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●世情不安の現代をどう生きたらよいか 陽明学の教えの中に「事上磨錬(じじょう‐まれん)」というのがある。 自分を磨く材料は、むしろ順風満帆に流れているときよりも、イザコザが起き、問題が浮上して窮地に追い込まれた時の方が、より磨かれる機会が多くなるというものである。これは手厳しいほど効果が大きい。 人生は長いようで短い。青春の謳歌も、一瞬の遠吠えのように過ぎ去っていく。人間は、既に二十歳を過ぎたときから急速に老化現象が早まる。三十歳になると、若い頃のように肉体的にも柔軟さを失い、また四十歳になると、この年齢から“初老”と言われる、深刻な老化現象が襲ってくる。そして、老化するのは何も肉体ばかりではない。 五十の声を聞くと、人間はいつでもそのことを認識させられる。況(ま)して、六十を過ぎ、七十の坂を越えると、その思いは一層切実なものになる。また余命幾ばくもない人生に、人間の儚さを嘆くばかりである。しかし、嘆いても、問題は一つも解決しない。 多くの人は、先入観や思い込みにより、自分を曇らせて生きている。頑迷な固い殻で、自身を曇らせる。これまでの得た知識を過信しすぎ、過信の中で、頑迷な固定観念に塗れて生きている。しかし、これでは人生の意義は見通せまい。 日々の生活の中で、人間は生き方を常に模索し、その日常の仕事の中から自分を鍛え、かつ磨かなければならない。これが陽明学のいう「修己」ということだ。 つまり陽明学は、行うことは則ち、知ることに回帰すると教えるのだ。「知」と「行」は、二分したものでないと教えるのだ。二つ揃ってワンセット。これが陽明学の知行合一。 また、陽明学が東洋哲学の体裁を持ち、思想の名に値する限り、行動や実践の伴わない思想はないのである。陽明学の行動規範は、常に此処に置かれている。そうした意味で、人間をかつての自然体系に戻し、野性に目覚めて、人間の姿勢と行動規範を再点検することも必要であろう。現代という時代こそ、こういう時代ではないのか。 現代社会はその複雑さゆえに、人間を過労状態に仕立て上げてしまった。また、人間関係の難しさも、過労が増える要因になった。現代とは、過労人間が急増する時代なのでもある。 こうした神経症的な、またノイローゼ的な病状が、深刻化する背景には、現代人が普通の動物が味わう「生存の危機」に出会うことが殆どなくなってしまったからである。安全圏に居て、保護的な生き方を模索し、その追求により、軟弱になってしまったといえなくもない。則ち、「事上磨錬」状態が、殆ど退化したといってもよい。こうなると、人間は益々軟弱になり、ひ弱になる。そして、明日のことに脅えるだけ、という心配性にもなりやすい。 本来人間は、苦界の中で生きる生き物である。その生き物が、苦界から抜け出し、安楽な生き方をすると、当然そこにはリバウンドが起こる。つまり、ノイローゼから始まる神経症や、統合失調症などである。今日は、どの時代にも、これほどまでに存在しなかった、こうした精神の疾患が起こっている。これは現代人が安楽な生き方を、どこまでも追求し、豊かで便利で快適な生活空間と、その物質的恩恵を求めたからだ。 今こそ、知と行を一致させて、自分を磨くことに専念する時代である。 しかし、今日の日本人にとって、今日一日の食べるものがある、などということは自身が考える「当然の権利」であり、幸福でも何でもないのである。この、“幸福でも何でもない”こうした感覚が、実は現代人を軟弱にし、ひ弱にしたといえるのではないか。
●試煉としての事上磨錬組織でうまく生きられない、誤解されやすい、複雑な人間関係に苦慮している、などは、充実した自分を実感することが出来なくなったからである。苦慮し、悶絶することこそ、人間を鍛え上げるには非常にいい材料になるのである。不運と不幸の中にこそ、明日の輝かしい未来が隠れているのである。 陽明学は精神的圧迫が生じた時こそ、それをバネにして、飛躍できると教える。 暑さ寒さに強くなり、清潔でない不潔な所でも平気で暮らせ、いざとなれば何でも食べられること。地べたに直接寝るような事態になっても、それが嫌がらず出来ること。最低限度の先を読む見通し力と、非日常の際の智慧を身に付けておくこと。人を見たら、表面で解釈せず、内側に眼を向けて、ある程度の見識眼を養うこと。孤立無援でも勇気を失わず、誤解を受けることも恐れず、悪評や危険を覚悟する気持ちを持つこと。 人間は、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、絶望することにより、その人が向上するチャンスが与えられる。絶望することは人間にとって、非常に大事なことである。 現代人の多くは、現世には、この世には、人間の力ではどうしても解決できない問題が転がっていることを忘れてしまっている。 陽明学では、貧困、病気、戦争、地域紛争、飢え、裏切り、搾取、苦境、窮地、死別、絶望、精神的軋轢(あつれき)や迫害などのこれらのものは、自分を磨く上で最も好ましい条件であると、既に登録済みである。この登録は願わしくない面と共に、この願わしくない面こそ、それが人間を鍛える試煉として、人間を強く生かしていくと説いている。そして絶体絶命の窮地から見事生還でき、九死に一生を得るのは、此処で強く鍛え抜かれた人間のみである。事上磨錬の体験者のみが、窮地から生還できる。 勿論、人間は本来豊かさと、快適さと、便利さを求めて、そのために奔走する生き物であるが、健康や平和な日々、食糧の長期確保や家族の長寿、誠実さや勤勉さ、あるいは束縛のない蹂躙(じゅうりん)されることのない自由への願いは、その為に懸命に努力する方向へと励む。このために奔走する。人より一歩先んじようとする。 ところが、願うことは「針の穴」ほども適(かな)わない。そういうことだってある。そういうことの方が、多いだろう。これは、現世というこの世が、願わしくないことの方が多く起るという現象界の、ありのままの姿を率直に顕しているからである。つまり、逆説的には願わしくない状態にある時に、人間は、強められるということだ。則ち、これが事上磨錬。これこそ事上磨錬のエッセンス。 陽明学でいう事上磨錬こそ、逆境で鍛えられる「修己」の意味を持つ。自分自身を強靭にする要素は、則ち修己。
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