■ 諸葛亮孔明/解説 ■
(しょかつりょうこうめい/かいせつ)
三国時代、蜀漢の丞相で、字は孔明。山東琅邪の人。
劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅(りゅうぜん)をよく補佐し、有名な出師表(すいしのひょう)を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。(181〜234)
孔明が妻を迎えたのはいつ頃であったか定かでないが、恐らく彼が臥竜と称され、その噂に上り始めたのが二十五歳前後であることから、凡そ、その頃と断定できよう。
さて、孔明にはその彼の見識の素晴しさに、ぞっこん惚れ込んだ男がいた。その男の名前を黄承彦という。
彼は襄陽の街沿いに流れる漢水の南岸の地に住む名士で、豪族・蔡諷の娘を娶った人物である。
黄承彦は、孔明の人柄と見識にすっかり惚れ込んでしまい、自分の娘の聟(むこ)になって欲しいと所望したのである。襄陽地方の名士の家柄であるから、身分については不足が無かったであろうが、黄承彦の娘は醜女で、その器量の悪いことが街中に知れわたっていた。
黄承彦は孔明に、遠慮ぎみに話しを切り出した。
「あなたは奥方を探しておられると聞き及んでおりますが、それでしたら、私の娘を貰って頂けないでしょうか。正直申しますと、娘は髪の毛も赤茶け、色も黒く、容姿容貌はさっぱりですが、才気に優れているのがせめてもの取り柄です。あなたの志を立派に成就させる女だと思いますが、如何がでしょうか?」と、遠慮気味に孔明の顔色を窺いながら言った。
これを聞いた孔明は、
「分かりました。娶(めと)らせて頂ます」と、娘の顔を見らずに即答したという。
そして黄承彦の娘を妻に迎え入れたのであった。
恐らく容姿端麗を第一条件につける凡夫は、兼々の醜女の噂から、直ぐに断わるに違いなかった。
しかし孔明は醜女の噂などものともせず、黄承彦の娘を妻として迎かえ入れたのである。ここが孔明の臥竜たる所以であった。
これを知った人々は、噂の醜女の女性を妻女にしたから驚かない筈がなかった。
口々に、「真似するな、孔明の嫁探し。とんだ醜女をひきあてた」と嘲笑と共に囃し立てたのである。
しかし彼女は父親の黄承彦が云った通りの良妻賢母であった。
後に彼女が賢夫人となり、多いに内助の功を上げ、才女振りを発揮するのである。また賢夫人は、孔明の弟・均の家庭教師を引受け、彼の学識を深めるのに一躍買ったのである。
もし孔明が、凡夫の次元の外見に晦(くら)まされる女性観を持ち、女性を容姿端麗だけで判断し、外見だけにしか眼を止めない人物であったら、恐らく荊州の地で晴耕雨読の生活を続けながら、極めて恵まれた学識的な、そして人間的な環境の中で知力を蓄えることは出来なかった筈である。
孔明を臥竜にまで押し上げ、天下の時機を冷静に窺わしめたのは、賢夫人の内助の功が、裏で重要な役割を果たしていたのである。
また賢夫人も、姿をわざと醜女に変えて、臥竜・孔明の前に現われた観世音菩薩であったのかも知れない。孔明は、恐らく賢夫人の心の奥に潜んでいた、彼女の美女としての、本当の美しい姿を見抜いたのではあるまいか。
●出師表
蜀漢の諸葛亮(しょかつりょう)が、劉備没後、魏を討つため出陣するにあたり、後主劉禅に奉った前後2回の上奏文。うち後出師表は諸葛亮の作でないとされる。 |