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原子爆弾被爆に被爆した人々は、生きながらに人肉や肌を焼く尽す生地獄を体験した。髪の毛は抜け落ち、皮膚は爛(ただ)れ、辛うじて一命を取り留めても、原爆外傷や原爆火傷の他に、悪心(おしん)・嘔吐・白血球減少・出血傾向・脱毛・貧血・発熱・口腔咽頭病巣・続発的感染症など放射能による傷害が著しく、火傷にはケロイドが長く、後遺症を引き摺り、また、眼の障害による白内障が多発する病魔に陥れた。 では、この大惨劇はどうして起ったか。 広島・長崎の原爆投下に対しては、トルーマン大統領の、単に政治理念ばかりでなく、原爆計画にかかわった科学者にも、日本の何処に落としたら効果的か、当然、これを検討する議論は繰り返されたはずである。第一弾を、軍港の多い広島に、第二段を八幡製鉄のある北九州工業地帯にと、原爆投下計画を立てていた。ただ北九州の場合、B29が飛来した日、北九州上空が曇っていて、攻撃目標が定まらず、急遽(きゅうきょ)長崎に変更になったまでのことだった。
1945年5月8日、ドイツは降伏した。 しかし、両作戦を実施するには、長い月日と多大な犧牲を強いられると予測された。1945年4月までに、沖縄戦はようやく終局を迎え、終結を見ていたが、沖縄戦の教訓から考えると、組織抵抗を企てるのは軍のみならず、民間人も死に物狂いで抵抗した事から、両作戦については、懸念される向きもあった。アメリカの対日戦の指導に対する最大の懸念は、日本には非戦闘員は居ないと言う考えに立ち、相当に激しい組織抵抗が試みられる懸念であった。 1945年6月18日、会議終了間際、トルーマン大統領は、一人の終始沈黙を守っている人物に注目した。それは国防長官のマックロイだった。トルーマンはマックロイに意見を求めた。 そして当時、日本の天皇に対し、原爆を遣う事を警告し、降伏するように促すべきだと示唆を与えた。この示唆は、会議に出席した多くの出席者に感銘を与えた。しかし一方で、前もって警告を与えると言う事に猛反対意見があり、原子爆弾がうまく作動するか、しないか分からないのに、どうして警告する事が出来るかという意見が湧き起こった。そこで事前に警告せず、原爆を使用して、それを本土侵攻以前に敢行する事で合意をみた。これこそ、白人達の共同謀議ではなかったか。 1945年6月18日を契機として、合衆国の原爆使用は正式に対日戦計画に折り込まれた。そして原爆使用計画は、マーシャル陸軍参謀総長とスチムソン陸軍長官、それにグローブス総指揮官を加えた三人に全権が与えられ、日本に原爆投下をする事が決定された。
日本列島は位置的に大きな盲点を持っている。 グローブスの地形に目を付けた発想からも分かるように、その脆弱さを如実に顕わしたものが、先の大戦の末期に遭遇した、広島と長崎の原爆ではなかったか。 日本のような、脆弱(ぜいじゃく)な地形こそ、原爆は最も有効的なのである。特に、平野部では非常に効果的で、日本の場合、主要都市は平野部に集中している。原爆は、原爆そのものの破壊力の恐ろしさよりも、原爆の使用後に顕われるイメージが非常に残忍で、後遺症が長引くという事である。この後遺症のイメージが、特に今日でも、多くの日本人を恐れさせている。原爆の残忍性の衝撃は、肉体ばかりでなく、心にも大きな傷跡を残すのである。こうした総合判断が、原爆使用に繋がったのである。 しかし、本当の地獄が始まったのは、日本が戦争に負け、無条件降伏を受け入れてからである。戦争というのは、戦争をしている時よりも、戦争が終わってから、本当の地獄が始まるのである。 しかし、これは実に早計であった。 ここでは雌雄をかけて熾烈(しれつ)な戦いが繰り広げられる。詭計(きけい)が謀(はか)られ、袋叩きがあり、残忍な手口の戦いが演じられる。そして、作戦上の勝敗が決定される。
●汐時を読む
命を失うか、取り留めるかの死活は「時間」である。 また、生き残りを賭(か)けての死闘において、死に急ぎを避け、生き残りに徹する事の出来る者は、己の心情に載せて耐え得るのは、心に分厚い甲冑(かっちゅう)を纏(まと)っているからである。要するに、心の防禦(ぼうぎょ)であり、武器を携帯したり、武技を身に付けるといったものは、単に、二義的なものに過ぎない。 しかし、勝機を逃がした者が居た。先の大戦では、こうした指揮官が多かった。 一方、昭和天皇を始めとする、当時の良識者の殆どは、議会制民主主義と平和外交の支持者だった。当時の民主主義は、今日の欧米追随の民主主義と異なり、「民主」という言葉に正しく反応し、議会制民主主義を厳守した時代であった。 それは「戦前」という、時代に於いてでさえもある。 ところが、勲章ばかりを欲しがる将星は、「時の流れ」と称して悪乗りを重ね、軍国主義の方向に流れて、5・15事件や2・26事件以降、事態は急激に反民主主義の方向に流され、国民不在のまま、対米英戦争の方向に流されて行った。 特に陸軍中央部は、日中戦争の泥沼の中に足を踏み入れて行った。陸軍中枢部は、大陸問題に於ては戦線不拡大を決定しながらも、指令を無視して突っ走る関東軍の独走は制しきれず、日中戦争は全中国大陸から、仏印までに拡大されて行った。 1940年(昭和十五年)6月には、「日本海軍は米英両国を相手にした戦争には勝てない」としながらも、その海軍が、英米戦に突入した。翌年の9月、日本海軍は対英米戦を了承し、太平洋戦争突入の準備を始めた。今更、時の流れに逆らえないという雰囲気に随(したが)ったのである。ここに日本の太平洋戦争突入の惨劇が始まるのである。 そして、この英米戦を指揮したのは、机上の上のみで、兵法に触れた事の無い、伝聞でしか戦場を知らない陸海軍の大学校を出た「優秀」と称された、戦争を知らない参謀達であった。 その戦争指導への概念は、規制の体勢体質により、「時の流れ」という社会の変化に対応する流れであった。
2・26事件以降、統制派の主導権を握った東条英機(とうじょうひでき/1941年組閣、陸相・内相を兼ね、太平洋戦争を起し、参謀総長・商工・軍需各相をも兼務。敗戦後、A級戦犯として絞首刑)を始めとする陸軍首脳部は、表面上の経済統計や経営状態を極めて良好と過信し、背後の経済的浪費と、心理的圧迫を無視したまま、現状への不満と苛立ちの昂(たか)まりに、太平洋戦争への道を踏み出したのである。
●偉いと称された旧陸海軍の高級軍人は、ちっとも偉くなかった日本人は、明治以降西欧の近代的文明の恩恵に預かり、科学万能主義が運命づけられて、最も素朴な疑問を忘れ、多くの先入観で動かされている場合が少なくない。知るべき対象や、求めるべき求道に迫る場合、それは既に、生半可な答が用意されていて、正当な古人の智慧(ちえ)の流通を疎外し続けている。 古人が教訓として残した智慧は、泥沼の底に深く沈められ、封印され、敗北で得た貴重な教訓は、小手先だけの痛快な武勇伝に打ち消され、現代を生きる今日の日本人には、そこから学ぶ点は最早(もはや)無いとしている。だがこの考え方自体が、既に誤った概念を植え付けているのではある。時代が変わっても、古人の教訓は、素直に学ぶべきである。 日本人の、人を観(み)る眼と云うのは、今も、百年以上の昔も変わらないと思うが、「官僚は優秀だ」と思っている事である。その最大の理由として、官僚になる為には、彼等は非常に難しい試験に合格したと言う点を挙げる。暗記力の富んだ人間、試験上手な人間を、頭のいい人間、優秀な人間と誰もが錯覚してしまう。 多くの日本人が考える「頭のいい人間」あるいは、「優秀な人間」と信じられている人間像は、学校の指導する教科書をそのまま受け取り、即座に暗記したり、丸暗記して暗誦(あんしょう)がうまい人を、頭がいい、あるいは頭の回転は早いと表するようである。右脳の想像力よりも、左脳の記憶力を取り上げて、ここに焦点を当て、暗記のできる人を、「頭のいい人間」あるいは、「優秀な人間」と過信したのである。 難解な試験でも、必ず答はある。暗記の得意な人間は、こう考える。暗記をした項目順に解答法を検索する。答えが存在することを知っているからだ。 例えば、問題が十問提示され、一問十点として、易しい順に、時間内に八問解けば八十点が得られる。しかし難しい順に解けば、一問解いて時間切れとなり、評価は十点しか得られないからだ。問題着手の狡猾(こうかつ)さとでも言おうか。 試験上手は、答があると分かっていて、問題に着手するのであるから、簡単な順に、問題を手掛ける器用さを備えた人間である。こうした問題への要領と、器用さの極意の伝授は、今日の進学塾や予備校でも指導してくれ、これが試験上手になる為の道だと教えているのである。こうした試験上手の手引きは、今も昔も変わらない。 答が有るか無いか分からない事に挑戦するのが、ある意味で本当の「挑戦」と云う事になり、最初から答があると分かっていて、これを解くのは、単に勤勉家の努力であって、挑戦とは云わない。 戦前・戦中・戦後を問わず、多くの日本人の思い込みは、「欧米に学ぶ」と言う、明治以来の教育の在(あ)り方の中で、試驗上手な人間を「優秀な人間」と信じる癖(くせ)がついた事だ。 この当時は、各市町村に於いても、身体健康にして学力優秀であれば、陸軍では地方の幼年学校に入学し、そこから陸軍士官学校へと進学した。あるいは県立中学の中途から陸軍士官学校に入学し、軍人への道を選択した。更にこの中から、ほんの一握りの成績優秀者が陸軍大学校へと進み、優秀な人間としての折り紙が付けられたのである。 また、海軍では市町村の、身体健康かつ学力優秀な少年が海軍兵学校へと進学し、更に優秀な者が、各種特科学校や部隊経験を経て海軍大学校へと進学して行った。そして恩賜(おんし)を筆頭に、成績順に、各ポジションを占めたのである。 海軍の軍歌ではないが「月日火水木金金」は、海軍軍人の猛訓練を象徴した歌であった。こうした猛訓練の中で実戦経験を積み、その中でも限られた一握りの人間が、軍令部総長や連合艦隊司令長官になっていくのである。 幼少年期を見る教育者の評価する、所見と言うものは、ある意味で残酷なものを秘めている。 例えば、世に天才少年なる人種が居る。天才と言うからには、まず、その頭脳の優秀性が挙げられる。生れつき備わった優れた才能をもって、人をリードする可能性を、幼少の頃から秘めている。子供でありながら、その態度や言葉使いに、天才ぶりが発揮される。しかし幼少の頃の、先天的に優れた才能を持つ神童は、生涯、天才児として、その先もずっと才能を持ち続けるとは限らない。 日本人の場合、この暗記力のみに眼を付け、記憶の優れた人間を「頭が良い」と評価して来たわけだ。 だから高級軍人は、「みな優秀な人間」と信じたわけである。しかし、実際に戦争をしてみると、彼等はそんなに優秀ではなかった。 そして、この時代の陸海軍の軍人達は、単に、日清・日露の戦勝当時の概念にこだわり、自己顕示欲と自己の権限分野のみに執着する情けない高級軍人が多かった。ここに当時の旧陸海軍の軍隊官僚に、人材選択の誤りがあったのである。 暗記力の優れた者や、暗記力に富んだ者だけが、頭が良くて、物が観(み)え、仕事が出来て、それにより出世するという単純過ぎる社会構造の図式は、もういい加減に、こうした呪縛から解かれなければならない。生存術が問題にされる今日、滑稽な選民的英雄主義から解放される、必要性に迫られているのである。
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