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技法の根源となる「ただ一つのこと」

■ 霊的反射神経 ■
(れいてきはんしゃしんけい)

 キリストは「見ずして信ずる者は幸いなり」と謂った。
 まことに真理である。

 と言うのは、文字や考え方から発するものではない。何も肚に構えない「出たとこ勝負」であり、その場その場に応じて、自由な働きに我が身を任す事なのだ。何もその他に作る事はない。
 しかしそれだけに解り辛い。
 何故、解らないのか。
 それは「虚」というものは、どんなものであるか、追い求め、探し求める愚に由来する。

 よく眼で見ようとする。そして納得しようとする。そもそもこうした愚行は、ここから発している。
 眼に見えたら、虚ではなく、手に触れられたら、また、それは虚でもない。実際に眼に見えぬところにあり、眼に見えるからそれを信じて疑わず、信に任すことを虚と言う。ここに、今まで平行線を辿っていた、虚を介在する事によって、「無−虚−信」という図式は見事に成り立つ。
 繰り返すが、キリストは「見ずして信ずる者は幸いなり」と謂った。まことに真理である。

 凡夫は眼で見て、物を信じようとする。見えないものは信じない。手で触れないものは信じない。匂いや、音や、味のないものは信じない。
 しかし本当のものは、こうした人間の五官には感ずる事が出来ず、「真実」とは眼に見えるものではないのである。単に眼に見えるものは「物」であって、働きの伴わないものなのである。こうしたことを、かつての先人は警告を発している。キリストの言もそれであるが、道元禅師すら「汝ら眼にたぶらかされるな」といって、眼の働きの実態を指摘している。

 眼で見れば、自分と他人は二つとなる。二つの物で、自他は構成されている事になる。実際に、眼に観ずる自他は二個の物であるが、話し合い、議論している時の自他は、自他が別個の物ではなく、一つの働きによって結ばれ、実は一つになっているのである。これを自他一体と言う。
 しかし眼は、事象の眼に映る、物の世界であるから、一体の世界を構築するとは言い難い。そこで、眼を超える世界の必要性が出て来たのである。
 「事実」は眼による、眼に頼る世界の物であるが、「真実」は眼の世界を超越した処にある
 そこで眼に見える世界が邪魔になってくるのである。

 眼に頼り、眼で観察して物事を判断するという事は、概ね運動神経とその運動神経を俊敏なまでに躍動させる反射神経の必要に迫られる。しかしこうした運動能力は、個人の持って生まれた天性によるもので、こうした能力が不足すれば、事実の世界では、敵に襲われ、あるいは絶体絶命のピンチに陥って窮する時、必ず死が訪れる。
 しかし真実の世界では、眼の世界を超越して、事実の事象世界を超越すれば、天性の運動神経等に頼らず、霊的反射神経でこの受難を回避する事も出来るのである。

 こうした絶体絶命のピンチに、咄嗟に、自在に、無意識に、虚として働く霊的な現象を、西郷派大東流では「霊的反射神経」と言うのである。


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