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志高く、より良く生きるために
現代の日本人が忘れてしまった「他人行儀」という言葉。本当の師弟関係を築くには、この「他人行儀」という言葉こそ、礼儀正しさの象徴である。
 昨今は、殆ど礼儀正しいという人を見かけなくなった。
 また、自身では礼儀正しいと自負していても、それは自分の所属する集団や組織の中だけである。そして、その礼儀正しいことの自負はその集団の中でしか通用しない、単なる恣意的な挨拶であり、また、一方で人間の行動規範を制限するような規則で雁字搦(がんじがら)めにされている。
 こうした中で、本当に人間の自然な形で求道者の志を成就させることは不可能であろう。
 そこで、西郷派大東流は、「他人行儀」という言葉を大事にし、人生を毅然(きぜん)として生き、生涯を通じて心を交える有能な志を持った人を探し求めている次第である。

■ 入門審査・見学 ■
(にゅうもんしんさ・けんがく)

 総本部・尚道館を始めとする幾つかの道場では、入門に際して、体験入門や面接による「入門審査」を実施しております。
 これにより、希望者が道場を選ぶのではなく、「道場が道場生として相応しいか否か」を判断させて頂きます。

 西郷派大東流は、昭和40年頃まで、その存在が明らかになるまで、一般の目に触れぬよう秘密裏のうちに、ごく少数の人に限り、密かに伝承されてきました。
 高度な「術」、あるいは人の生死に関わる危険な儀法(ぎほう)を有するが故に、それを修得する者の人間性と人格が重視されたのです。
 つまり、技術に勝(すぐ)れ、体格や体力、あるいは素質や運動神経に恵まれていたとしても、ただ手が早いだけで、真摯(しんし)な「心」が伴わない人は敬遠され、入門を許されなかったということです。

 また、この審査には、「有意義に稽古が出来る環境を整える」という意味合いも含まれています。
 もし仮に、極めて人格の低い、自分勝手で、好戦的で、性格粗暴で、喧嘩好きで、薬物を使用し、好んで場の雰囲気を乱すような者が入門したとすれば、他の門下生が掻(か)き廻(まわ)され、稽古に集中出来なくなってしまう、というような事態が安易に予測出来ます。
 熱心な門下生が安心して、稽古に打ち込める環境を作るのも、指導者の務めであると考えます。

 以上のような理由から、会津藩家老・西郷頼母が総智を傾けて練り上げたこの武術と、その精神性を受け継ぐ西郷派大東流の立場としては、入門審査を実施せざるを得ないのです。
 どのような者も来る者拒まず、というわけにはまいりません。

 とはいえ、募集人員の数に限りがあるわけではありませんし、無茶な要求をするわけでもありませんので、「やる気」「志」に溢れた真摯な方を足蹴にしないことはお約束いたします。
 この文章を読まれている時点で、既にご縁があるのですから、興味をお持ちの方は、ぜひ各道場の方へお問い合わせしてみて下さい。

 なお、審査の主なポイントは以下の通りです。

口頭で入門希望者の「やる気」を確かめる。一年未満で辞める、「好きやすの飽きやす」では仕方がない。
性格粗暴者、危険異常者、危険薬物使用者、アルコール依存者、優柔不断で裏切者、売名行為を働く者などの精神障害がないかを確かめる。(統合失調症であっても、精神が安定している人はこれに含まず)
人間性と人格と品位を確かめる。素直な心で、わが流と真摯な心構えで向き合うことが必要。劣等感や猜疑心がないか確かめる。礼儀を知っているか、否かを確かめる。
稽古熱心であること。(運動能力未熟や武術未経験であっても構わない)
多額な高利借金や巨額なローン返済で、経済的に困窮していないこと。自分の働きに応じた給料内の金銭で生活できない者は武術を遣る資格がない。(自己破産者でないこと等)
決断に迫られたとき、その能力の有無を審議する。(家庭の事情で、会費等の支払い困難者については特待制度がある)

 また、見学希望者や入門審査希望者は、必ず電話かメールでご一報の上、ご来館下さい。
 なお、アポイントなしの突然のご来館は固くお断りいたします。また、西郷派大東流と、他の大東流とでは内容(西郷派の合気戦闘理論や、武士道精神などをはじめとする「大いなる東(ひむがし)」に基づく思想)が異なりますので、この違いもご確認の上、「西郷派でなければならない」と、お思いの方のみ、ご来館下さい。

 わが流のモットーは、「去る者は追わず、来る者のは厳格に人選す」です。
 一人の人間に、「ものを教える」というのは、相当なエネルギーを使います。教える側も、相当なエネルギーを遣って教えるのですから、習う側も、これに応えて欲しいというのは、教える側の人情です。

 「習うに相応しいか、否か」を判断するのは、入門希望者側にはありません。何故なら、「武術を学ぶ」というのは、商行為の、「お金を払ってこれを習う」というものではなく、また、教える側も、「お金を貰ってこれを教える」という商行為ではないからです。

 師弟の関係を築くというのは、極めて「厳粛な行為」であり、この関係が崩れると、もはや師弟関係は存在しなくなります。
 「他人行儀」という言葉があります。師弟関係とは、まさにこの「他人行儀」であり、「親しい仲にも礼儀あり」で、いま、日本人が忘れてしまっている「礼儀正しさ」を、もう一度見詰めなおしたいと、わが流は考えているのです。

 道場に通うことと、スポーツジムやスイミング・スクールに通うことは、根本的に違っています。
 道場とは、自己の人間性の完成の為に通うところであり、此処に通い、喧嘩に強くなりたいとか、プロスポーツ選手になったり、格闘技選手になって有名人になりたいという、そうしたところではありません。あくまでも厳粛なところであり、心の拠(よ)り所となるところなのです。

 現在、武術や武道と名の付くものには、スポーツとしての立場をとる武道と、求道精進(ぐどうしょうじん)の道として捉える武術がありますが、前者は圧倒的に多く、また、後者は極めて少なく、それ故に「狭き門」「細き道」といえましょう。
 しかし、人間の人生は何処まで行っても、求道精進の道から外れることが許されず、これに生涯を賭けて探求が要求される現実が、人の人生だと考えます。

  有識者あるいは知識階級の権威に翻弄(ほんろう)される事を、「踊らされる」と言います。
 そしていつの間にか、権威を信じ込み、安易な人生を選択する風潮が強くなってきました。
 凡人(ぼんぷ)は、いつの間にか踊らされ、仕掛けられ、やがて「填(しず)められる」という結末を辿ります。

 マタイ伝福音書第七章13〜14には、

狭き門から入れ。
滅びに至る門は大きく、
その道は広い。
そして、そこから入って行く者が多い。

命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見い出す者は少ない。

 とあります。

 これは虚構と虚仮嚇(こけおどし)の愚を戒めています。
 また昨今は、アメリカナイズされたものが大衆に好まれ、街中は至る所で横文字文化が氾濫(はんらん)しています。日本的なものを古い、時代遅れと極めつけ、アメリカ的なもの、ヨーロッパ的なものを新しい、科学的だと極めつけています。欧米崇拝、西洋崇拝は明治以来の日本の風潮であり、私たち日本人は白人コンプレックスを抱いて、今日も生活を続けています。

 心を構築する精神文化が軽んじられ、金・物・色の物質を尊ぶ物質文化がもてはやされています。また、精神文化の衰退とは、言霊の衰退を現わします。
 言霊とは単的に言えば、「アイウエオ」ではじまる「ン」の五十一音に、濁音と半濁音を加えた七十六音の事で、この七十六声音から成り立っている言語が日本語であり、七十六声音を完全に発音できるのは日本民族だけなのです。
 五十音から重複音を除いたものが「イロハ四十七音」であり、これに「ン」を加えた四十八音が、カタカナで、これを「型神名(かたかな)」と言います。

 つまりカタカナとは、その一つ一つが「御神名」となっており、世界中の言語の中で、日本語だけが左脳を使用し、その他の外国語は右脳を使う事が最近の研究で明らかになっています。これは要するに、左脳を使用すること事態が、宇宙に満ち満ちた「光透波(ことば)」という波動を、言葉として使っている言語が日本語であると言う事がいえます。
 しかし今日、こうした「光透波の玄理(ことばのげんり)」を知る人は少ないようです。

 私たち日本人は、より志を高くして、毅然(きぜん)とした態度で、日本人の心意気を示そうではありませんか。自虐的(じぎゃくてき)になり、一億総懺悔(ざんげ)の怨念(おんねん)から抜け出し、感情で物事を捉えるのではなく、理性や知性をもって、古人が総智を傾けて築き上げた文化遺産を後世に伝えていく必要があるのです。

 志ある求道の士の入門を、心よりお待ちしております。


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