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志高く、より良く生きるために

尚道館の陽明学講座
(しょうどうかんのようめいがくこうざ)

道場所在地

802−0985
北九州市小倉南区志井6丁目11−13
 ・北九州市モノレール企救丘駅より徒歩5分
 ・JR志井公園駅より徒歩7分

 *周辺地図、交通機関に関する詳細はこちらです

講 師

講師:曽川和翁 西郷派大東流における身分と流統性
 (宗家・米国イオンド大学教授・哲学博士)

講師助手:曽川 竜磨 (参段・指導員) 

募集クラス
生き方を学ぶ社会人を対象とする。男女問わず。
稽古日

曜クラス  PM8:00 〜 9:30

曜クラス  PM1:00 〜 2:30

週1回で、何れかのクラスを選択。 

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指導内容

世情不安の現代を、陽明学的な「生き方で模索」する。塾的な講義形式。

入会金
30,000
月 謝
 5,000 
入会方法
入会は面接の結果決定します。面接申し込みは、電話またはメールにて、お申し込み下さい。
(まずは面接にお見えください)
連絡先
総本部・尚道館
 受付時間/午前9時〜午後9時まで
 (それ以外の時間帯はご遠慮下さい)
093−962−7710(代)
093−961−8224(FAX)/24時間可
お問い合わせメール

『一掴一掌血 一棒一條痕』は、陽明学の祖・王陽明の教えである。“一掴一掌血”とは、一度相手の手を握れば、自分の掌に血が滲むように掴め。
 また“一棒一條痕”とは、一度相手を棒で打ち据えたら、一筋の痕が残るように打ち据えという意味であり、これは中途半端な行いを戒めることを説いたものである。
 そしてこの書は、日本の陽明学の大家であった、故・安岡正篤先生の筆である。

●世情不安の現代をどう生きたらよいか

 陽明学の教えの中に「事上磨錬(じじょうまれん)」というのがある。
 人間というのは、日常の仕事の中で自分を磨かなければならない。自分を磨くことにより、自分をしっかりと確立させることが出来るのである。確立した自分は、動揺することが少ない。理不尽な脅しや、不合理な言い掛りにも決して屈することがない。
 また平時の日常であろうと、急変して戦時の非日常に変貌しようとも、うろたえることなく、いついかなる事態になっても、冷静に物事を対処することが出来る。

 自分を磨く材料は、むしろ順風満帆に流れているときよりも、イザコザが起き、問題が浮上して窮地に追い込まれた時の方が、より磨かれる機会が多くなるというものである。これは手厳しいほど効果が大きい。
 手厳しい現実の中で、過酷な現実の中で、苦闘し、更には苦戦した方が、後々において今よりも数倍も有意義な人生を送ることが出来るのである。
 陽明学には、事上磨錬が説かれている。悪戦苦闘の中で、しかも自己を見失わない。確固たる自己を形成する。これこそが陽明学の、実学を通じた人間錬磨の、命を養う方法である。

 人生は長いようで短い。青春の謳歌も、一瞬の遠吠えのように過ぎ去っていく。人間は、既に二十歳を過ぎたときから急速に老化現象が早まる。三十歳になると、若い頃のように肉体的にも柔軟さを失い、また四十歳になると、この年齢から“初老”と言われる、深刻な老化現象が襲ってくる。そして、老化するのは何も肉体ばかりではない。
 最も恐ろしいのは、「精神的動脈硬化」という頑迷さが、思考に柔軟さを欠如させ、一気に人間を廃人に貶(おとし)めるのである。苦悩と迷いを生じさせるのである。こうなると、身も心も雁字搦めになる。

 五十の声を聞くと、人間はいつでもそのことを認識させられる。況(ま)して、六十を過ぎ、七十の坂を越えると、その思いは一層切実なものになる。また余命幾ばくもない人生に、人間の儚さを嘆くばかりである。しかし、嘆いても、問題は一つも解決しない。
 だからこそ、今まで生きてきた証(あかし)として、自分の知識を再点検しなければならない。

 多くの人は、先入観や思い込みにより、自分を曇らせて生きている。頑迷な固い殻で、自身を曇らせる。これまでの得た知識を過信しすぎ、過信の中で、頑迷な固定観念に塗れて生きている。しかし、これでは人生の意義は見通せまい。
 陽明学では、知ることは行うことであると教える。
 自分が、知っているということは、行動においてもイコールでなければならない。この教えを「知行合一」という。知ると言うことは、実践面においても、それが役に立ち、機能するということである。

 日々の生活の中で、人間は生き方を常に模索し、その日常の仕事の中から自分を鍛え、かつ磨かなければならない。これが陽明学のいう「修己」ということだ。
 人生の修羅場で役に立つのは、単なる学校の教科書で教える知識ではない。百の知識より、実践の中で身に付けた智慧が物を言う。このような崇高な智慧を身に付けるためには、「事上磨錬」に待つ他ない。これに期待するしかない。
 事上磨錬を重視することこそ、陽明学の真髄であり、ここに王陽明の言う、「真知ハ則(すなわ)チ行ヲナス所以(ゆえん)ナリ。行ナワズンバ、コレヲ知ト謂(い)ウニ足ラズ」に帰着する。これが、知行合一のエッセンス。

 つまり陽明学は、行うことは則ち、知ることに回帰すると教えるのだ。「知」と「行」は、二分したものでないと教えるのだ。二つ揃ってワンセット。これが陽明学の知行合一。

 また、陽明学が東洋哲学の体裁を持ち、思想の名に値する限り、行動や実践の伴わない思想はないのである。陽明学の行動規範は、常に此処に置かれている。そうした意味で、人間をかつての自然体系に戻し、野性に目覚めて、人間の姿勢と行動規範を再点検することも必要であろう。現代という時代こそ、こういう時代ではないのか。

 現代社会はその複雑さゆえに、人間を過労状態に仕立て上げてしまった。また、人間関係の難しさも、過労が増える要因になった。現代とは、過労人間が急増する時代なのでもある。
 複雑多岐に渡る先の見えない現状は、人間をして、過労へと向かわせる。この過労が、新型の複合型過労病を齎(もたら)したといえる。
 ノルマ・ストレス、テクノ・ストレス、そしてこれらが齎す「統合失調症」など、これらは今日の日本人の神経症的なノイローゼが、心を蝕んでいることが少なくない。

 こうした神経症的な、またノイローゼ的な病状が、深刻化する背景には、現代人が普通の動物が味わう「生存の危機」に出会うことが殆どなくなってしまったからである。安全圏に居て、保護的な生き方を模索し、その追求により、軟弱になってしまったといえなくもない。則ち、「事上磨錬」状態が、殆ど退化したといってもよい。こうなると、人間は益々軟弱になり、ひ弱になる。そして、明日のことに脅えるだけ、という心配性にもなりやすい。

 本来人間は、苦界の中で生きる生き物である。その生き物が、苦界から抜け出し、安楽な生き方をすると、当然そこにはリバウンドが起こる。つまり、ノイローゼから始まる神経症や、統合失調症などである。今日は、どの時代にも、これほどまでに存在しなかった、こうした精神の疾患が起こっている。これは現代人が安楽な生き方を、どこまでも追求し、豊かで便利で快適な生活空間と、その物質的恩恵を求めたからだ。
 しかし、こうしたことに反動はつき物である。現代は反精神作用として、反動が現れている時代だといえよう。

 今こそ、知と行を一致させて、自分を磨くことに専念する時代である。
 本来人間は災害や災難に遭遇することがなくても、単に貧乏であるということだけで、貧困は人間をノイローゼから救ってくれていたのである。勿論、貧困は窮すれば、心の、別の歪みかたにおいてそれは顕れるであろうが、しかし、貧しい人にとっては今日一日の食べるだけの米があり、おかずがあれば輝くような幸福感を実感することが出来るはずである。
 日本にも、かつてこうした時代があった。欠乏の時代があった。

 しかし、今日の日本人にとって、今日一日の食べるものがある、などということは自身が考える「当然の権利」であり、幸福でも何でもないのである。この、“幸福でも何でもない”こうした感覚が、実は現代人を軟弱にし、ひ弱にしたといえるのではないか。
 もっと切実に、困難に際して、自分を磨く能力を身に付けなければならないだろう。

 

●試煉としての事上磨錬

 組織でうまく生きられない、誤解されやすい、複雑な人間関係に苦慮している、などは、充実した自分を実感することが出来なくなったからである。苦慮し、悶絶することこそ、人間を鍛え上げるには非常にいい材料になるのである。不運と不幸の中にこそ、明日の輝かしい未来が隠れているのである。

 陽明学は精神的圧迫が生じた時こそ、それをバネにして、飛躍できると教える。
 窮地に追い込まれ、逆境に立たされ、それでもへこたれない気概は、最も自分を磨くいい機会となる。これに感謝するべきであろう。
 その為に、人間は精神と同時に、肉体も鍛えなければならない。両者とも屈強でなければならない。

 暑さ寒さに強くなり、清潔でない不潔な所でも平気で暮らせ、いざとなれば何でも食べられること。地べたに直接寝るような事態になっても、それが嫌がらず出来ること。最低限度の先を読む見通し力と、非日常の際の智慧を身に付けておくこと。人を見たら、表面で解釈せず、内側に眼を向けて、ある程度の見識眼を養うこと。孤立無援でも勇気を失わず、誤解を受けることも恐れず、悪評や危険を覚悟する気持ちを持つこと。
 一見こうした不運や不幸は、現代人の嫌うところであるが、しかし、よく考えれば、これも歴(れっ)きとした「私有財産」である。そして、陽明学はこの私有財産を有効に機能させて、事上磨錬を行って、自分を磨けと教えるのである。

 人間は、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、絶望することにより、その人が向上するチャンスが与えられる。絶望することは人間にとって、非常に大事なことである。
 しかし一方で、「希望を捨てるな、簡単に諦めるな」などといって、前向きの姿勢?に、多くの現代人は毒され続けてきた。ところが、希望を捨てず、諦めもせず、頑迷にこれを守って、一体どれだけの打開策が開けたのだろうか。
 逆に益々、先細りして行ったのではなかったか。老化を早めただけではなかったか。取り越し苦労ばかりが多かったのではなかったか。

 現代人の多くは、現世には、この世には、人間の力ではどうしても解決できない問題が転がっていることを忘れてしまっている。
 不運や不幸の原因は、社会の不備によるもので、その原因は政治力が貧困だから、不運や不幸が起るのだと考える。だから政治が良くなれば、こうした不備も解決でき、いつかは克服できると思い上がるようになる。そして、この思い上がりこそ、更に自らを危うくしているのである。

 陽明学では、貧困、病気、戦争、地域紛争、飢え、裏切り、搾取、苦境、窮地、死別、絶望、精神的軋轢(あつれき)や迫害などのこれらのものは、自分を磨く上で最も好ましい条件であると、既に登録済みである。この登録は願わしくない面と共に、この願わしくない面こそ、それが人間を鍛える試煉として、人間を強く生かしていくと説いている。そして絶体絶命の窮地から見事生還でき、九死に一生を得るのは、此処で強く鍛え抜かれた人間のみである。事上磨錬の体験者のみが、窮地から生還できる。

 勿論、人間は本来豊かさと、快適さと、便利さを求めて、そのために奔走する生き物であるが、健康や平和な日々、食糧の長期確保や家族の長寿、誠実さや勤勉さ、あるいは束縛のない蹂躙(じゅうりん)されることのない自由への願いは、その為に懸命に努力する方向へと励む。このために奔走する。人より一歩先んじようとする。

 ところが、願うことは「針の穴」ほども適(かな)わない。そういうことだってある。そういうことの方が、多いだろう。これは、現世というこの世が、願わしくないことの方が多く起るという現象界の、ありのままの姿を率直に顕しているからである。つまり、逆説的には願わしくない状態にある時に、人間は、強められるということだ。則ち、これが事上磨錬。これこそ事上磨錬のエッセンス。

 陽明学でいう事上磨錬こそ、逆境で鍛えられる「修己」の意味を持つ。自分自身を強靭にする要素は、則ち修己。
 これは「反面教師」以上に素晴らしい、運命が与えてくれた贈り物である。そしてこうした逆境を、むしろ積極的に利用せよと説いているのである。これを利用する智慧が、また則ち「知行合一」なのである。

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陽明学入門
陽明学的な生き方の模索

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