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なお、この事件の地名を、柳条溝とするのは誤りであり、正しくは「柳条湖」である。 こうして日本は、日中戦争の泥沼の中に嵌り込んで行く。1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日本の全面的な中国侵略戦争で十五年戦争の第二段階に突入する。 日本は、1938年中に中国全土の主な都市、鉄道の沿線を攻略したが、中国政府軍は重慶(じゅうけい)に遷都して抗戦を続け泥沼の様相は長期戦化し、1941年12月8日にはアメリカとの間で、太平洋戦争に発展するのである。
中国の東北三省および東部内蒙古(熱河省)をもって作りあげた傀儡国家「満州国」は、もと清の宣統帝(せんとうてい)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政として建国、1934年に溥儀が皇帝に即位し、首都は新京(長春)に置いた国である。中国では、日本が戦争に敗れ、敗戦に至るまで偽満州国と称された。
世界世論の注目する中、国際連盟の議会場から、ふてぶてしい態度で退席した松岡洋右の姿も、実は感情から発したものであった。 その後の日本の歩いた道は、1933年にドイツ第三帝国が樹立されヒトラーが首相に任命された後、1939年にはドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発し、これまでの軍事防共協定は、1940年9月には、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリアの三国は日独伊三国同盟に発展する。
日・独・伊三国同盟は、昭和11年(1936)11月25日に締結した日独防共協定を、更に発展させたものであった。そして、この背後には、1933年に政権をとったヒトラーの、過酷な国際政治への社会科学的軍事力が無言の威圧として存在していたからである。 1936年、ドイツは征服の為の快進撃を展開する。 ヒトラーは、実際のドイツ軍よりは、強く見せかける為に画策を始めたのである。 この時代の第一線の戦闘機の時速は、平均して450キロ程度だった。500キロも出せば俊足の戦闘機ということになる。 ヒトラーは、このように一旦世界を震(ふる)え上がらせておいて、オーストリアとり、ズデーテンをとり、チェコスロバキアまでとって、一気に合併してしまったのである。 当時の日本は、 ドイツの快進撃に目を奪われ、すっかり魅了されて、ドイツと軍事同盟を結ぶことになる。特に日本陸軍は、ヒトラーの著書『わが闘争』の、黄色人種排撃の意味も全く理解しないまま、ドイツにラブコールを送っていたのである。
1941年12月8日には太平洋戦争が開始された。アメリカの執拗(しつよう)な参戦工作により、アメリカの対独ならびに欧州参戦を促す為に、ABCD包囲網、ハル・ノート、真珠湾奇襲攻撃へと、日本の運命は誘導されていくのである。 この流れを追って行くと、日露戦争が勃発した1904〜05年から、途中の1931年の日中戦争まで26年あり、太平洋戦争までは36年あり、実に、この三十六年間に日本人は、戦争で戦うと言う事を忘れてしまった、「戦争を知らない人種」に成り下がってしまっていたのである。
●民主主義と平等主義の矛盾の中に生きる現代人 日本の太平洋戦争への参戦は、見事に完敗した。広島・長崎の原爆で、完膚なきまでに叩きのめされ、それ以降、日本人は原爆恐怖症になり、戦争恐怖症になり、武器さえ遠ざけれいれば世界は平和だと信じるのようになった。 その行動と努力の中には、相当の経済的犧牲と、幾分かの人的損失も覚悟しなければならない。特に世界に平和を乱す、政治目的の為の暴力あるいはその脅威に対して、経済的制裁を率先して実行するべきであろう。 しかし日本政府の弱腰外交を見る限り、毅然(きぜん)とした態度は何処にも見る事が出来ない。経済制裁には極めて消極的だし、それは日本が北朝鮮に対する態度を見ても明白である。その上に、日本政府の政治動向を見ると、将来の利権を求めて、侵略的独裁者やテロリズム支援者に対しても、こうした政権にすり寄り、猫撫(ねこな)で声のメッセージを送っているのである。 もし、日本が本当の平和を望むなら、経済的、文化的、軍事外交的な犧牲を払い、かつ情報の点において、多大な犧牲を払っても、「非軍事的抑止力」を発揮すべきであろう。 米ソ冷戦時代、日本はアメリカの「核の傘」の下で、太平の眠りを貪(むさぼ)って来た。こうした生き方を展開して来た日本は、「非軍事虜的抑止力」はおろか、経済効果の行使も、それを発揮する行動力も、技能も、意志も持たないのである。その覚悟すらないのである。憲法問題を理由にして、国際貢献に犧牲を払う事は非常に消極的であり、可能な手段すら、その手を打たないで見逃して来た。近年に至って、やっと重い腰を上げ、しぶしぶ国際貢献の真似事をしだした。 一方自由貿易については、日本がこれから先も繁栄を続ける為には、多角的な自由貿易の思考が必要不可欠である。 日本の輸出品の多くは、その殆どが先進国相手の代替え製品の生産方式で展開されている為、価格と品質の凶相が機能しなくなり、日本の独占態勢に入れば、この輸出入が忽(たちま)ち減少するであろう。 この縮図は、昭和5年(1930年)1月〜4月に実施された、第一回ロンドン軍縮会議(日・英・米・仏・伊の五ヵ国による海軍軍縮会議。この時日本は、前首相の若槻礼次郎を全権として送ったが、日本の要求は退けられ、英・米・日の比率を大型巡洋艦を8.2:10:6に抑えられ、更に小型巡洋艦を10:10:7のトン数比を押し付けられた)を見ても明白である。この時、日本は軍隊官僚の抵抗を押さえて、軍縮条約に調印したではなかったか。 その結果、日本は米英と建艦競争となり、日本は忽(たちま)ちアメリカに追い越されてしまったのである。 否、日本は寧(むし)ろ、それを回避して避けて通ろうとしているのではないだろうか。また、国民の多くも、その犧牲は嫌う節があり、個人主義に趨(はし)る日本国民の多くは、こうした努力は、努めてやりたがらないのが実情である。
●政治哲学のない日本の妄想日本領土内の人口定住の原則は、今や崩壊しつつある。移民が無秩序に流れ込む懸念(けねん)が大いにあるからだ。本来は、移民や万民が無秩序に増えない世界秩序を作る事に努力しなければならないのであるが、こうした事は各々に国に任され、この点においては不法状態である。 日本の社会形態を考えると、日本は均質性の高い、然(しか)も、社会に治安と公共のサービスも非常に精巧なシステムで出来上がっている。その上、生活環境も清潔であるし、国民の美意識も、非常に高いレベルを持っている。こうした快適な、精密機械の心地よさの中に、現代の日本人は生きているのである。 この精密機械的な心地よい社会構造は、単に核攻撃に脆弱(ぜいじゃく)なばかりでなく、海外から押し寄せる無秩序な難民の流入に対しても脆弱である。近年を振り返れば、日本は幸運にも、大量の難民が押し寄せると言う事はなかった。更に、長い間、自由民主党による一党独裁国家と言う政治形態が続き、日本型の資本主義を高度に発達させて、経済的享受も得た。 だが、こうした社会形態は、一党独裁の政治バランスが崩れた時、世情は不安定になり、その不安定に乗じて、忽(たちま)ちにして大量の難民が流れ込んで来る危険も浮き彫りになり始めた。 日本は年間、百億ドル以上を拠出(きゅしゅつ)する世界最大の援助国であるが、その拠出法や、対象とする国家に対し、援助内容や政治哲学と言ったものは全く無い。丸腰外交で、取られるままに拠出し、脅されるままに拠出する。 昨今の中国大陸や東南アジアなどで、日本人がバカにされ、抗日運動や日本人排撃運動が起っている現象の裏には、日本人自身に、日本国民としての意識がないからであり、ある華僑(かきょう)雑誌の評には、次のように酷評された。 この酷評は、「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」であり、心底から求めれば、華僑の評した言は、目的にぴたりと合致しないまでも、大きな見当違いにはなっていない。 拝金主義、金銭至上主義と言う金銭貪欲思想に振り回される日本人が、エコノミック・アニマル(economic animal)と評されて随分と久しい。 世界は経済動物である日本人に対し、経済的な利益のみを追求する日本人をエコノミック・アニマルと皮肉った。そして今日も、その延長上にある。 多くの企業は、かつての戦前の大陸侵略を思わせる無規範(anomie)を以て、世界の至る所に進出し、多国籍企業や工場を建設し、経済効果の我田引水を展開している。
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