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誇りの裏付けとなる数々の技法
騎馬軍団の絵

兵法
(ひょうほう)

【戦略と戦術を兵法・軍学として考える西郷派大東流の思想】

  九州科学技術研究所所長/曽川 和翁(米国イオンド大学教授、哲学博士)

●兵法とは

 集団を率い、組織を率いる戦法と策略を「兵法」という。また一方で、「軍学」とも言われる。
 この軍学は、日本では用兵戦術を研究する学問であり、その基本は中国の六韜(りくとう)・三略(さんりゃく/三元式遁甲とも)・孫子・呉子の兵法書を基礎とし、我が国では近世に各派を生じ、甲州流(武田流)を先駆として、越後流・北条流・山鹿流・長沼流・楠木流、そして太子流(会津/太子流の「太子」は、聖徳太子の太子に由来する)があった。

 そしてこれらの軍学の母体となるものは、八門遁甲術であり、その中枢には中国の三元式遁甲が存在した。
 したがって合戦に勝つ事だけの戦術が、兵法あるいは軍学ではなかった。
 まして、人間個人間の試合に勝つという、個人戦においての白兵勝負でもなかった。
 この根底には、その個を基礎とした人間学があったのである。

 中国からこうした兵書が輸入されたのは、おおよそ推古天皇十年の頃であり、僧・観靭(かんじん)によって日本にもたらされた。そして奈良・平安期を経て、心ある武人によって研鑽された。
 こうした兵法書が全面に打ち出され、武将の必読書になるのは戦国時代に至ってからである。
 そして、群雄乱れ、人馬争う戦国の世に、兵法書に熟知し、知り尽くした知将階級が、進んで総大将の許(もと)に馳せ参じ、軍師となった。

 戦国期、すぐれた軍師や参謀を持つ武将のみが戦国大名として生き残れたといえよう。
 これは現代の企業組織や、諸団体に当てはめれば、それはよく分かるであろう。
 個人商店や零細企業は、その組織が小さければ小さいほど、その取り仕切りは、商店主や社長の双肩に運命が委ねられる。戦国期でも、主従数人の野武士集団や小豪族は、将の一存で運命が決した。

 だがこうした取り仕切りは、商店主や社長がワンマンな場合、好景気に後押しされて、順風満帆な時は良いが、今日のように不況の風は吹き荒れ、経済効果が下降線を辿る時は、組織間で過当競争が起こり、適者生存と淘汰の法則で、弱い者は次々と抹殺されていく。

 しかし一方、大企業や大組織は戦国大名と共通点が多い。
 社長を軍団の総大将として見る事も出来るし、総大将は取り巻の補佐役の重役たちによって、企業の展望が練られ、その展望は人材本位を機軸にした企画室長、宣伝部長、開発部長らの手を経て、末端の足軽や徒侍(かちざむらい)らの平社員にまで浸透し、企業はその展望に向けて躍進を開始する。
 こうした躍進に向けて、能力本位を機軸とする企業であれば、企画室長兼宣伝部長といった連中が、差し詰め戦国期の軍師に当たるのではあるまいか。

 だが今日、こうした大企業は図体だけが大きくなり過ぎて、鈍重な一面も隠しえない。そこでゲリラ的な戦略を展開する野武士集団といったベンチャービジネスが功を奏する場合もある。
 ゲリラ戦の展開は、それを指揮する指揮官の、戦略と戦術の戦争哲学の熟知の深さにその運命が委ねられる。強力な指導力を持つか否かで、その真価が問われる。時機(とき)としては、独断専行も不可欠要素となり、ワンマンの面も必要であるが、遣り過ぎ、こうした事を積極的に表面化して行けば、理解者を得られないばかりか、こうした指揮官はやがて暴君視されて、内部からクーデターが起こり、追放抹殺されたり、多くの造反者を出す事になる。
 したがって戦略展望がない場合、漠然とした戦いばかりを展開していたのでは、やがて外部の敵から喰い物にされて、整理屋や切取屋の餌食になってしまうのである。

 そこで将たる器のカリスマ性が必要になり、差し詰めそこを指揮する指揮官は、智勇神の如き名将としての思想を持ち、超ワンマンでなければこの時代に生き残って行く事は出来ない。
 この超ワンマン指向というのは、大企業や国営企業の微温湯の中で温存された平均的サラリーマンには到底理解できる訳がなく、もしこうした階級の思考で、ある組織や個人商店を経営した場合、その組織は発展をしないばかりか、やがては自然消滅する憂き目に合う。

 そこで一国一城を経営する場合、そこには帝王学としての兵法や軍学に熟知しておかねばならない。この熟知の如何で、運命は決せられる。
 そしてこれを総じて「兵法」というのである。

●韓非子に学ぶ人間学

 さて、「戦い」というものは努力さえすれば「勝てる」というものでもない
 これは仕事の成就も同じで、ひたすら、そして地道に精を出し、汗を流し、努力すれば成功するものでもない、と言う事になる。

 一国一城の主として仕事に着手する場合、単に大きな希望を胸に抱き、努力し、情熱を燃やしただけでは、事を成就しない。
 また懸命に行動しても、それは徒労で終わる場合が多い。
 もし懸命に行動するだけで事が成就するならば、斜陽に差し掛かった中小企業が、何故倒産するのであろう。
 こうした中小の経営者は、倒産寸前、連衡・合従を求めて猛烈に動き回る。寝食を惜しんで、働き詰めである。しかしその結果は、「斜陽→倒産→切取屋と整理屋の餌食」という結末を辿る。

 倒産しても、命まで取られる分けがないと誰もが思っている。しかし倒産すれば命を取られる以上に悲惨な末路が待っている。実際には、命まで取られて、人体解体屋の毒牙にかかる場合もある。腎臓バンクを始め、骨髄バンク、肝臓バンク、眼球バンク、睾丸バンクなどというのがこれである。

 また、こうした末路の多くは、自分を知らず、自分の限界を知らないという、疎い人間に訪れる。
 経営には洞察力と緻密さと、忍耐を冷静さが必要であるという。しかしそれはその通りであっても、それだけでは済まされない。
 まして、夢と希望とロマンという「3スローガン」を掲げた日には、それだけで足許(あしもと)を掬(すく)われ、加えて遣る気と自信だけでは全く要をなさないのである。
 多くの利益の裏には、常に危険と紙一重のリスクが付き纏うのである。

 戦いは、時の利、地の利、天の利と言うものに左右されるという。だからこれを研究して、こうした心構えを持つ事が大切だという。しかしこうした物も、現実には絵に描いた餅に等しい。
 それは人間という実体を知らないからである。

 戦いには「相手」があり、そして「敵」がある。
 これは仕事に置き換えても同様である。人間の仕事には必ず相手がある。
 特に組織を率い、何事かに挑戦する場合、必ず、ある種の法則が働き、その働きによって行動を起こす事が必要である。
 この法則を無視しては、如何に努力したとしても、その努力は徒労に終わり、時間を無駄に空費した事になる。それは、如何に熱心に、あるいは慎重に押し進めたとしても、「労多く、利少なし」の結果を招く。

 そして最も重要な事であるが、「大は小より格段に強い」という事である。
 人は、「大は小より格段に強い」という事を、以外にも見落とす事が多い。
 現実社会は、何事も「柔能(よ)く剛を制す」、あるいは「小能く大を制す」とは、中々いかないものである。

 組織を率いる大将は、第一の実践が戦争技術者の作戦現場に、大命を与える事である。
 これは企業に喩(たと)えるならば、その長(おさ)たる社長の仕事は、現場に大命を与える事であり、有能な工場長を人選し、充分な設備と人員、資財や資金を与える事である。食わせる事に合わせて、遣り甲斐のある仕事を与える事である。しかし、これが初代当主(あるいは創業社長)となると、これだけでは済まされない。
 無から有を演出するのであるから、それだけに苦労も多く、先代の敷いたレールを走るという訳には行かない。総て、一つ一つを手作りで、何事も自前で用意しなければならない。

 また、戦場となる場所のロケーション(地の利)から、そこに至る道筋の演出や、戦術(tactics/戦闘実行上の方策)までを計画過程の戦略に併せ、時の利を得て、用意周到に、緻密に計画を練るという細かい作業までが自分の肩にズッシリと伸(の)し掛かるのである。そして運を天に任せて、天の利の審判を受ける。
 この作業を、地道に遣り通した者だけが、一つの戦いの勝者となるのであるが、これに至るまでの道のりは遠くて、その進行速度は非常に遅々としたものである。

 したがって、材料が与えられ、レールが敷かれ、その上を決まった手順で進む、大企業のサラリーマン的な思想では到底この戦いは勝つ事が出来ない。
 それを如実に物語るのが陳勝・呉広の叛乱である。

●陳勝・呉広の叛乱

 歴史を振り返れば、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の叛乱は何故起こったか。
 これを考えれば、将たる資格は、部下に充分な食糧を与え、そして適材適所に人を配置して、それを自在に使い熟す事にある。
 陳勝(字は渉。河南陽城の人。 〜前209年)は秦末期の反乱の指導者であった。
 しかし所詮、指導者といえども、地主相手の雇われサラリーマン的な一将軍に過ぎず、創業社長とは程遠かった。

 陳勝は、はじめ地主の雇い人(傭兵)であったが、前209年、呉広(河南陽夏の人、字は叔)と共に秦に叛し自立して、自らを楚王と称し、秦滅亡のきっかけをつくったが、秦軍の名将と謳われた章邯(しょうかん)に敗れ、部下の荘賈に殺された。これを陳勝・呉広の叛乱という。
 将は、部下を食わせてこそ将なのであり、これが出来なくなれば、当然その組織内には不穏な企てが起こる。人は奇麗事や、建前だけのスローガンでは蹤(つ)いてこないのである。

 こうした企てを、人間の建前の裏から見抜いたのが韓非( 〜前233頃)であった。
 韓非は、中国・春秋戦国時代の韓の庶公子(貴族の出であるが、韓王の妾の子。たびたび韓王に諌言をしたが用いられなかった)であり、法家の大成者で、儒家たちと正面から対立した。
 儒家たちは孔子の教えを第一とし、その主体は、「人間は性善説に立つ」というものであったが、法家は『韓非子』に見られるように、「人間は性悪説から成るもの」と定義した。
 したがって法を定める事によって、悪から前へと導く事が出来るとしたのである。

 韓非は、善良な市民が罪を働かないのは、彼等が善良なのではなく、法の処罰があるからであるとし、法が無ければ人間はルールを破って悪事を働くと見たのである。
 かつて韓非は荀子に師事した。そして申不害・商鞅らの刑名の学を喜んだ。
 しばしば書を以て韓王を諫めたが用いられず、発憤して『韓非子』を著したのである。
 そして、のち秦に使して李斯らに謀られ、獄中で毒をおくられ自殺した。

 韓非の著書『韓非子』は今日でも有名で、この著書は、20巻55編からなる「法律・刑罰」を以て政治の基礎と説く書物である。しかし、『韓非子』が、すべてを韓非の著とは認めがたいところもあるようだ。
 しかし韓非は言う。「人間は性悪説からなる」と。

 では、何故「性悪説」からなるのか。
 まず韓非は「人間は利に群がる」としたのである。
 孔子が「人間は志や大旆(たいはい)の旗の許(もと)に集う」としたのに対し、韓非は「人間の原動力は打算であり、損得勘定で動く」としたのである。
 だから、また、利に聡い者が物財を手中に収め、天下を握る事が出来るとしたのである。こうした経緯を、司馬遷(しばせん)はその著書『史記』で克明に捉えている。

●『韓非子』理論

 韓非の言を捉えて司馬遷は言う。
 「おおよそ天下を治めるには、必ず人間の性情によらなければならない、と韓非は言った」と、韓非の「人間性の定理」を挙げている。これは単的に言えば、人間の建前に裏に潜む本音である。

 何故なら、人間は建前だけでは動かないからである

 こうした人間の行動原理を捉え、韓非は研ぎ澄まされた眼で、人間の利に聡い行動原理を見据え、そこから人間の本音に基づく行動の諸原則を抽出したのが『韓非子』であった。
 そして『韓非子』は、『論語』と正反対の方向に人間の行動様式を見据え、それを純化しつつ、更にはこれを理論化させて、赤裸々に『論語』とは正反対の現実を直視した。

 これは欧米のマキアヴェリズム(Machiavellism/目的の為には手段を選ばない、権力的な統治様式。マキアヴェリの「君主論」の中に見える思想。権謀術数主義)に酷似するところであり、一種のマキアヴェリの『君主論』に匹敵する境地に至っている。

 例えば、今日でもよくある事であるが、肚(はら)の出来ていない経営者、戦いの何たるかを知らない経営者、会社ごっこの経営者、勤勉だけを豪語する無能な経営者は、朝礼や年頭の辞でいっぱしの人間論を語り、「よく働け」と言うならまだしも、これに尾鰭(おひれ)を付けて、「感謝」という言葉を矢継早に連発し、「もっと人間的な修養の徹底」「誠心誠意に物事に当たれ」「真心と感謝の心で客に接せよ」等と、説教調の訓示を垂れる。
 一見、道学風式の建前は奇麗事であるが、こうした道徳訓の裏側には穢(きたな)い欺瞞(ぎまん)がいつも隠されている
 そして叱咤激励するが、こうした説教調の道学は、思ったほど効果が上がらないものである。

 それは恰度(ちょうど)、「清貧に生きれ」と部下に対して言いながら、実は自分は物財に取り囲まれ、妾(めかけ)を囲い、贅沢三昧を繰り返して、部下を叱咤激励するという構図になっていて、あまりにも説得力を持たないのである。それは建前の裏に本音が隠れているからであり、「あわよくば自分だけ」という魂胆が見え隠れしているからである。

 それに対して韓非は言う。
 「人がよくて、奇麗事だけを言っている、やわな精神では現実社会は生き残れない」と。
 そして「ここに孔子的な幼児社会が存在する」と鋭く指摘するのである。
 これは兵法を知らない、日本の現代社会にも言える事であろう。

 本来、日本には、一部の人間だけが君主としての帝王学を学び、大半の大衆はその法則にも触れる事が出来なかった実情があった。したがって『韓非子』を極端に嫌う風潮がある。
 その為、多くの日本人の考え方は建前で喋り、自分の言を建前だけで包もうとする。
 そのくせに、韓非子的な言を発すると、それを嫌う癖がある。
 だが大切なのは、こうした言を表面に出しても怒らない社会であらねば、それは成熟した社会構造とは言えまい。

 今日の日本社会は、基本的人権に護られた過保護社会であり、この点はまさに、アメリカと同じ幼児社会である。いわゆる、団地ママ的小娘倫理が何処にでも働いていて、その小娘倫理が支配的であり、こうした現実社会が、まさに日本を瀕死(ひんし)の重傷に、そして危機に導き、この小児エゴによって国際音痴を更に表面化し、現実社会をやわな孔子や孟子の考え方で切り抜けようとしている。
 こうした精神状態は、外形は美しいように見えるが、内容が貧弱な為、相手に付け入られ、甘く見られる現実がある
 こも偏に、兵法を知らない為であろう。

●兵法としての法治理論

 『韓非子』の「備内篇」にはこうある。
 「車を作る職人は、人がみな富貴になってくれたら良いと思い、棺桶を作る職人は人が早く死んでくれたら良いと思っている。これは車を作る職人が仁者であって、棺桶(かんおけ)を作る職人が残忍という分けではない。人が富貴でなければ車は売れず、人が死ななければ棺桶を買う者がいないからだ。人が死んだら良いと思うのは、人を憎む情の為ではなく、人が死ぬと利益が上がるからだ」としている。

 『韓非子』はこのように、市井(しい)の事象を例にとり、その人間の原動力の根底に働くものは「利」である事を指摘している。
 戦場にはこうした「利」が働き、部下の将兵はこうした「利」によって行動する。
 だから韓非は力説する。
 「義を裏返しにすれば、そこには利が存在し、人は利によって動く」と。
 こうした戦いを中国史の中で振り返れば、呉王・夫差がしばしば、斉や魯を攻める為に衛を通らなければならなかった事や、呉は名剣の産地であった事から、春秋戦国時代は人間の利己心を活用した名術策が用いられた。

 韓非の根底に流れるものは「法治理論」である。人間の本性は「悪」であるとする性悪説である。
 繰り返すが、韓非は最初儒家の荀子について孟子の性善説を学んだが、やがて世の中を観察すると、人間社会の構造は、利欲の絡む行動原理がある事に気付く。
 また時代は、いつの時代も弱肉強食であり、人間はこうした中、強者に尻尾を振る思考に至る。
 すなわち韓非の法術論は、人間が性悪説の悪でない限り成り立たないのである。

 そして韓非を以て言わしめたものは、人間は利欲に従って動くものであり、報償を喜び、罰を憎み、だから道徳だけでは規制力がなく、賞罰だけが人間を動かす原動力であるとするのである。
 また戦いは、こうした人間の利欲を巧みに利用する事によって、その目的が達成できるとしたのである。兵法にはこうした思想が根底にあり、これこそが人間を動かす秘訣であると説くのである。

●市道の交わり

 『韓非子』には、もう一つ興味深い事柄が「市道の交わり」として述べられている。
 ここで言う「市道」とは、武人の「士道」に対して商人たちの中で用いられた言葉であるが、韓非は「士道」においてでさえ、実はひと皮剥けば、商人の「市道」に変わりがないではないかと述べている。
 商人、つまり商売人は「利益があれば寄ってくるし、利益がなければ交わりを絶つ」という人種であるが、この人種は武人の中にも存在すると説いているのである。

 この存在を明確にしたのが『韓非子』の「外儲説篇」に出てくる「君臣の売買関係」である。
 韓非と同時代の、趙の将軍・廉頗(れんぱ)は、将軍としての在職中多くの取り巻に取り囲まれて、有頂天になり、屋敷は毎日多くの来賓客で溢れていたが、彼が将軍職を解任されると、来賓客は一人も来なくなった。
 しかし再び廉頗が将軍職に返り咲くと、来賓客は再び集まってきた。廉頗はこうした事に腹を立て、賓客に対して、「直ぐさま、ここから立ち去れ」という命令を下した。

 しかしこうした廉頗の命令に対して、一人の狡猾(こうかつ)な来賓客の一人は、 「将軍様は血の巡りが悪うございます。およそ世間の交わりというのは、利益があれば貢ぎ物を持って遣ってくるし、利益がなければ、誰が貢ぎ物を携えて遣ってくるでしょうか。あなたに権勢があれば、私達はあなたの所に遣ってくるし、権勢がなければ立ち去るのは当り前のこと。あなたに権勢がなくなった時に立ち去ったからといって、それを恨みに思うのは、全くの見当違いでございます」と、この賓客は廉頗を諌めた。

 『韓非子』の言わんとするところは、「総ての人間関係は、利欲の上に立脚する」という事であり、それは、大は国家から、小は庶民に至るまでこの理論で貫かれているというのである。
 これは客観的に見て、人間観の「法」を指し、「厳格に順守しなければならない」と説いたのである。

 この事は『韓非子』「外儲説篇」に「不仁の理(ことわり)、不忠の理」として挙げられている。
 これは儒家の「忠孝仁義」から考えると、全く正反対の、ドラスチック(drastic/思い切ったさま。徹底的で過激なさま)な論理といえよう。

 しかしこうした現実は、現に現在でも存在し、人間のスケールや、庶民や、平均的サラリーマンになればなるほど、こうした不仁や不忠に陥り易く、君臣関係は単に「利欲」に左右されるという現実があるのも事実である。
 そして韓非は更に言葉を繋ぐ。
 「国が治まって、強くなるのは、忠孝仁義がそこにあるからではない。法が正しく行われ、そこには論功行賞が明白化されている為である。
 また、国が乱れて弱くなるのは、法が乱れているからである。君主この道理が解れば、賞罰を厳しくするが、これは部下が『仁義』で動いているからではない。
 論功行賞によって爵位や禄が、功労によって与えられる為であり、刑罰は罪があるから加えられるのである。家臣はこの道理が解ると、死力を尽くして仕えるが、これは君主に対して『忠』だというわけではない」と、罰と賞を明確にしているのである。

 しかし韓非が性悪説に立ち、人間と人間の繋がりを「打算」や「利欲」の一点から凝視しているのは、人間の本性である醜悪な欲望を暴き立てる、そのことのみが狙いではない。
 むしろ韓非は、人間の表裏を貫く真実の姿を直視し、新しい人間関係を形成すべきであると、独自のモラルを背後から打ち出した哲学者といえよう。

●韓非子を熟知していた立花道雪

 大友宗麟(そうりん)の腹心に立花道雪(どうせつ)という軍師がいた。この軍師は奇策を以て主君を諌言した事で有名である。

 立花道雪は永正十年(1513)に生まれた大友家の下級武士であったが、兵法に通じた面が取り上げられて、九州の雄と称せられた大友義鎮(よししげ/のちの宗麟)の重臣にまで登り詰め、没落していく大友家を支えた特異な軍師であった。

 大友家は九州屈指の戦国大名であったが、長い間、家柄だけを重視してきた大友家は、決して戦(いくさ)上手ではなかった。強敵に会えば総崩れして逃げ帰る事も屡々(しばしば)であった。没落していく企業や組織には良くある現象である。
 企業でも団体でも、斜陽に差し掛かると全体がこうした傾向に陥り、やがては没落の道を辿る。

 これを憂いた道雪は、一機奮戦して斜陽寸前の大友家に喝を入れ始める。そして道雪の手腕は、その評価を受け、瞬く間に頭角を現わしていく。しかし大友家の戦い振りといえば、旧態依然の敗走が止まらなかった。

 この時、道雪は七十三歳になっていた。そして宗麟が四十五歳であった。
 強敵に遭遇して、味方が総崩れになると、道雪は部下に、「何をしておる!もし逃げるのなら、わしを敵の真っ只中に担ぎ入れてから逃げよ!もし命が惜しくば、敵の主将の前にわしを置き去りにしてから、その後に己の命を惜しめ!」と大声で命令を下した。

 これを聞いた部下たちは、一瞬気付いてハッとした。道雪の言葉で蘇り、自分が全人格を代表する武士であった事に気付くのである。態勢は一変し、大友家が九州の雄としてのし上がる第一歩が、道雪のこの言葉であった。

 道雪は『韓非子』を知り抜いていた。
 道雪に言わせれば、「武士に本来、弱い武士など居ようはずがない。もし弱いといわれる武士がいるならば、それは本人が弱いのではなく、その上士たる者の責任である。上士が下士を励まさない事に罪がある。わしの配下には、士分の者は勿論のこと、更に身分の低い者でも、度々手柄を立てている。他家で弱い者がおれば、わしの処に連れてこい。一瞬にして剛の者に仕立ててご覧に入れよう」と豪語した。

 また、努力しても武功が恵まれない者がいると、
 「人間には運・不運がつきものである。そちが弱い武士でない事は、このわしが一番良く承知しておる。したがって焦るでないぞ。運気が向こうから必ずやってくる事を信ぜよ。人にそそのかされて、戦で抜け駆けをしたり犬死はするな。これこそ不忠というものじゃ。常々から躰を大事にして、今後もどうかこのわしに仕えて貰いたい。そちが居るからこそ、わしは安心して敵の真っ只中に突撃して行けるのだぞ」と、戦いが終わると、道雪は武功を立てた者や、そうでない者に分けへ隔てなく、わが屋敷に呼んで酒宴を設け、酒を酌(く)み交わしつつ、武具などを与えて激励した。
 そして次の戦いには、前回武功を立てられなかった武士は見事な働きをして、勇敢に戦い、武功を立てたのである。

 そうした働きを認めると、道雪は再び当人をわが屋敷の呼び寄せ、全員の前に立たせ、 「皆のもの、見たか!本日、この者の勇敢な働きを。やはりわしの眼には狂いはなかった」と、その下士を褒めちぎったのである。
 これによって、道雪配下の部隊全体は否が応でも盛り上がり、士気は益々鼓舞されていったのである。

●凡夫の兵法として役に立たなかった宮本武蔵の二天一流

 宮本武蔵といえば、誰でもが二刀流を思い浮かべる。しかしこの二刀流の本当の難しさは、並の人間には理解し難いものがある。
 その証拠に、今でも剣技は「一刀流」が主体であり、二刀を用いる剣士は数える程しかいない。その数える剣士でも、果たして彼等の遣う二刀流は、武蔵並の本物であるか、否かは甚だ疑問である。

 二刀流を遣う剣士の実力を分析すると、単に大小二振りを以て、二刀流を気取っている剣士と、実戦を通じて二刀流の難しさを知りつつ、難しい故に研究をするという剣士の、二つのグループに別れるようだ。

 したがって分析の結果、前者は未熟なだけでなく、一刀流の剣すらも充分に理解できない連中であり、後者は一刀流から二刀流に発展した剣士であり、この両者の実力のレベルは、剣技においてかなりの開きがある。そして追言すれば、前者の剣士ほど信頼できないものはないのである。
 もしこうした者を、戦国時代、起用した大名がいたら、その大名家はやがて没落するであろう。

 だから戦に勝つには、韓非子理論が必要になってくるのである。
 適材適所は兵法の原則であり、軍学の要なのだ。
 武田信玄に「人は石垣、人は城」と言わしめたのは、この適材適所の人材配置が行われた結果においてであり、それ以前の「人」は、単に「私利私欲の輩」に過ぎない。
 それだけでは組織化されない烏合の衆なのだ。

 烏合の衆では戦いに勝てる訳がなく、また国さえ維持する事が出来なくなる。
 戦国時代、一部の心ある大名によって『韓非子』が熟読され、研究されたが、それを実行した武将は限られていた。むしろ道徳訓として、儒学の方が好まれたのではあるまいか。
 だから『韓非子』と『論語』は相反するものであった。

 さて、宮本武蔵の著書に『五輪書』がある。
 そして武道家と自称する、その愛好者はこの書を一応一読する。しかし、言葉は易しく書かれているのに反して難解な意味のものが多い。
 もしこの書を、分かりやすい書と見れば、それはその人の学力不足か知力不足であろう。

 読めば読むほど難解であり、繰り返し読んでいるうちに、ほとほと二天一流の極意は、凡夫には辿り着けないものというのが分かってくる。この書を読んで「能(よ)く分かった」というのであれば、その人は嘘付きであり、信用のおけない、非実践者の類であろう。
 そして武蔵の言わんとする最も大事な、隠された部分を見落としている。
 繰り返し『五輪書』を読むと、武蔵は「兵法とは、二刀流の形ではない」と言っている。「臨機応変」が大事だと言っている。

 武士が、何故、二刀を指しているのか。
 一刀流だけで稽古をした人は、この意味が分かるまい。
 戦国時代、最前線に送り込まれ、戦線兵士として、矢面に立たされた身分の低い武士は、長槍の他、腰には二刀だけではなく、太刀だけでも二刀も三刀も差していた。
 敵が繰り出す矢を防ぐ為である。

 またこの当時、「槍」という武器の遣い方は「刺す」という遣い方でなく、「払う」という遣い方がなされていた。
 理由は、刺せば一人だけにしか対応できないが、払えば一度に多数と戦う事が出来るからだ。多数捕りの原理はここに存在する。

 槍を一人に対して用いる場合は、第一撃が躱(かわ)されて、しかも槍の柄を掴まれ、刀で叩き切られた場合、その槍はもう使い物にならない。穂先(ほさき)のない槍は、人を殺傷する能力が半分以下になる。
 したがって多数を相手にする場合、払うのが最も有効であり、槍の穂先の尖先で敵の剥き出しになった部分に傷を負わせた方が、動き的にも効率がよい。

 そして槍を振り廻すだけ振り回して、何人かを倒し、その後に穂先が切られれば、それが棒術となり、更にそれが切られて短くなれば、次には杖術となった。杖術が最後の槍の砦であり、この砦が破られて、次に太刀を抜くのである。太刀合いという言葉は、ここから始まっている。

 また前線の兵士が、二刀をもって矢面に立つ理由は、二刀を振り回して槍を防ぎ、矢が出尽くしたところで、長槍突撃となるのである。
 槍の遣い方は、その身分によって異なるが、足軽や徒侍は今述べたように遣い、騎馬侍は馬上から、敵の騎馬侍と一騎討ちの為にこの槍を遣って戦い、その後に太刀を抜いての騎馬戦となる。
 この騎馬戦において、片方の手は手綱を握っている為、二刀は遣えないのである。あくまで一刀片手遣いが基本である。


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