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技法の根源となる「ただ一つのこと」

合気揚げ外伝
(あいきあげがいでん)

●「柔よく剛を制す」は現代では死語である

 かつて日本の武術史に、「柔よく剛を制す」という言葉が存在した。あるいは「小が大を倒す」という言葉があった。いずれも武術と深い関係を持った言葉である。また小勢力が、大勢力を敗るさまは、元来の日本人の最も好むところであった。

 歴史的に見ても、源義経の鵯(ひよどり)越え、楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城(ちはやじょう)、織田信長の桶狭間(おけはざま)と、いずれも日本人好みの、「小が大を倒す戦闘場面」であり、日本人は、「小よく大を制す」に異常な執念を燃やす民族であった。
 そして、日本人の好む極めつけは、何と言っても「忠臣蔵」であろう。

 弱小勢力が、九分九厘優勢と思われる強敵に挑みかかり、そして最後は名称に率いられる劣勢勢力が逆転劇で勝利する、こうした武勇伝に異常なまでの熱狂ぶりで、拍手喝采を贈る民族である。日本人は歴史の中で、こうした「柔よく剛を制す」の気風の中で育ってきた。
 「小が大を倒す」ことを痛快に思う、民族が日本人である。

 富田常雄の『姿三四郎』のモデルとなった、西郷四郎も小柄だった。その小柄な西郷四郎が、警視庁武術大会で、宿敵の巨漢を「山嵐」で投げるさまは痛快であり、観戦者は惜しみない拍手を贈った。
 また、大東流の武勇伝で名高い武田惣角は、小柄でありながら、悉(ことごと)く対戦して、その悉くに勝利したと噂され、惣角の武勇伝に憧(あこが)れて、その後、大東流に入門する愛好者も少なくなかった。

 更に、合気道創始者の植芝盛平は、当時の陸海軍の武道愛好者の軍人を門下に収め、柳生流柔術(中井正勝師範の門下であり、最近まで中井師範の実在は不明とされたが、奈良柳生の柳生月心流の門下だった)や大東流(武田惣角本部長)、並びに九鬼流?棒術(師範名不明。但し某流派書に記載あり)をもって彗星(すいせい)の如く登場し、当時の相撲界の天竜までも門下に有し、一世を風靡(ふうび)した。
 そして「柔よく剛を制す」、「小が大を倒す」は、日本武道の真髄のように崇拝され、戦前・戦中を通じて、これまで不動の地位を揺ぎ無いものにしてきた。

 しかし、この神話は昨今、崩れた。徒手空拳をもって、かなりの間合の制空圏を持ち、そこから巧みなテクニックで攻撃を繰り出して来る格闘技が存在するからだ。こうした格闘技が出現する今日、「柔よく剛を制す」という言葉は、もはや死語である事が分かる。
 外国の凄まじい格闘技が存在する今日、柔は剛を制す事が出来ず、柔は剛に押し切られ、敗北する現実が出現した。また、小は大に、極めて無力である現実が証明された。

 既に読者諸兄は、世界最強の格闘技と称される総合格闘技「バーリトゥード」という過激なスポーツをご存じだと思うが、これは近年では全く存在すら知られなかった、凄まじい格闘技である。
 バーリトゥードとは、ポルトガル語で「なんでもあり」という意味で、ほぼノー・ルールで、行う総合格闘技である。
 ブラジル格闘技の「カポエイラ」を母体として、柔道、ムエタイ、その他の世界中の格闘技の長所を吸収して作り上げられた凄まじい格闘技である。カポエイラは、400年前、アフリカから奴隷として連れて来られた人達が、手首を縛れてたまま、この状態で格闘したことからはじまるという。
 バーリトゥードは基本的には、頭突き、肘打ち、脊髄、金的以外の攻撃ならびに噛み付く事や、眼潰しは禁止であるが、それ以外の攻撃は「総てあり」とする、激しくて、過酷なスポーツ格闘技である。

 さて、こうした凄まじい格闘技と、合気系の武道が遣(や)り合った場合、従来の「柔よく剛を制す」という戦術思想では敗北するだろう。「なんでもあり」のノー・ルールで遣り合った場合、恐らく、凄まじい一発のハンマーパンチか、重量感のある蹴りの一撃を受けただけで、瞬時にノックアウトされてしまうであろう。仮に、これに耐えたとしても、次は脚を捕られて、押し倒され、寝技に持ち込まれ、絞め技によって1分と持たないだろう。
 バーリトゥードの格闘選手は、平均身長が190cm前後であり、大柄な体躯から繰り出される攻撃が、頭部に、拳の顔面打ちか、蹴りを喰らえば、一秒と立っていられないであろう。頭部に一撃を食らえば、顔面は原形をとどめず、顔面は歪(いびつ)に畸形(きけい)するだろう。

 近年にも、ある大東流の65歳の著名な大師範が、格闘技選手と対戦し、ものの10秒程度で殴り倒され、無様な負け方をした。ノックアウトされるばかりでなく、歯などを折る大怪我をした。
 65歳で挑戦者を求め、それに応呼して、対戦者が現れてこれに受けて立った心意気とファイトは、大いに称賛するものがあるとして、単に惨敗したと言うだけでなく、大東流や合気道を始めとする、この種の武道の「合気」なるものが、既に時代遅れのものとなり、殆ど通用しなくなってきたという印象を残したのではないかと思われる。
 合気系は健康法の一部に押しやられ、格闘実戦術という次元からは、下ろされたのではないかという気がする。

 日本各地には、大東流が広く普及している。各都道府県には必ず二つ以上の支部が存在する。この中には、単にグループ名を「大東流○○会」などと称し、直接大東流とは関係のない研究グループも、自称・大東流を名乗り、多くの愛好会員を集めている。中々盛会のようだ。
 また、かつて合気道を遣(や)っていた人が、「大東流」のネーミングの受のよさと、集人力を利用して、武田惣角の武勇伝にちゃっかりと便乗し、「大東流○○会」を名称にしているグループもあるようだ。一方こうしたグループの出現に対し、「大東流」の名を商標登録にして、押さえにかかる利権争いも起っている。

 しかし大東流は、北海道系のものも含めて、「柔術百十八箇条」と、「直心影流・表の型」を中心とする剣術で成り立っており、手で触れるだけで弾き飛ばすという「触れ合気」のような技は、世界最強の格闘技と称されるバーリトゥードには無力であるばかりでなく、一貫した柔術技法が、近代戦の戦術行為としては、幻想であると思われる傾向が強くなった。

 では、合気系の武道愛好者は、こうした幻想を追いかけていたのであろうか。
 また、大東流の各地の講習会でも、そのグループを主宰する指導者が、弟子を遣って、意図も簡単にやってのける合気揚げ一種の技法の軽やかさは、実は幻想だったのだろうか。
 合気揚げを考える場合、これに関する解釈は多数あり、様々な合気系グループが、独自の「合気揚げ論」を発表している。

 また、昭和60年代に発刊された『古流武術・秘伝』や、その他のマイナーな『合気ニュース』などの武術・武道雑誌には、独断と偏見に満ちた持論と思われる「合気揚げ」が論じられ、これががあたかも本物であるかのような論調が成されている。そしてそれに便乗した、新手の新興柔術などが、様々な論調を打ちたて、愛好者を増やしている。

 こうした自薦他薦の投稿記事・取材記事を通して、それぞれのグループの特長を為(な)している、独自の言い分が見られるが、此処に存在するのは、多くが力関係や、弟子の協力関係、はたまた、気の運用などで、合気揚げが解かれていて、いまひとつ説得力に欠ける。いずれも複雑で、実際に実戦で展開するには、難解なものばかりである。これを真面目に、真に受けて実行したら、相当な時間も掛かろうし、それだけでは不完全であろう。

 また、“合気”と称し、「一本捕りを、十年掛かって会得する」という傲慢(ごうまん)な理論を振りまく指導者もいる。果たして“合気”を会得するのに、十余年の歳月を投じ、更にその先に「何か」があるというのだどうか。ただただ呆れるというほかない。そして、その歳月の長さに驚くばかりである。バーリトゥードでは、5、6年練習を積んだ者が上位にランクされ、世界選手権にも出場してくるのである。
 果たして「現代のスピード時代」を、この大東流の指導者はどう考えているのだろうか。

 第一、それにも況(ま)して、非常に不明確な言葉で説明しているのが「気」である。一説には「気で吹っ飛ぶ」としているが、実際に「なんでもあり」のバーリトゥードなどの凄まじい格闘技の、強靱(きょうじん)な選手を相手に、“合気”で倒したと言う話は一度も聞かない。

 また毎日、驚異的なトレーニング・スケジュールをこなす大相撲のプロ力士を、軽々と投げたと言う話も、まだ一度も聞かない。力士と対戦すれば、対峙して、張り手の一撃を喰らっただけで、対戦者は吹っ飛ぶだけではなく、大怪我をするか、生涯治癒不能な後遺症を背負い、へたをすれば死に至るかも知れない。大相撲の力士が、張り手でなく「掌底」で攻めたら、力士でも脳震盪(のうしんとう)を起すというのだから、一般の町道場の空手愛好者やボクシング愛好者だったら、頭蓋骨(ずがいこつ)の縫合(ほうごう)が外れるところだろう。

 南米系の格闘技は凄まじい勢いで躍進を遂げている。その中でも特に眼を見張るものが、バーリトゥードとブラジリアン柔術である。いずれも凄まじいの一語に尽きる。確かにリングの中で戦えば強い。こうして武技の世界を見回すと、外来武道をも含めて、格闘技の世界も、時代とともに大きく変化している事に、つくづく気付かされる次第である。外来武道の、「向かうところ敵なし」の観がある。またこうした、南米で育まれた格闘技に、熱狂的な、マニアックな外来武道ファンが多く集中している。

 今日の大東流の愛好者の多くは、武田惣角の小柄な非凡者が、もって生まれた天性の才を生かして、大男を軽々と倒したと言う、痛快武勇伝による影響が大きいのではないかと思われる。
 また、合気道の愛好者も、かつて植芝盛平が、惣角同様の武勇伝を持っていて、この話に肖(あやか)って、稽古に励む人も少なくないであろう。

 しかし、武田惣角も植芝盛平も、主に稽古は道場内で積み上げた人である。幾ら凄い技を持っていたとしても、それは道場内での稽古上手に過ぎないだろう。道場稽古は、一種の室内稽古であり、大自然の中の、仮の姿が「道場」という室内であることに気付いている人は少ない。
 したがって室内稽古で、幾ら稽古上手の域にあっても、実戦における大自然での「野戦」とは異なる筈だ。時間無制限に、一切の観客もなく、武器や獲物を選ばず、凍(い)て付く剣岳ような冬山を戦場として戦えば、果たして昨今の「剛よく柔を制す」の公式どおりに解答が出るか、否か、それは予測不可能であろう。

 これまでの日本伝の武術史を振り返って、本来、武術の鍛錬場は大自然ではなかったか。大自然の懐(ふところ)に抱かれて、人間は精進してきたのではなかったか。源義経が牛若丸時代、鞍馬山で修行したと云うではないか。実戦は、総て屋外だったのだ。

 実戦の定義は、大自然の中で戦う壮絶な行為であり、スポーツ体育施設の中や、道場内での戦いとは異なる。観客も居ないし、昼夜の時間制限も、天候の制限も、天井もなく、風・雪・雨を防ぐ外壁すらない。まさに大自然の懐(ふところ)にあって、無差別に、無制限に、獲物を選ばずノー・ルールで行われるものであった。

 ここには一切の制限はなく、生き残る者と、死する者とに分けられるだけだった。ここにゲームを競う室内競技と、過酷な戦場と言う場所の大きな違いが出現する。これこそ、命を遣り取りする、まさにアウトドアこそ、戦場だったのだ。
 今日の武道愛好者が、道場という室内競技の、屋内練習に慣れてしまっているのとは、まさに対照的ではないか。
 また道場が、本来の野戦の「仮の場所」であることに気付いている武術家は、今日では非常に少ないようだ。

 今日のバーリトゥードなどのノー・ルールで展開される凄まじい格闘技に、武田惣角や植芝盛平の武勇伝は今日の時代の現状に適応させた場合、全く通用しないと思われる。時代が違うからだ。かつてのロマンを掲げる武勇伝の時代は、終焉(しゅうrん)したように思える。むしろ、これからは、凄まじい格闘技の中から、次なる時代の剛的ロマンが浮上して来るようにも思える。

 特に、柔道やサンボなどの接近戦で組み付いて、勝負を競う格闘スポーツに対し、大東流や合気道は、遠い間合から戦う事を主眼を置いている武道である。もともと剣術が母体となった武道である。道衣を握られ、脚を捕られ、組み付かれたら、一溜まりもないだろう。
 また、大東流も合気道も、接近戦には不都合な「袴」という厄介なものを履いている。この袴は、サンボの短ズボンに比べれば、接近格闘戦では甚だ合理的ではないといえる。

 今日のスポーツ格闘技は、極めて合理的に出来ている。特に柔道やサンボは、組み付きと同時に、接近戦状態での膠着を得意とし、絡みつき、関節を利用してねじ伏せ、執拗(しつよう)に抑え込み、その後、直ぐに絞め技と変化して来る。この瞬間の変化は、膠着接近戦を行わない大東流や合気道では、全く歯が立たないであろう。
 引き倒し、寝技から関節技に持ち込む凄まじさは、大東流の比ではないだろう。巨漢の体格にものを言わせて、その後に、絞め技に動きを転ずる柔道やサンボの素早き動きは、恐るべきものがあり、一旦捕まれ、押し倒されて寝技に持ち込まれ、絞め落されれば、一巻の終わりである。
 況(ま)して、“合気”の謳(うた)い文句である、「相手の力を利用して……云々」は、相手の力を利用するどころか、利用する前に、こちらが関節を捕られて利用されてしまう。それも体格の違う巨漢から、易々と……。

 それは大東流や合気道が、柔道やサンボ、更にはレスリングに比べて、格闘技として、躰(かだら)と躰を密着させないところにあり、一度密着し、粘りつく膠着状態で寝技に持ち込まれれば、相手の臂(ひじ)や肩や手首を極めに出たとしても、関節を返されて全く通用しない状態となろう。それに、大東流や合気道を、更に不利にするのは、柔道衣または合気道衣の下に、幅広の袴を履いている事だ。
 大東流の某指導者の言によると、袴を履くのは、膝関節の曲がり具合や、腰の落し具合、足の形と云った下半身の「秘密」を隠す為としているが、こんな秘密は、柔道・サンボ・レスリングの前では何の効力もない。脚を捕られ、引き倒されればそれまでだ。

 間合が詰められて、道衣か袴を握られ、引き倒されれば、直ぐに寝技に持ち込まれ、絞め落とされてしまう。そして、「なんでもあり」とするバーリトゥードの前では、赤子同然の扱いを受けて惨敗するだろう。
 古式の形式にこだわり、古典に忠実であろうとすれば、時代に取り残されて、時代遅れとなるのは必定であり、伝承に固執するのでなく、時代の反映を受けて改良を加え、「伝統」へと作り替えていかなければならない。伝承の古典形式にこだわり過ぎると、それから先の打開策が見えてこないのである。

 

●マタギ

 吾々(われわれ)「伝統」という言葉を、再度考え直してみる必要がある。
 室内以外の「野戦」という現実を見詰めた場合、そこには永遠不滅の伝統が、日本人の血の中に流れている事を思い出す。それは山伏(やまぶし)などの、行法に見る事が出来、また「マタギ」という東北地方の山間に居住する、古い伝統を持った狩人の群に見る事が出来る。

 南米ブラジルのバーリトゥードの選手でも、マタギと一緒に、冬山の中に入れば、30分もしないうちに道を撒(ま)かれてしまうだろう。これは多くの格闘技のそれぞれが、「スポーツの一種目」であることを物語っている。
 逆に、マタギがバーリトゥードの戦い方で組み付けば、30秒以内にノックアウトされてしまうだろう。しかし、室内試合場を離れれば、また違う展開が見えて来ることも事実である。これはスポーツと戦場での戦闘が、全く違う次元にあることを物語っている。

 つまり、それぞれに戦う次元と、ステージの次元が違うのである。だが、次元の違いは、肉体スポーツ格闘技の多くが、三次元立体の空間図形の中で、計算される予想通りの結果が示されるという事である。この意味で、実力の差と勝者の予測は可能である。
 この背景の裏には、「科学するスポーツ」の実体がある。科学とは、データから出された数値が総てである。この数値の示す通りに筋力養成と、スピードなどの強化法が、肉体コントロールの主な課題となっている。
 一方、マタギの体力は、体力と言うより、「体質」のよるところが多いと思われる。これは「科学するスポーツ」と対照的である。そして、大自然を相手にしているから、大きな変化が起り、予測不可能である。

 体質が優秀であるから、過酷な険しい山路の登頂や長時間登攀(とうはん)にも耐えられ、狩猟中、病気に対しても、強靱(きょうじん)な体質で跳ね返し、感染しても、自然治癒力で、直ぐに治る特異な体躯を保持している。これがマタギ衆の体質といえるだろう。
 一方、スポーツ選手はこうはいかない。才能と素質が管理され、管理プログラムにより選手は、それを忠実にこなし、実行しているからだ。
 何故ならば、スポーツ選手は管理される枠の中に居(お)り、安全圏でのセフティー的な室内環境の中でトレーニングをしており、一方、狩猟の民・マタギ衆は、大自然を相手に、自らの命を張って生きている。ここに次元の差が生じても、しごく当然の事であろう。

 さて、マタギは、その起源は「磐次(ばんじ)磐三郎の伝説」を伝える、脅威の偉業によるところが多い。
 磐次磐三郎は伝説上の人物で、狩人の元祖といわれる兄弟のことであるともいう。伝説によれば、山の神の難を兄弟で助け、あるいは山の神の難産を、一人は助けるのを拒み、一人は助けたなどと伝えられる。

 マタギは強靱な体質のみならず、強靱な精神があり、意志堅固で、それはノー・ルールでの、「山の神」との格闘者であるかのような動きをする。
 ここに人は、異次元に於ては、みな「神の子」であり、哺乳動物の中で、唯一、神と挑戦する存在であるかも知れない。神と対峙し、挑戦するには、それなりの次元を持ち、霊的世界への「畏敬の念」が存在しなければならない。霊的世界を抜きにして、大自然の中の懐に、奥深く潜り込む事は出来ない。

 マタギ衆とは、こうした神への挑戦者だ。その凄まじさは、世界最強のレンジャーと称されるSAS(イギリス陸軍特殊空挺部隊。山岳ゲリラ戦なども得意とする特殊チームで、隊員の一人一人が野戦医学の外科医に匹敵する医療技術まで持っている。そしてSASが他の特殊部隊と異なっている点は、この部隊が自己完結性を持っていることだ)にも匹敵するものを持っていたのかも知れない。特に、十年、二十年、あるいは戦前においてのマタギ衆は……。

 つまり、マタギこそ、三次元から逸した四次元的な存在であり、無名の格闘集団であろう。無名であるところに、マタギのマタギたる所以(ゆえん)がある。双方の共通性に、いずれも「自己完結性」がある事だ。
 自己完結性とは、「自前で何でも出来る」という事であり、その組織集団の中には、小なりといえども、法としての掟(おきて)を持ち、掟に遵(したが)い、これを厳守して、健康管理や医療の智慧(ちえ)までが存在し、一切合切を自前でできるという事だ。この自己完結性をもって、大自然との戦闘が可能になる。

 マタギの集団は、「マタギ衆」といわれ、旧式の村田銃一挺を手に、猟を生業(なりわい)とする猟師の事である。特に東北の一部の猟師をマタギといい、猟の期間には副業を持たず、狩りの生活で身を立てている。狩りをするには厳しい作法があり、山の神に対する畏敬の念が深い。その厳しさは、日常生活の細部にまで行き渡り、厳しく自分を律する事で、猟を営んできた。
 その意味で、現在では本来の意味からいうマタギは存在しないとも言えるが、これは一種の時代の流れであり、進歩する物質文明に、必要性を迫られての事であったのかも知れない。

 しかし、この名残りをとどめる姿を、幾つか見る事はできる。かつての火縄銃や村田銃が、今日ではライフルにとって替わり、物質文明の変化に応じて、時代と共にその姿を変える事はやむを得ないことであろう。
 マタギの村で名高い秋田県阿仁合(あにあい)、根子(ねつこ)、打当(うっとう)、比立内(ひたちない)あたりでは、その形態が今でも残っているといわれ、過疎化が進む深刻な時代に、徐々にマタギ衆の活動が途絶えるのも時代の流れかも知れない。しかし今日にも、ライフルをもって、まだ猟を生業とする猟師はいるそうだ。

 彼等が特に狙う獲物は、獰猛(どうもう)な月輪熊(つきのわぐま)で、ライフル一挺を持ち、酷寒の雪山に熊を追い、日本では最強と称されるこの熊に、痩身・小柄な男達は挑み掛かる。月輪熊はクマ科の一種で、体長は約1.6〜7mくらいといわれる。全身に光沢のある真黒色の毛皮を持ち、喉の下には三日月形の白斑(はくはん)がある。
 この熊はアジアに分布し、日本では本州・四国・九州の山に生息する。冬は穴に入って冬ごもりをし、母子以外は単独で生活をする。雑食性で、獰猛であり、胆嚢(たんのう)は熊胆(くまのい)といって薬用にされる。かつては、この熊胆が「万金胆(まんきんたん)」と呼ばれた。これは万の金に匹敵することから、こう呼ばれた。

 こうした獰猛な熊に挑むには、自他共に、大自然や神々に対し、畏敬の念を持ち、深い信仰心を持ってこれに回帰しなければならない。熊が冬眠する穴を「ヤド」と云うそうであるが、マタギが山に寝泊まりする小屋も「ヤド」と云うそうだ。猟は普通、集団で組織化して10人から20人規模で行われるが、単独で実行する猟師を「ヒトリッコロバシ」という。今から70年以上も前には、「ヒトリッコロバシ」という、単独行動をするマタギが多くいたという。

 かつて俳優・田村高廣の主演した映画『マタギ』(モノクロ)は、この「ヒトリッコロバシ」を扱った、熊との壮絶な戦いを描いている。この映画には、当時の山村の生活模様なども併せて描き出し、雪崩のアクシデントや、年老いたマタギの熊との戦いなどを見事に描き出し、非常に感動深いものであった。この映画こそ、マタギの過酷な日常を描いたものであったといえるだろう。そこには一種の男の生き態(ざま)と、信念の貫徹があった。

 この映画の内容は老マタギが、ある日、一頭の巨大な熊を仕留める。しかし、この熊はメスで、マタギ衆の間ではメスの熊は撃ってはならない約束があった。老マタギは、最初自分がメスの熊を仕留めたとは知らなかった。ところが夜になって、撃たれたメス熊の子供が、母熊の乳房を慕って、毛皮を剥ぎ取られ、納屋に吊るされている母熊の許にやってくる。そして、納屋でごそごそと音がするのを老マタギが気付き、そこに行ってみると、仔熊が毛皮となった母熊の乳房をまさぐっている。

 これを見た老マタギは、仔熊に対し「すまんことじゃった」と謝る。そして、山に放すが、再び仔熊が老マタギの家にやってくる。老マタギの孫は、その仔熊が可愛くなって、自分の家で仔熊を飼うことを老マタギにせがむ。老マタギは、しぶしぶ承諾する。そして、この仔熊は賢いと見えて、またたくまに村中の人気者になっていく。ある商店の宣伝にも使われ、後ろ足で立ち上がってサーカスの熊なみに太鼓を叩く芸までする。「ジロウ」と呼ばれ、村中の人気者である。村人からもジロウと呼ばれて慕われる。
 しかし、仔熊も次第に大きくなり、成獣へと成長した年齢へと向かう。大きくなり過ぎて、人間の手には負えなくなる。
 老マタギは、熊を山に放つことにする。老マタギと孫は、泣く泣くジロウと別れを告げる。

 そしてある日、村は獰猛な巨大熊に襲われる事件が起る。その噂を耳には挟んだ老マタギは、もしやジロウではないかと、心に思い当たるものを感ずる。老マタギは、ジロウを追って山に入る。そして、老マタギとジロウとの対決の日が来る。あれからかなりの年月が流れているので、一部思い違いもあろうと思われるが、そんな内容の映画だったように、筆者は記憶している。

 一方、集団行動をとるマタギもいる。
 彼等は過酷な掟を守り、酒を断ち、山中に野宿する事も屡々(しばしば)である。組織化された集団には部隊長に当たるシカリという親方が居り、その他に獲物を追い込む役目をするセイゴ、合図の役目をするムカイマッテ、銃を撃つブッパらで構成され、シカリの合図一つで集団が縦横無尽に動き回る。その意味で、一種の山岳特殊部隊の戦闘員を思わせる。

 狩猟は生き物を殺す事から、山の神への深い畏敬の念から始まり、豊猟を祈願すると同時に、大自然の神々に対しての礼儀を忘れない。そして一度山に入ると、独特のマタギ言葉を遣い、普段の里(さと)言葉は遣わない。一週間前後に及ぶ猟の期間中は、一切の無駄な言葉も慎み、酒も断つ。その間、山小屋の「ヤド」で寝泊まりし、時には雪洞を掘ってそこに野宿したり、木の下に野宿する事も屡々(しばしば)だと云う。

 マタギの狩猟は、こうした厳しい大自然の環境と戦いながら、熊への止(とど)めは「一発で仕留める」ということだ。手負いの熊は、以後、獰猛になり、手が付けられず、その後の命を遣(や)り取りするタイミングが難しいと云う。したがって、生き物の命を狙う以上、苦しませずに、「一発で仕留める」のが、熊への礼儀であるとも言う。

 熊を殺すと天気が悪くなると云う。それは山の神が、清らかな山を血で穢(けが)すことを怒っているとも云う。雪や雨を降らせて、血を洗い流すとも云う。それだけにマタギ衆も、山の神に対しては謙虚に慎み深くならざるを得ない。したがって、熊を仕留めて、気勢を上げ、奢(おご)り高ぶるような慢心は起こさないのが礼儀なのだ。

 これはスポーツ格闘技選手が、相手を倒して、起勢を上げ、有頂天に舞い上がり、ガッツ・ポーズをするのとは対照的である。
 一切の無駄口を叩かず、鼻歌や口笛も吹かず、ただ言葉少なく、黙々と厳しい禁忌を厳守し、命を遣り取りする者として、水垢離(みずごり)をとり、山の神に祈願し、冷水を浴び身体の穢(けが)れを去って清浄にするこの姿こそ、現代人が忘れてしまった本来の姿ではあるまいか。

 したがってマタギ衆は、山の神への深い信仰心と、畏敬の念を常に忘れないのである。厳しい冬山に生きる山の男達は、その掟が厳しければ厳しいほど、彼等の生き方もまた壮絶なものとなり、そこに現代の三次元空間から離れた、四次元的な神への祈念と礼儀があるように思われる。
 本来の命を遣り取りする人間は、こうした次元の理解も、命への慎みも必要であり、単に西洋流の格闘スポーツの流れとは異にする、もう一つの「礼」を基本とする戦闘思想があってもよいのではあるまいか。


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