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志高く、より良く生きるために

 
筈身投げ1.
筈身投げ2.
筈身投げ3.
筈身投げ4.
筈身投げ5.

■ 総本部・尚道館
(そうほんぶ・しょうどうかん)

●総本部・尚道館の全貌

 尚道館は平成元年7月に、北九州市小倉南区の、かつて「志井ヶ丘」といわれた閑静な住宅地に創設され、今日に至っています。

 道場の周辺は多くの自然に囲まれ、近くには鍾乳洞で有名な平尾台、菅生の滝、七重の滝、福知山などの自然があり、毎年夏場(夏季合宿セミナー:8月11日〜15日の四泊五日の講習会)になると、全国より西郷派大東流修行者やその他の団体から多くの武術・武道求道者が参集します。
 この合宿には、他武道や流派を問わず参加する事が出来、多くの参加者がこれまで尚道館を訪れました。

 また平常の稽古では、少年少女部や学生・社会人部があり、心ある青少年や男女が、老若を問わず、西郷派大東流の技法を学んでいます。
 大東流合気武術は旧会津藩が総智を傾けて完成した御留業(おとめわざ)であり、この技法は、江戸幕末期、会津藩家老・西郷頼母によって編纂された特異な武術です。【註】わが流は大東流合気武道ならびに大東流合気柔術とは、異質のものです。また、歴史認識も異なります。特に大東流合気武道といわれるものは、直接西郷頼母が伝えば武技ではなく、武田家そのものの、武田流あるいは惣角流というものが中心であり、西郷頼母の《大東流蜘蛛之巣伝》とは大きく異なっています。そして、残念ながら柔道・剣道・空手・合気道などの多くの競技武道や演武武道は、その道統に「思想」というものがありません。単に技の優劣を競い、強弱を論ずるものばかりです。したがって西郷派大東流と大東流は、技法的にも思想的にも大いに異なるということを認識ください)

 この武術の特徴は「合気」であり、今日の合気道でいう合気(合気道では呼吸投げや、そのタイミングの取り方を合気というようですが)とは異なり、またハードな練習量や、組手・乱取りをもって、転換法や気の流れを会得するのではなく、術を直接指導者から教わることをもって「合気」(力貫)を会得するのです。
 当然、これは「術」ですので、筋トレを行ったり、ランニングや反復運動をする必要がありません。合気の特徴は相手の力を一切無効にして、自分の僅かな力(8キログラム程度の物を持ち上げたり、扱う力)で、相手を制する武術です。

 そしてこれは、柔道のように強力同士がぶつかりあって、揉み合ったり、ぶつかり合う事がないので、子供や非力の女性にでも無理なく修得する事が出来、またこの特異な武術を学ぶことで、今まで普段使わない神経や筋肉を動かし、それによって新陳代謝を盛んにして体質を改善し、より一層健康に近づく事が出来ます。また経絡上の経穴を圧して相手を制する「踏み」という技法を用いますので、技法を掛け合う同士は、自他共に健康に寄与できる体質を作ります。
 ここに我が流派の説く、「自他共尊」の精神があります。

 さて、私達の周りには多くの危険が取り巻いています。しかしこうした危険に遭遇することは、自分は例外だと信じ込んでいる人も少なくありません。
 しかし世の中の悲劇は、こうした安易な考え方から起こります。いつ何時、こうした危険はあなたを襲うかもしれません。その時の「備え」として、常日頃から健康に気を配り、食事を慎んで乱さず(グルメに明け暮れる美食家では、間違いなく、現代の奇病・難病を称される三大成人病になってしまいます。日本ではガンが最高の致死率を持っていますが、これは食肉や乳性食品、食肉加工品、魚の蒲鉾や竹輪の練製品などの高脂肪高蛋白を摂取し過ぎた為の、現代の食生活の誤りが作り出した病気です)、正しい日常生活を送る必要があります。不摂生な生活をし、それに気付かず、安易な、自分を甘えさせた妥協生活を繰り返していると、精神的にも緊張が薄れ、躰全体が泥腐り、不慮の暴力事件に巻き込まれたり、交通事故に巻き込まれる結果を作ります。

 しかし多くの人は、こうした大切さを頭の片隅に仕舞い込んだまま、安易に不摂生を繰り返し、運動神経も、反射神経も鍛えないまま、鈍感な毎日を過ごしています。
 この鈍感こそ、災いの禍根であり、この禍根は取り除かない限り、不安定な、不摂生な、不健康な生活に、一生涯甘んじなければならなくなります。こうしたところに迷いが生じ、悩みが生まれ、苦悶が生じて、人生を迷いぱなしで終焉を迎えることになります。
 こうした最悪の状態から抜け出すためには、やはり自分を大事にして、強靭に鍛え、決して自分を甘えさせることなく、もっと厳しい態度で自分を鍛えなければなりません。そこに、人生最大のテーマである「自分とは何か……?」という命題の鍵があります。

 人生は、よく旅に例えられ、また前途多難な航海に例えられます。こうした一寸先の近未来に対しても、常に警戒の目を怠らず、健康に注意し躰を丈夫にして、予防医学を実践しつつ、正しい人生を全うしなければなりません。不摂生と、安易なその日暮らしでは、人生は消極的であり、つまらないものになってしまいます。
 わたしたちは単に、暴漢に対する護身術を身に付けるだけではなく、病気からも身を護り、悲惨な運命からも身を護る必要があるのです。これが出来てこそ、あなたは人生修行を達人といえます。

 あなたの人生は、日々を考えもなく、我欲ばかりで卑劣に生きるということは愚行に他なりません。あなたは元々そんなに安っぽいものではなく、もっと崇高な、気品に満ちたものだった筈です。

 さて西郷派大東流の修行は、単に不慮の事故に遭遇した場合だけでなく、日常生活のこんな時にも活用できます。

・怒りっぽい時や悲しい時。
・何となく気分が沈んでいる時。
・仕事がうまくいかない時。
・人生がつまらなく感じた時。
・不眠症にかかった時。
・寝不足や宿酔いで頭が痛む時。
・肩が凝る時。
・受験勉強にスランプを感じる時。

 以上のこうした心に安定が得れない場合は、自律神経のバランスが壊れた状態の時に起こります。このバランスが失われ、自律神経失調症に陥ると肝臓の働きが悪くなり、また体内に有害物質が残留している状態を表わします。したがってこうした有害物質は逸速く取り除く必要があります。自律神経のバランスが良くなると、有害物質が早く取り除かれ、肝臓の働きもよくなるので、疲労も早く恢復し、多少の無理も利く躰になります。

 また、気持ちがおおらかなりますので、心が安定し、冷静に物事を見つめられるようになりますので、洞察力も鋭くなり、気持ちが落ち着くと同時に、度胸も出てきますので、いつも怒りっぽい人はイライラ感が減り、躰全体から溢れるような不思議なエネルギーが湧いてきます

 そして多くの人が体験することは、西郷派大東流の「合気」の修行をすると、今まで見ていたものの風景が一変し、総てが輝いて見えることです。このことから、「合気」の修行は、心と躰に何らかの作用が働くことを証明しています。

 更に西郷派大東流の優れているところは、呼吸法の吐納(吐く息と吸う息)の正しさにあります。一般に西洋スポーツは、呼吸法の吐納が間違っているため、物を持ち上げたり、瞬間的に突進したり、打ち込んだり、突いたり、捻ったり、投げる時の呼吸は「力んで、止まった」状態になります。こうした呼吸の仕方は、人体に大きな負荷がかかり、心臓肥大症(心筋梗塞)を引き起こします。

 しかし西郷派大東流の「合気」の修行は、丹田呼吸法(呼吸法には大きく分けて複式呼吸法と逆腹式呼吸法がある)を中心に、その息の吐納に合わせて技法を掛け合いますので、「力んで、止まった」状態にはならず、常に安定した、スムーズな呼吸の吐納が繰り返されます。こうした安定が自律神経のバランスを整え、無理なく、誰にでも、修得できるという状態を造り上げているのです。

 しかし合気は容易に完成するものでなく、難解な技法であることは否定できません。
 十年、二十年とやっていても、合気を会得する人は非常に少なく、また数年という短期間で直ぐに会得する人もおり、わたしたちがよく言葉にする、「○○道」を何年、あるいは何十年しているという事は、合気においてはその長さはあまり関係無く、あまり大した差でもなく、十年やっていても二十年やっていても、結局五十歩百歩であり、年月の長さに左右されないのも合気武術の特徴です。
 ただ大事なのは、「遣る」という信念であり、こうした信念を以て日夜修行している人は、かなり早いスピードで上達していきます。

 自信を失った人は、何事も失敗します。したがって自信を取り戻し、成功に至る道を歩には、日夜修行して、稽古をコツコツと積み上げ、その技法なり、仕事なりの、内容を把握し、慣れて、間違いの無いようにするのが「信じる」ことであり、自分を信じることが「自信」であり、その自信がやがて信念に繋がります
 そして大事なことは、人の世の中とは「信ずる」ことで交わりを成しているのであり、事を成就させる力は、信念であるということです。
 宇宙法則の大原則は、ただ一筋に、己の道を信ずる人のみが、成功を収め、物事を成就させるという力を持っということです。
 例えば、悪人を善導し、善人に移行する道は唯一つです。これは「信ずる」ことです。
 世の俗事にしたがって言えば、悪人だから信じられぬというのが世俗の常識になっているようですが、これは逆で、悪人だから信ずる。信ずるから、悪を働かない、という図式が導き出されます。
 こうして信は動いて、最後には愛に移行します。この愛は総てを潤し、総てを充たします。そして信には欠けたところが無く、信念はその根本を成して、信を充たし続けるのです。

 司馬遷(しばせん)の著わした『史記』にはこうあります。
 「士は己を知る人の為に死す」と。
 信ずることは力です。それ故、人間は、縄をもって肉体を縛ることは出来ますが、その心までは縛ることが出来ません。逆に、人の心を縛りつけるものは、唯一つ。それは「誠」(まごころ)から発した「信」のみです。
 したがって司馬遷の「士は己を知る人の為に死す」の言葉は、実に信を単的に表現した真理といえます。

 信は物事を成就させ、信は総てを充たします。
 世の中の憂いは、疑うから起こる現象です。憂いは、危ないから憂えるのではなく、疑うから憂えるのです。そしてただ憂えて、手をこまねいていると、やがては失敗と敗北の道をたどります。憂えるから失敗する。憂えるから敗北するのです。
 病気においても、憂えるから恐れ、恐れるからその恢復は長引くのです。そしてますます重くなります。
 事業でも、憂えるから崩れるのです。
 農業にしても、憂えるから農作物の実りは悪くなり、漁業にしても、憂えるから自然を蔑ろにして養殖に手を出し、1キロのハマチを漁獲するのに10キロの鰯の餌を海中に蒔ちらし、海を汚染させるのです。自然破壊、海洋汚染などの地球規模の災いは、総て人間の憂いから生じた愚行が発端です。
 つまり「信」を忘れれば、人の世の交わりは根本から壊れてしまうという、社会現象を如実に著わしたことと言えるでしょう。
 人生は信によって成ります。そして乱れは信の欠如によって起こります。

 また尚道館では、「自他共尊」の崇高な武士道精神を掲げ、自分を尊ぶ如く、他人も尊べと教えます。
 自他共尊は、柔道の創始者である、嘉納治五郎の説いた「自他共栄」とは異なります。
 自他共栄とは、柔道において選手同士が倶に共存し、試合を通じて共に栄えるということを目指したのでありますが、こうした試合は、試合に勝った唯一人の勝者を英雄視するに止まりました。
 その結果、勝者は敗者を侮り、テレビや新聞に引っ張り出されて、他のスポーツ同様、タレントに成り下がって傲慢になるという現象を作り上げました。こうしたことは実に悲しむべき事柄です。

 しかし尚道館並びに西郷派大東流の「自他共尊」は、己を尊ぶ心を、そのまま、他人にまで及ぼし、その尊ぶ極めは「捧げる」ことにあります。これこそが、武士道の説く「奉仕の精神」であり、全人格を代表して大勢に捧げることが武士道の本懐です。
 ここに人を尊ぶことと、己を尊ぶことは、一如の絶対境が存在するのです。 捧げ尽くして、己という存在が無くなった時、ここには最早、傲慢になって傲る気持ちなど無く、ただ無私となった「わたくしが居る」のです。こういう境地に至った時に、自他の境目が無くなり、一切が己となり、また天地が己となるのです。ここには自他一如、無私、並びに捨我の絶対境があるのです。
 人の喜びは、我が喜びであり、世と共に喜ぶことこそ、世界は互いに尊敬の光で包まれるのです。小さい自我が消えうせ、天地と共に生きる不死永遠の武士道が、ここに存在するのです。

 尚道館では、人生を真剣に模索し、こうした人生の理想に、少しでも近づく人のために門扉を開いております。そして日本の未来を有意義なものにするために、広く、心ある、真摯な人を求めています。


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