■ 山本勘助/解説 ■
(やまもとかんすけ/かいせつ)
16世紀の戦国時代の武将で兵法家の、三河国(みかわのくに)の人に、山本勘助なる人物が居た。稀代まれなる兵法家である。また、軍師として最高の能力を持っていた。
勘助は独眼で、隻脚といわれ、『甲陽軍鑑』によると、軍略に長じ、武田信玄の参謀をつとめ、「川中島の戦」で戦死したという。(生年不詳〜1561?)
今川義元(いまがわよしもと)は、今川家を宮家や将軍家に由縁のある家として、痘痕(菊石/あばた)で、隻脚の山本勘助を召し抱える事を一蹴(いっしゅう)した。理由は、外形を評して、風采(ふうさい)が上がらぬとしたからである。
しかし人の貌(かお)の美しさは、可視的に見るその貌ではなく、心の美しさではなかろうか。
勘助は、幼少時代に今で言う疱瘡(ほうそう)を患い、容姿も見栄えがしなかった。かと言って、剣か槍を持たせると、手練(てだられ)の域に入る程、見事な“遣い手”であった。
人は「姿形(すがたかたち)」ではない。容貌(ようぼう)ではない。端目(はため)に「あばた」と嘲(あざけ)られ、しかし、勘助は心まで「あばた」でなかった。心には「玉(ぎょく)」を抱いた、志が高い武士であった。
貌の「美醜」をののしられて、怒るのは、役者のみ……。
しかし、人間の評価は、貌の美醜にあるのではない。容姿にあるのではない。
昨今は、こうした役者の世界が、日常生活に入り込み、一方、政治にも、文化にも入り込んで、わが貌(かお)の美顔や美形を自慢し、わが容姿を自慢する愚者が多いが、その愚者に一票を投じるのも現代の風潮。現代人は表皮に惹(ひ)かれる性質を持っている為、裡側(うちがわ)の心の奥底まで見抜く見識眼を持っている人は少ないようだ。
したがって政治が乱れ、文化が乱れる民主主義構造は、表皮を気にし、八方美人に陥って、外面ばかりを気にし、賄賂に弱く、その為に腐敗し、崩壊するのも道理。
極めて、道理の上に成り立った、道理の上で、物質界の表面的な美醜に酔い痴れるというのが、また、今日の現代人が有り難がっているデモクラシーというものである。デモクラシーに落ち着けば、八方美人に陥って、外面ばかりを気にする政策が採られるので、その中身が実にお粗末になるもの、また道理であろう。
道理というのは、道理のとおりに事が運ばれる故に、本来は違ったものでも、邪なるものが、清廉潔白に打ったりする。悪が多数決により、正義の仲間入りをして、黒が白になるのである。価値観の評価が、マスコミによって加工され、作られる恐ろしさが横たわっている。
わたしたちは、どこか、こうした浅はかな評価で、自分の未来を託す人物を選択しているのではあるまいか。
その点から言えば、16世紀の武将・武田信玄は、“あばた面(つら)”の、山本勘助を見て「よき面構えかな」と褒めた事は万鈞に値する。そして、勘助の能力を見抜き、よく遣ったと言える。武田信玄の見識眼の凄さである。 |