■ 太刀捕りとは? ■
(たちどりとは?)
太刀捕りとは、「太刀合」における太刀の躱しを意味し、武器を持った敵に対し、素手でこれに立ち対い、これを制する「無刀捕」のことである。
本来、無刀捕は剣の操法を知り尽くした事により完成するもので、最初から無手並びに徒手を以て、これを捕えることは出来ない。その為、大東流では一刀剣に始まり、これを完成させて二刀剣に移り、やがてこれが完成すると、合気二刀剣となって、最後は剣すら必要がなくなり、「無手の剣」、即ち、無刀捕の境地に辿り着くのである。(この詳細については拙著『大東流合気二刀剣』(愛隆堂)を参照のこと。)
しかし、巷で流行している護身術と称する武道は、武器を持った相手に対しても、徒手対徒手の感覚で、これに対峙し、徒手の動きと全く変わらない方法で凶器と応戦し、これを格闘する護身術を編み出している。だがしかし、凶器そのものの性質と、特性を知らずして武器に対峙できる分けがない。実戦において、型通りの護身術は、それ以外の攻撃を受けた場合、全く役に立たず、柔剣道の高段者で、猛者と称される警察官が、ド素人の犯人から意図も簡単に切りつけられたり、刺されたりして殉職している例が証明するように、武器を持った相手を徒手で応戦するのは難題であり、初心者(武術を習い始めて十年以下)が型通りの護身術を安易に遣うことは禁物である。
武器や凶器には、短刀(匕首)、西洋ナイフ、コンバットナイフ、自転車のチェーン、ピストル、アーチェリーの矢、手裏剣、ボウガン、スタンガン、大小の日本刀、アイスピック、ドライバー、金槌、洋食のナイフやフォーク、鉈、鶴嘴、角材、スコップ、仕込杖、棍棒、槍、薙刀など、およそ人間が手に持つことのできるあらゆる武器や凶器があり、その各々の性質も知らず、安易に攻防の手だてとし、徒手を以てこれに応戦する護身術は、非常に危険である。
そして更に恐ろしいことは、こうした凶器に撃たれたり、刃物で傷つけられたりした場合である。
例えば刃物は、日本刀に限らず、日用品のナイフでもその先端は、簡単に人間の皮膚を切り裂く事が出来る。喩え致命的な傷は負わせる事が出来なくても、繰り返し切りつける事によって出血に導く事が出来、浅い傷を皮膚の至る所に負わせれば、それだけでショックを与える事が出来る。そして出血は血圧の低下を招き、戦意を萎えさせるものである。
例えば手首や腕の動脈を切断されると、最悪の場合には約十四秒で意識が無くなり、素人の場合、気が動転したり呼吸が荒くなるので、出血は更に酷くなる。纔この十四秒間で止血を行ない、これが刃物を持った相手と格闘している場合には、相手から刃物を奪い、制するという行動が課せられるので、素人の場合これは不可能といわねばならない。
武器や凶器の研究を十分に身に着け上で、それを躱し、捌く方法を研究しなければならない。また、刃物の場合、こういうものを所持する人間は非常にこれ等を遣い慣れていて、手が早く、動きが敏捷で、彼等は「武道」や「格闘技」と名の付くものを過去に一切経験していないが、並みの武道家や格闘技家以上に命の遣り取りを経験していて、全く試合場とは異なる「実戦」を身に付けている場合が少なくない。
したがってこうした手練は、武道を二三年かじったところで、全く歯が立たず、実戦においては度胸も、並みの武道家や格闘技家以上に坐っている。
こうした武器と対峙する過程を踏まえて、「太刀捕り」という難解な課題に取り組まなければならない。
さて、では武器や凶器に対しての心構えは如何なるものか。
まず自分自身が「無傷で敵を生け捕る」という、映画やテレビの世界のヒロイン的なアクションを捨てることである。
ナイフを持った相手と対峙した場合、絶対に後退りしてはならないのは勿論の事であるが、武器を持った相手に対して素手で戦う以上、全身の至る処に多少の切り傷は受けても当り前だ、という覚悟が必要である。間違っても、無傷のまま相手を生け捕ろう等と、努々思わない事である。
最初から切られ、刺されるという覚悟が出来れば、恐怖心は半減し、ショック状態から起こる混乱や危険もある程度回避できるのである。
このような事態に遭遇した場合、道場稽古のようにすんなりと敵は抑えられたり、投げられたりしてくれないものである。したがって日頃から実戦に則し、実際に日本刀やナイフを遣って修練を重ねておくべきである。最近は人間が平和惚けからひ弱になり、指導者自身も刃物の恐怖と、危険という理由から、刀、脇指、短刀、匕首、西洋ナイフ等を実際に用いて修練する事が無くなっている。
したがって稽古はあくまで木刀や模造の居合刀となるが、これは実戦護身術から謂えば極めて人命を軽んじた、軽率かつ軽薄な愚行といわねばならない。これ等の武器を持った相手に対して、対処する措置方法も知っておかねばならないが、同時に切られた時や刺された時の備えや対応策、そして経験も積み重ねておかねばならない。
今、多くの大東流愛好者は、武田惣角の武勇伝にロマンを追い求め、あたかも自分が惣角になり切ったような錯覚を抱いて、それを練習しているのでは有るまいか。 |