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技法の根源となる「ただ一つのこと」

合気揚げ完成への道 ■
(あいきあげかんせいへのみち)

●合気揚げ完成に向かって

 合気揚げは大東流の重要課題であり、この基礎的な力が養成出来ていない限り、どんな複雑な大東流の高級儀法を丸暗記したとしても、それは一生涯合気とはならない

 さて、合気揚げは極めて単純な、それでいて中々得難い業(わざ)である。
 現在日本で行われている合気系の武術や、それに準ずる合気道などの練習の仕方では、10年、20年と行っても、一向に完成する事はないし、それは「合気」の名を卑しめ、そのレベルを落とすものである。そして合気系の多くの愛好者は、派手な高級儀法にばかり目を奪われ、地味な合気揚げの完成に対し、あまり重要視していない節がある。
 重要な事は、武術修行と言うのは、低級な基礎技法から学ばなければ、高級儀法の長所は生かし切る事が出来ないし、また高級なものを理解してこそ、低級なものがはじめて理解できるのである。

 人間が行う戦闘行為の中には、多くは単純かつ、少しの複雑しか存在しない。この事が理解できれば、奇妙な技を遣(つか)う術者と出合っても、少しも動揺する事はないのである。戦闘とは、単純と単純のぶつけ合いであり、難しい足捌きや、奇妙な高級儀法は殆ど役に立たないことが分かるでろう。
 この事を熟知する術者は、総ての業が単純に映るのである。
 低級技法の特徴は、まず非常に単純であり、肉の目には単調に映るはずである。また簡素である為、敵に悟られ易いと言う欠点を持っているように映る。

 一方、高級儀法は、複雑で、修得困難であるかのように映る。これにコンビネーション等が加わった場合、実に派手になり、素人受けは絶頂化する。更に、これに派手な廻し蹴りや、体操選手のようなバク転回転等が加われば、素人受けは最高で、名人技等と素人から囃(はや)される。
 しかし高級儀法と、コンビネーションが加わったこうした技法の欠点は、それだけ修得しても駄目であるという事である。
 何故ならば、高級儀法は低級技法の集積によって導き出されるからである。結局、高級儀法は低級技法にその極意が備わっており、低級技法を徹底的に学んだ後に訪れる御負(おま)けのようなものである。したがって、御負けは御負けの範疇(はんちゅう)を一歩も出る事がなく、低級技法を理解しない限り、高級儀法の良さは分からないという事である。

 高級儀法を力説し、大東流には、まだまだ秘伝が多いと説明する師範は、一方で、大東流は一本捕りを十年かかって練習すると言う虚言を吐く。また高級儀法に値する秘伝は、先人達が実戦の中でこれを用いて研究され、秘伝はこうした物が集積されたと言って憚らない師範が実に多い。しかし「先人達が実戦の中でこれを用い……云々」の、この説明は不確実な処が少なくない。
 何故ならば、武術と言うものは、その動きや型の中で、単純な基本業がエッセンスとして詰まっている事が多いからだ。

 某大東流の歴史を見ると、「大東流は清和天皇第六皇子貞純親王にあるといわれ、親王の長子経基にはじまって、代々源家に伝わり、この武術がにちに新羅三郎義光の手によって、戦死体解剖の末、研究工夫され……云々」とあるが、これはまさに虚言と言うものであり、歴史的根拠は一切ない。

 一般に、大東流愛好者の間では、「大東流の技法は百十八箇条」といわれているが、これは柔術の技法に過ぎず、その内容は五箇条である百十八本の単なる型を中心とした「組み技」であり、あくまで型稽古の範疇を出るものではなく、「演武」によって演ずるしかない技法である。そしてこうした組み演武以外に方法のない大東流には、伝説的な流言の「大東流は新羅三郎義光が伝えたもの」という内容が、多くの大東流愛好者の中で信じられている。

 これは歴史的な虚言であり、伝承経路を武術に疎い素人に宣伝する為に、素人受けを狙ったものである。
 大東流の源流は、会津藩の御留流(おとめりゅう)が母体であり、これは江戸中期以降に構成された事が明らかである。また、この構成の切っ掛けになったものは、江戸幕府が十万石以上の親藩大名に対して主催した、幕府の講習会である「甲中乙伝」(こうちゅうおつでん)がその母体であり、御留流は幕末に至るまでその存在すら知らされなかったのである。そして会津藩の五百石以上の上級武士のみに指導された御留流は、溝口派一刀流や小野派一刀流忠也派(ちゅうやは)等の剣術の剣操法等が加味され、会津藩家老・西郷頼母によって明治の世になって、はじめて大東流の名前が登場する事になる。
 新羅三郎義光の時代に大東流が作られたと考える人達には、歴史的認識を疑わざるを得ないが、これは明らかに間違った歴史観を簡明に信じている事になる。

 会津藩の御留流が表面化するのは、江戸末期に公武合体(幕末、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線)政策の応呼して、幕府要人や重役達を警護する為に、一部の上級武士や奥女中達に指導されたものであり、これは日新館の正課武術が西郷頼母によって、武家の礼法である御式内と並んで武術の新教育として研究開発されたものであった。
 したがって大東流は明治の世になって、はじめて産声(うぶごえ)を上げた新しい総合武術であり、密教行法の秘密や秘事が秘伝として伝わったものなのである。その為、その発祥時期は極めて新しく、ただ、構成内容が極めて斬新であった為に、巧妙な技法が他流を凌(しの)いでいたと言うだけの話である。

 こうした経緯から考えれば、大東流の基本は「合気揚げ」にある事が分かる。これを無視して、高級儀法のみを秘伝と考える考え方は、明らかに誤りなのである。
 大東流は、基本業の集積である為、段階ごとに密教の密事が取り入れられ、こうしたものが構成の研究者に誤った歴史観を植え付け、誰が考えても訝(おか)しいと思わざる歴史的史実をねじ曲げて流布した観が強い。
 しかしこうした、「大東流は新羅三郎義光が伝えたもの」という素人受けを狙ったものでも、高級儀法を秘伝にでっち上げ、これを秘伝と称したところで、合気揚げを理解できなければ、高級儀法は愚か、手解き四十八箇条や、基礎柔術である柔術百十八箇条すら、本当に会得する事は不可能な事なのである。そしてこうした風潮が高まるにつれ、やがて柔術百十八箇条は、時代遅れの観が強くなり、骨董品と成り下がり、単に演武会における「約束で交わされた組み技」程度にしか用を為(な)さなくなるのである。

 

●合気揚げを行う為の体質改善

 大東流に何年も、何十年も入籍しながら、実際には合気揚げが出来ない人が多い。その「出来ない理由」は、まず合気揚げを行う体質が出来ていない事である。合気揚げは、体質の良し悪しで、これが出来るか出来ないかが決定される。
 そして出来ない人の多くは、体質の悪さにあり、その体質の悪さはこれまでの食生活に問題がある。

 肉や卵やバターやチーズ類の動蛋白の食物摂取は出来るだけ摂らないように心掛けるべきであるが、それにも増して、「白砂糖」をベースとした食品は絶対にとるべきでない。白砂糖は三白癌(白砂糖、白米、白パンを三白癌と云い、最近ではうま味調味料と云われる化学調味料もこれに入る)の一種であり、ガン体質になり易いだけではなく、躰全体の力を散漫にし、気力を無くしてしまう元凶を抱えている。また白砂糖入りの糖分を摂ると、内臓に負担を与え、胃腸障害を起こし易く、胃壁を酸性化させてその運動を弱め、また腸に於ては蠕動(ぜんどう)運動を緩慢(かんまん)にして停滞(主としてS字状部や小腸に閉塞を起すしたり異常を持つ人は、子供の頃から白砂糖等の甘い物を摂り過ぎている。第一型糖尿病の人も、幼児期からの白砂糖が原因している場合が多い)させ、種々の腸障害を起こす。

 和菓子をはじめとする一切の菓子や汁粉類、ケーキ類やクリーム菓子やアイスクリーム等は、ふんだんに白砂糖が使われている。こうした甘い物を普段から食している人は、一様に握力が弱い。また骨のカルシウムを、過剰な糖分摂取で無駄に消費させる為、骨も脆く、虫歯も多い。こうした人は、幾ら野菜を大量に食べても、糖分摂取がそれを上回る為、隠れ糖尿病を持っている。砂糖は塩分摂取以上に元凶を作るのである。

 こうした甘い物を食べる人は、一般には糖尿病になると信じられ、肥っていると思われがちだが、糖尿病でも第一型糖尿病では、肥っている人よりも、痩せた人が多く、膵臓から分泌するインシュリン分泌に問題を抱え、体力がなく、実に体質が悪い。この体質の悪さは幼児期からの食生活から来るもので、第二型糖尿病を抱える人も糖分の摂取は食事の量の比率から考えれば極めて多いと言える。そしてこうした病気を煩っている人は、共通して、握力が弱い。精神的な気魄(きはく)も、士気も、常人に比べて劣っている。

 こうした劣勢は、体質の悪さから起るもので、その元凶を為すものは、甘い物を食べる食生活の悪さに問題があるのである。
 武術を修行する者は、甘い食品を口にするべきでない。躰を弱め、体質を悪くするからだ。
 どうしても甘味を摂りたいのなら、果物(リンゴなど)から摂取するべきであり、白砂糖入りの菓子類(ケーキや和菓子は食べ物の中でも元凶を齎す)からは、絶対に摂るべきではない。そしてこうした食への慎みを忘れた人は、全般的に見て体質が良くなく、常に病気がちである。

 自分の命は、自らの握力が握っている。したがって握力の弱い者は、自らの命すら掴む事が出来ないのである。自らの命をしっかりと掴むには、まず握力の養成が必要であるが、握力を鍛える前に食の改善をする必要があり、動蛋白を摂りながら、また白砂糖食品を摂りながら、悪い体質は改善する事が出来ず、体躯の改善こそ急務なのである。昔から甘い物好きの武芸者に、優れた人物は殆ど居なかった事実を認識すべきである。
 甘い物を食べると、中年以降は骨と骨格の節々を弱くし、関節を傷め、気力を緩慢にして放恣(ほうし)状態になり易く、集中力が衰えるのである。またこうした人に限って独断と偏見が多く、「こだわる」固定観念が強く、したがって大東流で教える、一番最初の入口である合気揚げが何年経っても完成しないのである。まず、食生活に誤りがないか、それを素直に反省して体質改善を考えてみるべきである。

 

●握力と合気揚げの関係

 最近は気功などのブームで、「力無用論」が罷(まか)り通っている。また中国拳法における「発勁」(はっけい)なども、これに準ずる理論を上げている。そしてその中心課題は「力の無用論」だ。
 果たして、力は無用なのだろうか。

 力の無用論を説く多くの指導者は、実戦に直面した場合、果たしてその行動は如何に。
 あるいは自分の道場生に対して、あれだこれだと「気の理論」を説くように、「気」を説明する魔法の舌と理論を論(あげつら)うように実戦に対処するのだろうか。

 合気揚げは相手の掴(つか)む手と腕を揚げてこそ、はじめてその価値観を見い出すものである。
 これは、狎(な)れ合いの約束稽古の中からは、決して生まれて来ない事実である。日夜心血を注いで、稽古を重ねてこそ、はじめて出来るものである。

 さて合気揚げは、単に力を用いず、気だけで揚げると言うものではない。合気揚げを会得するには、まず握力の養成をしなければならない。充分に握力を鍛える事だ。
 握力を鍛えると言う事は、筋肉を養成する事ではなく、人間の本能的な「物を握る」「物を掴む」という生存本能に由来するものである。物を掴んだり、物を握れない者は、やがて自らの命すら掴む事が出来なくなる。みすみす掴めるはずの自分の命すら取り逃がしてしまい、ついには病気や事故で倒れるのである。

 さて、「握力が強い」と言う事は、いったい何を意味するのか。
 それは「腕っぷしが強い」と言う事であり、馬を馭す場合に「腕(かいな)を返す」と言う技術がある。つまり力の強力な敵に対し、腕を返す事が出来るのである。腕を返す、という語源は相撲でも遣(つか)われる。相撲で、相手の脇の下に差し入れた腕の肘(ひじ)を上へ上げ、相手にまわしを取らせないようにする動作だ。
 そしてこれは、握力がものを言い、握力によって自分の体勢を防御するという事である。

 一方、握力の弱い者は、自らの体勢を守る事すら出来ず、相手の言い成りにされてしまう、心の弱さを持っている。心が弱いと言う事は、握力もまた弱いと言う事であり、物を掴もうとする生存本能が弱いと言う事でもある。

 一般に合気系の武術や中国北派系の拳法は、各々に共通点があり、「力は無用である」と信じられている。しかしこれは大きな誤りである。
 人間の戦いに、力が無用等と言う愚かしい考え方は、やがては我が身を滅ぼす元凶となる。力の無い人間の辿(たど)る末路は、我が身の崩壊である。
 病気すら、力の無い人間に襲って来る現象である。
 では、なぜ病気に罹(かか)るか。
 それは体力がないからである。体力がなければ、病気を招き寄せるばかりでなく、病原菌が忍び寄って来てもそれを跳ね返す事が出来ない。したがって最後は病気で我が身を滅ぼしてしまう。
 事故にしてもそうである。

 

●力の無い人間は病原菌やウイルスに感染し易い

 我が身に迫る危機を事前に察知できないような鈍感な人間は、霊的感覚(勘や近未来予知)も曇らされているので、やがては事故の圏内に取り込まれ、最後は交通事故や犯罪に巻き込まれて、我が身を滅ぼす事になる。こうした不幸現象に遭遇するのは、つまり能力不足で、結局は「力がない為」である。

 力なき者は滅ぶ。これは人間界の掟(おきて)であり、人生の常だ。
 力なき者は、絶好のチャンスも取り逃がすし、チャンスは訪れて来ても、これに素直に耳を傾ける事が出来ない。幸運の女神は何時(いつ)でも耳許(みみもと)で囁(ささや)いているのである。しかしこれを素直に聞き言える能力の無い者は、こうした幸運の女神の微(かす)かな囁きも聞き取る事が出来ないのである。そしてついには聞き逃し、やがては知らず知らずのうちに虎口(こぐち)に近付き、我が身を滅ぼしてしまうのである。

 また力なき者は、天地の人間(じんかん)の中にあって、天も地も自分の味方につける事が出来ない。
 人間の戦いは、霊的ならびに、現世の一切合切の現象を合わせた総合戦力が、ものを言う世界であり、単に自分一人の努力だけでは絶対に勝つ事が出来ない。
 「勝てると言う事」あるいは「負けないと言う事」は、天も地も自分の味方につけると言う事であり、「我」(が/自我の欲望を指す)によって、独断と偏見から導きだされるものではない。人間の力など高が知れているのである。常に総合戦力がものを言うのである。こうした総合的な力が働いた時、圧倒的優勢の敵に対して勝つ事が出来るのである。あるいは勝つ事は無理にしても、負けない境地で、我が身だけは滅ぼさずに済むのである。

 人間の世は、何時(いつ)の時代でも「砂上の楼閣(ろうかく)」的な繁栄の上に成り立った幻(まぼろし)の世界である。肉の目で見える華々しい繁栄の世界を、未来永劫まで続く現象と捉え、これに浸り切ろうとする。しかし中身は砂上の楼閣である事を忘れてはならない。この砂上の楼閣の上に浸り切っていると言うのが、資本主義経済の偽わざる姿であり、やがては滅ぶものなのである。
 またこの世界では、いつ発生するかも知れない災難が待ち構えていて、現代人を虎口に引き寄せる落とし穴を持っている。こうした落とし穴に墜(お)ちない為には、まず自分自身を鍛える事であり、心も躰(からだ)も常に怠らず鍛えておかなければならない。

 しかしこうした「力の養成」をするのにアスレチック・ジムやスポーツ・トレーニングセンターなどに一々通う必要はない。自宅でも、通勤・通学途中でも、何処でも、簡単に養成できるのが握力の養成であり、この握力を養成する事が、実は我が身を護(まも)る強力な力となるのである。
 合気揚げは、実に握力の養成によって完成する総合戦力の要(かなめ)であり、逆に言えば、握力の無い者は、合気揚げをいつまで経(た)っても完成させる事が出来ないという事である。

 それは我が身を護る時の、ぶら下がるロープを想像してもらえれば容易に想像がつこう。
 偶発的に何等かの異変が起り、高い処にから、低い処へと逃れる場合、ロープ等を伝わって危険な箇所から脱出を図らねばならない事もある。

 例えば、猛火の高層ビルの火事に遭遇したとしよう。猛火のビルから脱出する為には、ロープ等を伝わって此処から脱出する以外ない。ロープがなければ、それに代わる代用品を探し、これが最後の命綱(いのちづな)になるのである。
 この時、ロープ等に捕まって降下すると言う事は、最終的には握力がものを言う。しかしこれは簡単に、誰にでも出来る業(わざ)ではない。むしろ離れ業に近く、不可能ではないかと考えるだろう。

 しかしこれが不可能ではない。要するに握力を鍛える事だ。
 握力の場合に目安になるのは、「体重の80%」と言う数字が非常に大事である。この数字は、例えば、体重が75kgとすれば、この体重の80%であるから、60kg程の握力が必要になる。これが自分自身を護りうる最低限度の握力となる。そしてこの握力がなければ、我が命は滅するのである。
 握力の養成は、実に簡単に出来る。しかしあまりの簡単さゆえに、これを怠ると言うのが人間の本性のようだ。

 さて、握力のトレーニング法は、要するに指を開いたり、握ったりする運動である。最も基本的な運動であり、歩く事より更に簡単である。
 まず、最初は何も握らずに指の開閉を行う運動である。これを毎日朝晩、最初は五百回程度からはじめ、徐々に回数を増やし、千回、二千回、三千回と回数を重ねる。そして一万回程、難無く開閉が出来るようになると、今度はハンドグ・リップを遣って、握力の養成を図るのである。

 握力の養成については、この手順を間違ってはならない。
 握力を養成しようとする場合、多くはハンド・グリップをいきなり握ってこれを養成しようとするが、これは誤りであり、また長続きしない。まず最初は、何も握らずに、指の開閉だけを行う。そして徐々に回数を増やし、最低でも一万回程、早いスピードでこれを行わなければならない。その目安は最低でも、百回行うのに一分以内で行うのが正しく、徐々に指の開閉速度を速めるのである。最初は腕に筋肉痛等が起るが、回数を重ね、日を重ねるごとに馴れて来て、千回行うのに5〜6分程度となるであろう。
 これは何処でも出来る事であり、通勤・通学途中の電車やバスの中でも、また慣れれば、車を運転しながら、ハンドルを握った状態で、指の開閉は容易であろう。
 こうして、指の開閉を行いつつ、一万回の完成に向かって、根気よく続ける事だ。
 そして一万回を達成する事ができれば、次にハンドグリップを握って、握力の養成に入る。


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