朝鮮の甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)をきっかけに起った戦争だった。 下関条約は明治28年4月、清国講和全権大使李鴻章(りこうしょう/清末の政治家で、曾国藩に従って太平天国の乱を平定。以来、日清戦争(下関条約)・義和団事件(北京議定書)などの外交に貢献するとともに軍隊の近代化、近代工業の育成、招商局の設立などにつとめた人物。1823〜1901)と日本の全権大使伊藤博文と陸奥宗光(むつむねみつ)が、下関の春帆楼で締結した条約である。条約の内容は、清国は朝鮮の独立を確認し、軍費2億テールを賠償、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ほこう)諸島を割譲、沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(すしゅう)・杭州(こうしゅう)を交易市場とすることなどだった。 この条約により、日本は田舎国家から近代国家への道を、西欧列強の真似をしながら帝国主義、植民地主義を大陸に向けて展開して行く事になる。だが、こうした幸運も、長くは続かず、次に帝政ロシアと戦う事になった。日露戦争である。 日露戦争は、日清戦争の僅か十年後であり、明治37年から翌年(1904〜05年)に掛けてまで行われた。また、この戦争は、満州・朝鮮の制覇を争った戦争であった。 この戦争の黒幕は、国際ユダヤ金融資本であった。背後は、黒子の如きシナリオライターが居て、ユダヤ金融資本から仕掛けられ、日本は大国ロシアと戦わねばならなくなった事だ。
この為、高橋は、ニューヨークに赴き、アメリカで外債募集を始めた。ところが、結果は期待外れのものとなった。既に、根回しされていて、外債は募集不可能な構図が出来上がっていたのである。高橋は途方に暮れる。 これに落胆した高橋は、あるユダヤ系金融ブローカーに、ロンドンのロスチャイルドに会う事を薦(すす)められる。一縷(いちる)の望みを託して、高橋はロンドンに渡る。ここでも、既に根回しが出来ていたのである。高橋は首尾良く、ロスチャイルドに会う事が出来た。それも、そうである。既に根回しが出来ており、借款のへ手筈が整っていたのである。 ロスチャイルド卿から、500万ポンドの受諾に成功するのである。しかし、この成功は必然的にそうなるように、最初から仕組まれていたのである。 歴史は、これは偶然に隣り合わせたと片付けているが、実はこれも偶然を見せ掛けた、必然的な画策があった。そして、これは余りにも良く出来過ぎた偶然であった。 これが切っ掛けとなり、アメリカでの外債引き受け人気は高まり、日本は合計四度の外債発行で8200万ポンド(当時の金額で4億1000万ドルで、現在の約1兆6000億円)資金調達に成功したのである。 この時、ヤコブ・シフは日本の外債引き受けに、ロックフェラー系のシンジケートである、ナショナル・シティバンク並びに、モルガン系のナショナル・バンク・オブ・コーマスを引き入れている。
日本は、ヤコブ・シフが滞在している一ヵ月半以上の間、最大級の歓迎を行っている。滞在中は明治天皇との午餐会(ごさんかい)、西園寺公望首相との晩餐会、尾崎行雄東京市長との招宴、日本銀行主催の小石川後楽園での園遊会などであり、こうした動きの中で、高橋是清とヤコブ・シフの交友は非常に身密になったのである。 1904年4月、ヤコブ・シフはロスチャイルド卿に宛(あ)てて、次ぎのような手紙を認(したた)めた。 シフが来日した時、彼は東京から関西、更には朝鮮や大連にも足を延ばしている。また、本当の来日の裏には、シフの極東への進出があり、アメリカの鉄道王ハリマンの主導の許(もと)に、満州での鉄道計画に食指を伸ばす事であった。満州での権益の事を考えての、日露戦争への外債引き受けであったのである。
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