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常に百回を目安にして、弱い物が百回程度出来るるようになれば、次に中間レベルの物を50〜100回へと挑戦すればよい。中間の物が100回から150回まで出来るようになれば、次に重い物へと進み、これを最低でも50回程度を目安に行う事にする。 もし、こうした順を追いながら、左右の握力が重い物で50回に満たなければ、養成法の手順が間違っているので、最初の指の開閉からフィードバックして養成する必要がある。無理して重い物に挑戦したり、出来ない事に安易に挑戦するべきでない。無理をすれば腕や拇指の筋骨を傷(いた)める事になる。 合気揚げは、自分の力で相手の手頸(てくび)を握る事を知らなければ、また、相手から我が手を掴まれた場合、それを揚げる事が出来ないのである。合気揚げを行う際に、力一杯掴み取り、それでいて術者の揚げに逆らって、途中で手が切れてしまうのは、要するに封じる側(握る側)の握力が弱いからであり、握力の弱い者が、何度合気揚げに挑戦しても、結局は合気揚げをマスターする事が出来ない。 その為にも握力の基礎養成である、ハンド・グリップを握っての「捨身懸命」を意識した握力鍛練が必要である。握力の弱い者は、もともと生命力事態が弱く、したがって相手の手頸を取り逃すばかりか、自らの命も取り逃してしまうのである。 それは「両手封じ」は捨身懸命の抑えであり、大小の刀を帯刀した相手に対し、抜刀を許さない為に両手頸を押さえるのであるから、相手の手頸を握り込む力が弱いと言う事は、要するに相手に抜刀を許し、自分が斬られてしまうからである。斬られたくなければ、これを命賭けで抑えねばならない。 また、密教行者から印を切られてその術に掛からない為に、両手首を封じると言う説もある。両手を結び、術に掛けられない為には懸命に抑えるしかない。したがって捨身懸命で相手の手頸を抑える事ができない者が、逆に相手から自分の手頸を握られた場合、これを揚げる事が出来ないのである。 まず合気揚げを行おうとするならば、充分に握力を鍛練しておく必要があり、握力の弱い者が、合気揚げなど出来るはずがないのである。握力は、生命維持本能から生まれるものであり、命の綱は、この一点に掛かっている。ます握力を徹底的に鍛える事だ。 ●水掴行
水掴行(すいこくぎょう)とは、単に「水を掴む」ことである。しかし水を掴む、あるいは握ると言う事だけではない。水掴行の目的は、「吸盤の掌(てのひら)」を会得する事にある。 水掴行の鍛練場所は風呂等がよく、単に水を掴みながら指を開閉すると言うのではなく、肩先から腕を真っ直ぐに伸し、こうした態勢を確保しておいて、お湯をしっかりと掴むという事である。掴んだら、次に指先をピンと伸し、この時、お湯を弾き飛ばすくらいにピンと開く事だ。 アスレチック・ジムやボディービルダー養成のジムに通って、重いバーベルを持ち上げたり、鉄唖鈴を左右交互に振って、腕力を鍛える必要はない。外筋を鍛えても、年齢と共に直ぐに衰えるからだ。 人間は、年齢と共に老化現象を招くと共に、肉体の表皮を包む外筋は衰えるものなのである。しかし内筋は、案外と年をとっても健在であり、容易に衰える事はない。 最初は、湯槽(ゆぶね)の中で1000回、2000回、3000回と繰り返すとよい。そして段々と増やして行き、10000回へと挑戦する。鍛練の単位は何事も、10000回を目安として最小単位となる。 一般に、脂肪を燃焼させる場合、スポーツ等に取り組む事が最良のように考えがちだが、アスレチック・ジムに通って、汗をかいたところで、意識の強化までは不可能であり、また、スポーツ全般は呼吸の吐納法が正しくないので、息を止めて、力(りき)む動作が度々繰り替えされる。こうした、力む時に、心臓に相当な負担をかけ、心臓肥大症(心筋梗塞/冠状動脈の閉塞または急激な血流減少により、冠状動脈硬化による狭窄部に、血栓・塞栓・攣縮などが加わり閉塞を起すことにより生ずる)を煩う場合が少なくないのである。 特に、壮年以後に多く、激しい運動をした直後、急に劇しい胸痛を感じ、悪心・嘔吐・顔面蒼白・血圧降下を起し、ショック状態となり、重症の場合は死に至る異常現象である。中高年者がスポーツの直後、ショック死するのは、普段からのスポーツの結果、心臓肥大症を煩い、その為に突然死に至るのである。 そして、これを10000回単位で稽古していると、お湯を掴むばかりか、掌に握り込んだお湯事態を、自在にある方向に向けて発射する事が出来る。その発射する際の圧力は相当なものであり、敵へ向けて眼潰し攻撃する水鉄砲くらいの威力が生まれるのである。その水圧はかなりのもので、約6〜7mくらいは楽に飛ばせるようになる。 さて、握力は総ての人間の人体運動の基本となる。 人間の防衛本能は、自分への落下物がある場合、頭上を防禦(ぼうぎょ)して両腕で頭部を庇(かば)おうとするが、刃物を持つ相手に対峙した場合、まず人体の裏側である腹部を守ろうとする。 腹部は人体の裏側であるから、他の哺乳動物と同じように躰を丸めて背を表とし、腹部を裏として内臓を守ろうとするのが人間の防衛本能である。 内臓を守る為に手頸や腕を切られたり、手を切られたりの抵抗傷を負う。人間は必死になれば、まず捨身の形をとり、命を捨てて「居直り」が生まれ、通常では考えられない行動に出る。この行動の一つに、「刃物を掴み捕る」という、したたかな行動を起こす事がある。そして法医学用語で云う所の、「防禦創」を負うのである。この傷が多い事は、人間が何かを掴み捕り、生命の火を絶やしてはならないと云う、命への固執を表すのである。 こうした命への固執は他にもある。人間の行動は一種の命を賭けた行動律に彩られている。この行動律の原点は、人間が何ものかを「掴む」あるいは「握る」という行為だ。 例えば、掴むという意識と、その威力が弱ければ、生命の綱であるロープだけではなく、総ての運動行為においても不利になる。 この中風は、加えて人間の意識を薄弱にし、意思力は極めて脆(もろ)いものになる。そして人間の意思力と握力は密接な関係にあり、これが衰えれば、幾ら寿命があったとしても、もはやこれでは生きる屍(しかばね)である。 ●重い物を軽く遣い、軽い物を重く遣う
握力の弱い者は、重い物を軽々と扱う事が出来ない。また、軽い物でも、効果的にそれを用いる事が出来ない。 本来の意味である「重い物を軽く遣い、軽い物を重く遣う」とは、重い得物を軽々と扱う事であるが、「軽い物を重く遣う」とは、例えば割箸(わりばし)一本でも、敵の脳天(天倒/大脳刺劇神経の錯撹で、即死に至たらしめる急所)を叩き割るくらいの威力のものを言うのである。 握力の弱い人間は、重たい素振り用の木刀を、僅か100回か200回振ったところで、無理をすれば無態(ぶざま)に肘を傷めてしまう。これは握力がないからだ。 まず、握力の弱い者は、握力から鍛え直す必要があり、素振りだけをしても、その効果は殆ど顕われて来ない。やればやる程、肘や肩を傷(いた)め、肩ばかりに外筋肉がついて、ゴリラのように厳(いか)つい肩にはなるが、内筋が鍛われない為に、持続力がなく、そたがって力みによって木刀を動かそうとする為、冠状動脈の閉塞ま ちなみに握力があって素振りをした者は、腕が握力養成時と同じように「ヘラブナ形」に太くなり、肩の筋肉が墜ちて、鎖骨部分は骨と皮だけの「撫肩」(なでがた/なでおろしたようになだらかに下がった肩の事で、「山肩」とも云い、剣客と云われた古人はその殆どが撫肩である)の肩になるが、握力が弱くて素振りをした者は腕は多少丸太のように太くなるが、また肩の形も「怒り肩」となって角張り、ゴリラのように厳つくなる。 しかし怒り肩は、一見強そうに見えるが、手の裡(うち)が甘い為に、打ち据える部分に「揺れ」が起り、腕力の割には破壊力がないと言う事である。またこれは握力が不足していると言う事であり、ブレが起る為に目標に当たっても弾き返され、目標を正確に打ち据える事が出来ないと言う不充分から起る。 握力の有無はこのように攻撃力にも不充分が生じ、技を知っていても遣う事が出来ないと言うマイナス面があるのである。したがって「重い物を軽く遣う」という事は充分に握力が養成出来ていると云う事を意味し、また「軽い物を重く遣う」と云う事は握力によって手の裡が充分であり、固く結ばれていて、ブレないという事を物語っているのである。それは同時に、握力の養成が「脇の締め」にも連動されていて、脇を締める事は同時にブレ防止にもなっているのである。こうした脇締めを「結び」と云う。 しかし握力を鍛える事は、日常、これを行うには余りにも簡単過ぎ、簡単なるが故に、怠りがちとなる。こうした怠慢は、やがては自らの命も掴む事が出来ない程、重大な過失へと導いてしまうのである。 更に、頑迷と言う先入観や固定観念が邪魔して、自己流となり、そこには修正し難い独断に満ちた癖がつく。最早こうなれば、修正し難いばかりでなく、独断と偏見で病気を招き、自身を狂わせる方向に、進んで居る事になる。 握力は、人間の持つ肉体力と霊力の両方が接触する唯一つの要であり、握力が強いと云う事は、要するに霊力も強いと言う事であり、ここに「握る」あるいは「掴む」という接点箇所が生まれ、これが「結び」となるのである。 重い物を軽く扱う事は握力が充分養成されていなければならず、また軽い物を重く扱う事は、「結び」という接点の意味を知り、これが完成しない以上、軽い物を重く扱う事は至難の技なのである。しかしこれが完成すれば、軽い物を重く扱う事が出来、例えば、割箸一本で敵の脳天すら叩き割る事が出来るのである。 近代剣道では、訓語の一つに「重い物を軽く遣い、軽い物を重く遣う」と云うものがあるが、実際にこれがどう云う事であるか、知っている剣士は、現在では殆ど居ないと言ってよい。そして剣道家自身、剣の握りは「拳」であると云う事を忘れ、拳は「掴み」から来ていると云う事を知らないものが多くなっている。 ●病気を煩うと言う現象
少し話は反(そ)れるが、「病気」と言う不幸現象について述べてみよう。 この感染するかしないかは、病原菌やウイルスが決定するものではない。 幾ら肉体技(にくたいぎ)に優れていても、食生活が過っていたり、「肉はスタミナの元」等と云う現代栄養学者の言に踊らされていたのでは、体質の良い体躯など維持できるはずがない。若い時は卓(す)ぐれた体躯を持っていても、体質が悪ければ、次第に感染され易い躰となり、持続力が失われるのである。そして持続力が失われば、病質により、短期に命すら失ってしまうのである。 若い時に有名を馳せたスポーツマンや競技武道の勝者が、短命で命を落とすと言うのは、実は体質が悪い為で、日々の鍛練や食事等に誤りがあり、更には行動律の原則である「呼吸法」の誤りが挙げられるのである。 昨今の病気は、ひと昔やふた昔前に比べて、治り難くなった実情がある。 ●病気が治り難くなった現代現代は病気が治り難くなっている。そして、病気が治り難いのは病人が過保護にされ、甘やかされていると言う現実があり、また病人自身、自分は病人だから大切にされるのが当たり前であるという、病人特有の思い上がりがある。 こうした事で、精神的にも益々病人は病人らしくなり、病人である事を心の片隅で保持しようとする狡(ずる)さが燻(くすぶ)りはじめる。かくして病人は、病気から解放される事を望まなくなる。 現在、厚生労働省は、ハンチントン舞踏病(アメリカの神経学者G. S.Huntington1851〜1916に因む病気で、顔面・手・足・舌等に一種の不随意的急速運動を現す、踊るような身振りを主徴とする疾患。中年に始まり精神障害を伴い、進行性で予後不良が特徴)を合わせて、約30種の難病を指定しているが、こうした特殊な疾患ばかりでなく、胃腸障害や肝炎や喘息(ぜんそく)、神経痛やリュウマチのような、元々単純であった病気すら、中々、治らないものになって来ている。 つまり、非実在界が構成する「現代」という時代は、現象人間の病気が、時代の風潮と深くかかわり合い、「淘汰」の様相を見せ始めているからである。これこそが救われる者と、そうでない者との選別であり、人類は既に、最終進化の時代に突入したと言えよう。 例えば、「鞭(むち)打ち症」(自動車で追突された時などに、躯幹が前に圧されるとともに頸部が衝撃的に後方に振れ、筋・靱帯・関節、時に脊髄が損傷する疾患。痛み・めまい・耳鳴り等があり、しばしば症状は慢性化し、過伸展損傷ともいわれる)と言う、追突事故の際に起る症状があるが、同じ病棟に、こうした患者が過半数を上廻ると、全く鞭打ち症でない人までが、鞭打ち症と同じ症状を招くと言う事が報告されている。 また近年には、福祉国家が標榜(ひょうぼう)されるようになり、電車やバスに乗るにしても、あるいは駅の階段を上るにしても、「車椅子優先のシンボルマーク」が目につき、躰(からだ)の不自由な人や、弱い人は保護し、同情すべきだという政治理念が働いているが、こうした風潮は、障害者にとって、身体的弱者である為に、世間から大事にされるのは当たり前と言う、いわば、ある種の被害特権を植え付け、心の傲(おご)りを増長させて、「甘えの構造」を是認する風潮があり、社会意識を危険な状態に傾けていると言えよう。 多くの人は、自分が病気になった時、被害者意識をもってこれを煽(あお)り、憫(あわれ)みと同情を得ようとする。憫みを受け、同情を受ける事を当然だと思い、こうした態度は、実は有形ならびに無形に、周囲の人達に非常な迷惑を及ぼす、思い上がった加害者でもある。しかし、この事に気付いている身体障害者は殆どいないようだ。 特に、精神障害を起こした精神分裂病を始めとする精神障害は、その家族も非常に辛い思いをするし、また経済的な負担も相当なものである。ところが、こうした病気を患い、精神科や神経科で治療を受けている当の本人は、全く迷惑のかけっ放しで、感謝とか、反省とかが全くない。したがって、こうした無関心状態も、この種の病気を非常に治りにくくしているのである。 また、幼児期に訓練されるべきはずの前頭葉(ぜんとうよう/大脳皮質の中心溝と外側溝によって囲まれた前方部で、哺乳動物とは異なる人類脳を有する。特に前頭前野はすべての大脳皮質、大脳核・視床・視床下部・小脳・脳幹との間に広範な線維連絡を持ち、意志・思考・創造など高次精神機能と関連する)未発達が大きく関わっているのであるが、この未発達と言うことこそが、既に同情と甘えの元凶だったのである。だから精神障害を起こしたのであって、幼児期の養成されるはずの前頭葉は、未発達のまま放置されたと言うことになる。 もし、爬虫類脳や哺乳類脳の元凶を排して、自他同根の意識を幼児時代から、親にしっかりと教育されていれば、まず「他人から同情を受け甘えに甘受する」という事はあり得ず、周囲の者に世話を受け、迷惑をかけると言う自責(じせき)の念が深ければ、絶対に病気になるはずがないのである。 一方、幼児期に「自他一体意識」と、自責と言う「自己責任の意識」が明確な形で教育を受けると、万一病気になった時には、当然周囲の者に対して感謝の気持ちを持ち、自分を反省する気持ちが生まれるから、治りも早く、病気自体も軽度で完治してしまう。 私たちは歴史の中で、「三重苦」と戦ったヘレン・ケラー(Helen Adams Keller/アメリカの女流教育家・社会福祉事業家。1880〜1968)女史を知っている。彼女が、一生弱者として終わらなかったのは、我が身に如何なる生涯が襲い掛かっても、それに憫(あわれ)みや同情を受ける事なく、自らの力で立ち上がり、努力し、行動したことが、彼女の輝きある人生を「決定」したからである。 もし彼女が、憫みを受け、同情を受ける被害者特権に身を委ね、「世間は、私を大事にするのが当り前」という意識を持っていたら、彼女の二歳で盲聾唖(もうろうあ)となった、それから以降の人生は、一体どうなっていたであろうか。 弱い者、あるいは障害者に対して、弱者であるが故に、手を差し伸べる事は決して悪い事ではない。しかし弱者故に、世間から大事にされるのは当り前という考えが先行してしまったら、その人は永遠に救われない魂で、人生を終える事になり、また、それが次への因縁となって、再び我が身に跳ね返ってくるのである。不具を免れ、五体満足に生まれたとしても、怪我や事故で障害者になってしまう。感謝と反省の足りない障害者は、再び来世も障害者としての人生が決定されてしまうのである。 如何に善意であっても、障害者に対してのボランティア活動は、老人や病人や障害者は、「甘やかされる誘惑」がある事を充分に理解させるべきなのである。
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