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■ 総本部・尚道館の入門について ■
(そうほんぶ・しょうどうかんのにゅうもんについて)

●入門後三ヵ月間は「門人見習い」として扱われる

 入門審査を提出し、入門が許されたとしても、直ぐに「正式門人」としては看做されません。
 三ヵ月間は「門人見習い」として扱われ、次の関門が待っています。「道場内外の掃除」や「見取り稽古」(指導者や先輩達の稽古を研究する)や「神前礼拝ならびに殿中作法起居振舞」を徹底的に叩き込まれ、初心者の段階を、身を以て体験させられます。
 「見所がある」あるいは「将来性がある」と判断した人を、更に次の篩(ふるい)に掛けて、選別するのです。したがって、ここで脱落して行く人もいます。

 また、儀法を直ぐに教えてもらう事はできません。一ヵ月を過ぎた当りから、「手解き三箇条」などの初心者技が道場指導員によって、基本技をみっちり指導され、残りの二ヵ月を掛けて、基本動作(左右分離躰操法、木刀の素振り各種動作、静座法、丹田呼吸法、膝行、膝退、膝側、膝行素振り、膝退素振り、坐法四方素振り、殿中における左前の「殿中起居振舞之作法」、指導者や先輩に対する礼、金銭を手渡す時の封書翰の厳守など)の一切を習得します。

道場静坐配置図

▲道場静坐配置図(クリックで拡大)

 とにかくこの間に、徹底的に人間としての礼節謙譲と、上級武士の殿中での起居振る舞い(御式内の作法)であった礼法を徹底的に学ぶのです。
 この後、「第六級」の儀法検定試験があり、第六級に合格してはじめて「正式門人」となる事ができます。
 しかし六級に不合格になりますと、正式門人になる為には、更に一ヵ月間延期され、再度第六級の儀法検定試験に挑戦する事になります。つまりこれに合格できなければ、正式門人になれないばかりか、以降の儀法も教えてもらう事が出来ず、「入口辺り」で足止めを食らって再履修を繰り返すという状態となります。

 人間はこのようにして、苦労しながら道を求めるものなのです。脱落者は敗北者であり、これは同時に人生の敗北者でもあるのです。こうした敗北者に、西郷派大東流の「秘伝の術」を授かる資格はありません。

●大東流儀法修行者の評価は、肉体的な実力を評価するのではなく、その人の熟知度を評価する

 どれだけ体力があるか、どれだけ試合に勝てるかの肉体的な体格や腕力は、わが西郷派大東流では問題にしません。過去の履歴も問題にしません。
 各段階ごとの儀法をどれだけ熟知し、その研究を行っているかを評価するのが「級位儀法検定」です。
 大東流は進級する度に、各々の儀法が少しずつ高度化されます。したがって他武道のように、決まった基本技を使い分けて、順環させるというものではないのです。

 喩えば、柔道の場合、「一本背負い」は初心者でも一本背負いの技を使い、また五段六段の高段者でもこの一本背負いは同じ技であり、初心者と高段者が同じ技を共有して試合に臨む訳ですが、大東流には、喩えば「四方投げ」にしても、「表」「裏」「奥」という次元の違う三段階が存在し、儀法の階級が上がるごとに高級技法になり、経験者と未経験者の儀法の熟知度は天池の開きを構築します。
 したがって肉体的評価を行って、これそ実力と論(あげつら)い、これに資格を与えるのではなく、西郷派大東流は儀法という能力を与えて、熟知度を評価する特異な武術なのです。

 さて、六級に合格して正式入門が許されますと、次は「第五級儀法」「第四級儀法」「第参級儀法」「第弐級儀法」「第壱級儀法」と順に高度化され、壱級になりますと「初段補儀法」あるいは「初段儀法」の検定の順に進級していきます。以降は黒帯への道が開けています。
 つまり級位とか段位というのは、お墨付的な資格ではなく、どれだけ会得しているかの「能力」なのです。

●西郷派大東流を会得するには、相応しい人格と人間性と霊格が必要!

 では、何故このような厳しい段階を踏むのでしょうか。
 それは大東流の「秘伝」に大きく関わっているからです。

 秘伝とは、一種の「切り札」であり、この「切り札」は極秘に指導されるものです。一般に公開されず、極秘が極秘であるから、「切り札」なのです。「切り札」の秘密が公開されれば、これは極秘というものではなくなり、研究の対象にされてしまいます。誰にも研究されないからイザと言う時の「切り札」であり、極秘の意味は此処にあります。これを「秘伝」と称するのです。

 秘伝は素人が、幾ら一生涯かかって研究しても、簡単に解明でき、理解できるものではありません。したがって直接有能な指導者から儀法を教わる以外方法がありません。
 大東流は、一人の天才的な流祖などが、流派を開いたというものではなく、何百年もかかって、先人の様々な智慧(ちえ)や教訓が活かされて構築された、儀法三万儀(三万種に及ぶ技。単に技術的なものばかりでなく、方術なども含む)にも及ぶ膨大な秘伝から構築された武術です。

 これは今日のスポーツ格闘技やスポーツ武道とは異なり、ルールもなく、時空的な制約も規定もない、非常に危険な一面を携えている儀法から構築されています。また危険な儀法であるからこそ、実戦には有効であるといえます。
 したがって一般社会でこれを用いれば、非常に危険なものが多く、また大東流の高級技法ともなると、人間の生命の有無に関わる恐ろしい「術」が存在します。
 こうした術の教えを授け、これを正しく後世に伝える為には「それに相応しい人格と人間性と霊格」がものを言う事になり、その適性に欠ける人は、その教えを授ける資格がありません。

 また大東流合気武術は、江戸期において、会津藩では五百石以上の上級武士にしか、その伝授が許されていませんでした。御留流と称され、門外不出のものとして、極秘裏のうちに秘かに伝承されてきた特異な武術です。これを習得していくには様々な段階があり、段階ごとに古神道や真言密教の秘伝の印伝形式が設けられました。そして大東流は近年に至るまで、その儀法や存在すらも知られていませんでした。

 昨今は一部のマイナーな武道雑誌に大東流が取り上げられていますが、この大東流は柔術百十八箇条(これに類似したものは八光流の柔術百八箇条に同じ)と直心影流の表の型を合体させた大東流柔術というもので、大東流合気武術とは根本的に「次元の段階」で異なっています。型の保存では、実戦には役に立たず、旧時代の骨董品に成り下がります。
 ○○箇条というのは左右裏表の型に過ぎず、大東流合気武術は「合気」を会得するまでの、一種の修行法を示した方便に過ぎません。

 西郷派大東流合気武術では「合気は、合気揚げに始まり、合気揚げに終わる」と称されています。つまり「合気」の全貌は、この合気揚げに中に総て隠されているのです。したがってこれを徹底的に研究する事が、「合気」への糸口となるのです。また「崩し」の秘密もこの中に包含されています。
 そしてその登龍門が、西郷派大東流では「入門審査」という、適合者と不適合者を選別する、まず最初の関門なのです。

●正式入門が許されると

 第六級儀法検定試験に合格すると、宗家との「第一親等系図の弟子」として、宗家との直接関係を造る事が出来、道場内に自分の名札を掲げる事が出来ます。
 つまり門人とは、宗家と系図的に一親等でつながっている人を「門人」と称する訳です。
 したがって門人でなければ、大東流儀法の細かな注意点や、ポイントとなる要旨は、直接指導を授ける事は叶いません。

 教えてもらわなければ解らないのが大東流の儀法であり、柔道や空手やその他の格闘技のように、自分でランニングをしたり、筋トレをしたり、巻藁を叩いたり、チューブを引っ張ったり、シャドウボクシングのように自分の陰を相手に練習したりと、一人で強くなっていくものではありません。
 こうしたスポーツ武道は、自分一人で肉体を強化する事で試合に勝てるような状態を作り上げていく事が出来ますが、大東流儀法は先人の智慧の集積の為、一人の人間の努力では如何ともし難いところがあります。

 また大東流の秘伝・奥儀は、勝負事としての試合に勝つ為に、日夜稽古を繰り返すものではありません。勝負事で勝ちを狙うよりは、負けない事を目標に稽古に励む訳です。幾らこちらが手を尽くしても、勝負に出てこないという人は、実に恐ろしいところがあります。勝負をしないから、負ける事がないのです。
 大東流の行き着く奥儀は勝つ事ではなく、「負けない境地」を得る為の修行です。これが理解できなければ、わが西郷派大東流合気武術の門人には、なる事が出来ないのです。

 人間の肉体は実に巧妙であり、複雑であり、然も整然としていて、神秘の世界に包まれています。しかし残念な事に、巧妙で神秘に包まれた肉体ですら、やがて年齢と共に、体力には限界が現われ、体内の至る処が老化し、最後には朽ち果ててしまいます。したがって大東流の修行は、肉体を信奉し、若い肉体を装って、これに固執するというものではありません。

 生・老・病・死という、人間の素朴な宇宙の法則に従い、それを素直に受け入れて、老後に至っても、これまで学んだ自分の威力が衰えないように、徐々に肉体信奉から離れ、霊的な進化を求めていくのが、大東流の修行です。
 つまり勝つ事ではなく、負けない事の修行が、大東流の目指すところであり、負けない事において、「切り札」が存在するのです。

 吉田兼好の著わした『徒然草』には「双六の上手」が挙がっています。
 それによりますと、「双六は勝とうと思って打っては行けない。負けないように打つべきである。どの手を駆使すれば早く負けないか、それを思案して、一目でも遅く負けるように色々と手を尽くすべきだ」と述べています。
 負けない人というのは、裏を返せば「冷静な人」であり、観察眼が働き、相手の小手先の動きや虚仮嚇(こけおどし)に翻弄されない人の事を言います。すなわち精神の安定と、相手の策に乗じない精神的霊的コントロールの熟練した人の事を言うのです。

 こうした精神状態の境地に辿り着くのは、中々容易な事ではありませんが、少なくとも尚道館の正式門人に許された人は、こうした境地に至る「切り札」の一種を手に入れた人と言えます。


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