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誇りの裏付けとなる数々の技法

御式内
(おしきうち)

●作法は柔軟に、時と場合において変化しなければならない

 作法は、堅苦しく、固定されたものではない。時と場合において、相手に合わせつつ、変化に富んだものでなければならない。

 作法の「作」という文字は、元来、その言葉の意味から、動作の「作」であり、所作の「作」であらねばならない。故事によれば、こうした「作」は「作す」(なす)と言われ、起居と動作の正しい法式を明確にしたものであった。これを「礼儀作法」といい、人間の行動原理の、最も大切な行動規範に置かれていた。

 これは歴史的に見ても明白であり、その時代時代の背景には、こうした行動規範が、その人の知性や感性に反映されていた。
 つまり、人間は行動認識の長けた人ほど、人間としての感覚や教養などが、時と場合に応じて、変化して起こり、当然こうした作法は武門の家に取り込まれ、それが代々、武家の家訓として伝えられてきた。
 弓馬や刀槍、薙刀や火縄銃において、作法は武門の大事となった。

 さて、一口に作法といっても、この作法は社会構造の違いで異なっていた。
 公家であれば、公家社会の作法、宗教であれば宗教社会の作法、また武家であれば武家社会の作法、職人であれば職人社会の作法が優先され、一般的には同質のものでない。
 しかし概ね共通する点は、他人に迷惑をかけたり、不快感を与えるということを極力避け、傲慢にならず、あるいは横柄にならず、自分の立場を弁(わきま)えるという意識が必要であり、これに通じた人を「達人」と呼んだ。

 換言すれば、立場の違いという境界線の上に、他人から土足で踏み込まれず、また、自らも他人の境界線の裡側に、土足で踏み込まない意識と立場を確立し、まず第一に「他人から犯されない」という境地を確立することであった。この拮抗がとれて居る間、決して無闇に攻め込まれるものではなかった。
 古人は、こうした立場の意識と、境界線における筋目の意識を明確にし、然も、それに合理性と美意識を加味して、「作法」というものを作り上げたのである。

 しかしこうした、各流派各流儀に則した礼法は、各々の時代背景の中で生まれたにもかかわらず、時代の移り変わりと倶(とも)に、無用の長物になった観が否めなく、今日では大方は、消え去っていく運命を免れないようである。
 こうした中、後世に伝承する門人の役割は、各分野ごとに先達の正しい知識を、正統に受け継ぎ、単に、これを骨董品の世界に止めるのではなく、これを現代に応用して、時代の即応した洗練された儀礼に置き換える必要がある。

 伝統武術にかかわる、わが西郷派大東流合気武術は、西郷頼母を祖主とし、祖主の霊的精神性を授けつつ、現代に礼儀作法を蘇らせる武士道集団である。更に、古人の智慧を受け継ぎ、古人の残してくれた武術の伝統を、敬意を込めて正しく生かし、そこに存在する礼儀作法の一切ならびに、言葉の中から学ぶ、裡側の行動規範を後世に伝えなければならないと感得する求道者の集団である。

 古人は、時と場所に応じて、あるいは状況に応じて、人に応じて、それを瞬時に、臨機応変に即応させて、即応性のある礼儀作法を行動規範の第一とした。
 この行動規範には、礼法としての本質があり、他から真似た動作など、微塵もなかった。つまりオリジナルから発した行動規範であり、その本質に「生命」を観(かん)じたのであった。
 したがって古人の残した礼法を、単に教条的に、骨董品的に保存し、その記憶に任せて、堅苦しく畏まって、窮屈に使うのではなく、その場の空気に変応させて、自在に使え分けることが肝心なのである。

 礼法の大事を会得した古人は、その場にそぐわない、堅苦しい行動を、迂愚(うぐ/世間の事情にうとく愚かなこと)なものとして非常に嫌ったのである。
 これは礼法に照らし合わせて、正しいか否かというものではなく、人間の裡側から滲み出てくる感覚を基準として、その姿が堅苦しければ「見苦しい」、軽薄であれば「あさまし」、ぎこりなければ「汚し」、見栄を切るような歌舞伎仕立ての大袈裟な動作であれば「ことごとし」などの感覚用語を駆使して、多いに批判したのである。

 昨今は、一部の大東流に、こうした「ことごとし」大袈裟な所業が見られ、これが大東流の残心と勘違いしている連中が、礼法上からいって、何とも残念な限りである。こうした所業の見苦しさは、どこか、スポーツ格闘技のガッツ・ポーズに似てはしないか。武術や武道というものは、単なる格闘スポーツや競技という次元のものとは、類を異にする。

 武道界において、屡々議論されるのがガッツ・ポーズであるが、最近は欧米人流の喜びの表現が前に出るようになって、勝ったことの喜びを素直に表現して、自然な感情を発露することは寧ろ好ましいという意見が主流になりつつある。こうした意見に隨(したが)って、柔道はもとより、剣道や空手、その他の格闘技と名の付く大半のものは、ガッツ・ポーズで拳を振り上げ観客に対してアピールのポーズをとるようである。

 しかしこれには落し穴がある。
 「自然な感情を発露する」という行動規範は、換言すれば、「本心のまま」「本能のまま」に行動することであって、常に人間は、相手が居ることを忘れてしまった時にこうした精神状態になる。つまり行動が子供じみていて、幼児的な態度の譏(そしり)を免れないのである。
 本来勝負事の大事は、「勝つには勝ったものの、つまらぬ争いをしたものだ」と謙虚な態度が必要であり、命を遣り取りするものであるから、勝った方は殺生をしたことになる。この殺生をしたという意識は当然のごとく、慎みとなってその態度に現われなければならない。

 自分の目指す武道が、スポーツ武道的であり、単に相手に対して、叩けばいい、打てばいい、蹴ればいい、投げればいい、そして何が何でも「勝たなければならない」と考えている競技武道の執心の者は、その目指す目標が低次元であることを現わしている。
 自分のイメージで描いている武の目標が高ければ高いほど、自らの勝負に対する自己評価の得点は当然辛くなるはずである。更に、無邪気に喜ぶ気にならず、「つまらぬ争いをしたものだ」と謙虚な態度が裡側から滲み出る人であれば、逆に自然と憮然になり、そうした表情が出るのはごく自然の振舞である。増して、観客アピールなど、芸能の世界と解するはずである。

 『葉隠』の口述者・山本常朝は、その中で、「武術は勝負事にこだわると、武術の術が芸者の芸に成り下がり、武芸者にして芸者が出てくる」と戒めている。
 目標に掲げるものが、芸者の芸、芸能の芸でなければ、観客に対するアピールなど、本来は適切でないことが分かるであろう。
 武を目指すものであれば、こうした態度は大いに慎み、武術家として反省すべき材料のはずである。

 
戦時の礼

▲戦時の礼
戦時の礼は火急の非日常の時機にかわされる礼である。

 
帯刀の場合の坐

▲帯刀の場合の坐
帯刀の場合の坐で、脇指は差す事を許されるが、
大刀は腰から抜き取るのが礼となり、
殿中に上がる場合は刀所に預けるのが決まり。


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