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誇りの裏付けとなる数々の技法

兵法
(ひょうほう)

●法家・諸葛亮孔明

 『韓非子』の中には「亡徴」なる一篇がある。
 法家思想の大集成と言われた『韓非子』は、戦国末期の韓非による作である。
 この中に「国が滅びる兆し」を揚げている。
 この「亡徴」なる兆しは、47節に及び、その一節に「刑罰は淫乱、法規に忠実なく、弁舌の巧みな者を愛してその実行力を考えず、見てくれの華麗に溺れて、その実効性を顧みない者が権限を振り回す国は、亡ぶべきなり」とある。

 下剋上の乱世の時代、権限を振り回す者が、有能すぎても、無能すぎても、国は乱れ、統率は失われ、これを再点検して、君主は万全の策を講じなければならなかった。
 三国時代、蜀の宰相・諸葛亮孔明の子飼いの配下に馬謖(ばしょく)なる人物がいた。
 これは孔明の「泣いて馬謖を斬る」で有名である。

 馬謖(字は幼常。190〜228)は三国の蜀漢の武将であり、諸葛亮に重用され参軍となった。街亭の戦いに、命令に違反して、戦略を誤り魏軍に大敗した。そして中原(ちゅうげん)攻略の雄図は崩れた。ために、孔明は泣いてこれを斬罪に処した。
 また孔明も『韓非子』を熟知した法家であった

 中国では春秋戦国時代以来、農重主義に徹し、富国強兵を押し進めてきた。そして富国強兵の手段として、治法主義が取り入れられ、この治法主義に立脚した政治家を「法家」と言った。
 後漢末期、群雄混戦の中で、足掛りとするものを持たなかった劉備玄徳は、諸葛亮孔明を軍師に据える事で「天下三分の計」という壮大なロマンの展開を見ることが出来た。
 そして諸葛亮孔明も、また法家の一人であった。

諸葛亮孔明のイメージ像

▲諸葛亮孔明のイメージ像(クリックで解説)

 法家の政治の基本理念は「信賞必罰」で、楚(そ)で不要不急の官を切って、富国強兵の実を揚げた衛(えい)の呉起(ごき)や秦の宰相で「強国・秦」の基礎を演出した商鞅(しょうおう)らが知られているが、商鞅は余りに厳しい厳罰を実行した為、人民の怨みを買い、自ら墓穴を掘った人物であった。
 こうした法家の連中は、厳しすぎて「人治」の側面を忘れ、「法治」のみに重点を置いて政治を行った為、結果的には挫折に至ったのである。
 しかし一方で、法治は政治の要であり、またこの側面を忘れると、国は乱れ、滅びる結果を招いた。

 部下の善意を喜ぶ人間感情を抑えて、職務権限を明確にする為には、冷酷なまでの法家の思想が必要である。孔明もまたその一人であった。
 後漢末期の混乱期、この時代は軍閥混乱期でもあった。国内は乱れに乱れ、人民は戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていた。こうした人民を救う為に、劉備玄徳が立ち上がり、世の理不尽を正さんとしたのである。

 孔明はこうした劉備とコンビを組んで、まず「天下三分の計」を掲げ、国内を三分し、力の劣る二国が連衡あるいは合従策を用い、強国一国に連携して戦いを挑み、その一国を滅ぼした後、更に残った一国が他の一国を滅ぼして、天下統一をするという戦略構想に基づくものが、孔明の掲げた三国の鼎立(ていりつ)であった。
 その鼎立の基盤が、孔明の法家としての「人治」と「法治」であり、双方を念頭において、国家運営の乗り出したのであった。

●厳罰の重要性──────泣いて馬謖を斬る

 孔明は馬謖の才覚を愛し、その繋(つな)がりは兄弟以上あるいは肉親以上であった。しかし馬謖は兵略の基本? に則って命令違反を起こした。
 この時、魏の明帝は西進して、自らの大本営を長安に置き、左将軍に命じて、東進の構えを見せる孔明麾下(きか)の蜀軍の防衛に当たらせていた。

 孔明はこの時、日頃から眼をかけ、その才覚を高く評価していた馬謖に、蜀軍前衛部隊の指揮官の任を当たらせたのである。蜀軍重臣の中には、馬謖よりも魏延(ぎえん)や呉壱(ごいつ)を推す者があったが、孔明はこれを抑えて馬謖に当たらせたのである。
 馬謖はこの時、三十九歳の若き参軍(参謀)であり、孔明に眼をかけられている事に、多少有頂天に舞い上がった観があった。

 この様子を兼々脇から見ていた劉備玄徳は、我が臨終に際して、枕許に孔明を呼び寄せ、孔明が青年馬謖を高く評価している事に対して、「馬謖は、いつも自分の実力以上の事ばかり言っている。重く用いてはならない。災いを残す。君もその辺は充分に理解しておくべきだ」と忠告した事があった。
 しかしこの孔明にして劉備の忠告が聞けず、馬謖を重用し、先鋒(せんぽう)諸軍の総指揮官に据えたのである。かくて両軍は街亭(がいてい)に布陣し、対峙(たいじ)したのである。

 孔明は馬謖の出陣に際して、「決して山上に人を敷いてはならぬ」と繰り返し忠告し、厳命した。
 ところが馬謖は、この命令を聞かず、街亭の水辺の布陣を捨てて、その南側の険しい山中に立て籠ってしまったのである。その上、指揮官としての落ち着きがなく、こせこせして臆病風を吹かせ始めたのである。
 劉備はこうした馬謖の、常々大きな口を叩く馬謖の言が偽りであり、「弁舌巧みな輩(やから)」と見ていたのである。この見識は見事に的中していたのである。
 しかしあの孔明にして、この馬謖の性格が見抜けなかったのである。

 総指揮官・馬謖の指揮下に入っていた裨将軍(ひしょうぐん)王平(おうへい)は屡々(しばしば)、総指揮官に山を降りるように諌めたが、馬謖はこれを聞き入れなかった。
 魏の左将軍は、馬謖が山中に敷陣して動く様子がないと見ると、水や食料の補給路を絶つ作戦に出た。これで蜀軍は忽ち枯渇(こかつ)し始め、苦境に陥って惨憺たる敗北を喫してしまったのである。
 全軍が敗北によって後退する場合、一番難しいのは殿(しんがり)の処理である。それぞれの軍学・兵法にも、これについては至難である事を述べている。

 知将・王平率いる千余名の将兵は、軍鼓(陣太鼓)を打ち鳴らし、隊伍整然とした退却の策に打って出た。
 これを見た魏の左将軍は、その先に伏兵がいるのではないかとこれを疑い、深追いを避けた。王平が死中に活を開いたのである。この隙に、馬謖は敗残兵をまとめて山を降り、帰還する事が出来たのである。

 一方、孔明の「囮(おとり)の策」で箕谷(きこく)に出陣していた趙雲(ちょううん)の蜀軍も、曹真(そうしん)の魏軍の総攻撃に阻まれて形勢不利になり、やむなく退却する事になった。
 敗軍の将とはいえ、趙雲も蜀軍きっての百戦練磨の勇将である。
 彼はまず、蜀の桟道(さんどう)を焼き払った。これによって魏軍は追撃できず、趙雲は将兵をまとめ、軍需物資を総て持ち返ったので大敗だけは避けられた。

 祁山(きざん)に本陣を構えていた孔明も、馬謖本隊と趙雲支隊が敗北したので、やむなく本陣を引き払い漢中に退却する事にしたのである。
 退却の際、孔明は祁山にほど近い、方西県の千余家の民を虜(とりこ)にして漢中に移住させた。かくして孔明の第一次北伐は完敗に終わったのである。
 後は敗戦責任の問題が残された。

 この戦いの前、蜀軍は魏軍の兵力を上回っていたが、これに完敗した為、多くの将兵を失い、軍需物資にも大きな損失をもたらした。
 そして孔明に残された敗戦責任の処分は、街亭の敗戦の直接的な責任者として、命令違反をし、決定的な敗北を招いた馬謖の責任は免れないという結論に至った。
 孔明は、泣いて馬謖を斬った。彼がとりわけ常日頃から可愛がっていた馬謖だけに、その処分は衆目の眼を集めた。

 孔明はこれに当たって、「我が心は秤(はかり)の如し。人の為に軽重をなす能(あた)わず」と、自らの信念の述べた。孔明の韓非子流の法家ならではの適正な処分であった。これによって蜀の軍法と法治は守られた。

 馬謖は死に臨んで、我が遺書を孔明に書き送った。
 「これまで閣下は私を我が子のようにお慈しみ下さいました。私も閣下を我が父のようにお慕い申し上げました。しかしながらこの度の戦いにおいて、閣下のお言葉に従わず、大敗を喫してしまいました。これは死に値いたします。
 昔、舜(しゅん)が義の為に鯀(こん)を処刑して、その子の禹(う)を登用した故事が思い起こされます。これまで交情に私情を挟んで閣下の業績に傷を付けられないようにお願い致します。そうであれば何の恨みもなく、死んで心置きなく黄泉路へ就く事が出来ます」
 馬謖が処刑されると、十万の将兵が涙を流したという。

 後に成都から漢中府にやってきた丞相府副長官は、孔明に向かって「知謀の士を殺すのは敵を喜ばせるばかりで、あまりにも惜しい事ではありませんか」と詰め寄った。
 しかし孔明は、「昔、孫子が天下に武威を示す事が出来たのは、軍法を厳格にしたからであり、今、天下の風雲急を告げる秋(とき)、仮にも軍法を曲げ、私情を挟んでこれを罰しなかったら、どうして逆賊の魏を討つ事ができようぞ」と反論した。

●孔明の落度

 「国が滅びる兆し」を思い起こしていただきたい。
 「亡徴」なる兆しは47節に及び、その一節に「刑罰は淫乱、法規に忠実なく、弁舌の巧みな者を愛してその実行力を考えず、見てくれの華麗に溺れて、その実効性を顧みない者が権限を振り回す国は、亡ぶべきなり」とある。

 馬謖を起用し、その後、先帝・劉備は孔明に向かって「馬謖は大いに用うべからず」と戒めていた。ところが孔明はこうした戒めを受けていながら、馬謖をその才覚なしと看做さず、これを用いてしまった。
 ここに孔明自身も責められる罪が残る。

 三国時代が終わって百年ほど経った後、東晋(とうしん)の時期に、『漢晋春秋』という歴史書が習鑿歯(しゅうさくし)によって著わされた。
 この書物は蜀漢を正統な王朝と看做して、三国時代の歴史をまとめたものであるが、馬謖の処刑に対して、孔明の態度に痛烈な批判を浴びせ、先帝の戒めに違反した孔明こそ、その罪が問われるべきではないかとしているのである。

 天下取りは、万人の知恵を総結集してこれに臨まなければならない。
 天下の宰相たる人物は、各人の能力を推し量り、適材適所に彼等を配し、その器量に応じて適務を与えなければならない。
 それなのに孔明は、先帝の戒めを破り、馬謖を重く用い、「弁舌の巧みな者を愛してその実行力を考えぬ者」をその総指揮官に据え、大敗を喫した。人を裁く上では中正・公平を欠いている節もある。

 孔明は、軍律には厳しいが、適材適所にその器量を見抜いて采配をふる人材活用術は暗かった一面も持っている。
 とはいえ、「天下三分の計」を空想に終わらせず、その実現に向かって躍進した孔明の数々の業績は素晴しいものがある。

 第一次北伐に当たり、諸葛亮孔明は自ら蜀軍の総大将として百戦練磨の宿将・趙雲や魏延を従え、更には参謀格としては向朗(しょうろう)、楊儀(ようぎ)らの名だたる武将を従え、その総兵力七万を以て、剣閣(けんかく)の険を越え、漢中盆地に入り、魏の国境にほど近い漢水の上流域の北にある陽平関の白馬山に本陣を構えた。

 ここから漢水を東南に下ると、荊州に至る。
 荊州は、孔明が劉備と「天下三分の計」を謀って、幕下に馳せ参じた懐かしい場所であった。そして劉備は、孔明を得た事を「水魚(すいぎょ)の交わり」として、「水を得た魚の如し」と喜んだ。ここに天下三分の計、「三国志」が始まったのである。

 そして劉備はこの時、荊州の青年豪族として生涯の大部分を兵馬倥偬(忙しい態)の間で過ごし、その実戦を通じて兵法を体験し、それが机上の空論通りに行かない事を身を以て知っていた。
 その短所を補うべく、変応自在に乏しい箇所に孔明を重用した。まさに水魚の交わりであったであろう。

 しかし時を経て、孔明は若い兵学者・馬謖と気が合い、これに関して些かの危惧を感じたのである。
 臨終の際、わざわざ孔明を呼び寄せ「馬謖の言、その実を過ぐ。大用すべからず」と忠告せずにはいられなかった。
 ところが孔明は内心、無学な者には馬謖の偉さは分からないとばかりに、この忠告を無視したのである。そして参軍に任用し、街亭の戦いでは総指揮官に据えたのである。

 さて、では馬謖自身の行動はどうだったか。
 青年兵学者・馬謖は、兵学の基本に忠実に「おおよそ軍は、高きを好みて低きを憎み、陽を尊み、陰を卑しむ」という大原則に則した。したがって馬謖は山中に布陣したまでの事であった。特別に馬鹿な真似をした分けではなかった。
 ところが兵学者としては一流でも、実戦経験に乏しい馬謖は、山中に布陣したところ、魏軍に包囲され、水や食料を絶たれて一敗地に塗れたというだけの過失であった。
 そして更に過失を揚げると、兵站部の確保に問題もあった。
 しかしそうした実戦経験の乏しい、三十九歳の馬謖を総指揮官に据えた事は孔明の落度であった。

●孔明の階級降格

 街亭・箕谷の戦いに敗れた孔明は、劉備亡き後の後主・劉禅(りゅうぜん/蜀の二代皇帝)に対し、降格されたい旨の上奏文を送った。
 「私は非才の身にふさわしからぬ高位に昇り、全権を委ねられて三軍を指揮しましたが、街亭・箕谷の戦いに敗れ、街亭では命令違反者を出し、無態な敗北を喫しました。その罪の総ては丞相たる私にあり、事に当たって人選を誤り、北伐の統帥者として責任を感じていります。『春秋』では、軍の敗北は総て統帥者にありとしています。私の職務こそがそれに当たります。どうか私の階級を三階級降格して、私の罪をお裁き下さい」
 劉禅はこの上奏を早速聞き入れ、孔明の地位を丞相将軍(総大将)から右将軍に降格し、孔明の罪を裁いた。

 しかし孔明は、これで敗戦の責任が処理されたとは思っていなかった。
 内政や外交で支障を来す事は明白であり、その処理に知恵をしぼった。そしてこの敗北以降、北伐の失敗は孔明を始めとする指揮官にあった事を天下に公表し、また部下の、どんな些細な功労も漏らさず表彰し、この間、ひたすら武を練り士気を高めて来るべき北伐再開に備えたのである。
 これによって蜀の兵士は、より一層来るべき時に備えて熱心に訓練に励み、民衆もまた、敗北の痛手から早急に立ち直り、一丸となって蜀の再建に誰もが努めた。
 孔明が自ら責任を取り、己を厳しく律する事で蜀の再建は成ったのである。

●財政難の中での国家計画

 蜀は兵員不足に輪を掛けて、財政的にも事欠く始末だった。
 関羽や張飛という一騎当千の豪傑が、時を同じくしてこの世を去って以来、豊富の実戦経験を持つ武将は欠員し、名将と謳われた黄忠(こうちゅう)や馬超(ばちょう)といった人物も、既にこの世には居なかった。
 千軍万馬の蒋といえば、趙雲ただ一人であったが、彼も既に老将であり、人材不足は深刻だった。

 こうした中、それにもまして財政難は更に深刻な問題であった。呉の南伐に続く、魏の北伐は立て続けに戦費を浪費し続けた。南伐後、南夷一州からの支配だけでは、蜀の台所は賄い切れなかった。経済状態は非常に苦しい状態に追い込まれていたのである。
 兵力や経済力を考えると、弱小の蜀一国が強大な魏を相手にして戦い抜くことは、如何に孔明の知恵を以てしても無理である事実は明白になりつつあった。
 にもかかわらず、孔明は忽然として立ち上がる。

 では、何故、孔明をここまで振るい立たせ、北伐に向かわしめるのか。
 極貧国の資力を結集し、少ない兵力で中原に駒を進め、あえて強大は魏と戦う理由は何処にあるのか。
 これは確かに常識判断からすれば、不可解なことだ。
 極貧の弱小国が、戦う前から負けると知って尻尾を巻き、敵の軍門に降る行為が人間社会の常識とするならば、日本の歴史においても、源義経の鵯越え、楠木正成の千早城、織田信長の桶狭間、また近代に至っては東郷平八郎の日本海海戦などの、こうした小が大を倒す、一切の行為は否定されなければならない。

 また1960年代、インドシナ半島東部で発生したベトナム戦争も否定されなければならない。極貧の弱小国の中に発生した南ベトナム解放民族戦線は、戦わずして大国アメリカの軍門に降っていなければならない。
 人間は、無能であればあるほど、小心であればあるほど、人物的にも小人であればあるほど、常識判断という固定観念に振り回され、この範疇で物事を考える。

 したがってこの発想では「大が小を倒す」思考は生まれてこない。既成概念に左右されるからだ。こういう固定観念や先入観で振り回される小人を、一般には善良な市民といい、あるいは小市民と称して、微生物の範囲の生き物とされてしまうのである。
 したがって微生物は微生物であり、これを超越する事は出来ない。こうした者を、『韓非子』では無能者という。

 さて孔明が魏に挑んだ原動力は何か。
 それは常識的判断から考えて、不可能を可能にする「知恵」ではなかったか。
 常識の判断に捕われた、その枠の中からは、創造力など決して生まれてこない。
 損得勘定を考え、優劣・強弱だけに捕われて、強い者があくまで強いと看做した場合、この理論は弱肉強食になる。

 三国時代当時、蜀は僅か、一州の国力を結集しても、九州(黄河下流の北、大行山脈以東の地の「冀州」をはじめとする九つの州)にまたがる魏には勝てる分けがなかった。魏の人口だけ見ても総戸数は約六十六万戸で人口にすれば約四百四十三万人。
 また呉は三州にまたがり総戸数約五十二万戸、人口は約二百三十万人といわれた。
 これに対して、蜀漢は一州の益(えき)だけであり、総戸数約三十八万戸、人口約九十四万人という小国に過ぎなかった。

 常識から考えれば、国力の差は明白で、こうした超弱小国が魏と戦いを挑む事は、まさに無謀であることは明白であった。
 いかに総力を結集しても、一州だけでは勝てる訳がなく、無謀も無謀、大無謀である。
 しかし常識から発する無謀という言葉に屈しないで、むしろ積極的にそれに挑戦し、大を小で倒す知恵こそ、孔明の思想的態度であった。ここに兵法の重要性があり、軍学者はここに眼を向けなければならない。

 孔明は、まず弱肉強食の理論を否定した。
 隙間を見付け出し、創意と工夫によって逆転を狙う事が孔明の生き態であった。
 脅されて、それに一々屈するのであれば、人間は永遠に長い物には巻かれなければならなくなる。それを跳ね返してこそ、兵法家としての生き態があるのである。

 計算に聡い、常識判断旺盛な人間ならば、損得勘定から、蜀は北伐などやめて、しばし様子を見ながら、国内の安定を図り、周囲の情況を調べ、当らず触らずの考え方に落ち着くであろう。そうなれば、蜀の一時的な安定は図られ、一時的は平和、一時的な安全は保障されたであろう。

 しかしそうなれば蜀の安定は魏の安定になり、呉が魏と戦わない限り、魏の国力は益々強大になり、蜀の国力の数十倍も数百倍もの力になり、それは崩し難いほど充実していくだろう。
 そうなれば蜀の一時的な安定で、安全が確保されたからといって、後になって魏を凌駕するほどの国力が蘇ることは、余程の事がない限り、それは不可能に近い。
 となれば、いずれは弱肉強食の理論から、蜀も巻き込まれ、それに取り込まれて隷属する運命は免れなくなる。

 座して強者の餌食になるよりは、魏の隙を見付け、それに乗ずるチャンスが少しでもあれば、その可能性に掛けて積極的に挑戦して行く事が、戦略家の知恵ではあるまいかと孔明は考えたのである。そして孔明はその可能性に賭けたというべきであろう。


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