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志高く、より良く生きるために

■ 春の講習・洗心錬成会 ■
(はるのこうしゅう・せんしんれんせいかい)

尚道館郊外の福智山周辺ならびに英彦山周辺は、いま春真っ盛りである。小倉南区の志井周辺は、鄙びた風光明媚な場所が、いまでも知られざる見所としてたくさん存在している。

 

●春の講習・洗心錬成会の日程予定

 本講習の洗心錬成会の日程は、下記のスケジュールで行われる。スケジュールには食餌法を取り入れ、また道場内の稽古では体験できない、馬術や登山に併せての山稽古などの鍛錬がある。普通、こうした稽古は、屋内の道場の中では体験できないものである。だからこそ、「山稽古」は武術の本義の迫る意味でも、必要不可欠のものとなる。

 
3日・祝)
4日・祝)
5日・祝)
─────

03:00起床
・玄米スープの朝食
・山稽古に向けて徒歩で出発
05:00 徒歩にて増渕ダム稽古場付近へ。
07:50 山稽古開始
・山稽古の遁甲山術
10:00山頂到着
・携行食の昼食
12:30
・山稽古 ※途中休憩を挟む

05:30起床
・滝行(七重の滝)
・朝稽古
・山稽古
 

12:00帰館予定
・朝食をかねた昼食

12:00集合
・基本稽古

13:00 下山開始
14:00 その後、尚道館に向けて徒歩で帰館の途につく


・講話
12:00
・解散
17:00
・入浴
・夕食をかね囲炉裏を囲んで「山行き談義の会」
22:00消灯
16:00帰館
・基本稽古、入浴
・夕食をかね、囲炉裏を囲んで「武術談義を語る会」
23:30消灯
─────

日程通りに行う予定ですが、天候により変更することがあります。

【春の講習・洗心錬成会の特徴】
 現代人に正しい生活法則を忘れている。したがって、自分で見落としている危険な「落とし穴」がいくつもある。また、現代人を取り巻く地球環境は、現代人に益々窮屈を強いり、悪化の一途に在るのは周知の通りである。

 現代人は、「科学万能主義」の迷信に酔い、色情や金銭に魅了されて生きている。その人生の主体は快楽主義である。誰もが自然との調和を忘れ、メカと情報に翻弄(ほんろう)されて、自分自身でさえコントロールできない状態になっているのである。更に、こうした悪循環の上に現代栄養学の食指導の誤りが、現代の難病奇病を派生させ、人体に不適当な食品群は現代人の肉体を長時間かけ、自覚症状のない状態で、確実に蝕んでいるのである。
 果たしてこうした生活の延長を、人生として設定してよいのだろうか。

 現代人は真の健康を見失っている。
 また、環境の悪循環に自分が浸りきっていることに、一切の自覚症状を持っていない。危険なことである。
 真の健康を養える条件とは、水や空気が綺麗で、日当たりがよく、騒音のない、情報量も過剰に氾濫(はんらん)していない環境の中において保たれる。これが人間の情緒を安定させるのだ。
 明るく朗らかで、気力が充実し、愉快に、爽快に暮らせる条件は、大都会の喧騒(けんそう)から離れ、静寂の中に身をおくことである。

 更には、現代という時代は誰もが「文明」という贅肉(ぜいにく)をまとい、その贅肉の重さで潰されようとしている時代である。いま現代人に課せられることは、文明という贅肉をそぎ落とし、自然の帰ることこそ、急務ではなかろうか。

福智山の裾野にある「七重の滝」での滝行。道場生はこの滝行に挑戦し、心身ともに、リフレッシュして「命の洗濯」をする。こうした滝行は、決して大都会では実行できない行である。
 
 
春の講習・洗心錬成会の特徴
 朝は固形の食事を摂らず、液体の玄米スープの朝食。一般的に朝食を摂ることは現代栄養学の立場から、非常によい事のように考えられているが、朝食時に固形の食品を摂取すると、腰骨の関節が開き、関節のしまりを弛(ゆる)めて、腰痛の原因になる。人体には異化作用同化作用があるので、朝は排便タイムである。

 日本では古来より、武術修行者に限らず、樵(きこり)やマタギ等を生業(なりわい)にする人は、腰骨を守る意味からも、朝食を摂らなかった。これは西洋においても同じだった。
 相撲の力士が、ちゃんこ鍋で大食いをするにもかかわらず、腰痛を患うことが少ないのは、早起きをして、朝食を摂らないということにある。つまり、幾ら大食いしても、夜遅い食事を摂らず、早寝早起きをするからである。こうすると「腰骨関節の絞まり具合」はベストとなる。

 逆に、腰痛になる人は、仕事の多忙に追い捲られて、夜遅い食事を摂り、それに重ねて朝食を摂るからだ。現代栄養学の「朝食をしっかりと摂るというウソ」に騙されているからだ。

 山林業やマタギ等の猟師を生業とする人は、筋肉を酷使するため、朝は朝食を摂らず、水分だけを摂り、腹を満腹状態にしなかった。
 この点は武術の修行者も同じだった。朝食を摂ると、血液が筋肉に集まらず、胃に集まって消化のために使われる。こうした状態で修行しても、上達が期待できないのは明白である。腰痛が起るのは、現代栄養学が言うように「しっかり朝食を摂る」からだ。

 朝食を摂れば、腰骨の関節が弛み、この時に無理な運動や労働をすれば「ぎっくり腰」が起る。特にスポーツ選手に腰痛が多いのは、しっかり朝食を摂り、その結果、腰骨の関節が弛むからである。それに「遅寝」「遅起き」も、朝食に併せて腰痛になりやすい。

 腰痛は朝食を摂ることから起り、これが原因で腰骨の関節が弛み(特に仙腸(せんちょう)関節の筋肉と関節は弛みやすい)、次に肩甲骨(けんこうこつ)の関節が弛んで「肩凝り」の病因を作る。更に肩凝りは頭蓋骨の関節を弛め、頭蓋骨が弛むと、顔全体が膨らんでくる。顎(あご)が二重三重になる。四十歳の初老のことから老人斑(ろうじん‐はん)が出来る。視力が低下する。歯が弱くなる。脳の血行が悪くなり、物忘れがひどくなる。ボケ状態が始まり、アルツハイマー型痴呆症に一歩近づく。集中力や根気力がなくなる。聴覚が低下する等である。
詳細は《癒しの杜の会》HPの「腰痛・肩凝り」を参照。

 朝は朝食タイムでなく、「大事な排泄タイム」である。一日3食食べれば食べ過ぎぎであり、現代人こそ飽食に流れているので、出来るだけ美食を慎み、「一日2食の粗食少食」に徹すべきである。

 八門遁甲の「地理の読み方」を指導する。人間は生き抜いていく為には、単に時代の流れに任せて動物的に生きているだけではダメである。快楽主義に溺れることなく、大自然の理に随い、「天地に理(ことわり)」を知ることが大事である。

 時代を生き抜くためには、小手先の戦闘技術だけを学んでもダメである。「天地の理」を知り、一生を通じて自分の心の拠(よ)り所と、人生の精神的な糧を、古人の智慧(ちえ)の中から汲み取らなければならない。
 地形を知り、土地の利を知り、自然観測を通じて、状況判断を下すものでなければならない。天は雨を降らし、水は高きところから低きところに流れる。この根本が説かれているのが、八門遁甲の「地理」である。

人間は大自然の中の一員であり、大自然に準じた生き方をすることが、健康で長寿を保てる秘訣である。

 歩くことは、また無我になることであり、気圧の高低を観じて、毛細血管の回路を開発すると同時に、自律神経を調整することにも繋(つな)がるのである。更に山道を歩くことは、股関節の動きを滑らかにし、溶融や坐骨神経痛の予防や治療にもなり、長年腰痛で苦しめられていた人が、登山によって腰痛が治った、坐骨神経痛が治ったという話は、よく報告されるところである。つまり、「腰骨の関節の弛みぱなしの現代人」の、腰骨をしゃきっと引き締めるのである。

 正しい滝行の修法を指導する。滝行とは、単に滝に打たれることを言うのではない。正しい滝行の修法を知らなければならない。御滝場などにいくと、新興宗教の信者等が、声高らかに般若心経などの経典を唱え、滝に打たれている姿を目にするが、あれは間違いだらけの自己流の悪しき滝行である。「泥丸(でいがん)」から直接滝の水に至れると、脳の毛細血管が破壊され、毛細管に目詰まりを起し脳障害やアルツハイマー型痴呆症の病因になる。
 
滝行を通じて、心身を鍛錬するのである。また、寒さの中で、大気に皮膚を当てるということは、目詰まりしている毛細血管を開発し、回路を開くことになるので、寒さの中での滝行は、更に強靭な体躯を養うことが出来る。

 現代人は「唖門宮(あもん‐きゅう)」が閉じている人が多い。此処が閉じているために、成人病に罹(かか)り易い体躯となった。したがって唖門宮を開く必要がる。開いて、ここから「水の精気」を体内に送り込み、身体の裡側(うちがわ)の汚れを排出し、浄化する必要がある。その為には、寒い時期の滝行が一番である。

 西郷派の得意とする乗馬を指導する。馬を馭すことは、“合気”掛け「八人捕り」の要領である。馬の轡(くつわ)を捉えて、「かいなを返す術」を知らなければ、“合気”に繋がる修行は出来ない。

  うさぎ跳び・腕立て伏せ・懸垂・腹筋や背筋などの筋肉トレーニングをせず、「呼吸法」と「修法」を中心とした古人の武術家が培った行法を第一として指導する。
  西洋式の現代スポーツの多くは、呼吸法による吐納が正しくない。そのために肉体を酷使すれば「心臓肥大症(心筋梗塞など)」になりやすい。

 基本的な正しい調息呼吸を学び、心臓に負担を掛けず、また深呼吸の誤りによって起る「禅病」(江戸時代の中期、禅の大家・白隠禅師が犯した病気。後に京都北白河山中の白幽仙人に自然治癒力を高める「内観の秘法」を学んだ)の愚も犯すことなく、静かで平穏な安らぎの呼吸法を学ぶべきである。

 

●春の講習・洗心錬成会のテーマ

 本講習の中心課題は「山稽古」である。

 一般に武術といえば、道場内に引き籠(こ)もり、屋内稽古だけが、武術や武道の本義と思っている人が少なくないようであるが、こうしたものは、武術の「狭義の部分」に過ぎない。狭いものに固執しても、そこから得られるものは少ない。

 本来の武術修行は、屋内に籠ることが目的ではない。大自然の中で「大自然の理」を学ぶことを、武術の旨としてきたのである。

 平野部に棲(す)む、「都会の縮図」の一員に成り下がった現代人は、大自然から発する、幽(かす)かな囁(ささや)きを聴き取る精密な感覚器を無くしているようだ。
 一方、この錆
(さび)ついた感覚器の回路を復活させようとして、大自然に畏敬の念を抱き、山に分け入れば、それだけでこれまで錆び付いた回路は修復されるものと筆者は考えている。
 ここに吾々
(われわれ)修行者は、もっともっと山稽古を積まなければならないと、切に感じる次第である。

 修行者は、室内の中だけに居て、そこで決して傲慢(ごうまん)になってはならない。屋内の稽古上手だけに成り下がってはならない。
 また、平地を舐(な)めるようにして動く、「継ぎ足」や「猫足」などの、この手の武技を練習して居る人は、よき体質を得る為に、膝の高さより足を高く上げて移動する、岩登りを体験する必要があろう。
 謙虚さが必要であろう。大自然に対して、心からの「畏敬の念」が必要であろう。何も、屋内に固執することはない。

 また平坦な場所を歩くだけではなく、高地へ向かう事も必要であろう。そもそも、この世の現象は、総て三次元立体より成り立っているからだ。
  武術家として大切な行動原理は「歩き方」だと考えている。
 人間が「歩く」と言う行為は、常に大地からの反動を得て、躰(からだ)を移動させるのであるから、この行動の中には、つまり「歩き方」が会得出来ていなければならず、これが武術家としての「足捌(あしさば)き」となる。

 この足捌きは「大地を信頼する」という、日本人の古来からの農耕民族としての畏敬の念が示されており、自然の理(ことわり)に適(かな)った「歩き方」をしなければならない。

 「歩き」という行動原理の源(みなもと)を探れば、旧会津藩にあった御式内(おしきうち)の作法にある通り、能(のう)や狂言(きょうげん)の摺(す)り足と考えているので、足の拇指(おやゆび)の付け根部分に当たる拇趾球(ぼしきゅう)の膨らみ部を中心軸として、そこで躰(からだ)を支える歩き方でなければならない。そして他の部分は地面に軽く接するようにするのである。
 つまり能や狂言の自然の動きこそ、人間の歩く行動原理だと考えているのである。
 拇指の付け根で立脚することこそ、武人の行動原理なのだ。

 拇趾球の中心軸を巧みに利用する為には、足の拇指を鍛え、これを鍛える為には、岩や石に拇指がしっかりと懸(かか)り、「ふんばれる」ことである。これには、拇指とその他の指が分かれている地下足袋(じかたび)が最適である。
 特に、險(けわ)しい山路に突如、渓流がクロスするようなところが顕われれば、一般の登山靴やスニーカーでは駄目であり、拇指とその他の指が分かれている地下足袋でなければならない。拇指に力が懸からないためだ。「ふんばり」の中心は拇指と拇趾球である。したがって地下足袋によって、拇趾球を中心とする動きが良くなり、拇指が鍛えられるのである。特に拇指を鍛えると、脳溢血やアルツハイマー型痴呆症の予防になる。

 こうした險しい山路を歩いて、拇指を鍛える稽古法は、かつては「山稽古」と云われたものである。しかし、こうした稽古法は、今日では殆ど無視され、単に下界の室内での稽古だけが問題にされ、この世界でのみ、トレーニングがされている現実は、何とも寂しいものである。

 本講習会は健脚を競うものでもないし、単に頂上を極めると言うことでもない。山を通じて、山行(やまぎょう)を経験しながら、そこから「人生とは何か」という自問自答の中で、答を探し出す「山稽古」「強健術」を実践することを目的にしたものである。
 自然と共にある「清らかな心」を求めて、山に分け入り、黙々と歩き、「人生とは何か」あるいは「自分とは何か」を探求してみてはいかがだろうか。
 歩くことは、一種の「徒歩禅」に通じる。険しい山道を黙々と歩くことで、「動く禅」を実践するのである。
 そこには、現代社会の多忙な生活から解放されて平安を得る、あなたの探す、答が必ず見つかるはずである。


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