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技法の根源となる「ただ一つのこと」

合気揚げ外伝
(あいきあげがいでん)

●体質改造術

 一般に武技の優劣は、体格と体力と大きな関係があると思われている。しかし、体格に優れ、体力がある筋肉隆々の若者でも、伝染病発症地域にいた場合、感染し、その後、直ぐに恢復(かいふく)するかどうか、一概に決めかねるところである。下手をすれば、感染症は、悪化の一途を辿り、死亡するかも知れない。

 一方、体質が優れた人は、弱アルカリ性で、生理的には中性で、血液が常にサラサラ状態にある為、大いに自然治癒力(しぜんちゆりょく)が働き、伝染病発症地域にいても、感染する条件は他の人と同じであるので、感染は免れず、しかし、感染しても直ぐに恢復する治癒力が旺盛(おうせい)である。一言で云って、体質がその後の生命力の有無を決定しているからだ。

 では、以上の事を何が決定するのであろうか。
 それは「食」に回帰される。人間は「食の化身」である。これは人間の限らず、動物も同じである。食べることを抜きにして、人も動物もこの世に存在し得ない。いかなる精神文化も生じえはない。特に人間の場合は動物と異なり、食一つを挙げても、そこには精神性があり、動物のエサを喰う行為とは異なる。

  人間にとって、食は「祀り」であった。「食べる」と云う行為自体が、「祀り事」なのである。これは厳粛(げんしゅく)な行為である。何故ならば、人間は、生きる為に、他の生き物の命を貰わなければならないからである。他の生き物の命を頂いて生きているのである。
 したがって、人間の命を存続させる為に、命を捧げてくれた生き物に対し、両手を合わせ合掌して「頂きます」というのである。これは命を捧げてくれた者への感謝と、自分の命を肩代わりしてくれた「申し訳ない」という慈しみの念から発した「慈悲の心」である。

 ところが現代人の、特に日本人の今日の浅ましき飽食に現(うつつ)を抜かす、この時代の食の乱れはどうだろうか。
 本来ならば、自分の命の存続の為に、命を肩代わりしてくれた生き物に対し、果たして感謝の念が存在しているといえるような、節度ある食生活をしている日本人が少ないのではないだろうか。食を乱し、慎みを忘れた食生活をしている者が、大半ではあるまいか。
 そして、動蛋白摂取量は、年々うなぎ昇りの傾向にあるではないか。

 動蛋白を摂取するには、動物を追い詰め、仕留めなければならない。動物を仕留めるというのは、非常に残虐な行為である。この残虐な行為を平気で犯しているのが、実は現代人という、食に浅ましき人種なのだ。
 一方、現代人には訝(おか)しな動物愛護の考え方がある。鯨やイルカの哺乳動物は可愛いからと云いながら、牛や豚を平気で殺して、その矛盾を解さずに食べている。

 また、牛肉を大量に消費するアメリカでは、牛や豚を大量に飼育し、屠殺して、半ば強制的に日本に売りつけてくる食物メジャーの強引さもさることながら、鯨の肉は日本人には一欠(ひとか)けらも捕らせようとはしない運動をしている。鯨が可愛いからとか、可愛そうだからと云う理由で、他国の漁業に干渉する外国人が、残虐性とは無縁な存在とは言い切れない。

 現代人は食肉を大量に消費する。食糧機構の統計によれば、肉の消費量は、先進文明国ほど多く、アメリカやカナダに続き、その後を日本が追いかけ、最近では韓国や中国もその後に続いているという。そして、アメリカやカナダでは、主食よりも多くの穀類を、家畜の飼料として大量に消費している。

 肉を得るには、どうしても動物を屠殺(とさつ)しなければならない。動物を殺し、素朴な殺(や)り方では、刺殺するか、撲殺する。近代的な屠殺法としては、電気を使ったり、特殊銃を使う。一発で、苦しみを少なくする方法は特殊銃だろう。眉間を一発で打ち抜き、中枢神経を破壊して、アドレナリンが全身を廻らないようにする。牛や豚に恐怖を与え、アドレナリンの分泌が旺盛になって、これが全身を巡ると、肉が不味くなるからだ。

 こうして屠殺した後、今度はいよいよ解体と腑(ふ)分けに入る。まず、頚動脈(けいどうみゃく)を切断して、放血を行う。次に、肛門に解剖刀を突き刺し、抉(えぐ)り、腹部を切り裂いて、内臓を引っ張り出す。続いて皮を剥ぎ取り、電気鋸で骨を切断して、肉をそれぞれのブロックで外しに掛かる。内臓は内臓で臓器別に分類する。その後、料理への段階に移って、部位別に細分化して行く。

 誰でも肉を見て、最初から精肉店の店頭や、スーパーの精肉コーナーで、発泡スチロールのパックに入り、切り身となって売られているなどとは、決して思っていないだろう。牛や豚が解体されて、部位別に売られていることは百も承知している筈である。

 いつもの精肉店の店頭で数100g単位で食肉を買っている家庭の主婦が、もし牛や豚の屠殺場に行って、屠殺現場を見たら、その惨状を見て、どう感じるだろうか。牛や豚が、肉としての食肉になるまでの全工程を見てしまったら、暫(しばら)くの間は、肉は咽喉(のど)を通るまい。屠殺の現場は、誰が見ても残酷である。一端(いっぱし)の筋金入りの残忍なワルでも、この光景を見れば、ゲロを吐くだろう。

 しかし、現代という時代の分業社会にあって、屠殺する職業に携わる人を決して非難するべきではない。屠殺場や屠殺者に眼を向ける前に、人間が肉を好むという現象に眼を向けるべきであろう。もし、人間が残酷であるというのなら、人間の性質の残酷さを顧みるべきであろう。

 精肉業に携わる人や牧畜生産者と、人間が肉食をするという行為を、同じ土俵の上に上げて、どちらが悪いか、これを論ずるべきではないだろう。むしろ残忍なのは、肉を食べようとする側に、大きな非があることは紛れもない事実だ。
 屠殺する側を、ある特異な、猟奇的な事件として露骨に明らかにするのとは違う。食肉のような、人間が日常生活の中で、食べなくてもよいような食品を食生活の基盤としている、西洋式の食指向の残虐さこそ、問題であり、これに対しては、決して眼をつむるべきではないだろう。

 牛や豚は、もともと人間が保護するべき動物ではなかったか。仏典にも、イスラム教のコーランにもそう書いている。また、人間側から見て、なぜ彼等の存在を、「家畜」として蔑視しなければならないのか。
 そして、動物の肉を喰らう者は、どうしてもそれが食べたいのなら、その動物が殺される時の悲鳴を聞かねばならないし、彼等が血の池の中でのた打ち回る、その姿を、しかと両眼を開けて見るべきであろう。それが出来ないなら、肉など食べるべきではない。

 もともと人間は、動物の肉を食べるような構造はしていない。それは歯型が如実に物語っている。人間の歯形は、あくまでも穀物菜食をするように出来ている。したがって、出来るるだけ、人間の性(さが)に遠い、食物だけを食べるべきである。これは主義主張などではなく、人間の人体の構造がそうなっているからだ。

 哺乳動物の血の池の嘆きを考えれば、そこに哀れみを感じることこそ、人間の持つ「慈悲の心」ではなかったか。この慈悲の心に至った時、人ははじめて、自分の忘れていた己の本性に気付き、己の存在意義を再検討するだろう。果たして、自分は他の生き物の命を奪いながら生きていかなければならない、それだけの価値と、その宿業を……。

 だからこそ、人間は出来るだけ多くの生き物を殺すことなく、人間の性(さが)から遠い食物を食べるべきなのである。ここに本来の食養道の思想がある。この思想を抜きにして、人は傍若無人に振舞ってはならないのである。人間は、謙虚さを忘れた時、大きな落とし穴に落ちるものなのである。その落とし穴こそ、自分の側面に忍び寄ってくる、病気という魔物ではなかったか。
 これを食養道では「肉(じし)喰った報い」というのである。報いには、恨みが絡み付いていることが多い。

 さて、人間は人生の目的の一つとして、今より高い次元に辿り着こうとする向上心が起る。今の次元で満足を覚え、これに安住する者は少ない。したがって、多くは今より上の次元、今より上の境地に向かって努力を始める。多くの者の心の中には、こうした願望が息づいている。

 これが武術や武道の愛好者ならば、「悟りの境地」であろう。そこはただ単に、肉体を酷使する以外の、精神的な何かがあると誰もが、こう考えている筈だ。
 しかし、そこには容易に辿り着くことが出来ない。何故ならば、肉体を脱して、精神の移行に向かわなければならないからだ。そこに辿り着く為には、難解な試練が待ち受けている。それを一つ一つ突破していかねばならない。その為に、挫折者も多く出る。多くは怪我と病気で、間引かれていこう。しかし無理して途中で大病を患い、命を落としては元も子もない。

 そこで必要になるのが、「体質改善術」だ。修行者は根本的に体質を作り変えなければならない。
 人間は、勝つ事を考えずに、「負けない事」を考えるべきだ。 つまり、「負けない境地」に達することこそ、現代人にとっては急務なのである。一時の勝ちで、王座にありついても、時が経てば、その王座は後進者に譲らなければならなくなる。こうした争いの世界では、激しく新旧が入れ替わる。したがって、こうした修羅(しゅら)の世界を離れることにより、その後「負けない境地」の探求が可能になる。

 この境地に辿り着く為には、「死なない事」が前提となっているので、何処までも「生き延びる術」が探求されなければならない。その為には、病気に罹らない事ではなく、病気に罹っても、直に治るということが大事なのだ。また、健康体であることよりも、健康のように見えるということが大事なのだ。
 ここで説かれているのは予防医学ではない。病気に罹らないことではなく、病気に罹っても、直に治る「体質の良さ」を問題にしているのである。したがって、重要なのは体質改善術の方法を知っているか否かにかかる。

 その為に必要になるのが、動蛋白を一切摂らない、血液サラサラの状態を獲得することである。また、この体質改善術を通じて、はじめて「毛細血管の回路」が開かれるのである。毛細血管の回路の開発なしに、合気揚げを完成させる境地には辿り着けない。
 毛細血管の回路を開き、これを開発する為には、西郷派では「水掴行(すいこくぎょう)」「滝行」「山稽古」の三つを取り入れ、それに併せて日本古来から続いている「食養道」を奨励している。

 これらの行法は、それぞれに約束事があり、その「理(ことわり)」を厳守するのは云うまでもない。これに随(したが)い、道場という室内を離れた大自然の中で稽古に励むのである。
 特に「滝行」は非常に大事な行法であり、毛細血管の回路を開発する修法と大きな関係を持っている。

西郷派で行っている御滝場の滝行

 滝行をするには、ます上半身裸にならなければならない。裸の躰を空気に触れさせなければならない。これは夏ばかりではなく、冬でも同じである。冬は寒いからといって、中止するわけには行かない。更に、滝の水に打たれるのであるから、この行法は始めに空気浴の効果が得られ、滝に打たれてから水浴の効果が得られる。皮膚が冷たい水に触れると、血液を供給している最先端の毛細血管は、急激に縮み、その回路は閉じてしまう。

 一方動脈の血液は、毛細管の手前にある副毛管を通って、静脈側に流れようとする。これにより、一種のバイパス現象が起る。これを繰り返すと、副毛管が強化され、血圧の高騰を防ぐ作用が現れ、小動脈破裂を防ぐのである。

 アルツハイマー型痴呆症などは、脳の血管の細部に目詰まりを起し、毛細血管の破壊が原因となって起る病気である。また、脳溢血(のういっけつ)などのも、血管の破裂により起る病気だ。
 アルツハイマー型痴呆症や脳溢血など、自分には関係ないと思っている人でも、血管の質が優秀でない人は、30歳代に入れば、この兆候が現れ始め、初老の40歳頃には痴呆症や脳溢血の兆候が見られるようになる。

 勿論、こういう兆候が現れても、毛細血管の周りはCTスキャンにもレントゲンにも映し出すことが出来ないから、健康診断や人間ドックでは異常がないとなってしまう。しかし、動蛋白摂取過剰にある人は、既に毛細血管の目詰まりが30歳代で始まっていると考えるべきであろう。

 アルツハイマー型痴呆症や脳溢血は毛細血管の先端が目詰まりして、炎症を起し、そこに寒さなどで、血液高騰が起った場合に破裂する病気である。そして、炎症ならびに様々な病気の病因は、大かれ少なかれ、欠陥の内出血を大きな関係がある。こうならない為にも、副毛管のバイパス作用をより順調に作り変えておくことは、体質改善には大事な事柄であり、直接武術の勝ち負けに関係ないからという理由で、こうした行法を甘く見ないことだ。

 特に、試合をやるスポーツ武道をや格闘技を愛好している人は、単にジムに籠(こも)り、試合に勝つ為だけの工夫と反復練習に汗を流し、呼吸法の吐納を研究したり、ジム以外での大自然を相手にした人間としての修行はあまりやりたがらない。礼儀作法の面にしても、こうしたことは二の次であり、礼儀作法はどうでもいいと思っている。大自然を相手にした稽古など、殆ど試合に勝つ事とは何の関係がないと思っている。

 しかし、技を掛ける場合や、パンチを繰り出すその一瞬は、呼吸法の吐納で観察すると、一瞬止まった瞬間が見て取れる。つまり、力による「力み」が、刹那(せつな)の瞬間に現れているのだ。これは体質改善術から見れば、物凄い血液高騰状態であり、また、相手の攻撃を受け、そのショックに耐える状態の時も、血液高騰状態が現れる。今は若いから何ともないと思っているだけである。

 こうした血液高騰状態が、練習中に、あるいは試合中に、小刻みに繰り返されれば、やがて血管の破裂は免れないであろう。こういう意味からすれば、この手のスポーツをしている人は、一般の、武道やスポーツを全くしたいない人よりも、早く兆候が現れることになり、ある意味で短命であるといわざるを得ない。また、命を繋(つな)いでいても、アルツハイマー型痴呆症などになれば、晩年の人生は人間としての機能を果たせないことになる。

 若いとき、自分が幾ら有名を轟(とどろ)かせ、それ以降も著名な武道家として活躍していても、晩年期には思わぬアクシデントに見舞われ、半身不随の生活を余儀なくされたり、アルツハイマー型痴呆症などの病気を患い、闘病生活の日々を送らなければならなくなる。こうした最悪の状態を考えれば、単に強弱論に終始していられないだろう。

 人間の体質における健康、不健康を隔てるのは、毛細血管の良し悪しで決定されるといっても過言ではないだろう。
 人間は他の動物と違って、身体に衣服を纏(まと)う生き物である。したがって、動物のように、副毛管を自然のままで健全に保つのは難しく、やはり定期的に滝行などを行い、空気浴と水浴を行う必要があるのである。

 現代人は、太陽と共に起き、太陽と共に寝るという生活が出来ない環境にある。その上、動蛋白摂取が多く、血液がドロドロ状態で、毛細血管の先端は、若者でも目詰まりを起し、白砂糖や白米や精白塩などを食する食生活を無自覚のまま続け、更にアルコールや、タバコを吸う生活をしているのであるから、当然、血管は脆(もろ)くなっていると考えるべきだ。

 この状態で勤勉に働き、健康の為と称してスポーツジムで汗を流したとしても、それは殆ど逆効果で、大部分は寿命を縮める為に、もがいているようなものである。
 また、側面から、現代栄養学が言うような「朝食は一日の活動エネルギーの源」などというウソ情報を真に受けて、朝という時間の、排泄タイムに食事をし、同化作用の最終仕上げであるこの時間を無視して、朝型には必要ない不要物を体内に溜め込むようなことばかりをしていては、当然ここには無理が生じて、病巣が無自覚のまま拡大していくのである。そして血液はドロドロになり、毛細血管は目詰まりを起し、血管自体が脆くなってしまうのである。現代人は、これを少しも訝(おか)しいとは思わない。危険なことではないか。

 したがって、わが流は「毛細血管の開発」を奨励しているのである。
 滝行の利点はまだ他にもある。それは落下する水の衝撃で、空気中にマイナス・イオンが発生することだ。これは家庭の風呂場のシャワーではこうはいかない。

 人間は滝の傍(そば)に行くと、それだけで気持ちが和(なご)む。また、落下する滝の水を見ていると、心が落ち着いて爽やかになるのは、落下する滝の水から、マイナス・イオンが発生している為である。このマイナス・イオンは、身体機能を調節する自律神経に働きかけて、活性化させる作用をする。これはまた、細胞の活性化にも繋がり、細胞膜の働きも良くなってくる。

 これにより、摂取した栄養分の吸収や、老廃物の排泄もスムーズに行われる。新陳代謝が盛んになる。
 そして、もう一つ忘れえてはならないことは、滝に打たれると、水の圧力を全身で受けることだ。
 水圧刺激が行われるので、これが効果がないわけがない。但し、滝行は一方でこうした利点があるが、滝に入る時の作法を知らなければ、命取りになる。
 「御滝場(おたきば)」 というところは、娑婆とは異なる結界(けっかい)であり、霊的空間であり、結界に入るには、当然そこには作法が存在する。
 また、身体で滝の水を受ける場合、頭の天辺(てっぺん)でこれを受けてはならない。

 滝の水は「唖門宮(あもんきゅう)」で受けなければならないのである。唖門宮は唖門の経穴(ツボ)であり、周天法(しゅうてんほう)を行う際の、玉枕(ぎょくちん)温養を行う非常に大切なところである。滝に打たれると、人体は霊的にこの唖門宮の扉が開く。ここの霊的扉を開け、ここから滝の水の精気を通し、会陰(えいん)でこれを通し終わるのである。滝行をする場合は、この作法を学ぶ必要がある。更に、滝に入る場合は、真言を唱え、「真言九字」を切ることも忘れえてはならない。

 また、よく御滝場に行くと、新興宗教と思われる信者の集団が声高らかに般若心経を唱えて、一種独特の異様な雰囲気で周囲の霊的環境を乱しているが、滝に打たれながら般若心経を唱えるのは間違いである。これをやった連中の百人が百人まで精神に障害を起している。
 この場合、気合を込めた「法雨」の方が良い。滝に入ったら、複雑な経典など唱えず、魔性に憑(つ)かれない呪文を唱える事が肝心なのだ。御滝場は人の念が残した、魑魅魍魎(ちみみょうりょう)がうようよいるからだ。これらに憑依されないことが大事だ。
 これについては他のページで紹介しているので、それを参照されたし。

 体質改善術の奥儀は、食養道の実践と共に、毛細血管を開発することが含まれるので、食事のみを改善しても、行法を行わなければ片手落ちとなる。

 滝行についての記載は会員ページhttp://www.daitouryu.net/「心法」を参照のこと。

 

●左右を同じように使う身体改造術

 人間は身体的に、心臓が少しだけ左に偏(かたよ)っているので、どうしても左半分を保護・防衛しようとする意識が働き、右半身に出て、右利きの人が多い。防御の為に、右半身の体勢を取り、心臓を護ろうとして、右で物を掴み、右で物を動かしという、こうした行動をする。

 もし、人間の心臓が人体の中央にあって、心臓が左右対称の形をしていたら、人間は左右の腕や手を、同じように動かし、得物などを扱えたに違いない。しかし、残念ながら人間の心臓は、左寄りであり、この左寄りが、右側だけを主体にする行動へと変わってしまった。
 そして、右偏重の行動が、右側ばかりを酷使して、人体に様々な歪(ゆが)みを生じさせ、これが病気の根源を作った。ここに現代人のアンバランスが派生する。

 そこで西郷派では、左右を同じように使えるように鍛錬する。素振りにおいても、二刀剣の思想で展開させれば、左右同じよう操作できなければ意味がないので、一刀より始まり、二刀に至る鍛錬をする。

 合気二刀剣は、合気揚げ完成の為の、特異な鍛錬法の一つである。
 二刀剣に至るには、まず、「一刀剣」をもって、一刀流剣の素振りに徹しなければならならい。一刀流剣が完成すれば、その一刀剣を左右に分離し、それぞれに一刀ずつを持ち、これを二刀流剣とする。そしてこの状態では、一刀剣を二分したのであるから、左右それぞれの一刀流剣は半分の力しか持たない。

 一刀剣において「100%」だったとすると、二刀流剣ではそれぞれが50%となる。この左右分離した50%の力が、片方のみで100%になるように鍛錬するのである。そして、それぞれ50%の力が片側だけで100%になった時、「二刀剣」がここではじめて完成する。

 この二刀剣が完成したからといって、二刀剣の修行は終わるのではない。この二刀剣を、次に再び「一刀剣」に戻すのである。しかし一刀剣に戻った二刀剣からの変化は、初期の一刀剣とは異なる「一刀剣」である。
 何故ならば、二刀剣が左右でそれぞれ100%になって、再び一刀剣に変化したのであるから、この一刀剣は「200%の一刀剣」ということになる。初期の二倍の力を有した一刀剣なのだ。

 そもそも二刀剣の教えは、左右を均等に使うという鍛錬であり、左右のアンバランスを二刀剣で矯正することなのである。ここに二刀剣の大きな特徴がある。
 また、二刀剣以外にも、手裏剣の鍛錬で、左右に手裏剣を持ち、利き腕だけで手裏剣を打つのでなく、左右両方を同時に打ち込む鍛錬も、大いに左右のアンバランスの矯正訓練になるだろう。右利きは右だけ、左利きは左だけというスポーツ論の考え方で、ある一定方向ばかりを使うのは、片輪・畸形を更に歪(いびつ)にし、強化するばかりなので、本当の力を養成する事にはならない。一方しか使わなければ、身体は歪み、威力が衰えるのである。

 また、日常生活の中でも、これまで利き腕以外使わなかった反対側の左腕や左手を、右手同様に使うこともいいであろう。それは食事の時に、左側で箸を取り、左手で食事をすることも、歪に退化した左手・左腕の鍛錬になるだろう。
 但し、公の席で、無態(ぶざま)な左手で食事をすることは目上や上司に対して失礼になるのでこうした席ではこれは行わない方がいい。鍛錬と礼儀作法を取り違えないことだ。


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