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誇りの裏付けとなる数々の技法

兵法
(ひょうほう)

●無謀無作の光秀での末路

 何故、光秀が謀叛を決行したか。
 この事は、一概に議論を重ねても尽きないところであろう。
 しかし世の中には良くある事として、『韓非子』を学べと追言したい。

 大企業、あるいは安定した躍進を見せる企業下で、その役職は重役クラスで、真面目で秀才型の人の場合、往々にして光秀のような謀叛に走る場合がある。人間関係のバランスが崩れ、そこから生じ軋轢(あつれき)や転任が加わると、ある日、突然被害妄想が走り、精神状態が不安定になる。
 この不安定の要素は、第一は『韓非子』を知らない為であり、第二は欝状態が神経を消耗させる誘因に導くという事実があるようだ。
 人間として、修行の出来ていない人ほどこうした状態に陥りやすく、被害妄想は更に大きくなる。

 光秀が謀叛を起こす年齢は、時に五十五歳。花も実もある織田家の大重役であった。
 これまで信長を補佐し、我が夢を信長に託して天下取りを夢見た男だった。精一杯、己を生かして働く場所を見付け出し、自分の知恵を最高に生かせる職場を得ていた。
 ところが性格の不一致から軋轢が生じ、ついに謀叛に走る。単に愚かな結末と嘲笑するには余にも短見であり、知謀の将といえども、起こりえる現象である。そしてこうした状態に陥ると、即座に心身の健全性は拮抗を失い、精神に異常を来す。
 当時、光秀が『韓非子』を熟知していたらと悔やまれてならない。そうすれば、神経衰弱など煩わずに済んだであろう。

 光秀の水魚の交わった当時は、その最高の頭脳と軍略で縦横無尽な働きを見せていた。ところが、信長を敵と見做し、討ち捕ってからの彼の行動は異常である。全く無謀無作なのだ。
 愛宕山権現に籠って三度も御神籖(おみくじ)を引くなどは、全く説明がつかない。
 もし光秀に計画性があり、信長を討ち捕ってからの戦争計画があったならば、信長を本能寺で、更にはその嫡男信忠を二条城で討ったのが六月二日の早朝であるから、充分に時間があったはずである。
 いくら秀吉が「神業(かみわざ/一般には「神速」とも)の中国大返し」をやってのけたとしても、十日間という時間は充分にあったはずなのである。

 ところが光秀はこの間、何もしていないのである。
 兵法の戦略から考えて、信長の本拠地で難攻不落と称された安土城での籠城(ろうじょう)を決意して、そこに籠るべきであった。
 この城には諸大名の人質も多く留め置かれ、諸大名に向けて政治工作するチャンスは幾らでもあったはずである。光秀の最高の頭脳を持ってすれば、意図も簡単に遣って退けられたはずである。

 また姻戚関係では、組下の大名・細川幽斉、ならびその子・忠興、筒井順慶、高山右近、中川清秀らががっちり味方になったはずである。その他にも地侍や浪人を募兵して、光秀軍の兵力増強を打つなど、手は幾らでもあった。しかし光秀のこうした策は未遂か、失敗に終わり、殆ど功を奏しなかった。
 天下随一と称せられ、信長の天下取りを指南した軍師としては余にもお粗末な末路であった。これも偏に、『韓非子』を知らない為であった。

●甲州流兵法の祖・山本勘助

 まず、軍師といえば日本では山本勘助がその第一人者に上がる。
 勘助は入道として道鬼を号に用い、晴幸(はるゆき)とも称し、『甲陽軍鑑』では勘介を名乗っている。
 「風林火山」の旗印の許、これを軍旗にして、勘助は縦横無尽に、甲斐や信濃を駆け巡った軍師である。

 その風貌は痘痕(あばた)面で、その上、片目が潰れ、手の指も揃わず、足も不自由(隻脚)な小男で、四十歳の初老を迎えた醜男(ぶおとこ)であった。
 こうした身体的にも恵まれない山本勘助が、後に武田二十四将の第一人者となり、知謀で武田信玄を指南し、軍師としての能力は当代超一流であった。
 こうした勘助の劇的な活躍は、余にも有名なので、一時は架空の人物として噂された事もあったが、昨今は軍師としての地位も、またひとかどの武将である事も立証されて、その地位は不動のものになった。

 勘助は少年時代、片目が潰れ、痘痕(ほうそう)の後遺症としてアバタヅラになった。
 また勘助は、指の揃わないその無器用さから、父親から縁側に蹴落とされて、足が萎えたとも言われている。
 のち自らの不幸に発奮して、剣術の修行に取り組み、剣客(けんかく)として諸国を放浪して兵法を学んだとも言われる。

 彼の足跡を辿ると、京都を皮切りに、南は九州豊後、北は常陸や津軽に及んだ。
 行く先々で古戦場に立ち寄り、その場に実際に立って、山河を配し、地形を調査し、繰り返しシュミレーションして戦略を検討し、更には城壁や、城の構造を絵図面に写取り、築上に関しての資料を集めて回った。その上で、この城を落とす為にはどうしたらよいか、攻略法を研究したのであった。

 また各領国の治政や軍政、並びに風土や風俗、更にはそこに棲(す)む人の人間気質まで探索したのである。そして名のある武将の許に馳せ参じ、軍法を論じる事も怠らなかった。
 紀伊の楠木正成の遺跡を巡ったり、河内に止まること約六年、楠木流の兵法会得に努めた。

 こうして兵法を研鑽し修行を重ねた勘助は、十数年の兵法修行の後、ついに独自の勘助流ともいう兵法を完成させ、故郷の三河に戻ってきた。
 今川義元の家老・朝比奈兵衛尉は、こうした勘助の苦学の末に完成した兵法に感心して、主君・義元に推挙するが、義元は勘助に一瞥(いちべつ)をくれて、
 「剣術に優れ、兵法を巧みに遣い、知謀で、剛の者と言うが小男ではないか。また風采(ふうさい)も上がらず、色黒のアバタヅラで、片目の上、足萎えと言うではないか。今川家は代々、将軍家と同じ同門の高貴な家柄である。そのような片輪者を抱えたとあれば、世の中の物笑いであろう」と一蹴した。
 今も昔も、人材登用に容姿容貌を以て、差別する習慣は中々変わらないようである。こうして義元から一蹴された勘助は、その後も約十年間の浪人暮しが続く。

 しかし天文十二年(1543)四十四歳(一説には五十一歳とも)の時、勘助に好機が訪れる。名将・武田信玄との出逢いである。
 二十三歳の青年大名・信玄は勘助を見て好意溢れる笑みを泛べて、「よき面構えかな」と爽やかな声で勘助の容貌を褒(ほ)めた。そして約束の知行の二倍の二百貫の朱印状を与え、勘助を優遇した。信玄は、長い間の風雪に耐えた、その面構えを、「よき面構えかな」と褒めたのである。男が、容姿でない事がここに証明されている。

 勘助の感動は、ここで一気に爆発し、この主君の為なら思う存分働いて、いつでも死ねると思った。今川義元とは、人を見る眼は雲泥の差があったのである。
 信玄が二倍の知行で召し抱えた勘助に対し、重臣たちは不信の意を唱える。
 それに応えて信玄曰く、
 「あれほどの劣った容貌と、醜い風采でありながら、世に聞こえた兵法家という。ならば、噂の五倍、あるいは十倍の価値のある人物と見た。今はそれがあの風采の下に隠れ、決して外からは窺(うかが)い知る事が出来ないが、おそらく築城や、その武術や戦術・戦略は相当なものであろう。そして長い間、苦しい、辛い不遇の歳月に耐え、そに甘んじて業(わざ)を練り上げたのであるから、思案や工夫も相当に深かろう。それなるが故に、純真なる心の持ち主と見た。僅か二倍の知行では、まだまだ遇し足りない気がする」と重臣たちを諌め、それに重臣たちも成る程と納得した。
 ここに信玄の人を見る確かな眼があった。

山本勘助のイメージ像

▲山本勘助のイメージ像(クリックで解説)

 『甲陽軍鑑』では、今川義元が山本勘助を用いなかった事を、更に追言し、「人を見る眼のない大将は、人材発掘にも怠慢で、表面で人を窺い、表皮で判断する無能しか持ち合わせていない。その上、物財に取り囲まれ、側室や寵愛の妾の類をはべらし、容姿端麗に眼を奪われている。しかしこうした愚将は、やがては寝首をかかれたり、あるいは大名家の活力は失われ、命運が尽きて滅びてしまう」と書き添え、その証拠に、義元は永禄三年(1560)に織田信長から桶狭間で、呆気なく討たれてしまったと記している。

●軍師・山本勘助の誕生

 山本勘助は軍師として優れた卓識を見せた。
 その最初の知謀が、信濃の名門・諏訪頼重を滅ぼした時の事である。
 信玄は頼重を切腹させた後、その娘である美しい由布姫に一目惚れし、彼女を妾にしたいと言い出したのである。これに重臣は皆反対した。

 さすがの信玄も、こうした重臣たちの猛反対には立つ瀬がなく、打ちしおれたが、ただ勘助だけは逆の意を唱え、信玄の妾希望に沿った意見を述べた。
 「それがしは逆に考えまする。御屋形様(信玄公)の御威光がたいした事でなければ、諏訪の残党共も、側室となった由布姫様と共謀して策略を立てるやも知れません。
 しかし御屋形様は類稀なる日本一の御大将。その御大将に対して、諏訪の遺臣が何故反抗しましょうぞ。むしろ由布姫様に御子が授かり、誕生いたしますれば、諏訪もお家再興に望みを賭けて、遺臣共は普代の臣に劣らぬ奉公を武田家にいたさんと馳せ参じましょう」
 勘助の言は説得力をあった。重臣たちも成る程と膝を叩き、勘助の言に素直に従った。
 また信玄自身も納得し、「これが孫子の兵法にある、戦わずして『勝つ』を得る戦略であるな」と大喜びした。こうして勘助の信任は一層深まって行った。

 由布姫は二十四歳で病死するが、その姫から生まれたのが勝頼で、勘助が予言した通り、勝頼が成長するにつれ、武田王国は甲州と信州を一体化した大国となって行った。
 信玄は、勘助の軍学の知謀を更に評価した。知行は既に八倍となり、信玄は勘助をこう評した。
 「世に名だたる学者は多いが、それは単に物知りの類に過ぎない。ところが勘助は違う。生まれも卑しく、風貌も醜く、履歴もさしたるところがないが、まことの物知り(実践家)である。これを智者という。山本勘助こそまことの智者ぞ」
 勘助はこれに応えて様々な知謀を巡らす。

 天文十四年、信州伊那の高遠城攻略が開始された。
 勘助は軍師として作戦を立案し、厄日に総攻撃をするという、重臣たちが反対する策を進言し、堅城といわれた高遠城を難無く攻め落とした。こうしたところにも、勘助の迷信に捕われない自由闊達さがあった。

 これについて『韓非子』は言う。
 「君主が、日や時の吉凶を気にかけ、神に心を寄せ、占い・卜筮(ぼくぜい)を信じ、祭り好きだと、そういう国は、亡ぶべきなり」
 九星気学や運勢暦をめくって、その日の吉凶を占い、その日は厄日だから何もしないというのでは、安易に人生を取り逃がす事になる。

 今日一日を厄日だとしてこれを取り逃がせば、一生を取り逃がしてしまうのである。今日はまたとめぐってこない今日であり、昨日は過ぎ去った今日である。また、明日は近づく今日であり、「今日以外」に人生は存在しない。人間の一生は「今日の連続」である。
 日の善し悪しに振り回され、宝が転がっていても、今日は日が悪いと、これを見逃す人は、「今日の影法師」にびくついている人である。

 今日は、一生に二日とない「幸いの日」である。また、隙があれば、どんな危険が襲うかもしれない最悪の厄日である。それを吉日にするか、厄日にするか、また、白にするか、黒にするかは、己自身であり、九星早見表にあったり、運勢暦にあるのではない。
 一日は「今」の集積であり、「今」を失う人は今日一日を失う人であり、今日一日を失う人は、自分の一生を失う人である
 勘助はこの事実を、幾多の体験によって熟知していたのである。

 勘助は知謀を巡らし、様々な武功を武田家にもたらす。私心が無い所以である。
 ところがこうした勘助も老いが訪れ、既に六十二歳(一説には六十九歳)になっていた。
 永禄四年九月十日、第四次の川中島の合戦の幕が切って落とされた。
 信玄軍は二万、上杉謙信の軍は一万八千。両者はこの川中島で対峙し、勘助は「キツツキ兵法」なるものを立案し、早期決戦を進言した。これが第四次の川中島決戦である。

 謙信軍は既に八月二十日、犀川(さいがわ)を渡り、梅津城の前方を悠々と横断し、妻女山に布陣していた。そして時には、琵琶の音すら聞こえてくるのである。全く動く構えを見せなかった。
 信玄軍は決戦の前日、軍議を開いた。重臣たちは早期決戦を主張した。兵糧の欠乏が目に見え始めたからだ。
 そこで勘助は「キツツキ兵法」なるもをの進言する。

 「キツツキ兵法」とは、樹木の裡側の洞に籠っている虫を、キツツキが反対側の穴から嘴(くちばし)で叩き、虫が驚いて出てきた処を捕えて食べる。これにあやかり、その落ちこぼれも、麓で網を張って一網打尽に全滅させようとする作戦であった。信玄軍総兵力二万のうち、高坂弾正昌信と真田幸隆が率いる一万二千を、キツツキ軍に割き、残りの八千で本陣の構えをとる策だった。そして戦術は、勘助と馬場美濃守信房が当る事になった。

 しかし謙信軍は、妻女山山頂から信玄軍のこうした動きを見抜いていた。信玄軍は奇襲を察して移動を開始する。妻女山には数人の兵を残し、赤々と篝火(かがりび)を焚かせ、旗指物(はたさしもの)を数多くゆらめかせるように申し付けた。そして音をたてぬように、馬には薪(まき)をかませて下山を開始した。
 この事を江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らいさんよう)は、当時の思いを偲(しの)び、『山陽詩鈔』の中で、謙信軍の模様を「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)、夜、川を渡る……」と詩った。

 一方、高坂弾正昌信と真田幸隆の軍・一万二千は、夜半、音を殺して妻女山の篝火と旗指物を目指して進軍した。
 川中島は現在の長野市南部の千曲川と犀川の合流点付近の三角洲である。天気のいい日が四五日続くと霧が発生する特異な地点である。この日も、濃い霧が発生した。

 ところが今まで濃い霧に覆われていた天候は、またたくまに晴れ、この策が謙信軍に見破られ、逆奇襲が始まったのである。信玄軍は意表を突かれた形となった。
 キツツキ軍はもぬけのからの巨木をつついた事になった。そして謙信軍に柔躙(じゅうりん)される形となったのである。勘助の一生の不覚であった。そして勘助は、信玄に別れを告げ、敵陣に飛び込んでいく。

 その頃、武田軍の本陣の前に、白絹で頭を包んだ荒武者が躍り出た。その武者は三尺ばかりの太刀で信玄に斬り付け、信玄はこれを軍配団扇で受け止めた。これが上杉謙信と武田信玄の一騎討ちであった。謙信三十二歳、信玄四十一歳であった。
 信玄危うしという場面であった。しかし妻女山から駆け降りて来た高坂昌信の一万二千に助けられ、信玄はこの危機を脱出する事が出来た。
 槍を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負った勘助は「間にあった」を口にして、松林の中にどっかりと腰を降ろし、もうこれで思い残す事はないという心境になっていた。

 勘助は自分自身の人生を反芻(はんすう)して、「無駄ではなかった」と、苦労した四十数年間の苦汁の人生が走馬灯のように蘇った。惨めな、その四十数年があったからこそ、後半生にはこうして花を咲かせる事が出来たと喜んだ。心の中で、よき大将に巡り会えた事に絶え間ない幸福感を感じていた。
 勘助の最期は、流れ矢で絶命したとも、雑兵に討ちとられたとも、あるいは部下が勘助の遺体を隠し、敵に馘(くび)を奪われる事なく葬られたとも言われている。

●重臣の知謀と能法の士

 『韓非子』には、
 「知術・知謀の士は、必ず遠い先を見る眼を持ち、物事を鋭く観察する。ハッキリ観察できなければ、私利に基づく行為を照らす事は出来ない。
 能法の士は、必ず意志が堅く、剛直である。剛直でなければ人の不正を正したり、淫姦を正す事は出来ない。一般の臣下は、君命によって公務をとり、法に照らして役目を果たすもので、重臣ではない。

 重臣は君命がなくても、一存で事を行い、君主を動かす力を持っている。知謀の士は物事を鋭く観察するから、私事に物事を照らすであろう。したがって間違えば私利を図る事もある。能法の士は剛直であるから、用いられて、その言が採用されれば、重臣の悪業を正す事が出来るであろう。したがって重臣の知謀と、剛直の能法の士は相容れない宿敵である」(孤憤篇)とある。

 韓非は君主→重臣→中間管理層→一般人民の官僚制国家の序列をあげ、中間管理層は政策を与えられれば、その具体的な状況に応じて、それを理論的にまとめ、表現出来る能力と技術を身に着けた官僚で、直接的には政策に関与せず、ただ能法のみを担当する制度を提案した。

 また側近制度を批判して、重臣に代わる新しい政治担当者を提示し、両者が矛盾対立する存在である事を指摘した。
 そして組織には、組織を巣喰う五種類の害虫がおり、その要因とも言うべき「凶」が人間には寄生するとしている。そこが、韓非が人間を性悪説で捉える第一の理由である。

 その第一が「外形で判断する愚」、第二が「評論だけ述べる愚」、第三が「旧態依然の策にこだわる愚」、第四が「公利と私利は矛盾するが、それを同種に扱う愚」、第五が「人民は仁義に懐くと考える愚」の五つを上げている。

 人間の眼は、愚者ほど外形にこだわり、物事を見掛けで判断する。それは危険な事であり、既に今川義元が山本勘助の風体を見て一蹴した愚行で証明済みである。
 また議論好きは議論のみで、実質的な行動が伴わない。これを「五蠧篇」には、国中の人民が、みな軍事を論じ、孫子・呉子の兵法書を所持して、それに関する議論ばかりをすれば、兵は益々弱くなる。戦を論じる者は多いが、実際に鎧兜を身に着けて、実戦に出かけて行く者がいなければ、国は滅びると言っているのである。
 更には、時代とともに世態や人心は変遷していく。これに鈍感な、物の考え方は、時代遅れになるばかりでなく、ついには自らの組織を滅ぼす。
 そして私利的行為が盛んになれば、公利は滅びるとしているのである。

 韓非の掲げる最大のテーマは、儒家の仁義に対抗する思想である。その思想の中枢が、人民は権力に屈しやすく、義に懐くものは殆どいないという事であろう。

 春秋戦国時代の頃の社会構造は、まさに農重主義と戦争に備えた富国強兵の時代であった。したがって韓非はこうした時代に、何故、非生産的な学者が大臣に起用され、仁義だけで世の中の拮抗がとれるのかという、最も鋭い眼で現実を見つめているのである。
 韓非はこうした現実を見つめながら、「人間の本性は悪だ」と主張する。

 また、こうした韓非の理論を受けて、『荀子』の「性悪篇」は、「善は人為だ。人は生まれつき利を好み憎悪心が強く、享楽主義や官能主義に耽る欲望がある。その最たるものは我田引水の拝金主義ではないか。
 したがって放っておくと、人は個人主義から必ず争いに走り、私利私欲をあらわにして混乱状態に陥るものである。国家が常に戦争を繰り返し、覇道を需(もと)めるのは、即ち、人間の欲望である。だから師法の教化や、礼儀によって、初めて人と譲り合いができ、この次元に至って世は治まるものである」と述べている。

●師法の教化

 韓非は鋭い眼で現実を見つめながら、誰が利益を受け、誰が利益を受けなかったか、こうした現実を鋭く見抜いた。世は戦国時代である。
 「富国強兵に、農業と戦力の蓄えは大事といいながら、その実、非生産者である学者や、大臣間の私闘抗争に尽くす国家の為に役に立たない遊狭の徒(用心棒または私設秘書)が法を犯し、養われている。国難が起こると、農民から徴兵によって兵士を召集するが、普段格別な利益を受けている者は、こうした国難においても全く役に立たず、国難に際し、前線の最前線で苛酷な戦いを強いられるのは、普段格別な利益を受けていない者である」と述べ、だから格別な利益を受けようとして、農民までが自分の仕事をおろそかにして、学問が大事だとして儒学者の真似をしたり、遊狭の徒を気取り、農業と戦力の蓄えは激減し、これによって国が滅ぶとしたのである。

 そして韓非が指摘する中心課題は、非生産者と生産者の相尅関係であり、両者は互いに相反し、矛盾するとしたのである。
 現実を振り返れば、大した仕事もしてないのに高給を受け取り、酷使される仕事に従事しながらも冷や飯食いを強いられている者が多い。
 韓非は、上の者ほど甘く、下の者ほど厳しい現実を訴えた。こうした者をいつまでも放置すると、やがて国は滅びるとしたのである。

 これは組織でも団体でも同じであり、上の者は楽をし、下の者は常に酷使されて、労多く、利少なしという実情に甘んじている。いわゆる、示しのつかない状態を、平然と上士はしているというのだ。
 こうした者が蔓延こり、誰もがこれを真似ると、そこには力を失った、抜け殻だけが残るのである。上の者ほど襟を正さなければならないのである。
 だが、こうした無能な者が、人の上に立ち、威張り腐っているというのが、今日の社会の実情である。
 だから国は滅びるのである。

 『韓非子』(亡徴)の一節に、「法令を無視し、禁制を無視し、謀略を好み、肩書きや威光を笠に、国内を放置して、他国の援助を頼りにして、こうした大臣が政治を牛耳る国は、亡ぶべきなり」とある。

 これを組織や団体に置き換えればこうなる。
 「決まりに従わず、肩書きの威光と、その上下をもって威張り散らし、幹部の貌(かお)を以て独断先行し、最高責任者を蔑ろにして、自分が第一人者などと称して、他からの援助を積極的に行って、造反行為に耽る輩が関与する集団は、亡ぶべきなり」となる。
 しかし襟を正すべき時が来た、と感ずる集団の上士に、これが気付く者は少ない。

●権威主義と実践主義

 韓非のもう一つのテーマは「論より実行」であり、学者の無用論であった。
 「世間で言う権威は、おおよそ『聖賢君子』を指すのであろうが、これを総じて『賢』というのであろう。
 『賢』とは、正しく、誠実な行いを言うのであろうが、その母体は『知』である。
 しかし『知』は細かで捉えにくく、微妙な事を言うのであろうが、細かで捉えにくい事は、高級な智者でも理解し難く、まして『知』を持たない大衆が学者の言に容易に理解を示す事は出来ない」と述べ、大衆に至っては「論より実行」が大事であって、大衆に理解できない学問は無用の長物であるとしている。

 「酒の麹(こうじ)や、米糠(こめぬか)さえ充分に食べられない者が、何故、高級な米や食肉を欲しがろうか。短い衣服すらことかく者が、何故、金繍(きんしゅう)の衣服を欲しがろうか。政治の遣り方としての急務は、緊急を要する事で、不急な事に力を注ぐべきではない」(五蠧篇)

 また、「大衆間の平凡な男女が、ハッキリ理解できる遣り方をしないで、高級な智者の言論を有難がり、こういう難解な政治の遣り方は治道に背いている。細かく捉えにくい言を用いる事は、人民を治める道とは全く無関係の事だ」とも述べている。
 だから国を巣喰う五種類の害虫が蔓延こるのだとしている。
 そして富国強兵の基盤は、農重主義でありながら、これをおろそかにして花見酒経済を煽って、都市生活者ばかりが優遇を受けているのは何処か間違っていないか、と追言している。つまり都市の繁栄イコール治乱と見たのである。

 そこで治乱の元凶を要約すると、

 第一は、学者は先生(聖賢君子)の道を称えて、仁義を揚げ、容儀や服装を美しく飾り、弁舌を立派にし、現行の法に疑いを抱かせ、為政者(君主)の心を惑わせる。

 第二は、遊説の論客は虚構理論を論(あげつら)い、嘘偽りを並びたて、外国の勢力を借りて、売名行為を果たし、一方で私腹を肥やし、国民の利益としての国益を考えない。

 第三は、剣を帯びる遊狭の徒は、徒党を組んで集団を組織し、侠気を看板にして名を売り込み、陰で国の禁制を犯している。

 第四は、労役や兵役を嫌う者は、豪族や権臣(国家権力の執政官)の家に賄賂を送り、その積み上げた財によって汗馬の役を逃れようとする。こうした縁故を辿って法が曲げられたならば、苦しみ、損ばかりをするのは、底辺の縁故を持たない極貧の農民ばかりである。したがって平等から逸しているのではないか。

 第五は、商工業の民は、以上四つのことが蔓延すると、私利の道に励み、粗悪な製品を体裁よく作り、それで儲けた金で贅沢な品物を買い漁りそれを蓄えておいて投資の材料にし、値上がりを待って売りに出し、正直者で極貧の農民の上前を跳ねる。
 こうした治乱要素を揚げ、これこそ国を巣喰う五種類の害虫の元凶としているのである。

 今日の社会でも、これと酷似したことは現実に存在している。したがって韓非は、こうした人間行為を頭から否定しているのではない。これを否定すれば儒家の性善説と同じになってしまうからだ。

 人間の行動原理を「本質は利欲を好む」とした上で、こうした私利私欲がなければ、社会の働きは停滞するという所までを見通しているのである。そしてこうした悪こそ、人間の行動原理の原点であり、活動の根源であるとしているのである。

 ただ五種類の害虫は、国を巣喰う元凶としている。国を巣喰うから良くないのであるが、こうした不合理な存在、不法な存在は現実に存在する以上、矛盾対立しながらも、それも認めるとしているのである。
 『韓非子』が帝王学になりえた所以は、実はここにある。

●武田信玄の「耳聞」と西郷隆盛の「遺訓」

 『韓非子』に精通した武田信玄は、忠節心の厚い六人の若者を選び出し、彼等を「耳聞」(みみきき)とした。この耳聞は信玄の側近者として「近侍」と称され、彼等は人事百般を携わった。

 武田信玄は「人は石垣、人は城」と称し、これを家訓にしたが、この根拠は、国を巣喰う者を排した後の人材であり、最後の評定結果を基礎とした結論から導き出したものである。
 国を巣喰う人間だけを集めて「人は石垣、人は城」と称するわけはないのだ。
 だからこうした人材登用については、念入りに裏情報を集め、その評定結果に基づいて、人事を極めるを最良としたのである。

 これは今日の企業でもこうした人事情報は念入りに集められる事であり、人事考課でも、評定者から情報を提供させ、意見書をまとめさせて、その意見書を更に吟味する為、評定者の特殊性を抹殺するという方法が用いられている。そして更に、評定結果を出すという二重の効果を狙った人事選考が行われている。
 これは信頼度を重視する為である。しかしこうした事は今日に始まったことではなく、既に数千年も前から行われていたのである。
 ただこれが帝王学である為、一般大衆には知られなかっただけのことなのである。

 また西郷隆盛ですら、その遺訓として残したものは、「国に功のある者は禄を与えよ。功があるからといって地位を与えてはならない。地位を与えるには、その者に見識がなければならない」としているのである。
 今日、行われている勲章授与などは、この基本理念に沿ったものである。総理府の行う勲章授与は、決して地位の授与ではない。あくまで「授賞」であり、「賞」の一種だ。
 功績があればあくまで「賞」とするのは正しい考え方であり、幾ら功績があるからといって、それに地位を与えると、その者が無能な場合、その組織はやがて崩壊する。

 しかし現実には『韓非子』を知らない為、多くの経営者が功績のある者に「役職」という、今までの一等も、二等も上の「地位」を与えてしまう経営者が少なくない。しかしそうした企業は、やがて斜陽を辿るのである。
 無能な経営者ほど、功績のある者に安易に地位を与え、その地位に就いた者が無能である場合、二つの無能が重なって、適所適材のバランスが崩れ、やがては倒産する。

 徳川家康は、江戸の二代将軍・秀忠の傍要人(そばようにん)が駿府(すんぷ)を訪れた際、その秀忠ブレーンに帝王学の極意を授けた。
 「天下万民が等しく国家に心服するのは、中々難しい事である。したがって注意すべき事は、主人の信頼を得ると、万事自分一人で采配を振るい一人歩きする者が出てくる。そうした者は他人の諌言を聞かなくなり、他人の口を封じるようになる。こういう人間は、一見して主人の為に働くように見えるが、また、切れ者のように映るが、将来大きな害を与える害虫となる。人は各々才能があり、その才能の得手不得手を即座に判断するのが主人の見識である。適材適所に人を配し、賞罰は瞭(あきらか)にすべしで、これを怠ると国家は滅びる。徳川家末代の為に、何でも一人でやるのは間違いの元である」と、『韓非子理論』そのものを述べ、家康自身の今までに研鑽した論で、未然に姦悪を封じる老獪(ろうかい)ぶりを見せている。
 『韓非子』は一方において、スパイ政治であり、特務政治である。これは今日も変わりがない。

 一般大衆はこうした水面下の出来事に疎いが、現実に水面下では苛酷な主導権争いが展開されていて、人々の眼に触れない処で画策されている。
 家康と同時期の真田幸村ですら、縦横に忍者を趨(はし)らせ、
 「およそ家臣ほど、油断のならぬものはない。誠実に、国の為、主君の為に行動するものは、万人に一人もあるべくもない」と言わしめている。

 真田幸村といえば、大衆チャンバラ小説で「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」が登場するが、これは単に彼等が敵の情報を探る忍者というだけではなく、実は裡側(うちがわ)を探る武田信玄の耳聞としての任務を携わったスパイ政治のヒーローであり、人間不信の運命を背負った韓非子理論が働いた、幸村自身の実質的帰納法に基づく点検の理論であった。
 一般大衆というものは、こうした処も安易に見逃す暗愚さがある。

 したがって韓非に言わしめれば、帝王学は『韓非子』で、一般大衆には孔子理論の『論語』でと、相反する二重構造が、実は人間社会の現実の構造であると言いたかったのであろう。
 これを更に噛み砕いて言うと、兵法とは、軍学とは、単に敵に対して勝ちを治めるだけのものではなく、裡側に向かって再点検するという、将兵の基礎をなす「人間」に向けての管理が「勝敗を決する」と解釈していいものになる。

 将兵の基本構造は、あくまでも個であり、個が集積したものが軍隊という組織である。
 この個の集団には、術を能く遣うが人間性が駄目だとか、逆に、個人戦の術には優れていないが、組織を統率させればこれを能く遣うとかの、様々な一芸に秀でた者が集まっている。この一芸を、最高責任者は逸速く見抜き、適材適所に配置するというのがその第一の任務なのだ。
 これを誤ると、国は弱くなり、兵は弱くなるのである。人間は、野放しにすれば私利私欲に趨(はし)所以である。


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甲陽軍鑑/三献の図
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