■ 入門を考えている方へ
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(入門審査詳細)
●命の値段
いま、世間では様々な事件が起っています。多くは、現代人の礼儀知らずの一面が、殺人事件に繋(つな)がったり、あるいは日本人の平和ボケの一面が、他国で射殺されるという事件などに発展しています。
二十一世紀になっても、日本人のマナーの悪さ(殊に国歌斉唱や国旗掲揚時に起立を拒む、一部の進歩的考えを持った人間のマナーの悪さと、礼儀知らずの一面)と、礼儀知らずは世界の中でも最低であり、また日本人の平和ボケ感覚も、世界の中で悪評と共に群を抜いています。皆さんは、こうした感覚が何処から派生しているとお思いでしょうか。
また、日本の新聞記者をはじめとする報道陣の一部には、ある席上に、例えば天皇陛下が入ってこられても、総理大臣が入ってきても、絶対に起立しないという悪態は、世界中の国々に広く流布されています。こうした国際的な常識を、日本の新聞記者の一部は、今日も礼儀知らずで貫き通し、頑迷に天皇陛下に対しても、日本国旗“日の丸”に対しても、「絶対に起立しない。掲揚しない」あるいは「“君が代”は絶対に斉唱しない」という不作法で押し通しています。
また、こうした考えは、“君が代”にも、“日の丸”にも、「日本的なものは、何もかも憎し」という考え方が蔓延(はびこ)っていて、未(いま)だに日本人の心の中に、東京裁判(極東軍事裁判)史観が余韻(よいん)を引きずり、戦争の傷跡が拭い去られていません。
そして、こうした史観に、進歩的文化人が介入し、これに左翼思想と絡み付けて、当時のアメリカ占領軍の一部の勢力が創作した「日本憎しの感情」を、戦争が終わった今でも、馬鹿正直に信じ込ませるという世論を作り出してしまったのです。背後には、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という、勝者を正義とする思想工作が、今でも働いています。
これは戦時中に、猛威を振るった「陸海軍部・大本営発表」(【註】ラジオで流されたタイトル文句。軍艦マーチと共に、日本放送協会が軍部の圧力に屈して垂れ流した誇大情報で、国民の大半はこれに騙され敗戦が濃厚になった大戦末期でも、日本が勝っているようなニュースを流していた)の作られた、根拠のない嘘(うそ)八百を並べた世論操作を彷彿(ほうふつ)とさせます。
大戦当時、まだ少年少女だった昭和一桁(ひとけた)世代は、この時代、アメリカやイギリスを本当に鬼畜と思いこみ、「鬼畜米英」のスローガンに酔っていました。その一方で、天皇陛下を本当に神様と思っていました。
“日の丸”や“君が代”は、それぞれの時代で歪曲され、便宜的に利用されてきたのは事実です。また、昭和天皇すら、軍備に利用され、陸海軍の統帥権という最大の権力を与えながら、これを一度も遣わせることはありませんでした。
確かに、“日の丸”や“君が代”は、先の大戦当時、「忠君愛国」の象徴であり、多くの日本国民は「天皇の為に死ね」と叩き込まれました。
太平洋の島々での玉砕(ぎょくさい)の悲劇も、特攻隊の悲劇も、東京大空襲の悲劇も、沖縄決戦の悲劇も、また、広島・長崎の原子爆弾投下の悲劇も、実は「忠君愛国」と「天皇の為に死ぬ」という、この時代の歪曲が、日本国民を苦しめました。
そして昭和一桁時代は、忠君愛国から、敗戦と同時に反動的に、総て先の大戦に関係のあった“日の丸”や“君が代”が、アレルギー的に虫唾(むしず)が疾(はし)るほど嫌になるということは無理もないことだろうと思います。だから、“日の丸”は日本国の国旗として認めない。“君が代”は軍国主義と天皇を象徴する歌だから、国歌として認めないという感情的な思考に趨(はし)るのは、みな先の大戦の後遺症であるといえるかも知れません。
ところが、日本が先の大戦に大敗北を帰し、戦後民主主義がアメリカによって導入されると、その思想工作の結果、「日本は実は、本当に悪い国だった」という宣伝工作が、日教組と一部の左翼権威によってはじめられ、日本国民はうまく世論誘導されてしまいました。
こうした進歩的文化人グループは、権威の持つ不正に抵抗している積りなのかも知れませんが、権力に抵抗しているポーズや、革新的なことを口走って、インテリの真似をするのが時流に乗る生き方ですから、こうした考え方に飛びついたのが、マスコミ操作の最先端にいる日本の新聞記者であったのです。彼等の悪態は、その後どうなったのでしょうか。
かつて青年海外協力隊が、発展途上国の農業や漁業や医療の面で国際的に貢献し、いい仕事を遣(や)って、随分と感謝されなければならなかったのですが、その国の国旗掲揚のとき、そこに参列している全員は起立したのに、日本人だけは起立せずに、座ったままで、殴られたという事件がありました。
国旗掲揚時に、起立しないのは、その国に対しての最大の侮辱(ぶじょく)です。しかし、青年海外協力隊の起立しなかった彼等に、悪気はありませんでした。むしろ、国際的に常識になっている現実を、学校で教えない教育現場の方が、大いに問題があります。
国旗に対して、全く礼儀を知らない、戦後生まれの戦争を知らない子供達は、その後、大人になっても礼儀知らずで通しました。この礼儀知らずが、昨今の不穏な事件を誘発しています。
日教組の仕掛けた、反戦・平和主義教育は、徹底的に“日の丸”と“君が代”を否定することで、礼儀知らずの青少年を作り出し、これが現在、裏目に出ているということです。
また、彼等の標榜(ひょうぼう)した「戦後民主主義」は、個人的人権を重んじるあまりに、「エゴイズム人間」を作り出しただけに過ぎませんでした。昨今のエゴイズム旺盛な人間の出現は、日教組が教育現場で作り出した平等教育の反映であるといえます。何か、根本的なものを、完全に見失ってしまったのです。
“日の丸”を見て胸糞が悪くなる。国歌“君が代”を聴いて、飯が不味くなるという人たちに対して、決して反対はしません。国旗掲揚や国旗に対して、胸糞が悪くなり、これが直ぐに先の大戦の悲劇に結びつき、日本は悪い国だったと、東南アジア各地から異口同音にして口にされる罵声を、また、その国の文化人に煽(あお)られた国民の言を一概には否定しません。
特に韓国などは、今日の日本叩きに悪乗りしているようです。またこうした国の悪乗りに、便乗し、手を貸して、日本国家を象徴する“日の丸”は、悪である標榜する意見があるのならば、それはそれで納得に行くところです。
しかし、日本国旗が悪の象徴であるとするのなら、オリンピックの三位入賞時の“日の丸”の掲揚や“君が代”斉唱も悪と言う事になりますが、これを大目に見て、「日本の入賞」に大騒ぎするのは何故でしょうか。
そのくせ、こうしたニュースに大騒ぎする日本国民の多くは、国際的な礼儀も何一つ知りません。その不作法の限りを尽くして、大衆をコントロールしているのが、世界的にも、横柄で品の悪い日本の一部の新聞記者たちの態度ではないでしょうか。ジャーナリストのマナーや礼儀の悪さは、世界でも悪評を買っています。
平成19年9月下旬、ミャンマーで日本人報道記者が銃撃されて死亡しました。何とも悲しい事件です。一部の報道機関では、撃ったのは時の現政府の軍事政権側の警官隊であるとしていますが、恐らくこれは誤報であり、軍人である可能性が大いにあります。それも至近距離からの発砲であると言われています。こうした事件も、左翼よりのジャーナリストや似非(えせ)民主主義者に、今後大いに利用されることでしょう。
そもそも軍人は、戦闘で敵と戦い勝つように訓練されていますから、その境地は「殺るか、殺られるか」です。こうした世界に、能天気にジャーナリストの取材と称して、無防備で行くのですから、このこと自体が問題です。ジャーナリストとしての傲慢(ごうまん)な態度と、強引さに問題はなかったのでしょうか。
民主主義下では、ジャーナリストは取材する権利があり、取材した事柄を発表する義務があると自負しているようですが、この態度に傲慢(ごうまん)はないのでしょうか。
一種の礼儀知らずの一面が、海外の顰蹙(ひんしゅく)を買い、こうした要因が招いた事件であったという疑いが拭い去ることが出来ません。
また、何年か前、イラクにヒッチハイクに行った日本の若者が、無慙(むざん)に首を切り落とされるという事件がありましたが、この背景にも、日本人の平和ボケから来る甘さから、西南アジアの人民に対し、侮りがあったように思えます。日本人が知らない猛獣の世界に足を踏み入れ、獰猛(どうもう)なライオンに餌(えさ)を差し出す暢気(のんき)なウサギに似てはいないでしょうか。
果たして、餌を差し出した暢気なウサギは、獰猛なライオンが餌だけを貰って食べるとでも思ったのでしょうか。差し出した腕ごと、あるいは自らの躰(かだら)丸ごと、喰(く)われるとは思わなかったのでしょうか。
イラクにヒッチハイクに行った日本の青年も、ミャンマーで銃弾に倒れたジャーナリストも、日本国内の感覚で、危険が予想される海外に出かけたことに問題はなかったのでしょうか。
危険な海外で殺されたということより、自らの命を軽視して、危険な海外に出かけて、「あわよくば」英雄になろう、あるいは民主主義者として自己宣伝をやって、英雄になろうとでもしたのでしょうか。
殺されたことは大変に気の毒ですが、何(いず)れも、自分の命を、自分自身で軽視したことは否めません。その意味からすると、銃撃された人をジャーナリストの鑑(かがみ)などと英雄視するのは、何処か訝(おか)しいのではないでしょうか。この事件は、日本では衝撃的な出来事として、10月初旬には、朝から晩まで犠牲者のニュースが流され、どのテレビ局の報道も、まるで偉大な英雄が、民主主義を否定する悪魔から殺されたとする特別ゲスト扱いです。また、この点に焦点を当て、話題性だけを拾い上げる、ジャーナリズムもジャーナリズムです。
ミャンマーも、かつてのイラクも、共に独裁軍事政権です。独裁軍事政権の国といえば、一般常識から云っても、「獰猛な肉食獣」が居る檻(おり)の中のようなものです。こうした檻の中に、自分から入り込み、この状態に危険を感じないというのは極めて異常なことです。平和ボケした人間か、異常者の振る舞いです。
そして、最も責められるべき事は、軍事や軍隊や銃砲の研究もせず、また、自分の身を護る護身術の一つも身に付けず、獰猛な肉食獣の居る檻の中に、何の不安も感じず、入っていったということ自体が、大変に問題です。
彼等は、どうして自らの命を粗末にしたのでしょうか。
昨今は、イスラム教叩きがアメリカの音頭取りで、一般にも流行しています。その限りにおいては、今日のマスコミは「中道」ではありません。中道と信じているのは、報道の権利を主張する傲慢なジャーナリストのみです。つまり、日本のジャーナリストは、自称「中道」なのです。
昨今のモラルは地に落ちてしまったように思えます。ミャンマーで日本人報道記者が銃撃されて死亡したのと、ほぼ同じ頃、日本国内では時津風部屋(かつての双葉山相撲道場)のリンチ殺人事件が話題となりました。
時津風部屋といえば、かつて偉大なる横綱・双葉山を輩出した相撲部屋です。しかし、今日の時津風部屋の体たらくは、一体どうしたものでしょうか。
リンチ事件で死んだ17歳の力士志望の少年が、どのような性格の持ち主であったか、今となっては知る由(よし)もありませんが、恐らく現代っ子に多く見られる、礼儀知らずで我儘(わがまま)な、母親に甘やかされて育った少年であることは想像に難しくありません。
相撲部屋は、礼儀を重んじる世界であるといわれています。当然、礼儀知らずであれば、そこに圧力が懸(か)かるのは当然のことでしょう。特に、恥知らずで、その上、生意気となると、当然兄弟子達の目はそちらに注がれます。こうした状況下で、リンチ事件が起ったものと思われます。なぜ、殺さねばならなかったのでしょうか。
現代はスポーツ界や競技武道界、更には格闘技界では、芸能界と地続きになっている為、有名人になって、一攫千金を狙う親や子供が、わんさといます。しかし、こうした人達は、わが子に対しても、子ども自身も、ハングリー精神がない為、どの世界に飛び込んでも長続きしません。今日の日本人の精神の中には、精神的な貧しさはあっても、物質的な貧しさはありません。誰もが一億中流を自負しているように、それなりに豊かであり、飽食に明け暮れ、発展途上国の貧困に悩む人たちに比べれば、数段も、物質的な恩恵は享受しています。
ところが、それでも今日の金銭至上主義は、一億中流を自負している人でも、飽くなき欲望を燃やし続け、金持ちになる為に、日々その奔走に明け暮れています。こうした時代背景の下(もと)で、様々な殺人事件が起っています。しかし、同じ殺人事件でも、話題性のないものは、テレビや新聞には登場しません。テレビや新聞で取り上げられるのは、スキャンダル的な内容を持つ、話題性のあるものです。あるいは芸能情報に絡みつくものでしょう。
その意味で、この度にリンチ殺人事件は大いに話題性がありました。
例えば、性格が粗暴であっても、体格がよく、それなりの運動神経を持っていれば、その子供の親たちは行儀見習いの積りで、相撲部屋に入れ、あわよくば関取にして、金儲けなどと考えている大人が少なくありません。万事が金の世の中です。
しかし、こうした親も、その子供も、戦後生まれの軟弱な育ちで、一億総中流を自負しているのですから、結局肉体的に恵まれた躰(からだ)を持っていても、精神が貧弱ですから、直ぐに淘汰されてしまいます。時津風部屋の今回の事件は、こうしたことを見抜けなかった、親方も親方だと思います。
昨今は、人に命というものが、あまりにもいい加減に、あまりにも軽く扱われています。
同年、名古屋で起った殺人事件は、闇サイトで知り合った犯罪グループの三人組が、その女性の持っている七万円ほどの金銭を奪う為の犯行でした。あるいは強姦目的がありました。
また、同年の10月6日には大阪府寝屋川市で、コンビニのアルバイト店員が、ビールを万引きした三人組(一人は車の運伝で、直接事件には関与していない)の少年を追いかけたところ、ナイフで刺されて死亡するという殺人強盗事件が起りました。万引きをした少年達は、この犯行について、「ビールが飲みたかったから」という、これだけの理由でした。
僅かな金を奪う為に、無抵抗の女性を殺す。ビールが飲みたいという理由で万引きをし、それを咎(とが)めた店員の刺し殺す。何と、人の命が、こんなに軽くなってしまったのでしょうか。
恐らく、こうした時代の背景には、これまで日本人の精神的な伝統であった「礼」の精神を逆撫(さかな)でし、あるいは崩壊させて、礼儀を軽視する考え方が支配的になっていると考えられます。この考え方を支配的にしてしまったのは、戦後の民主教育の欠陥から出たツケが、どうも今日に廻ってきているように思われます。
日教組が説いた反戦主義や平和主義は、明らかに幻想であったことが分かります。また、一部のジャーナリストの繰り広げた、国旗掲揚の際の起立拒否は、日本人に礼儀知らずであることが、美徳であるかのようなイメージを植えつけました。“日の丸”を否定し、“君が代”斉唱や起立を拒否し、この礼儀知らずのポーズが、日本人を一周りも、二周りも、礼儀知らずに駆り立てたと思われます。
そして現代こそ、人間の命が軽く扱われ、粗末に扱われる時代は、歴史のどの時代を探しても見当たりません。何故、こんな時代になってしまったのでしょうか。
そこで、最後に是非お聞きしたいのが、実は次の事です。
今、この事について、明確に答えの出せる方は、果たして何人いるでしょうか。
「人の命が、軽く扱われている」という、現代の現象は、実は現代人の誰も心の中に、「安全と平和はタダ」とういう考え方が支配しているからです。これまで、タダであったものは、これからもタダでいいと考えているからです。
しかし、こうした考え方も、不穏な事件が起る昨今では、全く通用しなくなりました。さて、あなたの「命の値段」は、いか程でしょうか。
●西郷派大東流に入門して、これを学びたいと考えている人へ
武術を遣(や)ることで、それが健康に寄与し、覚えた技が、万一の場合、護身的に機能するという、これだけの考え方で、武術や武道を体験してみる。また、競技武道や格闘技を学ぶことにより、テレビや新聞に掲載され、有名人になれて、引退後はタレントとして生活の糧(かて)を求められるという「河原者的」な時代は終わりました。
今からは、一人ひとりが、人間として「道」を正していくという、一種の生命を尊ぶ「人間道」を踏み行わねばならない時代に入っているといえます。
求道者は、もともと地道に、人知れず稽古し、観戦客が居ても居なくても、目立たないことが、その本義でした。そして、かつての求道者の多くは、テレビに出演したり、新聞や雑誌に登場して、有名人として扱われることを目論んで稽古したわけではありませんでした。
もっと地道に、もっと純粋に、「人の道」ということを考えて、稽古に邁進(まいしん)していたのです。
ところが、今日は、こうした人の持つ「純粋性」は、一体どうなってしまったのでしょうか。こうしたものが蔑(ないがし)ろにされ、誰もが一億総タレントを目指して、自分の将来を、金銭で換算する考え方が支配的になっているではありませんか。
忍耐とハングリー精神に欠け、「あわよくば」という山師的思考が、至る所で支配しているではありませんか。
昨今は、暴走族上がりの少年でも、多少躰(からだ)がデカくて、乱暴で、強引なところがあれば相撲部屋からスカウトされる時代です。また、こうした子供を持つ親たちも、あわよくば、ゆくゆくは関取になれて大金が稼げるといった感想しか持たず、貧困な精神で、わが子をタレント紛(まが)いのプロスポーツ選手の世界へと送り出します。
しかしこの考えは、発想が貧しい上に、競争社会の、適者生存ならびに淘汰の法則にかかれば、こうした手合いは、精神と肉体の造りが脆弱(ぜいじゃく)ですから、挫折する運命は免れないでしょう。
また、近代資本主義のこの社会では、常に、何処に居ても競争原理が働きますから、精神的に熾烈(しれつ)な競争での格闘が強いられます。
そして、私たち日本人はお互いが競争するという競い合いの中で、競争だけを優先させて、人間として、本当に大切な「礼儀」という一面を見失ってしまったように思います。
礼儀や人倫のあり方が廃(すた)れれば、世の中は混沌(こんとん)としてきます。特に今日のように礼儀が廃れると、エゴイズムが表面化して、人間が傲慢(ごうまん)になり、弱肉強食の横柄(おうへい)な論理が罷(まか)り通りますから、礼儀を重んじるより、「力は正義なり」という思考に支配されて、精神的な面は、一切後退してしまうことになります。
ただ強ければいいという、強者への憧(あこが)れが支配的になってしまいます。
その一方で、礼儀が廃れ、世の中が混沌とするこの時代、多くの人は、いったい何に拠(よ)り所を求めればよいか、こうした目標すら失っているように思われます。同時に、貧富の格差が拡大し、これまで現代人が信じてきた近代資本主義は既に老朽化し、多くの腐朽が明白になってきました。
現代人は、「現代」という世の中が、いま、過渡期に突入していることに殆ど気付いていません。本流と亜流の枝分かれに差し掛かっていることに気付きません。精神的にも、次の時代に進化できる真人類と、進化できないまま亜人類として朽ち果てる人とに、選別されている水面下の動きに気付きません。
そして大部分の人は、転換と模索の中で、何を心の拠(よ)り所にして生きていけばよいか、それに戸惑いを覚え、彷徨(さまよ)っているように思えます。
現代は精神の廃頽(はいたい)した時代ですが、それと同時に「新鮮なる力」と「希望を生み出す根本の力」を見失い、私たち現代人は、何処にこれらの力を求めればよいのでしょうか。
もやは立身出世や成功致富(せいこうちふ)に、その夢を見出すことは出来ません。奮闘だ、努力だと、叱咤激励(いったげきれい)しても、既にそれを跳梁(ちょうりょう)する元気はなく、酷(こく)なる状態が度重なるとストレスを派生させ、ガン発症をはじめとする成人病の中に埋没していきます。これこそ現代社会の持つ、欠陥構造の落とし穴ではないでしょうか。
では、いったい私たちは、何に心の拠り所を求め、元気の出る「根本なる力」を、何処に求めればよいのでしょうか。
まず、現代社会を単刀直入に分析してみますと、人々は「根本なる力」を失っているのではなく、見失っているといえます。金・物・色に魅了されるあまり、欲にほだされ、目先のことばかりに注目して、未来を展望してないということです。これが今日の暗い翳(かげ)りを作り出しています。
そして、かつてはこうした中から脱出する智慧(ちえ)を、誰もが持っていたのですが、「根本なる力」を見失ってしまった為、力の源泉である根源が見出せないのです。然(しか)も、それは自分の奥底に仕舞われているのにもかかわらず、それに気付こうとしないのです。外側ばかりの、表皮を飾ることばかりに気を取られて、肝心の裡側(うちがわ)については、自らで自分自身を蔑(ないがし)ろにしているのです。現代人の精神の貧弱さは、ここに由来します。
眼を外に向けて金・物・色の外側の現象に捉(とら)われず、いま一度、自分の足の裏を眺(なが)めていてはいかがでしょうか。また、金・物・色ばかりを追いかけずに、自分を探して「根本なる力」を追求してみてはどうでしょうか。
こうしたものは、決して外になく、自らの裡側に最初から備わったものだったのです。
自分の裡側を探求する。これこそが、いま、現代人が遣らなければならない「地道に努力する自分の姿」ではないでしょうか。現代人こそ、「自己探求」を怠ってきた人種なのです。
そして「地道に努力する自分」の力の根源に立ち返ることが、何よりも必要ではないかと思うのです。
現代人は、「根本なる力」を失っているのではありません。「根本なる力」を、ただ見失っているだけなのです。
もし、「根本なる力」が見事に探し出せれば、私たち現代人は、今日の陰惨(いんさん)なる世襲(せしゅう)から解放されて、失敗にもめげず、前進する勇気が裡側から湧いてくるはずです。また、この勇気が湧き起これば、同時に人命の大切さが反芻(はんすう)され、今日の日常茶飯事に横行している軽薄な「人命観」が改まるのではないかと考えるのです。
正常な人命観が復活すれば、生命の根源に近づくことが出来、大事な自分の命は、また、「自分自身で護らねばならない」という、古人の抱いた「武術観」へと回帰されるのです。
わが西郷派の説く武術観は、「人命への尊厳」を重んじる思想を共に携えています。口先で、「人の命は尊い」などと云っても、その「尊さ」が一体どの程度のものを云うのか、釈然としません。ところが、護身の「術」を学んでいくと、その「術」の数々は、危険回避の方法論ばかりでなく、自らの「心の在(あ)り方」まで教えてくれます。
危険に遭遇した場合の「平常心」とは何か、絶体絶命の窮地(きゅうち)から脱出する「脱出法」とは何か、行き詰ったとき何を手本として「打開策」を求めるか、何を見て「見通し」を立てるか、「礼儀を正す」ことにより危険を回避するなどの、「命を護る集積」が、西郷派の業(わざ)の中には数沢山あるのです。
そこで最後に、お聞きしたいのですが、今のあなたの「命の値段」は、いか程でしょうか。
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