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技法の根源となる「ただ一つのこと」

合気揚げ完成への道 ■
(あいきあげかんせいへのみち)

●四次元空間に沈める

 「世間」とは、「この世の空間」の事を指す。そして一般には世間を「三次元空間」と定義する。

 では三次元空間に対峙(たいじ)して、それ以上の空間とは何を指すのか。
 更には、この世の空間と、それ以外の空間にはどのような関係があるのか。

 さて、三次元空間の発想を展開させると、三次元の上には四次元が存在し、この四次元空間は三次元空間の世界より広大無辺であると推測できる。しかし、三次元空間と四次元以上の空間は、貨幣で例えるならば、その裏表であり、ぴったりと、くっついていて切っても切り離せない関係にある。これを三次元空間と四次元以上の空間の関係を比喩的に例えるならば、この世と云う現世は、広大無辺な四次元以上の空間の中に、ポッカリと浮んでいる一種のゴム毬(まり)のようなもので、このゴム毬である三次元世界の自然界の周辺には、総て四次元以上の空間が取り巻いている事になる。

 しかし三次元空間に存在する自然界と、その周囲を取り囲む四次元以上の空間は、ゴム毬の外皮として、ハッキリと境界線を設けていると言うものではない。また四次元以上の空間は、三次元空間とは別個のものではなく、同じ意識体の中に含まれ、同時に共存しているのである。

 ところで、我々が生きているこの現世と云う現象人間界の世界は、空間的広がりと、時間的に流れを持つ物質宇宙だと信じられている。
 この基本的定理は、「何が、いつ、どこで、何をし、どういう現象が起ったか」という、この世の出来事を顕(あら)わす、決まった時間と、その場所で起きた現象を顕わすのだと云う。しかし、これは正しいだろうか。
 何故ならば、この時、自己に内在する「心」というものは、一体何処に存在していたのであろうか。心と言うものは、この物質宇宙の何処に在(あ)ったと言えるのだろうか。

 唯物論的心理学では、「心的派生の源泉は、大脳と云う物質機能を発露が思考である」と定義している。しかし「心」と言うものが、何処に存在しているのかと言う答えにはならない。それもそうであろう。「大脳に在る」だけでは答えにならず、あるいは自分の肉体から離れた、宇宙の何処かに在ると云ったところで、それも答えにならないからである。

 人間の思考には自由意思的行為と言うものが在り、これは全過去体験に基づく未来の諸可能性との合体であるから、心の持つ存在としては、人間は生きている「現在」における、「今」という現象人間界の意識に他ならない。したがって「今」の定義は物質宇宙の物理的時間の、「一点」を指すのとは異なる。人間の思考やそれに伴う行動律は、肉体が存在する物理的時間の現在に存在する事は決してあり得ない。物理的時間における思索は、渾然一体たる表形事象の統一的意味の連携の型に過ぎないからだ。
 つまり、心と云う存在は、物理的時間で云う唯物論的心理学から来る大脳に存在するものではなく、自己超出を繰り返し、「今」の思念や「今」の統一的意味合いを持つ連携に到達しうるものであるが、自己超出は繰り返す度に、新たに造り変えられ、弊害を排除して統一的意味合いの中で、常に動き、一新され続けているのである。

 そしてこれは、全思考体験の自己超出であるから、例えば、我々が思念や意念によって派生させる、思想や愛情表現、あるいは真・善・美・信・忠などの意味の世界である思考や感情、意思や意識と云った働きは、物質として所有する我々の肉体の中には何処にも存在せず、これはまた、物質宇宙の物理的時間の、現在にも、過去にも、未来にも、何処にも存在しないと云う事になる。
 つまり自己超出は、物理的空間を超えた領域と云う事になるのである。

 現象人間界は肉体的存在として、物理的空間時間を各々の場所で、現象人間にその存在的瞬間を与えながら、自己超出者の精神的存在を、物理的空間時間の中に、存在しないと云う「今」を連続させているのである。
 則(すなわ)ち、「今」と云う現象は、「物理的空間時間に、一面において存在を認めながらも、他方面において存在しない」という矛盾した現象を作り出しながら、一方に於いて、異なる場所、異なる空間、異なる瞬間の「今」を、知覚体験の物理的要素を加味しつつ、知覚対象である物質との相互作用としての感覚器官・脳神経系・内分泌器官ならびに筋肉やその他の運動器官に様々な影響を与える現象界での出来事に過ぎないのである。

 運動器官における作動の派生は、意識の覚醒(かくせい)において、それを操る「本能知」(本能によって体や感情が動かされるさまで、心の動揺を指す)と共に、その各場所各瞬間は隔離され、そこから抜け出して遊離した、物理的空間時間を超越した処において、互いに結合しつつ、同時に次なる統一的意味を含む「異次元の知られざる現象」が自己超出と結びつくのである。

 これは理知的存在としての人間の自己超出の始まりであるから、現象人間における自己超出は、もともと物理的空間時間における肉体的存在としての自己の超出現象であり、これは物理的空間時間を超出したものであると言う事が分かる。

 西郷派大東流で云う「合気の儀法」には、その奥儀に「四次元空間に沈める」という特異な技法があるが、これは単に三次元における「肉体的格闘」を指すものではない。

 喩(たと)えば、三次元空間であるゴム毬の球体は、四次元以上の空間の中に浮んでいるが、地球もその一つであり、四次元以上の世界の空間の中で、この物質世界はポッカリと浮んでいる。
 しかし先にも述べたように、三次元と四次元かハッキリとした境界線があるのではなく、三次元空間は四次元空間に染み込み、重なった多重かつ複合的な空間であり、両者は共に重なっているのである。しかし三次元空間から四次元空間に進む事は出来ず、逆に、四次元空間は三次元空間を取り込んでいるので、ここから三次元空間に浸透する事は可能である。

 したがって三次元のゴム毬は、実は四次元空間の重なった複合部分でもあり、ゴム毬の中枢部の空間も、実は四次元空間の一種であるが、ゴム毬の中だけでは四次元空間を意識として感じる事は出来ず、例外的に、三次元自然界の現象と四次元以上の現象世界が、その接合点を同じ箇所に持つ場合、此処が出入口となって、同じ空間を共有する箇所が至る所にあるのである。

 喩えば、三次元空間の中に一つの机が置かれていたとしよう。
 此処の同じ場所にもう一つの机を置く事は出来ない。これは物資世界を形作る三次元自然界の絶対法則である。また一つの机に、他方のもう一つの机を重ねる事は出来ない。
 しかし、同じ空間に、同時に二つのものを置く事が出来ないと言う自然界の現象は、一方で、時間的な誤差を利用して、最初に置いて机を取り除いて、後に据える机を置く事は出来る。
 この事は、三次元空間が自然界の物質界であり、此処が物質世界であると云う事の証明でもある。

 さて、同じ場所に最初の机を退かした後に、二つ目の机を置けば、同じ場所に二つの机を時間差を利用しておく事はできるが、この場合、現世の人間の思考では、やはり一つの机を退かした後にもう一つの机を置くのであるから、その二つの机は、別個の空間に置かせたとしか理解し得ない。少なくとも物理的にはそう言う事になり、また肉の目をそのように映る。

 しかしこの事は、別の時間に同じ場所の空間に、時間をずらせば、同一空間に二つの物を「置いたのだ」と考える事も出来るであろう。つまり別々の時間に、同じ箇所の空間に二つの物を置いたという事になる。
 何故ならば、空間と時間は別の存在であり、各々に特有の性質を持っているからである。

 ところが科学的知識の思考は、自然界が物質界の現象世界の事象を最優先して考える為、こうした古人が築き上げた智慧(ちえ)を排除して、科学知識で物事を考える学識的な知識で納得していく、唯物的弁証法の理詰めの論理が、正しいとする考え方が生まれたのである。

 空間と時間が別の性質を持っていると云う事は確かな事実である。これを現代人は学識と云う、知識の中で学んで知っている。しかしこの場合の同じ空間と言っても、性質の違う二つの空間でどうなるのか?という逆の発想で考えて来ると、時間と空間がその性質を全く異にするという思考は疑わしくなる。それはあたかも、丁度時間と空間が、皮肉にも、その性質を異にするようにである。

 これを更に分かりやすく解き明かす事にしよう。
 人間の所有する人体における神経組織は、人体の中にあって、ちゃんとその場所を生まれた当時から占有し、その場所を占めて同じ空間位置に存在している。
 年齢を重ねても、この位置の占有場所は変わる事がない。ただ、子供の時の体躯(たいく)と大人になった時の体躯では、その体躯の形体や大きさは変わるにしても、占有位置は同じ場所にあり、その位置から神経組織が移動する事はない。

 そこに、これまで述べた例え話の、机と同じように、最初にあった神経組織の場所にもう一つの、他の神経組織を入れたり、重ねたりする事は出来ない。しかしこの神経組織を伝わって、最初にあった神経組織を利用して、躰を動かし、あるいは神経系に命令や信号を与える事は可能である。何故ならば、同じ空間にちゃんと存在しているからだ。

 命令や信号は同一空間を占有するものでないと反論が出ようとも、しかし、それはちゃんと空間を占有していると言う現在の「今」の事実があり、この「今」の現実に従えば、これはただ空間の性質が異なるだけだと云う事になる。

 四次元以上の空間と、「世間」と云われる三次元空間の関係は、同一空間に複合するという風に考えるべきである。そして四次元以上の空間が三次元空間を侵食し、これが重なっているという風に考える事が出来る。

 四次元以上の空間では別個のものが「重なる」という現象から検(み)ても、四次元以上の空間と、自然界を支配する三次元空間とはその性質が異なる為に、同一空間の同じ箇所に二つの物を重ねる事が出来ないのは、空間の性質が根本的に異なる為である。

 しかし一方、三次元空間と四次元空間は貨幣のようにその表裏一体の関係にありながら、単に裏表の関係にあるだけではなく、自然界の存在する領域の総てには、四次元空間が既に侵食しており、「重なっている」という四次元特有の性質によるものである。
 この性質を知って、これを智慧として遣った場合、三次元空間には四次元空間が同じ場所の同じ位置に、然(しか)も同じ時間に複合的に重なっているという事実を知れば、この世の自然界的な肉体現象を、物質的な習慣に基づいて、移行させ、葬ると云う事も可能となる。
 これを巧みに利用したのが仙術(せんじゅつ)などで用いられる「通り抜けの術」であった。

 「通り抜けの術」は突然出現し、また突然姿を消すと言う四次元的現象を三次元自然界の中で再現させる術で、壁の中から突然顕われ、壁の中に突然消えると言う現象である。
 古人にはこうした術を心得たと言う武術家が少なくなく、武田惣角もこの術を心得ていたと言う感じを臭わせる小説などが著名な作家によって書かれている。

 だが、これを更に検証していくと、壁の中から突然顕われ、壁の中に突然消えたと思わせる「通り抜けの術」は、実は観(み)るが側の思い過ごし、あるいは肉の目の錯覚であり、その時、肉体は観る側の視界から消えたと云うべきであり、実際に通り抜けたと云う事にはならない。
 その時の状態を考えれば、三次元空間は四次元以上の空間に侵食されている為、実際には消えてなくなったのではなく、その場合の肉体ないし媒体は、まだその場所に居たのだと考える事が出来る。視界から消えたとするのは、単に肉の目の錯覚に過ぎないのであり、物質界の肉体が通過不可能な壁の粒子の中を自在に通過できる訳がない。

 しかしこの事は、観る側に「錯覚を与える」という見知から考えれば、その足跡は「自在に壁を出入りする」という錯覚を植え付け、更には、人体の神経系ですら自在に操る事が出来ると云う事になる。
 大東流では、こうした「操る」ことに関して「四次元空間に敵を沈める」と云った。「幻術」ともとれるこの技術は、次のようにも説明する事が出来る。

 喩えば、腕や胸蔵(むなぐら)などを掴むと、掴んだ相手は一本のロープに吊るされたような形になる。吊るされたような形になって、意識的に手を離せば、自ずから落下するような錯覚に捕われる。落下するのが嫌であれば、頑張ってロープを握りしめ、宙吊り状態でいるしかない。こうして自らの動きを、自らで封じてしまう事になるのである。こうした知覚意識は、一体何処から起るものなのであろうか。

●崩しのテクニック

 これは大東流柔術の手解きの中で、相手が崩れる状態の隠された儀法(ぎほう)が存在するが、この儀法は柔道の崩しとは似ても似つかないものである。
 柔道の技法構築は、その「崩しの理論」が、「出足払い」「支え釣り込み足」「払い釣り込み足」等の足技に、その基本が置かれている。直立体の人体の、直立姿勢を崩すと言う目的が柔道の基本構成になっている。

 これはまず、相手を掴み、次にバランスを崩しておいて、一旦相手を不安定な状態に導き、その隙を窺(うかが)って肉体力で技を掛け、顛倒(てんとう)させると云う力の競い合いであり、「崩し」にその総ての基礎が集中し、柔道の顛倒までに至るプロセスを追えば、まず、「崩す」ことを足に向けて仕掛け、次にバランスを喪った不安定な状態に導いて、その隙を窺い、何等かの技を掛けると云うのが柔道の一貫した流れであり、その主体は物理的な「崩し」にある事が分かる。

 そして「崩し」の物理的なプロセスを追えば、互いに襟(えり)と袖(そで)を取り合う為に、熊のように大きく手を広げ、大きく見せつつ、相手に接近する。懐に誘い込み、組み付けば「切り返す」という意図が働く。
 これは「四つ」に組合う為の相撲の「廻し」の下手取りや上手取りに酷似し、自然体で互いに相手の襟と袖を持ち合い、互いが次の動作に転じた隙に、崩しを用いて技を仕掛けるものである。

 このプロセスの流れの中には、まず上肢(じょうし)を遣って相手を引き寄せ、接触寸前に下肢によって崩しを掛け、これに追い打ちを掛けるような連続をもって、揺さぶりを掛けて、直立の体勢のバランスを奪うのである。これによってバランスを奪う事が完了すれば、次に上肢と下肢を遣って「倒し」に入るのである。
 しかし総ての意識は、肉体の外筋力によるものである。

 これに対して西郷派大東流の「合気」は、喩えば掴まれた手を抜く為の「抜手(ぬきて/握られた手や封じられた両手を外す術)の技術」の中で、「手を抜いて行く一瞬」のプロセスの中で、相手が頽(くず)れる微(かす)かな隙がある。
 この微かな隙を発見する為に「合気揚げ」を繰り返し行って、その一瞬のコマ取りを、自らが会得するのである。
 「合気揚げ」には、合気の術理が集大成されている。これを繰り返し行い、徹底する事で、「抜手の理」を教えると同時に、「握り手の理」も教え、握った方が手を離せないまま顛倒すると言うステップへの第一段階としている。

 これを鍛練すると、相手に力一杯封じさせた両手を、術者は肩を「縦に回転させる」ことで、微かな頽(たお)れる一瞬を発見する事が出来る。肩を上下に回転させる事で、相手が浮き上がる一瞬の隙が出来上がるのである。そして頽れた隙に相手を倒せば、此処は既に四次元空間となっており、地面に叩き付けるように倒せば、合気の第一歩が完成する。

 合気の第一歩は合気揚げにあり、これを繰り返し修練する事である。しかしこれは「握る」という養成が完了せずに繰り返しても意味がなく、問題は相手に握らせる前に、自分が相手の手頸(てくび)を挙げさせないように、封じる事を会得しなければ、合気揚げは、互いが約束した狎(な)れ合い稽古で終わってしまう。
 「狎れ合い稽古」は千回繰り返そうと、一万回繰り返そうと、徒労努力の最たるもので、昨今の合気道修行者の中には、こうした手合いが多くなっている。空しい努力はするものではないと、一言申し添えておきたい。

 合気揚げは、「握り」の徹底無しに、相手を揚げる事は出来ないのである。如何なる体勢であっても、相手を浮かし、揚げようとするならば、自分自身が握力を鍛え、自分の体重を、自分で支えるくらいの握力がなければならない。自分の体重を支える握力を試そうと思うなら、自分の躰(からだ)を支えつつ、四階や五階のビルの上から、ロープに伝わって降りてみる事だ。
 握力の弱い者は、自分の体重を支えきらず、地上までに到達する以前に落下してしまうであろうし、握力の強い者は無事に地上まで辿り着く事が出来るであろう。「自分の体重を支える」という握力は、実は自分の命をも支えていると云う事になるのである。

 自分で自分の命を支えられない者に、「合気」は分かるはずがない。「気」などという、安易な発想に振り回される事なく、真摯(しんし)に、日夜精進して、まず握力を徹底的に鍛える事である。
 「気」という、肉体と心を連絡する眼に見えない物質は、「気の指導者」には非常に都合のいいものである。肉の目で捉える事が出来ないから、「気」とだけ云っていれば、素人はそれだけで誤魔化す事ができる。
 特に「発勁」を第一に口にする、自称・北派拳法の修行者等と言う連中の中に、こうした手合いが多い。一口に「発勁」というが、これは自己の「権威付け」に過ぎない。「実戦」という非日常の狂気の中では、このような「気」や「発勁」は何の役にも立たない。
 「秘伝」と称されるものや、高級技法と云われるものは、その多くが道場経営者の自己の権威付けに過ぎない場合が少なくない。
 「奥儀は未(まだ)だ在る」「秘伝は未だ在る。しかしそれは秘伝だから教えられない。公開できない」とする言を吐く指導者の多くは、自己の権威付けの為に「気」や「発勁」を抽象化しつつ、何年も、何十年も自分の門人を騙し続けている。
 そこに、戦う非日常は存在せず、「言葉で躱(かわ)し、逃げる」ことが存在する。これは人体を潰す概念であっても、動物を倒す概念ではない。

 一口に「秘伝」といい、「高級技法」という。
 またこれらを習う為に、日本の拳法愛好者は台湾や香港や中国本土、あるいは渡航した著名な拳法家を追って、カナダにまで足を運ぶ者がいる。彼等は何の躊躇(ためら)いもなく、高級技法が学べると信じている。しかしこれは、もはや宗教を信じるそれであり、完成しない技術を、一種の信仰心で誤魔化しているのである。
 この程度のレベルで中国拳法を練習した場合、彼等はフルコン空手の初心者の廻し蹴り一発でノックアウトされてしまうであろう。

 秘伝と称されるものは、決して高級技法の中に存在するものではない。秘伝に辿り着くには「基礎」といわれる低級技法の修得が必要であり、低級技法から学ばなければ高級技法の長所は理解する事が出来ないし、また高級なものを理解してこそ、その低級技法の大事を悟るのであるが、低級と称されて、安易に見捨てられる儀法にこそ、本当の秘伝なる極意が込められているのであって、これを軽視して、次なる高級技法を求めても、それは「絵に描いた餅」に過ぎない。

 しかしこの事に気付くものは少なく、今日の植芝系合気道に見る、「演武形式」の合気道や、「演武形式の大東流柔術」にも、共通した事が言える。
 また一部の大東流で、過去になかった「空手」の組手を取り入れ、これを「合気拳法」として普及させている団体があるが、もし空手に対抗して、大東流柔術の技で防ぎ切れないのなら、柔術など稽古せず、また合気揚げも不必要であり、最初から組手空手をやったほうが宜しかろう。

 合気揚げの真摯な精進努力は、空手の組手の中にあるのでもなく、「気」や「発勁」と称する権威付けの中にあるものではない。地道な、毎日の「握力養成」の精進にかかっている。物を握り、相手の手を握り、握って、握り潰す、その握力の中にこそ、「合気揚げ」の秘密が隠されているのである。
 つまり握力の不足する者が、幾ら合気揚げを真似しても、それは合気揚げとは程遠い、約束稽古あるいは反復練習でしかないという事である。


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